宇宙の話
架の病室には僕と架しかいなかった。その時、すでに架は一人だけの病室を与えられてた。
いつものように僕はドアを開けて入って、いつものように架は笑ってた。いつものように僕は天使が見えた気がしたけど、多分気のせいだった。
架は珍しく「宇宙の不思議」なんて本を読んでいた。基本的に文学作品しか読まないから、どんな本なのか聞いてみたかったけど、架が中学のことを聞きたがっていたから忘れていた。
その日、秋も凛子もいなかった。僕と架だけの病室は、なんだかひどくさみしくて、空しかった。いつもはカラフルに染まるこの病室が、暗い灰色や、茶色に染まっている気がした。
秋が昔、近所に止まってた灰色のクラウンを見て「クラウンでも、灰色じゃつまらない」と言っていたのを思い出した。僕と架のいるこの病室は、灰色のクラウンみたいなものだった。話していれば笑うこともあるけど、大事な大事な色がなくてさみしかった。
架は不意に立ち上がって、備え付けの冷蔵庫から林檎を二つ取り出した。
一つを僕に弱弱しく投げて、一つはベッドに座ってゆっくり食べていた。
架は昔から汚い食べ方をしなかった。林檎を食べる姿も、なぜか品があった。行動の端々で見える育ちの良さが、もしかしたら僕らを惹きつけたのかも知れないな、と思った。
林檎を食べてる間、心地いい沈黙が訪れて、また去って行った。
「その本どしたの?」
結局は丸々一個食べきれず、皿に半分ほど林檎を置いた架は、その本を棚に置いて、いつもより少し高いトーンで喋った。
「宇宙って、この世界で一番広いだろ?」
架のその言葉がまるで徒競走のピストルみたいに響いて、僕らの話の始まりを告げたように感じた。
僕と架は宇宙について語り合った。
僕らは時折真剣に、時折おどけて、全く辻褄の合わない話をした。
架は「後五百年くらいしたら絶対に火星に住めるような技術が出てくるんだ。」って割と真剣な眼差しで言った。
僕が「宇宙人はいるにはいると思うけど地球人には到底敵わない」と言うと、架は「宇宙人は地球にきて技術を盗んでいるんだ」なんて笑いながらいった。僕は地球人の技術力を信じていたけど、架は何百年か分地球は宇宙人より遅れてるんだ、なんて割と真剣に言っていた。
僕と架だけの病室は、少しずつ色が付いてきた。灰色のクラウンなんて、僕らのいるこの白い病室には似あわなかった。宇宙は濃い藍色だ。
時間になったら僕は家に帰って、風呂に入ってすぐに寝てしまったけど、どうしても目が冴えて眠れなかった。
眠りに体を預けたのは三時ごろだった。浅く、小さな小さな邪魔が入っただけで覚めてしまうような儚い眠りだった。
その眠りがはじけたのは六時半ごろだった。僕はやけにさわやかな目覚めを無駄にしないよう、背筋を伸ばして起き上がった。
ニキビの盛りはまだ訪れていないから、泡は使わず冷水で顔を洗う。まぶた越しに冷たい水が眼球を冷やして、頭が冴える。顔を拭くのもほどほどに、僕は本棚の前に胡坐をかいて、一番下の段に手を伸ばした。
読書家の両親なら、宇宙を題材にした本の一つや二つあるんじゃないかと思ったのだ。
僕の両親は、二人とも頭が良い。父も母も文系で、文系の血は確かに僕の中にも流れている。
少し前、父に理科を教えてもらおうとして「理解したくない」とめちゃくちゃなことを言われたことがある。僕は理科が大の苦手で、その時は理科さえ克服できれば学年一だって遠い話じゃなかった。
その後母に聞くと、菩薩のような笑顔で微笑まれた。
その時思った。「この人たちの学歴は嘘なんじゃないか。」と。
