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病みまくった幼馴染  作者: 白烏
5月 13日 (水)
9/22

ミステリアス・バイアス

(かない)さん……」


 易々と台詞を掻っ攫ってみせた女。その登場に来人はふらっと眩暈がした。


 前髪を寄せるシンプルな髪留め。鼻筋も通った、埋もれず食わずの造形美。出るところ出た胸部と括れた腰に、スカートからすらっと伸びる艶めかしい両足。


 確かに息を呑み、眩暈を感じて納得の容姿だが、来人のそれはてんで違う。


 巷ではよく『外見がいい奴に限って中身が残念』などと囁かれるが、目の前の人間がそれなのだ。まこと残念なことに。


 薄く開いた口元から覗く歯。何を考えているか読めないのに、いやらしさだけはひしひし伝わってくる眼。


 それこそが志木西高校三年生、現風紀委員の委員長――叶 (きょう)


 つくづく今日は珍しい出会いの多い日だと(おのの)きつつ、最後の最後でこの人物と出くわしたことに、来人のうんざり具合は頂点に達した。


「珍しいですね、あんたがこんな時間まで仕事してるなんて」


「うわ、その言い方は心外だねぇ。これでも私は委員長さんなんだから、活動の視察くらいやってるんだよ? それに新任の副委員長ちゃんが健気に頑張ってる姿、舐めるように見なきゃ損ってもんでしょ」


