第九話
ほんの少しの間だったけど、よそ者の私を必死に匿ってくれたイヅル。それこそ、命懸けで、私を助けるために奔走してくれた。その間、私がしたことと言えば御簾に引きこもってどうやって帰ろうか考えていただけ。私はまだ、イヅルに何も返せてない。
たとえ彼の心がアザミさんのもとにあっても、私はここで彼を見守っていたい。
「あの、一つええやろか」
「どうぞ」
アサヒメ様は狐に橋まで上がってくるように命令し、私に向き直った。びしょびしょの子狐が橋の上に水溜まりを作っていく。この狐はこの後、どうするつもりなんだろう。もう生贄を求めたりはしないだろうけど。
「ウチ、帰らへん」
「まあ、そう」
驚いたのは狐だけだった。アサヒメ様には全部お見通しなのだろうか。この反応を見た限りでは、私がどこから来たのかも、帰るための方法も、未来のことさえも、知っているのかもしれない。
「か、帰らんとは言っても……君、本当にいいのか? ここは君のいた時空ではない。この世界では……酷い言い方になるが、君は異物だ。人間の体が、病原菌を排除しようと働くように、世界もきっと君の存在を排除しようとするだろう。今度こそ、君は死ぬかもしれないぞ。それでもいいのか? 」
先ほどまで私を生け捕りにしようとしていた狐が何を言う。
この世界の仕組みなんて知らない。明日生きていなくてもいい。イヅルが私の骨を埋めてくれるなら、ここで死んだって構わない。
「もう決めたことやから」
「…………そうか」
長い沈黙の後、残念そうに狐は一言呟いた。
「あなたが守ってあげたらいいじゃないですか」
アサヒメ様は簡単なことだと言わんばかりに提案する。狐は苦い顔をした。
「僕も最大限努力はするつもりだ。しかし……いつも一緒にいるのは難しいだろう。君はよくとも、この村の住民たちは私を好ましく思わないだろうし、君だって一人の自由くらい……」
「何を根暗になっているんですか! 私言いましたよね、村の人と助け合いなさいって! 今がその一歩でしょう。いじいじするのはみっともないからやめてください! 」
アサヒメ様は狐を再び池に突き落とそうと首根っこを掴む。私は慌てて彼女を止めた。
「いっ、イヅル! イヅルに詳しく説明してもらって、村人と仲良くなりましょうよ! イヅルもきっと協力してくれますよ!」
私は口早に叫ぶと、今まで蚊帳の外だったイヅルの手を引く。訳が分からないままイヅルは橋の上でアサヒメ様と狐に対峙した。
「イヅル、この人がアサヒメ様で、こっちが狐。私たちに味方してくれるの」
「迷惑をかけましたね。うちの亭主が」
「は、はあ」
「すまなかった。もうお前たちに危害を与えるつもりもないし、生贄も求めない。だから、そんなに怯えず話を聞いてほしい」
その後、不思議な夫婦はイヅルにこれまでの経緯やこれからのこと、私の希望などを詳しく説明した。最初は半信半疑だった顔つきが引き締まっていく過程を、これから星川郷の住民は皆トレースしていくのだろうか。
「わかり、ました……」
あらかた聞き終わると、イヅルは肩を落とし、そのまましゃがみこんでしまう。
「どうかしましたか? 」
アサヒメ様はイヅルの左腕に触れ、心配そうにしていた。貶せども子孫は結局可愛いのだろう。
「いや、情報が……整理つかんくて……」
「しょうがのないことですよ」
「あの、麻姫を今日は襲いに来たんって、あの、話の流れから考えて、今年は生贄が来んかったっちゅーことやな? アザミ……アザミは、マキって名乗る女の子が、あんたの山には来んかったんか? せやったら、アザミは……」
堰を切ったように話し始めると、とうとうイヅルは泣き出す。理不尽に生贄に差し出された幼馴染が、生贄にもなれず行方不明になった。こんなに浮かばれないことはあろうか。
「心配ない。アザミは生きている。あいつの名前を、僕は知ってたから、元々差し出されても拒否するつもりだったんだ。今はどこか別の村で暮らしているさ」
狐は毛玉状態から人の形に戻ると、イヅルの肩を叩きながら励ました。
「それは……連れ戻すことが、できる、っちゅー……?」
「尽力しよう。なに、そう遠くまでは行けないさ。天狗たちに捜索させれば三日で終わる。彼女に帰る気があればね」
その時、イヅルの目に再び光が灯った。紛れもなく、私が見た中で一番の笑顔だ。もちろん嬉しかったし、一緒に手を繋いで喜びたかった。でも、できなかった。
