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病みまくった幼馴染  作者: 白烏
5月 13日 (水)
8/22

ロスト・パスト

 告げられた名は、今来人が最も聞きたくないと思っていた男の名前そのものだった。


 来人の胸に漠然としたやりきれなさだけが込み上げる。


 美蒼乃が今まで何度も何度も繰り返し呼んできた伊月の名前。それがこうも殺伐としたものになろうなどと、どこの誰が予想できただろうか。


 尊敬、信頼、親愛。


 幾多の感情が折り重なった呼号は見る影もなく、今や風化した鉄屑同然に空疎極まりなかった。


「伊月と風紀委員のいざこざは昨日今日に始まったことじゃない。衝突の理由も分かってる。けど、なんでお前まで……」


 のほほんとした平和な学校だろうと、探せば好きなだけ仕事はある。新入生の美蒼乃が副委員長に選出され、慢性化した抗争にわざわざ首を突っ込む必要なんてどこにもない。


 天の悪戯か、あるいは飄々としたあの委員長の差し向けか。 


 光のシャワーが降り注いでいる中庭も、黒いフィルターを介したように暗く映る。部室といい中庭といい、どんより黒々、まったくもって嫌になる。来人には今日という日が心底恨めしかった。


「志願したんです、私から」


 肩を落とす来人とは裏腹に、美蒼乃はあっけらかんと答えてみせた。


「志願って、じゃあお前は率先して伊月を?」


「ええ、その通りです。何か問題でも?」


「いや、問題は……ないだろうけど。確かに伊月がやってることは褒められたことじゃないしな。でも部活を転々とすることが校則違反かって言われたら、そうじゃないだろ?」


「それは認めます。けれど逆に言わせてもらいますが、校則違反だけが秩序を乱すわけじゃない。風紀委員の役目は文字通り、学校の風紀を乱す輩を裁くことです。楠がそれに該当するなら相応の罰で対処する。違いますか?」


「まあ、お前ならそう言うよな……」


 理論とか理屈とか、そういう堅苦しい類の話じゃない。美蒼乃にとって悪に大小などなく、大きかろうが小さかろうが、それは等しく悪でしかない。善か悪かの二元論で成立する世界を信じているのだ。


 もしこの世がそんな世界なら、きっとシンプルで分かりやすかったに違いない。


 ただし唯一、感情だけが邪魔をする。頭で理解できても心で納得できないことなどざらにある。今の来人がそうであり、そして何より、美蒼乃自身もその一人。


 未練を断ち切るようにかつての呼び名を封印し、必死に敵意を籠めて『楠』と呼んだ美蒼乃。その言葉が一瞬揺らいだことに、美蒼乃本人は果たして気づいていないようだった。


「荻島は、どうして伊月と対立するんだ?」


「……米谷先輩、くどいですよ? 牡丹餅の中に無意味に入れた(あん)並みにくどいです」


「それはえらくくどいな……」


 考えるだけで口の中が甘ったるくなる。想像したことを少し悔いた。


 来人は一つ大袈裟に咳をし、未だチラつく牡丹餅の影を一蹴する。


「さっきお前が言ったのは風紀委員としての考えだろ? そうじゃなく、お前自身がどうしてあの伊月を咎めようとするのか、そっちの理由が聞きたいんだよ」


「私自身の、理由……?」


「ああ」


 風紀委員としての正義を掲げた美蒼乃じゃない。伊月の隣で朗らかに笑い、共に道を歩んでいたかつての美蒼乃。


 知るべきは彼女の本心。


「……訊く必要、ありますか? だって先輩は、私の性格をよく知ってるじゃないですか……」


「知ってるからこそ改まって訊いた」


 引かない姿勢の来人を前に、美蒼乃の足が自ずと一歩退く。


 来人は美蒼乃が聖人君子じゃないことも知っている。強固な信念と誠実さ、己の意志を突き通すための行動力。どれをとっても一流だが、決して困難に屈しないわけではない。盲点に弱さを秘めている。