「新手の変態属性ですか?」


「かーもね。汗水流す健康的な肢体に萌えたりとか。ワーカーコンプレックスで略してワーコンなんてよさげじゃない?」


「誰一人働けなくなるだろ……」


 体面上は親しげに言葉を交わすものの、裏で来人はごくりと唾を飲んだ。冷や汗が額から垂れ、やっぱりこの人は苦手だと、真に思い知らされる。


 人間と話している気がしない。


 動物、無機物、ましてや地底人、宇宙人を引き合いに出しているのではない。叶諒という人間それ自体と、向かい合う感覚に欠けるのである。


 清濁併せ呑む。諒を表現するには近いようで遠い言葉だ。なにせこの女、善と悪を区別しているのか、その時点からして怪しい。


 もちろん風紀委員長の肩書きに見合うだけの分別は有しているのだろうが、善も悪も一緒くた、混沌にして手のひらで転がしている気しかしないのだ。


 未知の魅力、冴え渡るカリスマ性などと着飾れば聞こえはいい。あくまで聞こえだけはいい。実体は闇の中。


 来人が苦手がるのも当然だった。


 忽然と現れた諒と冷静に応じる来人、完全に蚊帳の外にされた荘平は焦りながら二人の顔を交互に見た。


「ちょ、ちょっと待ってください、来人さん。誰なんすか? この人。それにさっきの、美蒼乃さんが伊月さんの彼女だったっていうのはどういうことっすか?」


「あーごめんごめん」


 荘平に気づいた諒が、うっかりしていたと、腰までふわりと広がった髪を掻いて照れ笑う。


「そういや君の方には自己紹介がまだだったよね。私は三年の叶諒。美蒼乃ちゃんの上司、つまりはまあ風紀委員の委員長さんだ」


 そこで一旦言葉を切ると、若干目を細め、若干頬を染めた。


「それと、来人君の彼女さん」


「えぇッ!?」


「嘘だから騙されるなよ、荘平。この人が俺と付き合ってるなら、今頃俺は八つ裂きにされてここにはいないことを思い出せ」


「……あ、ああ、なるほど。ビックリしたっす」


 諒のペースはベルトコンベアのように違和感なく人を運ぶが、神奈のおかげで今回は載せられずに済んだ。


「叶さん、つまらない冗談はほどほどにしてもらえますか?」


「いやいや、そんな固いこと言わないで、来人君。出会い頭に面白話を一発、なんて洒落た芸当、不器用な私には無理なんだから」


「その立ち回り方は器用ですけどね」


「え、そう?」


 皮肉を言ったつもりが、本人は賛美と受け取ったらしい。やったーと、年甲斐もなく嬉しそうに手を挙げる。


 悪い人でないのは分かる。


 ただ、善人だろうが悪人だろうが、思考の読めない人間との対話はとかく疲れる。それも来人は重々、とういうより渋々承知していた。


「それで、諒さん、さっきの美蒼乃さんの件なんすけど」


 来人と違い、まだ諒に免疫がない荘平である。声が微かに震える。


「二人が付き合っていたっていうのは事実なんすか?」


「んー? 本当だよ。もしこれも私の冗談か何かだと思うなら、彼らと馴染み深い来人君に聞いてみな」


 今度は荘平の視線が来人に向いた。


 これは隠す意味がない。調べれば分かるし、調べずとも雰囲気で察せるだろう。来人はもう躊躇うことなく頷いた。


「俺と伊月が中学の時、荻島と親しくしていたのは本当だ。けど結果じゃなくて過程が違う。俺と伊月が荻島に会ったんじゃなく、伊月と出会った荻島に俺が会ったんだよ」


 事件と呼ぶ程には大仰でなく、諍いで済ませるにはあまりに陰悪。そんな出来事をきっかけに二人は出会った。


 その出来事は同時に美蒼乃が伊月に惹かれるきっかけとなり、二人は付き合い始め、互いが協力して正しさを貫く相棒となった。


 二人の惚気(のろけ)をおかずにし、来人も合わせて三人で食事の席を囲む。当たり前すぎた穏やかな日常。


 息が合いすぎるばかり口喧嘩もしょっちゅうで、後ろに控えていた来人は笑いに笑っていた。傍目から見てもきっと相性抜群の恋人だったことだろう。


 そんな来人たちの良好な関係も結局、一年程で終わりを告げた。


 高校生になると来人が美蒼乃と会う機会はゼロとなり、伊月の方は何回か会っていたようだが、遂には破局した。


 破局した理由を来人は未だに知らない。一度だけ伊月に尋ねてみたこともあったが、その時も伊月は苦笑いしながら、ただ『疎遠になった』としか言わなかった。


 それ故に来人は驚き、悲痛に感じずにはいられなかった。美蒼乃との再会、そして美蒼乃が伊月と対峙せんとすることに。


「でもそれだとおかしくないっすか? 付き合うくらい仲が良かったなら、敵対してぶつかり合うことないと思うんすけど」


 一般論を述べた荘平に対し、諒はちっちっちっと指を振る。


「感情なんて水物だからね。特に愛情は憎しみと表裏一体、殊更取り扱いが面倒な割れ物だよ。そのうえ一度芽生えると強く根を張るから超厄介。なかなか抜けないんだなー、これが」


「それを知りながら、じゃあどうして荻島を副委員長にしたんです?」


 諒が言い終わると同時、間髪入れず来人は吐き捨てるようにそう訊いた。相手を逃がさないように、息つく間すら与えないように、力任せに捻じ込んだ。


 諒との遭遇を憂いた来人だったが、ただ一点に関して、会えたことに感謝した。どうしても直接問い質すべきことがあった。


「まだ一年の荻島を副委員長にして、伊月捜索の指揮まで執らせて、わざわざ伊月と反目させるようにした。それはどうしてですか?」


 腕を組み、ふんふんと大袈裟に相槌を打ちながら諒は話を聞いていた。それからすぐ口を三日月の弧状に弛ませる。


「その答えは本人から聞かなかったかい?」


「志願したとは聞きました。でも最終的に決めたのはあんたでしょう? あんたなら突っ撥ねることもできたはずだ」


「前途有望な若者のやる気を無碍にしろだなんて、来人君もなかなか無体なことを言っちゃうねぇ。なーに、なんてことないよ。老いて去りゆく先進の務めとして、後進の世話を甲斐甲斐しく焼いてみたかっただけ」