「まあ、もう日が昇りますね」
アサヒメ様は天を仰いで一人ごちる。よく見ると、半透明だった体がますます薄くなり、代わりに神々しい光が強くなっていた。
「では最後になりますが。私を顕現させる条件をまだ伝えていませんでしたね。星川家に代々伝わるその刀は、生前の私が兄から譲り受けていたものに霊力を吹き込んだもの。刃を満月の光に照らせば、月がそこに浮かぶ限り、私は皆さんのもとに現れます。そしてこれが、私からのお願いです。……イヅル、良ければその刀、仙ちゃんに譲ってはくれませんか。馬鹿狐といえど、愛した亭主ですから。かけらでも傍にいたいのです」
イヅルは深く頷き、何も言わず狐に刀を渡した。狐は感激のあまり、消え入りそうな声で礼を述べることしかできないようだった。
「ありがとう。では、また…………」
アサヒメ様は粒子の集合体となって、霧散した後天に昇っていった。私は、その美しさに心を揺すぶられ涙を流した。
こうして私の、この村での役割は全て終わった。
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【MERRY BAD END】お面をつけて
狐は約束通り三日も経たずしてアザミさんを見つけ、彼女の意向でまた村に帰ってきた。イヅルは傷も何もない、彼が最後に見た彼女そのままの姿で帰ってきたことに心底喜び、事情を聴いていた村の人々も大いに祝福した。
私も、自分に対する誤解が解けて、今は安心して外を出歩けるようになった。星川邸でお世話になりながら、村の子供たちの世話をしたり、畑仕事を手伝ったりする生活だ。ここにはネットも漫画もドラマもないけれど、平和で豊かな暮らしがある。それもこれも、狐の強い妖力が、世界が私に向ける敵意を跳ね除けてくれたからだった。狐には恨みもあったが、どちらかと言えば感謝の度合いが強くなった気がする。
狐といえば、最近は奴は恐る恐る麓まで降りてくるようになった。村の人たちも最初こそ、どう受け入れるべきか悩んでいるようだったが、少しずつ交流していくにつれ、狐が持つ千年の知恵に頼るようになってきた。アサヒメ様も満月の晩は、狐と一緒に村人を訪問したりするらしい。彼らのおかげで村から疫病は消え、子供は皆雨上がりの筍の如く育つようになったと、村人たちから聞いた。
私は今日も一日誰かのために奔走して、屋敷の中の必要ない灯りを消して回りながら、寝る準備に入ろうとしていた。
イヅルの部屋の前にある蝋燭(これは狐の知恵が村にもたらしたものの一つだ)を消していると、襖が開いてイヅルが顔を出す。
「麻姫、話あるんやけど」
「クビ以外ならなんでもええで」
「はは……」
イヅルは苦笑いをする。バツが悪そうに頭を掻いて、まあ部屋に入れと促した。今思えば、私にとって都合の悪いことを宣言することが兆候を示している。分かりやすい男なのだ。
「まあ、驚かへんやろけど……俺とアザミ、結婚することになりましてん」
いつかこの日が来ることは、私だって分かっていた。ここに私の居場所はない、最初からそう教えられていたし、知っていたから。
私の骨を、この人が拾ってくれさえすればいいと思っていた。
最初から結ばれるつもりがなければ、あなたが他の女の子と幸せになっても、私は幸せでいられるのだ。別にいい。あなたが幸せなら、それで。
こんなこと言うのは、強がりだろうか?
「そうやったんかあ。えろうびっくりしたわあ」
ということは、そのうちアザミさんもこの屋敷に越してくることになるだろう。新婚家庭の屋敷に、お手伝いさんは不要だ。
あなたの幸せのために私が邪魔なら、私は喜んでどこかに消えよう。あなたが私の骨を拾ってくれるくらいの近さに、身を隠そう。
「今まで何も言わんでほんま堪忍なあ」
「ええよ、ええよ! 報われてよかったなあ」
涙で滲んだ視界に、幸せな花嫁と、彼女の手を取る花婿の幻影が映る。皆が手を叩いて祝福する二人。狐も、伝承の姫様も、二人のために道を開け、永遠の幸福を保証するだろう。私もその列に混じって手を叩く。一人ぼっちで手を叩く。私はあの花嫁によく似ているはずなのに、どうして隣にいないんだろう? どうして私は選ばれなかったのだろう? 次々湧いてくる疑問は私を苦しめた。ここに私の居場所はなかったけれど、あなたを永遠に愛してる。
『蘇芳麻姫ルート』了