コール・ゴール
「なんなんすか、あの人!! 混じり気ない純粋な殺意が立ち込めてたっすよ!? 『あ、これヤバいやつだ……』って諦めかけましたよ!?」
一人場違いに感極まっていた神奈を先に帰し、へなへなと座り込んでいた荘平に肩を貸した来人は二人で部室に戻ってきていた。
しばらくソファーに横になって休んでいた荘平が、生気を回復したのか、悪夢から目覚めたように咆哮する。
「いや、ほんと悪かった。あんまり急だったから言いそびれてな。あいつのああいう部分を正して欲しいっていうのが俺の依頼だったんだ」
「確かに、この私としたことがなんたる不覚かしら。恥ずべきミスだわ」
しれっと調子を合わせてくる依美を来人が一瞥するが、そのときには既に少女の視線は液晶ディスプレイに落ちていた。
実際来人のそれは単なるミスでしかないが、依美のそれは正真正銘の確信犯だ。伝え忘れたのではなく伝える気がなかっただけである。おまけに当事者の荘平が命の危機に瀕したら自分は知らぬ存ぜぬを貫くのだから相当性質が悪い。
「依頼は結構なんすけど、それならそれでやっぱり言っておいてもらわないと。気分的にはTシャツ半ズボンで何気なく付いていった先がエベレストで、さあ登ろうって言われた絶望感に近かったっす」
「婉曲なのかストレートなのか分かりづらい例えだな……」
既知の恐怖と未知の恐怖があったとして、知ってることより知らないことを恐れるのは生物の道理だろう。それを体現できた荘平はある意味勇敢かもしれない。
そんな荘平のタフな精神にはただただ頭が下がるばかりだが、来人の気にすべき点は当然他にある。むしろ本題の最優先事項はその一点だ。
「にしても先輩、今回のこれは作戦失敗って結果でいいんですよね?」
「ほう、それは面白い戯言ね、米谷」
指を仕切りに振って何かを閲覧していたであろう依美がその手を止め、興味深そうに来人を見上げる。気品ある声調はそのままなのだが、鋭く細めた両目がやけに重苦しい雰囲気を放っていた。
「私の辞書に失敗なんて文字は存在しなくてよ?」
「それは辞書の筆頭語句に該当語が載っている奴の台詞だ」
ここで話を有耶無耶にされてなるものかと、来人も必死に追いすがって言葉の槍で応戦するが、しかし依美は悪びれることなく含み笑いさえ崩そうとしない。裏で暗躍する女ボスの貫録全開である。
「その物言い、何か不手際があったと言わんばかりね。『気になって夜も眠れず碌に会話もできない高嶺の花の美少女をデートに誘う目標』は達成せしめられたでしょう?」
「誰がいつそんなシャイボーイの切望みたいな頼み事したよ! 依頼内容挿げ替えて正当化図んな!」
依頼、というよりはもはや事実が捻じ曲げられて勝手に設定が捏造されていた。一体どこの悪徳企業だという話だが、よくよく思い返してみればさくらがどうのこうのと、疑惑の瘴気は最初から立ち込めていたわけで、依美からすれば日常茶飯事、恒等手段とも言えるのだろう。
余裕綽々の依美はなるほどいかなる論も突っ撥ねる鉄壁の城塞。しかし、だったらその余裕で荘平のピンチを率先してなんとかしろよと万人が指差すのはまあ間違いない。
「水掛け論で戯れる気はないわ。妥協点を模索なさい。案件未解決の上でなされたデートの約束は、果たして幸か不幸か、自分が立場がどれほど恵まれているのか、よく熟考するのね」
依美の提案に来人は言葉を詰まされた。確かに傍から見れば依美の作戦はお世辞にも成功などとは言えないが、その中で来人と神奈がデートの取り決めをしたことは事実だ。本元を改心できなかったとはいえ大きな進展ではある。
「それでも迷うというなら、お前がどれほど幸運に愛されているのか、これを見て判断するといいわ。今回一役買ったネット住人の、あなたに向けたコメント群」
「コメント?」
依美が見えやすいようにタブレット端末を裏返す。横書きで規則正しく並べられた文章が縦にスクロールされていた。
『死ね……』、『死ね……』、『死ね……』、『間抜けな島根……』、『まあまあみなさん落ち着いて。あまり言いすぎると稚拙に映りますよ? 高校生ならよくあることDEATH死ね』。
「だからなんでこいつら俺を忌み嫌うんだよ……」
そうこう言っている間もページは流れていく。
『逢瀬の地を割り出せ……』、『土曜は決戦の日だ……』、『大敗の武士どもよ、ここに集え……』、『憎しみを刃に牙を研げ……』、『…………彼の地を鮮血に染めろぉぉ!!』。
「怖いわッ!! もう通報ものだよ、こいつら!!」