 近くで支えてくれる伊月という添え木によってその弱さは繕われていた。なら添え木を失った、いや、手放した今、仮初の強さで補っていた部分がどうなるのか。焦点はそこにある。


 尊敬が憎しみに形を変えたならそれでもいい。そもそも伊月が問題児に成り下がったことに端を発する問題なのだ。失望しても無理はない。


 だがもし迷いを上塗りで誤魔化しているなら、それは二人のためにならない。来人にはその確信がある。


 神奈との関係に失敗した来人だからこそ痛い程分かってしまう。


「…………らです」


 しばらく地面に敷かれたタイルに視線を落としていた美蒼乃が、深まる夜に消えそうな小声で何かを呟く。


 そしてゆっくりと顔を上げて再び来人と向かい合ったのは、悲しそうに瞳を潤ませる、ありのままの美蒼乃だった。


「……あの人が、黄色だからですよ…………」


「黄色?」


 格式ばった口調は崩れ去り、いつもの調子が戻ってくる。ただ酷く物憂げに口にした言葉の、その真意までは測り切れない。


 イエローカード、つまりレッドゾーンまであと一歩。そういうことかとも考えた来人だったが、今の美蒼乃に尋ねるのは憚られた。


「私、ずっとあの人だけは味方でいてくれるって、心のどこかで勝手にそう信じてました。一緒に知恵を出し合うのも、背中を押してもらうのも、どんな小さなことも全部嬉しくて、楽しくて、とても信頼していた。だけど、それをあの人は……裏切った」


『裏切った』。その言葉を、美蒼乃は語義を強めて前面に押し出す。すべて割り切れる程大人じゃない。それでも確かな憤りが胸にはあるのだ。


「笑ってくれていいですよ? 米谷先輩。ちょっと有意義な時間を過ごしたくらいで燥いでしまった中学生。滑稽でしょう?」


「少しも笑えないな。そんな話で笑えだなんて、難易度無茶苦茶たけーよ」


「……ですね。失礼、失言でした」


 明日世界が終るのか、そう言ってやりたくなる程痛々しいため息を、美蒼乃は夜空の星々に向けて吐き出す。


 星の光は今も昔もちっとも変わらないのに。星の海をぼんやり眺める美蒼乃から漏れる小言。


 壮麗な詩と思って耳を傾けられたならどれだけよかっただろう。甘美な音色と相まって魅せられたなら、もしそうならと、淡く願うが叶わない。傍で聞いているだけで来人には苦痛だった。


「あの人がいなくなって、今の楠伊月がいる。何より私が許せない人間がいる。だから私が正すんです。敬意も未練も、そういうものすべてかなぐり捨てて、私が正さなきゃいけないんです」


「なるほどな」


 理解した風で口にするものの、どうもしっくりこない。考えれば考えるほど正解は遠のく。


 どんな試験の難問より、人と人との距離感こそが一番厄介だという事実を再認識しただけだ。


 伊月や美蒼乃の主観から見据える状況は、来人が客観で分析するものと当然異なる。彼らには彼らなりの言い分があり、それは誰かと共有できる代物でない。要は当人同士の問題、というやつである。


 無責任に場をかき乱すのは逆効果かもしれない。来人の中の安全装置にも似た何かが一線を画した。


「以上、これが私なりの理由ということで、じゃあ次は米谷先輩の番です」


「……は? 俺の番?」


「まさか、もう忘れたんですか?」


 悲壮な雰囲気から一転、急に風紀委員の表情が再来した美蒼乃が、細めた両目でじろっと来人を睨んだ。


「私の質問にはまだ答えてもらってません。さあ、吐いてください。どうして中庭にいたのか、そして楠はどこに隠れているのかを」


「ちょっと待て! 前者はともかく後者は初耳だぞ!? お前やっぱり最初から俺のこと疑ってたな!?」


「当たり前じゃないですか! あなた方二人は実際そういう間柄ですし、楠なら米谷先輩を隠れ蓑にして私たちをやり過ごそうとか、そういう発想に至っても不思議はないですからね!」


