1話
ヴェルナード公国の公都に大公の住まいである王宮がある。現大公のウェルシスにはサミュエル皇太子の他に正妃のレイシェルとの間に娘のリナリアがいた。リナリアは予知の力と癒しの力を持っていた。
その事から、癒しの姫と呼ばれている。だが、容貌麗しくて治癒と予知の力を持つ彼女を欲しがる輩も多かった。兄のサミュエル皇太子はそれを嫌い、リナリアをなかなか嫁がせずにいた。そうするうちに年月は過ぎていくばかりだった。
「リナリア様。憂鬱そうですね」
そう、メアリアンが口にした。リナリアは小さくため息をつく。
ここはヴェルナード公国の公都の中心部になる王宮だ。皇太子妃になっているメアリアンは太公の娘、つまりは公女であるリナリアにとっては義姉にあたる。
そんな彼女は元は公国で一、二を争う名家のシンフォード公爵家の出身だ。リナリアはメアリアンの兄弟の内、長兄のエドワードと婚約している。
「アン様。私ね、兄上の妨害には呆れているの。あなたのお兄様と婚約した途端に「俺を置いていかないでくれ」とか言うのよ。本当に困ったわ」
「そうだったんですか。サミュエル様がそんなことを」
ええと頷くリナリアに相変わらずだとメアリアンは苦笑いした。妹への愛着が皇太子のサミュエルの場合、尋常ではない。まあ、誘拐されかけた事があったから致し方ない面もあるが。
「ええ。アン様からそれとなく言って頂けないでしょうか?」
「それは構いませんけど」
メアリアンはきょとんとした顔になったが頷いた。リナリアはこれで少しは兄の妨害が軽くなると胸を撫で下ろしたのだった。
メアリアンがリナリアの居室を去ると一気に辺りは静かになる。侍女たちは退がらせているため、今は彼女一人だけだ。
(兄上にも困ったこと。わたしはもう少しで嫁ぐ身だから覚悟はしているのに)
また、ため息がこぼれた。母のレイシェルにも相談してみようか。そう思った時にドアをノックする音が響いた。
「リナリア姫様。妃殿下は帰られましたか?」
中に入ってきたのは侍女のルミネだった。豊かな赤茶色の髪と琥珀色の瞳が印象に残る凛とした女性である。リナリアはどう答えたものかと考えた。ルミネはリナリアより三つ上の二十三歳だ。侍女を務めて六年目がこようとしている。
「…ええ。ちょうど今、帰られたところよ。ルミネ、悪いけれど今日の昼からの予定を女官に聞いてきてちょうだい」
「かしこまりました」
ルミネはそう言って部屋を後にした。リナリアは見送りながら椅子から立ち上がった。鏡台に向かったのだった。
そうして、昼になった。リナリアは母のレイシェル太公妃や五人の貴婦人たちとお茶会に興じていた。政務の補佐もしているが今は休憩の時間ではあった。
「殿下。このたびはエドワード様とのご婚約、おめでとうございます」
そう祝いの言葉をくれたのはリナリアの右前方に座る夫人だった。彼女はラインフェルデン公爵夫人で元は伯爵令嬢だ。名をレイラと言って公爵との間に三人の子をもうけているが未だに若々しい。
「ありがとうございます。レイラ様も三人目のお子様がお生まれになったと聞きました。おめでとうございます」
「あらまあ。お祝い返しのお言葉、お礼を申しますわ。けど、三人も生まれるとは思わなくて。かえって、お恥ずかしいです」
レイラは本当に恥ずかしいようで顔を赤らめてしまった。レイシェル妃や他の夫人たちは失礼のない程度に笑って受け流している。リナリアもそうですかとだけ答えておく。
「それはそうと。殿下の兄君の皇太子様もシンフォード公爵家のご令嬢と結婚をつい去年になさって。おめでたい事が続いてようございます」
左側に座る夫人がそう言えば、他の皆もそうよねと笑いあう。リナリアは苦笑いしながらレイラやレイシェル妃の様子を伺った。
二人とも何とも言えない表情をしている。レイラも格下の家から嫁いだので姑の先代の公爵夫人の嫌がらせにはかなり困っていたときく。レイシェル妃も同様だ。皆さん、呑気な事だとリナリアは冷めた目で噂話に花を咲かせる夫人たちを見ていたのだった。
お茶会が終わり、リナリアは再び政務の補佐をするために兄のサミュエル皇太子の執務室に向かった。廊下を歩いていたら、前方から婚約者のエドワードがこちらに向かってきた。驚いて足を止めるとあちらも気づいたらしい。速歩きでこちらにやってきた。
「これはリナリア殿下。ご機嫌麗しゅう」
人好きのする笑顔でエドワードが挨拶をした。
「こちらこそ、エドワード殿。こんな所でお会いするとは奇遇ですね」
婚約者同士でありながらもよそよそしい挨拶を交わす。その事にリナリアは憂鬱になるが。顔には出さないように注意する。
「殿下。その、どちらに向かわれていたかお聞きしても良いですか?」
「ああ。兄上の執務室に向かおうと思って。政務の補佐をしたくてそちらに行く途中でした」
「そうでしたか。でしたら、お供しましょう」
エドワードはそう言うとリナリアの隣に並んだ。ゆっくりと二人は歩き始める。日差しが射し込む中で若い二人は無言で執務室に向かった。