何が彼らを執拗に駆り立てるのか、まったくもって度し難い。まあ分かったところで理解したいなどとは毛ほども思わないわけだが。
「これで思い知ったでしょう? お前が異様に恵まれた存在であることを、世論が証明しているというわけ」
「いや訊く対象偏りすぎだろ……」
とはいえ、今の自分の状況を冷静に分析できない来人ではない。作戦の成否云々よりも、来人の神奈、二人の関係が改善されたか否かである。生死の攻防戦から平穏なデートにまで昇華できればそれは前進以外の何物でもないと、来人だって骨の髄まで承知している。
依美の思惑に絡みつかれたような自失感に曝されながら、結局そこが来人の妥協ラインとなった。
「……じゃあ今回は可もなく不可もなく、中立の結果ってことで退いときます」
「賢明な判断と言えるでしょうね」
フッと消え入るように笑う依美から負けず嫌いな気が垣間見えるわけだが、指摘するとまた論の飛ばし合いに発展しかねないので心の中で留めた。
すると二人の会話が終わるのを待ちわびていたように、荘平がおずおずと前に出る。何かを憂う儚げなその瞳の中心には依美がいた。
「その……姐さん、中立で今回の件がお流れになると、俺の処遇、というより例のアレはどうなるんすかね……?」
荘平が口にする例のアレ、それを聞いた来人には思い当たる節があった。
自分サイドの心配ばかりで失念していたが、荘平が告白役などという損な役回りを演じたのは、依美がチラつかせた謎のデータとそれを報酬とした裏取り引き故である。
一体どんな弱味を握られているのかは定かでない。それでもやはり荘平にとっては決してお流れになどできない禁断のデータなのだろう。
「一応俺、やれるだけのことはやったと思うんすよ! 結果は成功じゃないっすけど、なんとか一歩前進……みたいな? お前がいてくれてよかった的な、縁の下の力持ち的な、地味でも貢献した方だと思うんすよ!」
「……それで?」
一念発起して自分を売り込む受験者のような荘平と、曖昧な態度には徹底して冷たく応じる面接官の依美。
そしてそんな二人を離れた所から眺めつつ、他人事のくせに無駄に空気をピリピリさせるのだけは止めろと心で一人念じる来人。
奇妙な三人が一堂に会していた。
張り詰めた空気と射抜かんばかりの視線に怯んだのか、しばし口を噤んだ荘平だったが、がっしり握った両拳だけは解いていなかった。
「単刀直入に言うっす」
まっすぐと背筋を伸ばしたまま、腰は正確に九十度、開花するように開かれ、揃えられた両手が依美の顔面にまで迫る。瞳の奥では紅い炎がメラメラと燃え滾る。
「なんかあれこれしてでも俺の功績を評価して慈悲を!!」
「却下」
永久に消えないとさえ錯覚させた両目の炎が、悪戯に振り回された消火器で瞬く間に鎮火された。
「あまり社会を甘く見ないことよ。中立は中立なのであって、ひっくり返したって成功じゃないわ。五十歩百歩なんて都合よく言うけれど、五十歩と百歩の違いすらまともに分からないようなら人間を辞めるのね」
一転して防御力が紙以下に成り果てた荘平を依美の刺々しい刃が襲う。今の極限状態が現実世界に実体として投影されるなら、さしづめ穴開き新聞紙といったところだろうか。どちらにしろ見るに堪えない。
まるで出来損ないのロボのように関節の動きが挙動不審。そしてそのまま失意の底に叩き落された荘平はソファーへと顔面ダイブしたのだった。
「いくらなんでも判定が厳しすぎやしませんか? そもそも荘平がいなかったら作戦として機能すらしなかったわけですし、始まる前に失敗してたも同然でしょう?」
別に同情したわけではない。そもそも同情するには荘平の陥った状況が突飛すぎる。ただ、それでも労わろうとすることが来人なりの感謝の示し方だ。
――まあ、何を言っても無駄だろうけど……。
「お前にも分かるはずよ。テストで百点取ったらおもちゃを買ってもらうことを父親と約束した子供。けれど結果は五十点だった。そんな子が『頑張ったから』と泣いて懇願したところで、何か買ってもらえると思えるかしら? 父親の財布の紐は涙で緩むほどやわじゃないわ」
「いや、涙って」
横目でソファーの方を見ると、気づかれないよう静かに嗚咽を漏らす男子高校生の姿がそこにある。
「泣かしたのはあんただよな……」
そろそろあんたは自分の言葉の殺傷力を自覚しろと、思わず本気で口に出しかける。罪悪感があるならまだしも、そもそも罪であり悪であるという認識がないとしたら完全にお手上げだ。