「俺たちはいつからイソギンチャクとクマノミになったんだ……」


 現在の伊月と美蒼乃、険悪なその関係ばかりに気を取られていたが、やはり誰よりも近くで伊月のことを見ていた美蒼乃だけある。鋭すぎる。


 見込み通り、美蒼乃が心の丈を打ち明け名指した標的は、来人の背後で絶賛潜伏中である。


 もっとも匿うなんて親切心、来人には欠片たりともなかったが。


「さあ、どこですか?」


 美蒼乃がぐいぐいと距離を縮め、来人は後退する。


 いざ詰め寄られると小さな体のくせして圧迫感が尋常じゃない。トンカチで脳天から叩かれ身が縮こまる幻覚が来人を苛む。


 終いには目のやり場にまで困るようになり、無意識に視線がキョロキョロしてしまう。そしてそれが失敗だった。


「ふふ、米谷先輩、遂にボロを出しましたね」


 美蒼乃は勝ち誇るようにニヤリと笑った。


「後ろの茂みに何か大切な宝物でも隠してるんですか? やたらと気にしていたようですけど」


「お前の洞察眼、怖すぎるよ……」


「褒め言葉ですね。ありがとうございます」


 実に前向きな捉え方で微笑ましい限り。


 そんな末恐ろしい少女はポケットに手を入れたかと思うと、野球ボールに似た白色の球体を取り出した。


 続けて足を肩幅に開き、右手はボールをしっかり握りしめ、腕を後方高く構える。どこからどう見ても投球フォームだった。


「おい何する気だ!?」


「心配ないです。スポンジゴムで出来てますから、怪我はしません」


「いやそうじゃな――」


 来人の制止も意味をなさず、全力で放たれたボールは植込み目掛けて一直線に宙を切る。


 枝葉にボールが擦れる音と鈍い衝撃音、加えて何かが倒れる音。それらがほぼ同時に響き渡った。


「手応え、ありです」


「澄ました顔で言ってる場合か!」


 目先の茂みの裏で何が起きたか、音がすべてを物語る。狩りの成果を手中に収めんと植込みに近づく美蒼乃に続き、来人も恐る恐るその裏を覗く。


「…………へ?」


「…………あれ?」


 目にした惨事を前に事態が掴めず、互いに顔色を窺い合う来人と美蒼乃。

 

