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病みまくった幼馴染  作者: 白烏
5月 13日 (水)
5/22

ミス・プロミス

 鮮明さにやや欠けるが、映像の中には入口に立った神奈の姿がしっかりと映しだされている。その視線は紙とにらめっこしたまま固まっている荘平へと向けられていた。


『あの、私に話があるというのはあなた、ですか?』


『あ、えと……そうっす。俺は金戸荘平。来人さんに頼んで俺があなたを呼んでもらったんすよ……』


『やっぱりそうでしたか。あんまり来ない所だったから、間違えたんじゃないかって不安で。でも合っていたみたいでよかった』


 カメラ越しですら伝わる気まずい雰囲気の中、まず神奈が先に尋ね、それによってようやく荘平が我に返る。来人と二人きりの時には決して見せないような静かで落ち着いた神奈の一面がそこにはあり、来人をホッとさせる反面、何故に自分に対してはこうならないのかとガックリ肩を落とさせた。


 夕日が二人を照らし、教室に長く伸びた影を作る。外から聞こえてくる部活動の掛け声とは対照的に部屋の中はただただ粛然としていて、何か新たな物語の歯車が回り出しそうだと思えるほど情緒が溢れている。日中と夕方でここまでその姿を変貌させる空間というのは学校以外になかなかないだろう。


 挨拶程度の会話しか交わさずに沈黙に陥った荘平に対し、神奈は場馴れしているのか、戸惑いや焦りといった感情など微塵もないように笑ったままでいる。元々社交的な性格で物怖じしない奴なのは来人も知っていたが、男と二人きりという状況に一抹の不安くらい抱いて欲しいというのも本当の所だ。


『それでその、私に話があるってことでしたけど、一体なんの話ですか?』


 ここまで状況を揃えたら誰だって少しくらいは感づきそうなものだが、そこはやはり神奈。流石、夕焼けに染まる屋上に呼び出して完全犯罪宣言する人間は格が違う。


『実はっすね…………実は……』


 そして、対する荘平はもう完全に後手に回っていた。頭を掻き、歯切れ悪く、間で誤魔化すという見事な逃げ腰である。強制的に呼び出され、強制的に告白役として抜擢(ばってき)され、強制的に追いやられたこの窮地、割り切れないのも無理はない。たとえ目先に待望の餌が吊るされていようがそれは変わらないのだ。


 そもそも割り切るといっても、何一つ具体的な説明をされていないのではそれも難しい。そこまで思い当たると、部室にて画面を覗き込んでいた来人の中に疑問が湧いた。


「そういえば、あいつは神奈の実態知ってましたっけ?」


「そのあいつというのが金戸のことなら、十中八九知らないでしょうね。今の彼女にはそんな節が一切見受けられない上に私の方からも何一つ教えていないから。そのことがどうかして? 見下げる下っ端が上の意向を不知というのは珍しくないでしょう?」


 しかし依美は取り合うことなく一笑に付す。荘平の扱いが非情すぎるなと思う一方、何かとんでもない問題が横を素通りしていった感覚が来人を包んだ。それは極々小さな違和感であり、気にかけた時には遠方に過ぎ去っていたが。


「それにしても煮え切らない男だわ。とっとと告ってキスして押し倒してしまえばいいものを、ハーレム漫画の主人公気取りかしら。反吐が出るわ。苛々ムービーを見せられるこっちの気にもなれというのよ」


「あんたって、ほんと傍若無人の権化だよな」


「敬語が里帰り」


「先輩は比類なき傍若無人の化身ですね」


「変わっていないじゃないのっ!」


 恒例となったやり取りの中、依美が一人舌打ちする。それから無言のまま置いてあったマイクを取り、その電源を入れた。


「金戸、あと十秒以内に覚悟を決めなさい。そうでなければ例のモノが返ってこないどころか、あなた自身が帰る場所を失うことになるわよ?」


 もはや八つ当たり以外の何物でもなかった。音声が重圧付きで届いたのか、映像の中で荘平の体がビクンと震えたのが分かる。今四角い箱の中で葛藤している少年の心中は察するに余りあるだろう。