 あんたまだ高三だろ、何を偉そうに。そう思っても口には出さない。どうせ本気で言ってやしないから。


 それに焼いているのは世話じゃなく、ただの余計なお節介である。


「なんでもかんでもそうやって誤魔化すんですね」


「んー、でも、伊月君程じゃないでしょ?」


「……」


 何か言い返す、そんな簡単なことが、来人にはできなかった。


 諒の意見に迎合するつもりも反発するつもりもない。それでも、心を抉る棘のような一言が弾け、全体重を針の(むしろ)に預けた気持ちになる。


 あからさまに動揺する来人を見つめ、しかし諒は慈しむような顔で目を伏せた。


「けどま、来人君があまりに気にするみたいだから、一応、強いて理由らしきものを言っておこうかな?」


「……あるなら先んじて言ってもらえます? しかもそれ、さっきの理由が嘘だって自分で暴露してますよね?」


「あっはは、気にしない気にしない」


 この取って付けたような諒の性格、自分は絶対克服することができない。来人は確信した。


 笑みから一転、諒がほんの少しだけ真面目そうな、一歩間違えると不真面目に真面目そうな目つきになる。


「実を言うと、伊月君の捜索と捕縛を担当している役員はさ、みんな一、二年生だったりするんだよ」


「一年生と二年生だけ? じゃあ三年生はどうしてるんすか?」


「詳しくは言えないけど、三年は私も含め、ある案件で校外活動中。私たち三年は来月の文化祭で引退だから、つまりは最後の大仕事ね。そのせいで手薄になる校内の治安は伊月君の件含め、全部下級生に一任してるってわけ」


 そこにきて来人にもピンとくるものがあった。


「じゃあ後進の世話っていうのはそういう……。なら荻島を副委員長にしたのは?」


「んっと……ちっちゃい女の子が上級役職に就いたシチュに萌えるから?」


「そこだけはまともに答える気ゼロか……」


「ま、本人も進んで立候補してくれたし、その志を買ったってことで。ここはそうしておいてよ。ね、来人君」


はぐらかしたことを認めたうえでそれを強いる。それもちょっとした用事でも頼むが如く実にあっさりと。


 まったく恐れ入るの一言に尽きる。


 頭が重く首が垂れる。それでも来人はその折衷案を受け入れることにした。


 当然ながら全情報を開示してくれたわけじゃない。表裏を裏表にし兼ねない諒のことだ、全幅の信頼を寄せるのも無理がある。


 ただ一点、今度のそれはどうしてか嫌な気分にならなかったという、およそ根拠とは程遠い第六感なるものを、来人は信じることにしたのだ。


 もはや受け手に回ってしまった来人の落ち着き所がそこだった。


「さーてと、んじゃまあ、お喋りもここら辺にしとこうか」


 諒が寝起きのように背伸びする。首を左右にカクカクと折り曲げる姿が酷くおっさん臭い。


 外見美少女、中身はおっさんというマリアナ海溝級のギャップ。ギャップ萌えとしての需要は、まあないのだろう。


「今日の仕事は視察だけだし、本来みんなが解散した時点でお役御免だったのに、来人君たちがいたもんだからついつい話し込んじゃったよ。うら若き乙女がこんな時間まで、なんかちょっと背徳的でドキドキしちゃった」