 手入れの行き届いた芝生の上に伊月の姿はどこにもなく、代わりに額を赤くして目を回す荘平だけが仰向けにぶっ倒れていた。


「荘平ッ!?」


「……く、くると、さん?」


 すぐさましゃがんで容態を確認する。


 頭部の充血は一時的なもので、それ以外に目立った外傷はない。当たり所が頭なだけあって気は抜けないが、意識がはっきりしているのでとりあえず大丈夫のようだ。


 脇に転がっているボールからして原因に疑う余地なし。直接触れてみると、美蒼乃の言った通り、材質的にも殺傷力は皆無である。


 状況から察すると、衝撃で倒れた、というより、衝撃が突然走ったこと自体に驚いて倒れた、というのが正しいのだろう。


「俺、確か、いきなり飛んできた何かが当たって……」


「あ、ああ、分かってる。だから無理に思い出さなくて大丈夫だ」


 自分の身に起きたことを把握しようとする荘平だが、少なからず頭へのダメージがあるのか、意識が混濁しているらしい。


 上半身を起こしてしばらく唸り、十秒ほどでポンと手を打った。


「そうっす! 来人さんが風紀委員と話してて、それでいきなり声を張り上げたかと思ったら白い物体が額にぶつかってきたんすよ!」


 衝撃で蓋が閉じた記憶を紐解いていく。


 となればもちろん一連の事情を話さずにはおけない。


 美蒼乃は少し離れた所で荘平の様子を窺いながら、気まずそうに左右の人差し指を合わせていた。


 誠実な奴ほど過ちを犯して受けるショックは大きい。たとえそれが故意であろうとなかろうと。


「あの……」


「あれ? あなたは来人さんと話してた風紀委員の、確か…………美蒼乃さんっすよね?」


「あ、はい、そうです。それでその、えっとですね……実は……」


 言い淀んで固まった美蒼乃の腕を、急かすように来人は小突く。機を逃す前に洗い浚い告白して謝った方が楽だという一種の世話焼きである。


 来人からのメッセージを如何に受け止めたかは定かでないが、迷いを振り切った美蒼乃は深々と頭を垂れた。


「すいません! ボールをあなたにぶつけてしまったの、私なんです! 楠を捕まえようとして……いえ、これは言い訳ですよね……。悪気はなかったんですけど、ほんとにごめんなさい!」


「……なんだ、そうだったんすか」


 謝罪の言葉を聞いた荘平だったが、表情は穏やかなまま、動じた様子がまるでない。それどころか、きまりが悪そうに視線を逸らす美蒼乃に対し、混じり気のない無垢な笑顔を向けた。


「いいっすよ、別に謝らなくても。痛みは全然なかったですし、倒れたのも俺が勝手に肝を冷やしただけっすから。いやほんと情けない」


「え?」


 予想の斜め上を行く切り返しに、謝る美蒼乃の方が呆けてしまっていた。


 とはいえ、こればかりは致し方ない。こんな非常識な許され方、荘平でもなければありえないからだ。


「米谷先輩、この人、(ふところ)深すぎませんか?」


 瞳に驚愕の色を浮かべながら、美蒼乃が来人にそっと耳打ちしてくる。


「だよな……」


 それに関しては来人も完全に同意だった。寛大な処置で済ます荘平は型破りなスーパー紳士と崇めてもいいレベル。


 仮にだが、常識を超えて理不尽な依美の舎弟となり、数知れない残酷な仕置きに順応してしまったが故に許容量がカンストしたというのなら、もう同情以前に泣けてくる。泣き腫らしてなお足りない。


 押し売りとか美人局(つつもたせ)とか、荘平は恰好の餌食になりそうだと一人心配する来人だった。


「ところで荘平、伊月の奴はどこに行った? お前をこっちに連れ込んで、それから一緒に隠れてたんじゃないのか?」 


「伊月さんっすか? それなら来人さんが美蒼乃さんと話し始めた辺りで、『僕は僕と僕を必要としてくれる人のためにこの場を去らなきゃいけない。だからお前がここで来人のことを見守っていて欲しい』とかなんとか格好よく親指立てて、中庭から出て行ったっすけど」


 荘平がありのままを語る一方、来人の頭痛は一段と増す。


「囮か……」


「ですね……」


 互いに立場が異なるにも関わらず、来人と美蒼乃は揃って戦慄する。 


 来人自身、おかしいと感じてはいた。そもそも風紀委員を撒くだけなら荘平を隠す必要がない。隠すくらいなら二人で適当に会話させていた方が自然であり、疑いの視線も外しやすい。