あるいは自己防衛のために強気に振舞っている線もなくはない、はずが、当の本人がこれなので期待するだけ無駄な気がした。
「い、いいんすよ、来人さん。なんとなくダメだろうなって気はしてましたから……」
声がした方へ振り返る。相変わらずソファーに全体重を預けたままの荘平だが、込み上げる何かに堪えるようにして擦れた声を絞り出す。
「俺のような低俗な人間を庇うのだけは止めてください。そんなことしたら来人さんまで同類扱いされるじゃないっすか……。俺の方はほんとに大丈夫なんで。道路に転がった邪魔な石ころを蹴散らす感じで来人さんは進んでください……」
「どこが大丈夫なんだ!? お前そんなキャラじゃなかったよな!?」
首だけがぎこちなく回り、顔だけは確認できるようになる。ようやく露わになった荘平の顔なのだが、目元が少し腫れ、瞳は一段と輝きを失っていた。
「ハハ、ご冗談を。俺は俺ですし……」
「目を覚ませ! ショックなのは分かるけど自分を失ったらそれまでだぞ! 頼むからお前まで病むなよ!」
病んだ幼馴染の更生を依頼したせいで病んだ人間を量産するなんて冗談じゃない。『それなんてバイオ?』などと後ろ指を指される愚行になってしまう。
かといって事が事、相手が相手なだけに気の利いた解決策もない。来人には白旗を振る以外ないのが現状である。
「そんなこと言われたって……これじゃあ俺、完全に殺されかけ損じゃないっすか! なんのために命張ったのか分かんないっすよ!?」
「あ、ああ、うん……。それに関しては本当にゴメンとしか言えない……」
寸劇という仮面を被った神風特攻になってしまったのは全面的に来人が悪かった。または知ってて教えなかった依美に非がある。荘平自身は真っ白であり、純粋であり、善良でありながら殺されかけたのだ。本来土下座したとしても詫び切れない。
さあどうしたものかと、今度は来人が考え込む。その後ろ、依美が傷心中の荘平を被写体に、タブレットでシャッターを切る。
「……これ以上種火を増やさんでもらえますか?」
来人としては注意を促したつもり。しかし依美は眉をしかめながら、はてと首を傾げてみせる。
「その『え? 何か悪い?』って顔は本気で止めろ」
一体どこまで依美の性根は捻じ曲がっているのか、まったくもって底が知れない。
とはいえ今は荘平である。人が良く、恩まで着せてしまった荘平を、来人は既に放っておけない域にいた。なんというか、自分と同じで女性に振り回されて苦心する境遇には、共感にも似た情が湧くのだ。
出会ってまもない相手にそれほどの熱が入るのも不思議だが、償いと思えばむしろ軽い。少しでも力になろうと考えた時点で来人の心は定まっていた。
「なら、俺も荘平がデータを取り返せるよう手伝う。それでどうだ?」
「……え? それって……来人さんが俺に力を貸してくれるってことっすか?」
来人の提案が余程予想外だったらしく、さっきまでの陰気臭さはどこへやら、パッと上半身を起こした荘平が目を見開く。だがそれも一瞬の煌めきで、すぐに尻すぼんで影を落とした。
「でも悪いっすよ、こんな俺個人の事情に来人さんを巻き込むなんて……。さっきはつい勢いでああ言いましたけど、結果として依頼は達成できなかったでしょう?」
「まあ、結果だけならな。けど今は俺もこの部の一員なわけだし、困っている生徒を助けるのにそれ以上の肩書きは必要ない。そういうことにして、二人で一緒に一泡吹かせてやろうぜ?」
「来人さん…………。はい、そういうことなら俺やるっす! 絶対にやり遂げてみせるっす!」
今度こそ荘平の瞳に揺るぎない希望の火が灯る。少々出過ぎた真似をした感じが否めない来人だったが、想像を超えた成果が出てくれた点でイーブンである。
ここにきてようやく今回の騒動にきちんとピリオドを打てた気がした。
「友情と言えば聞こえが良くとも、傍から見れば男二人で少女暴行を画策する絵図以外の何物でもないでしょうけれど。『嬲る』という漢字ね」
「いやもうほんと勘弁してください。せっかく丸く収まった場をかき乱すとか鬼の所業なんで」
姑のようにネチネチ突っかかってくる人が約一名。分かっている、面白がっているということは嫌というほど分かっている。
それと同時に、下手に扱えば後々厄災に見舞われることも気に留めなければならないから困るのだ。まさしく危険物取扱資格が必須の対象。狂おしく面倒くさい。
依美の見目麗しい笑顔は、まだ物足りない、もっとからかいたいと言外に告げる。そんな折、来人の祈りが天に通じたのか、膠着状態のまま物音一つしなかった部室に電話の着信音らしき電子音が鳴り響いた。