「鬼か、あんた」


「誰かを救うためなら私はいくらだって鬼になれる。いくらでも汚れられるわ」


「いかにも気分爽快ですって顔で滅私面するな」


 神奈のこともそうだが、来人からしたら依美の歪み様もどっこいの勝負だ。そして問題の荘平は相変わらず拳を握ったまま微動だにしない。どうにも心の内の決着が未だにつかないらしい。


「本当に大丈夫なんですか?」


「大丈夫よ、別に。指示はもう済ませてあるのだし、あとは沿って進むか立ち止まるか、ただそれだけ。直に始めるでしょう」


 そんな予想を裏付けるように、ずっと顔を逸らし続けていた荘平が神奈を真正面に見据え、ついに行動に出た。


『お、俺……俺は…………俺は神奈さんのことが前からずっと好きでした! 寝ても覚めても、今日も明日も明後日も、神奈さんが大好きっす! だからどうか俺と付き合ってください!!』


 隣の部室にまで轟くような大声の告白。荘平が神奈の名前を知っている辺り内容は依美が指示したそれなのだろうが、そんなことはまるで意にも介させないような圧巻の演技だ。少なくとも真実を知る来人自身がつい呆けてしまうほどには真に迫っていると言える。


 部屋の中が再び静まり返る。呼吸を荒げる荘平の正面では神奈が少々面喰った顔をしながらも、それはあっという間に笑顔に戻った。その表情の告げる意味がなんなのか、果たしてどういう結末に至るのか、そんなことは実際分かりきったことなのかもしれないが、それでもどうしてか来人の心をざわめかせる。


 それから神奈はゆっくり両手を前に揃え、深々とお辞儀した。


『ごめんなさい』


 慎ましく、丁寧に、相手を労わりながら、それでいてはっきりと、神奈は申し出を断った。その目には迷いが欠片もない。


「やはり、そうくるでしょうね」


 映像に魅せられている来人を横目に、隣の依美は一人で勝手に何かを納得しながらマイクを口に近づけた。


「そのまま続けなさい。無論、指示通りに」


 徐々に太陽が遠くの町並みの中へと隠れて暗闇が増していく。さっきまで茜色の光が散りばめられて輝いていた空間にも影の色が濃くなり始めた。


『私にも好きな人がいます。だから付き合うことはできません』


『好きな人……ひょっとして、来人さんっすか?』


 神妙な顔つきになった荘平の問いかけに神奈は顔を赤らめながら首を縦に振る。普通の女の子がこんな反応で好意を示してくれたら本人はきっと天にも上るほど歓喜するのだろうが、これが神奈だから困る。来人の脳裏を掠めるのは天に召される自分の姿という複雑さだ。


 それとは別に来人が気にかかるのは荘平がここで自分の名前を上げたことである。てっきり作戦とやらはここまでで早々に切り上げるものかと考えていたが、ネタ晴らしをして終了どころか話が終わる兆しすら一向に見えない。


「先輩?」


「黙って見ていなさい」


 隣でふてぶてしく座っている少女の口角が若干上がるのを見て来人の背中に悪寒が走る。


 それはおみくじで凶を引き当てた不吉さというより、小吉の未然とした足元の覚束なさを暗示するような均整の取れない感覚だった。


 そしてこの防衛本能の発露にも似た来人の第六感が、荘平が言い放った台詞に過密圧縮されて正解の的を射ることとなる。


『あんな道端のゴミクズにも劣る男のどこがいいんすか! 自分の幸せにも気づけない盲目似非(えせ)リア充の馬鹿野郎じゃないっすか!! 神奈さんとあいつじゃ、例えられるスッポンが不憫で温かく慰めてあげたくなるくらい格が違うんすよ! あんな奴焦がれるだけ時間の無駄っす! 考え直すべきっす!!』