 敢えて隠して人身御供などと、姑息極まる。美蒼乃が攻撃的なアクションに出ると予想した上で手を打ったわけで、先見の明と取れなくない所が輪をかけて腹立たしい。


 どちらにしろ贄にされた荘平が不憫だった。本人に自覚がないのがせめてもの救いだろうか。


「どこまで私を失望させれば気が済むんですか、あの人」


「さあな」


 人間、堕ちようと思えばいくらでも堕ちていける。上がることより下ることの方が楽なのは、地球上なら万物不変である。


 逆に、下ることで初めて上がれることもあったりする。ただの助走では登れない壁も、落下の勢いを利用して、なんてこともなくはない。


 そして当然来人には、伊月がどちらなのか、知る由もない。


「全員、集合してください!」


 踵を返してタイルの上へ立ち戻り、美蒼乃が探索中の風紀委員たちへ声を張り上げた。


 額の汗を拭う者、発見できなかったことで顔を渋くする者、まだまだ闘魂衰えずにやる気で滾る者、いろいろな反応を見せる風紀委員たちが美蒼乃の元へ一斉に集う。


「すみません、副委員長。残念ながら標的を見つけられませんでした……」


「私たちの方も右に同じです……」


 各々の成果を告げる彼らだが、声に張りはなく、元気そうな役員ですらどこかやはり暗い。


 そんな彼らを労わるように、新人であり彼らの指揮官である少女は頬を緩めた。


「そう気を落とさないでください。みなさんのおかげで楠を中庭に追い詰める所までいけたんですから。捕まえるのも時間の問題ですよ」


「けれど副委員長、今日はもうその時間が……」


 中庭からもライトアップされた校舎時計が目視できる。それによると時刻は既に七時を回っていた。


 さしもの風紀委員といえど、安易に居座れる時間ではない。


「どうしますか? 荻島副委員長。探索を続行しますか?」


「……いえ、今日はここで解散にしましょう。生徒に規律を求める風紀委員会が、度を越して下校時間を蔑にするのは避けたいですし。続きは明日の早朝、七時に集まれる方から率先して行うこととします」


「了解です。では、お疲れ様でした」


『お疲れ様です』の言葉を飛び交わせ、中庭を後にしていく役員たち。見送る美蒼乃は一人、来人の隣に立っていた。


 しばらく緩ませていた頬が次第に強張っていき、難しい表情に変わる。


「お前は帰らないのか? 言っておくが、伊月は本当にもうここにはいないぞ」


「分かってます。帰る前に一つ、米谷先輩に訊いておきたいことがあったのを思い出しただけです」


「訊きたいこと?」


 来人は唐突な振りに首を傾げた。


 伊月の居場所、なんてものは知ってるはずもない。知っていたなら荘平の仇に一発殴りに行っている。


 今の来人には、おそよ美蒼乃から訊き出されるような有益な情報など、見当もつかなかった。


「昨日、私はとある噂を耳にしました。あっという間に学校中に蔓延した一つの噂です」


「噂……」


 記憶の隅に引っ掛かる何か。手繰り寄せようするのだが、輪郭がぼやけ、実体のない蜃気楼のようにするりとすり抜ける。


「それによると、なんでも楠の恋愛対象は小学生以下の幼女限定だとかなんとか」


「…………」


 そこにきて、来人を完全覚醒させる閃きが走った。ただしプラスではなくマイナスの、みぞおちに重機の一撃をお見舞いされたが如き一閃である。


 深層心理で精神だけが『ごふぅッ』と声なき悲鳴を上げた。


「それで、そ、その真相を、ですね……、確かめたいというか……暴きたいというか……」


 途端に声がしんみりしおらしく、美蒼乃がスカートをぎゅっと握りしめて俯いた。情緒不安定とさえ思える急激な変容に戸惑うが遅く、伸ばされた両腕が来人の両腕をがっしり掴む。


 小さな背で見上げる小顔は夜だというのに夕日のような赤みを帯びていた。


「いつきせ……いやいやいやいやっ! く、楠は本当に、虚偽偽りなく、正真正銘のロリータコンプレックスなんでしょうか!?」


「い、いや……」


 くりくりっとした目ですがられたって困る。頼むから凛々しさ溢れる百獣の王と、癒しオーラ全開の愛玩小動物の二面性をころころ入れ替えないで欲しい。来人はそう切に願っていた。