音で自分の携帯でないことが明らかな来人が荘平の方を見ると、言わんとすることを察したらしく首を横に振る。とすれば残るは一人と、安直に振り返った矢先、奇妙な変化が目に留まった。
鳴り続ける携帯電話を取り出した依美が、嬉々としていたはずのその表情に不快感を滲ませる。それは画面を目視した一瞬の出来事だった。
「……一体何の用?」
逡巡しながらようやく電話に出るも声に覇気はない。細めた両目は鋭さなど微塵もなく、その先はぼんやりと虚空を漂う。姿も見えない電話越しの相手にうんざりするかのような、どこか冷めた応対。
これまでの依美も突き放すかのような冷血な言動を幾度となくとってきた。しかし今回のものはそのいずれにも当てはまらない、いやむしろ真逆とすら呼べる代物だ。
今の依美の中に、来人が助力を求め、意固地になって論争し、たまに敵わないとさえ畏怖させる依美はいない。それが短いなりにも烏野依美という人物と近く接してきた来人にとっての、唯一無二の確信だった。
「…………そう。そうでしょうね……」
さっきまでの笑顔は遠い彼方に消えていた。今の依美が浮かべる笑みは目的を持たず、いかなる感情も籠められていない。至る所に綻びを抱えた渇いた笑みでしかない。
「あなたが今の私に、その件以外で電話してくるはずないもの」
傍観しかできない来人には、ましてそれが電話ともなれば、何を話しているかなど聞き取れるはずもなく、低く籠ったノイズのような音だけが空気を震わせる。
無言で互いを牽制し合っていた時の方が、今なんかよりも何倍も鬱陶しくてうるさかったのはどうしてだろう。来人の胸に疑問符ばかりが散り積もる。それ程までに今は『異常』なのだと、チクリと刺すような痛みが教えてくれた。
しばらく一方的に聞き手に回っていた依美だったが、次第にその顔が苦虫を噛み潰したように険しくなっていく。口を衝きそうになる言葉を殺すように歯を噛みしめるも、乱れた感情までは抑え切れずに電話を持つ右手がわなわなと顫動する。
限界は、すぐに訪れた。
「言ったはずよ! 私はあなたに従うつもりはないと。絶対にそこだけは…………そのことだけは譲れないのよ!」
雁字搦めに拘束された憤りを爆発させるように叫ぶ。そこに論理的な思考はあるはずもなく、個人の主張だけが虚しく弾ける。
そしてほんの一瞬、自分の言葉を反芻しながら息を整える過程で、依美は来人を一瞥した。もっとも、見られた来人ですら自意識過剰だろうかと疑ってしまう程の些細な動きでしかなかったが。
「……ええ、好きにすればいいわ。どうせ何も変わらないのだから」
それが一本の電話の終幕。捨て台詞ばりに言い放たれた最後の言葉は霞と消える小さな声だったが、来人にはすべてがその一言に集約されているように聞こえた。
静かで落ち着いた、なんて綺麗な叙述で誤魔化し切れない、どんより落ち込んだ空気が気持ち悪く流れる。
「先輩、今の電話――」
「帰って」
時刻は六時半。日が徐々に長くなり始めた春先だというのに、窓の外は街灯なしでは心細いくらいに薄暗い。運動部や特異な文化部ならまだしも、一般的な文化部の生徒が残っているような時間帯じゃないことは確かだ。案外文化祭の準備をする生徒なら残っているかもしれないが、どのみち来人とは縁がない。
だからそう、帰るのは当たり前。
反射なのか第六感なのか、自分を守るように、腫物に触れないように、来人は意識を依美から外した。誰に言い訳するでもなく自分勝手に合理化して、意味もなく正当化した。
依美の言葉があまりに冷めていたから。
感情という色が褪めていた。
「その、どういう意味です?」
「ちゃんと聞こえなかったならそれでいいわ。意味も分からなくていい。だから今日は帰りなさい」
問答無用。そういうことなのだろう。強制解散は事情を尋ねたところで答える気はないのだと、そう暗に告げていた。
「神奈の件はどうするつもりで? 明日も対策を練ってくれるんでしょう?」
「……。その案件の続きは週明けにするわ。土曜次第でいくらでも状況は変わるでしょうし。それにもしかしたら……」
その先を、依美は決して口に出そうとしなかった。『これでいいかしら?』と、来人の掴んだ突起を削って、態度と雰囲気で帰宅を促す。
来人の前にはもう、腹黒く、人をからかうことが大好きで、今日一日だけでも一生分の破天荒ぶりを披露してくれた、そんな小賢しい少女の姿はどこにもなかった。