「うら若き乙女?」


「こらこらお茶目な来人君、疑問視する所がおかしいぞー?」


 間違い探しの要領。素心で反応。


 サッと目を反らす来人だったが、やんわりほくほく中身はドロリ、そんな視線で縮み上がりそうになる。


 視線から逃れるようにして時計を見上げた。諒とは話して十分そこらだが、この暗さだ。早々に切り上げるのは賢明な判断である。


 それに来人の場合、遅くなりすぎれば神奈が勘繰ってくるのは明らか。早く帰るに越したことはなかった。


「えっと、一つ、質問いいっすか?」


 お開きの空気の中、ひょいと挙手したのは荘平だった。


「訊きそびれてたんすけど、来人さんと諒さんってどういう関係なんすか?」


 それを前振りとでも思ったか、再び諒がニヤリと歯を見せた。


 絶対善からぬことを言う気だ。来人は慣れで直感した。なので適当な嘘を吐かれる前に、自ら説明を買って出る。


「伊月と風紀委員の抗争を間近で眺める第三者。俺はそんな境遇だったからな、この叶さんとも話す機会が多かったんだ。だからまあ、関係って言ってもその程度だよ」


 廊下で情けなく逃げ回る伊月と、それを捕まえて指導室に連行しようと躍起になる風紀委員。


 そんな彼らを遠巻きに見つめ、どこか楽しそうに、窓に寄りかかったまま動こうとしない諒。


 来人の定位置はそんな諒の隣。


 他愛無い会話をするようになったのも自然の成り行きだった。


 そして最初の五分で悟るに足りた。諒という人物が、自分の擁するすべての計量器具を駆使しようとも、決して測りきれない存在だと。


 苦手とはつまり御し切れないこと。


 芽生えた苦手意識を拭い去るなど、来人には到底不可能だったわけだ。


「その程度だなんて少し冷たいなぁ。私からしたら来人君との出会いは、大なり小なり運命的だったよ?」


「そりゃどーも」


 歯の浮くような台詞もなんなく言ってのける。


 対処の仕方は額面通りに受け取らないことだ。表から裏を読み、さらに裏から表を読むくらいで丁度いい。


 何か話すときも一席分の間を保つ。精神衛生上は重要だ。


「あーあ、来人君からおざなりにされちゃったか。これはもう、とっとと帰って勉強に精を出すしかないかなー。華の高校生も二年過ぎればただの受験生だしね」


 諒は至って平気そうな顔で残念がっていた。


 近くの庭石に置いていた鞄を拾うと、背中を向けて歩き出す。そうしてすぐに歩みを止め、何かを思い出したように上半身だけを捻った。


「そうだそうだ、私も訊いておきたいことがあったんだ。来人君、依美ちゃんは元気にやってる?」


「なッ!?」


 来人は一瞬絶句した。


 原因は驚きと、そして萎縮。


 不意だというのに、信号が濁流のように脳へと流れ込み、問いの意味する所を即座に弾き出す。


「なんで、烏野先輩のことを俺に……」


「いや、なんでも何も、君が所属している部活の部長さんじゃない。ひょっとして気に掛けたらダメだった?」


「違う。そうじゃなくて、俺はあんたに一言も言ってない。部活に入ったことも、それが烏野先輩の部活だってことも」


「ありゃ、そうだった、かな?」


 口は不思議そうにものを言い、目で笑う。


 日常という空気の流れに言葉を載せ、かつあからさまに、からかうように言葉を吟味する。


 清々しく潔い、そんな諒の態度が逆に、乱れた来人の感情を一瞬で冷静沈着へと浄化した。


 深呼吸して思い返す。


 会った時からそうなのだ。諒は無邪気に(よこしま)で、知らないはずの事情を悉く口にしてきた。相手の驚く顔が生き甲斐だと言わんばかりに。


 情報通の枠に嵌めて片付けるのは簡単だったが、諒のそれはどこか違うような気もしていた。


「……あんたのそういうとこ、ほんと苦手だよ」


「そう? こんな私が私はとっても好きなんだけどなぁ」


 嘲るように空へ言い放った諒が、何かに納得したのか、うんと頷く。


 馬鹿正直に受け取るものかと、誰に対するでもない意地を張っていた来人だったが、その時だけは妙に真に迫るものを感じた。


「ところで諒さん、あなたは姐さんを知ってるようっすけど、一体どこまで知ってるんすか?」


「ん? あーえっと、それはね……ヒ・ミ・ツ」


 焦らす。そして腰に手を当てて指を振る。


 一昔前の漫画ではよく見かけたポーズも、諒がするとえも言われぬ感情で心が埋め尽くされる。


 呆れればいいのか狼狽えればいいのか、来人と荘平の両名には謎だった。


「あんたから振っといて秘密っておい……」


「あっはは、まあまあそう怒らない。女の子の隠し事ってさ、合法なんだよ?」


「いや知らないし」


 茶目っ気を見せても初耳なもんは初耳である。


「結局何が言いたいんで?」


「ほーんと疑り深いなー、来人君は。元気かどうか訊いただけで他意はないのに。それともここは、うっはっはー、よくぞ見破ったな、聖剣士来人よ、とか箔を付けた方が来人君的には嬉しかったり?」