 内外構わず攻め込まれては逃げ場がない。前門のハムスター後門の己。思考回路はショート寸前。


「噂は……噂だ。真実があろうとなかろうと、噂になって漂う時点で信じるに値しない。お前なら、そう考えるんじゃないか?」


 結果、来人は問題をすべてぶん投げた。


 否定すれば神奈の誤解がぶり返し兼ねないし、否定しなければいい加減罪悪感がまずい。どっちに転んでもいいことなんて一つもない。


「……そう、ですよね。噂は信じるも信じないも自分次第。そんな簡単なことすら私、忘れかけてました」


 けれど来人の投げた回答一つが美蒼乃にとっては十分だったようで、心底嬉しそうに顔を綻ばせた。


「たとえ真実でも、全部含めて私が矯正してやればいいだけですもんね!」


「矯正って、お前な……」


 犬か何かを躾けるニュアンスで断言されても脅威しか感じない。もっとやんわりオブラートに包めないものだろうかと、来人も苦笑交じりに呆れてみせる。


 軽いステップで美蒼乃は来人の正面に来ると、再会した時同様、両手を揃えてお辞儀する。


「目的は未達成でしたけど、今日は米谷先輩と久しぶりに会えましたし、貴重なご意見も頂けました。だから、存外悪くない一日だったと思います。それでは先輩、今日のところはこれで失礼しますね」


「ああ、またな」


「はい」


 訊くだけ訊いた少女は軽く手を振り、屈託ない笑顔と共に夜闇の中へ姿を消した。遠のいていく足音もまた、絶えない水音に馴染んで溶けていった。


 あれだけ騒々しかった中庭が元の静寂を取り戻す。足音も話し声も、今はもう聞こえない。


 ほんの少しだけ、気温が下がった感覚がした。太陽が雲に隠れ、鈍る光が肌をひんやり撫でたような、ひと時の感触。


 過ぎ去った風に安堵しながらも、陽気な春風の残り香は妙に名残惜しかった。


「なんか不思議な子だったっすねー」


 荘平が来人の隣に来て呟いた。


「不思議な子?」


「来人さんもそう感じなかったっすか? だって美蒼乃さん、伊月さんへの敵対心が光る刃物みたいに鋭いのに、なんだか一本筋が通ってるわけでもなさそうですし。どうにもぶれてるっていうか」


 直感を語る荘平の目を来人は見た。裏表のないその瞳は、先程荘平が依美について話をした時とまったく同じものだった。


 自然と来人の口元に笑みが浮かぶ。


「な、なんか俺、変なこと言っちゃったっすかね?」


「いや。ただまあ、初対面……というか、その時はまだ会ってすらいなかったお前にまで見抜かれるなんて、ほんと情けない話だと思っただけだよ」


 事実を巧妙に隠す。脚色する。そういったこと全般を美蒼乃は嫌う。嫌うからこそ手を染めず、熟練もしない。結果として苦手となるのは世の理。


 要するに、美蒼乃は隠し事が下手なのだ。


 自分の本心が誤魔化せない。自分でコーティングしたメッキを自ら剥がしにかかる少女なのである。


 どこぞの誰かとは大違い。


 変わらない変わらないと散々思わされた挙句にこの追い打ち。これはもう流石の来人も降参だった。


 事情を知らない荘平はというと、来人が笑う理由を推測しようとしてか、唸り声と一緒に頭を悩ませていた。


「えーと、さっきの会話からするに、来人さんは美蒼乃さんと付き合いがあったんすよね?」


「ああ、中学時代にな」


「じゃあ美蒼乃さんって、結局どういう人なんすか? 伊月さんとも並々ならない因縁がありそうっすけど」


 それはきっと流れの中でなんとなく頭に浮かんだ疑問なのだろう。これといった捻りもない率直な問いかけだ。


 だというのに、ふと来人は躊躇した。答えてしまっていいものか、訳もなくそう思ってしまった。


 別にもったいぶってはぐらかす程の過去でもない。なのに上手く話せる自信がない。傍観を決め込んで引いた境界線が十字架となって喉を締めた。


「荻島は――」


「荻島美蒼乃ちゃん、十五歳、双子座。風紀委員の愛らしいマスコットキャラ。兼、鬼にもなれちゃう期待の副委員長。そしてもひとつ」


 来人が重い口を開いたその瞬間を狙い澄ましたように、鈴を転がしたような声が二人の間に割り込む。


 向けた視線の先には、闇も光もごちゃ混ぜにして同化する、そんな女の姿があった。


「かつて楠伊月君の彼女だった女の子だよ」


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