それ以来僕は、どうしてもできない理科の問題を放置するようになった。ほかの教科の出来が変わらなくて、理科の出来が悪いまんまだから成績は上がりもしなければ下がりもしない。父も母も成績に関してうるさくなかった。
母は、世間一般でいう「お嬢様」ってやつだった。二人の兄がいる年の離れた末っ子。出来もいい、愛想もいいでそりゃあもう蝶よ花よと育てられた。
そうして愛情いっぱいに育てられた母は、大学で父に出会い、その文才に惚れ、早くに結婚して遅くに僕を生んだ。
父は父で、母とは逆に一人だけ勉強ができたもんだから、一家の期待を全て請け負って育った。父の学歴は嘘なんかじゃない。多分。
僕も母も、何となく父の勉強疲れに気づいていた。僕に勉強を強要しないのは、疲れているからだと。
本棚の二段目に手を伸ばす。下の段には母の本がぎっしりと詰められていて、僕が探しているような本はなかった。母が本をそろえるときの特徴は、気に入った作家の本を全て読み漁ることだ。
一人の作家が描いた何十冊の本を横に並べて置いておく。そうするとその作家の一生を見ているように感じられるのだという。
二段目に置いてあったのは、父の趣向で集められた本。エッセイから文学作品。漫画、画集。あの人の場合活字じゃなく本そのものの質感が好きなのだった。当然その中には僕が探している本もあるはず…と思ったけど。
なかった。よく考えたら父は時代物が大好きで、新撰組の本や幕末の本が多い。宇宙にかかわる本なんて、一冊もなく、かすりさえしなかった。
一番上の、今はもうこの家で僕にしか手が届かなくなってしまった段も全て見たけど、宇宙の本は一冊もなかった。時計を見ると近所の本屋があいてる時間だったから、僕は予定を変更して本屋に探しに行くことにした。
小走りで玄関まで行き、慣れない手つきで自転車の鍵を探す。自転車に乗るのは久しぶりだ。
鍵を握りしめて自転車の鍵穴に差し込むと、錆の匂いがした。どこか懐かしかった。僕は、自転車にまたがり強く地面を蹴って、本屋に向かって走った。
いつもゆっくりと歩いている道も、久しぶりに自転車に乗りこの速度で見ると少し違って見える。慣れ親しんだ公園を過ぎ、コンビニに行き、小さいパンを一つ買う。飲み物がなく、しかも自転車で走って息切れしてる今に頬張ったら間違いなく後悔すると思い、籠の中に袋に入ったままのパンを入れて、僕はもう一度走り出した。
…架は、自転車に乗ったことがあるのだろうか。
本人には聞けない疑問を捨てて、僕はペダルを漕いだ。少し空気の抜けたこのタイヤでは坂道を登るのはきついから、いけるとしたら本屋くらいだ。この町は坂が多い。それに中学生が行くような店もない。
秋の家を過ぎ、架の家を過ぎ、僕の通っていた小学校を過ぎて、本屋につく。
錆びた看板には「秋山書店」と濃く書かれている。その字には無駄な装飾は一切ないが、そこには確かな趣があり、僕は好きだ。
自動じゃない重たいドアを開けると、そこには黙々と作業をする若い男が一人、奥に本を棚に入れる作業をしている女が一人いた。多くの人はきっと、この本屋のことを「寂れた本屋」とか「寂しい本屋」と言うと思う。僕にとってこの本屋は、架と僕をつなぐ糸を買う場所だ。僕はそう思っている。
本に袋をかける作業をしていた男は、僕の方をチラッと見ると「いらっしゃいませ」と無愛想に言った。この男はそういう人だ。昔っから変わらない。
もう目をつぶっても歩ける店内を、全く興味のないジャンルの本でも雑誌や専門誌でも見渡しながら歩く。さして意味のある行為じゃない。ただ僕は、この店の雰囲気とか本の置き方とか匂いが好きなのである。
いつも僕や母さんが足をとめる日本人作家の棚の、向こう側。そこに僕の求める本はあった。