「あーはいはい、もういいです」


 他意がないとは、他意がある人間以外言わない。そんなことは来人だって見抜けていた。けれど精神が先に限界を迎えたのだ。


 タンクは空っぽ。追い縋って詰問するだけの力もなければ、詰問した程度で答えてくれるようなやわな相手でもない。


 ただ、そのままだとあまりに惨めなので、とりあえず戦略的撤退だと自分に言い聞かせ、慰めておく。


「投げやりだなー。そんな来人君に先輩風を吹かして、去り際にもう一言」


「まだあるのか……」


「といっても、これは些細なお願い事ね」


 流体のような滑らかさ。時が止まったと錯覚する鮮やかさ。見惚れる隙も与えない曲線的な動き。


 気づけば間近に迫っていた諒の、その小さな唇が、来人の耳に触れかける。


「神奈ちゃんのこと、来人君がちゃんと見ていてあげるんだよ?」


「へ?」


 吐息が耳をくすぐった。


 しばらくは何を言われたかさえ分からず、呆然と立ち尽くす。


 来人が我に返ると、バックステップで距離を開けた諒はフッフッフと不敵に笑っていた。


「それではね」


 照れて駆け出すわけもなく、別れを惜しまず振り返らず、何事もなかったようにただ、諒は悠然と中庭を後にしたのだった。


 取り残された二人はというと、向かい合い、疲労で青ざめた顔を確かめ合うだけ。


 美蒼乃が春風なら、諒は荒れ狂う台風だ。


 訪れた場所という場所をしっちゃかめっちゃか掻き回し、惨状を顧みず、のうのうと去っていく。周囲のものを無差別に巻き込む吸引力に、柔軟で図太い神経を併せ持つ諒だから為せる、ほとんど神業のような所業である。


「なんだったんすか、あれ」


「頼む、俺に聞かないでくれ……」


 諒を理解する力、それはもう特殊能力に他ならない。


 台風だってそうだろう。台風を御す能力が人間風情にあるはずもない。


 下手に飛び出して飛んできた看板に直撃するくらいなら、黙って大人しく隠れるが吉なのだ。被害は出るが、保身は約束される。


「おっと、もうこんな時間すか」


 時計を見るやいなや、荘平もまた、荷物を担いで走り出した。


「すんません、来人さん。次のバスを逃すと困るんで、俺も帰るっす。何かあったら連絡ください」


「ああ、分かった。急ぎすぎてこけたりするなよ?」


「りょうか……っとと」


 案の定、よそ見のせいでタイルに突っかかるが、素早く態勢を立て直す。


 そしてまた走り出すと、あっという間にその背中は小さくなり、ややもせず来人の視界から消えてしまった。


 荘平も帰って一人残された後、小川に近づき、淀みのない流水を見下ろす。


 理事長の独断とはいえ、いち設備としての体面上、この小川にも正当な理由が付けられたと聞く。


 確か『水の奏でる清音が生徒の疲れを癒し、集中力を向上させる』とかなんとか。


「役立たずだろ、これ」


 来人の疲れは落ちるどころか、ロッククライムで這い上がる勢いだった。


 第一に、疲れが癒せる中庭で疲れるなんて本末転倒でしかない。


 のしかかる疲労に胸を苛む圧迫感。すべてが一点に圧縮されたようで、かといって小川にあたるわけにもいかず、来人は足元の小石を力なく蹴飛ばすことしかできなかった。

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