ある本は、全部で十三冊。架が呼んでいた「宇宙の不思議」もあった。僕が見た時はそんなに厚い本には見えなかったけど、手にとって見るとそれは結構重量と質量があった。
僕はその本を左手で持ち、残り十二冊の本の中で一番字が小さくて沢山読める本を二冊抜き取った。
基本的にこの本屋は、漫画本にしか袋をかぶせない。僕は、ずらりと並んだ宇宙の本の一冊一冊を手に取り、開き、じっくりと選んだ。
さっきの無愛想な男のもとに行き、本を三冊、カウンターの上に置く。すると男は突然に柔和な表情になり、本を一つ一つ丁寧に袋に入れた。
「同じ本を二冊って、彼女さん?」
「違いますよ。友達です。」
秋山さんは少し悲しいような、それでいて面白がっているような表情になり、僕に袋を手渡した。
この人は、見た目こそ若く見えるけど本当は三十代半ばだ。僕がここに来た時にはすでに本屋をやっていた。
「君の彼女なら、絶対本好きな子だと思うよ。」
「わかりませんよ。人が誰を好きになるかなんて。」
秋山さんは少しびっくりしたような顔をした。
「君は、本を全く読まない子と何時間も話を続けられる?」
「…多分、無理です」
思えば僕の周りの人に、本を全く読まない人はいない。秋山さんだって相当な本好きだ。
僕と秋山さんは少し笑って、「さよなら」と言って僕は去ろうとした。
「架君に、よろしくね。」
「はい、わかりました。」
秋山さんはきっと、僕が店から出たら無愛想な秋山さんに戻るだろう。僕もまた、店からでたら無愛想な僕に戻った。
自転車にまたがって、もと来た道をまた通って、僕の家に向かった。
朝の七時。母さんが起きてきた。
僕は買ったパンを食べながら、ずっと買ってきた本を読んでいた。だけどパンを食べることは途中で諦め、本を読むことに集中した。
母さんに「おはよう」と声をかけたけど、僕は本を読むのに夢中だった。
その本は、いつも僕が読むような文学作品とはまた違った力を帯びていて、僕は眉間に皺をよせ、一文一文読みながら考え、読みながら考えを繰り返しながら読んだ。
僕は、地球のことが知りたいんじゃなく、広大な宇宙のことが知りたかった。
ビックバンで生まれた宇宙。カオスが根源の宇宙。地球中心説。太陽中心説。その単語の一つ一つが僕の脳みそに溶け込んでいった。
宇宙って世界で一番広い。架は洒落たことを言う。本当に。
「宇宙の本?」
母さんはコーヒーをすすりながら机に広げてあったもう一つの方の本を手に取った。架が病室で読んでいた本だ。
「うちにはないものね。宇宙の本。」
母さんは懐かしむように言った。
「なんでないの?」
「忍さんが、宇宙嫌いだからよ。」
母さんはまた、懐かしむように言った。忍さんというのは僕の父のことだ。
僕はそこに意味があるとは思ってなくて、少しびっくりした。
「広くて、暗くて、しかも空気がなくて、怖いから嫌いなんだって。それに考えたらきりがないし。」
母さんは少しその本を読んだけど、すぐにあきらめてしまった。
僕は本を閉じて、架と宇宙の話をしたことや、「宇宙って世界で一番広いだろ?」と架がいったことを話した。
母は楽しそうに聞いていた。手元に置いてあったコーヒーもほぼ手つかずだった。
母は僕の話で宇宙に興味が湧いたのか、一度諦めて読むのをやめた本をもう一度手にとって読み始めた。
眉間に皺を寄せて読んでいたから、僕は目が疲れてしまい、休憩しようと思った。本当はすぐにでも架の部屋に行って二つ買った本の一つをあげたかったけど、母さんが読み終わってからにしようと思った。
架は僕にいい影響を与え、そこから母さんに伝わった。そのことで少しうれしくなり、僕は疲れた目を休めようと目をつぶった。