「……」


 数秒間、荘平のシャウトを穏便に静観していた来人が、目を深々と閉じてこれまた数秒間思考した後、視線を廊下側の壁へと向けて低めに呟く。


「とりあえず、俺が納得できる説明を」


「……作戦よ」


 両肘を机につき、両手を組むようにしながら厳かに発せられた一言だった。


「いや納得できるか!! 手を顔の前で組んでそれっぽく言えば誤魔化せるとか思うなよ!?」


 はいそうですかなどと納得できるはずもない、あまりにいい加減な解説である。来人の右手は赤くなるほど強く机に叩きつけられた。


「どうしてさっきの流れからいきなり俺の罵倒が始まるんだ!? 脈絡無視しすぎだろ!」


「無視などするものですか。恋敵が現れたらまずその人物を叩きにかかるというのは、ある種選択肢の一つと言っても過言ではないでしょう? 今、策は第一段階から第二段階へとシフトしているのよ」 


 こんな状況でも悠々と語ってみせる辺り依美自身にも考えあってのことだとは伝わるが、中身がまるでピンとこない。自分への罵倒で多少なりとも頭に血が上っている来人にはなおさらである。


「……もう少し噛み砕いて言ってもらえます?」


「しょうがない男ね、まったく」


 このくらい触りで理解しなさいと蔑まんばかりにため息が漏れた。


「今までの茶番劇はあくまで常識力を測るための、言わば指標。告白そのものの返答なんて最初から明白だったわ。だからこそこの機会にもう一つの作戦も同時並行して試してみることにしたというわけ」


「そのもう一つが俺を貶めることだと?」


「そんな所ね。ある仮定として水橋神奈が米谷来人という男の在りもしない勝手なイメージに恋心を寄せているのだとしたら、そのイメージを完膚なきまで否定することには何かしらの変化が伴うでしょうから。まあ、まずはその幻想をなんとやら、ということよ」


 依美曰く、神奈が来人に執心するのは勘違いに端を発する思い込みなのであり、今なお彼女は勘違いの渦中。そこで頭の中に創造された来人の像を木端微塵に打ち砕き、現実を叩きつける、それが第二の策なのだと。


 今までの一連の流れから十二分に察しはついていた来人だが、やっぱりなんやかんや底は浅かった。もちろん神奈が自分に真剣に惚れているなどとナルシズムに振舞う気など毛ほどもないが、それ自体は作戦の成否とはまた別の話である。どちらかと言えば依美の仮定の方がむしろ思い込みがすぎるほどだ。


「勘違いだって仮定が勘違いかもしれないのに、よくもまあそんな自信満々に胸を張れますね……」


「あら知らないのかしら? 恋愛という名の情動の九十五パーセントは勘違いでできているのよ?」


「暴言だ!!」


 例えば吊り橋効果理論等がそれに当てはまる部分なのだろうが、だからといって九割オーバーはインフレがすぎる。真実の愛は霞と消え、恋愛ドラマは空中分解する。


「……ちなみに残りの五パーセントは?」


「幸せになれる壺」


「全力で恋愛全否定じゃねーか!!」


 冗談かただの持論か、そんなことがどうでもよくなってしまうほど綺麗な物言いだった。もうこの路線の話し合いを繰り広げたところできっと無駄骨なのだろうと、つくづくそう思わせた。


『人生の残り時間は限られてるんすよ? それなのにあんな畜生に現を抜かすなんて、道路の排水溝に落とした一円玉を一時間かけて拾い上げるような暴挙っす! 神奈さんのような品行方正な人が下卑た野郎を構うだけでも握った拳が打ち震えるのに、あまつさえ恋愛沙汰だなんて、体中が痙攣して止みませんよ! しかも当の本人はそんなこと一切眼中なしで神奈さんを背に呆けてばかり! あんな奴より俺の方が絶対神奈さんを幸せにできるっす!! だからどうかあいつを捨て置いて俺の手をとってください!』


 加えて荘平はまだ延々と、そして長々と、映像の中で罵倒を続けていた。いくら作戦だと分かっていても無意識的に怒気が湧く。これは一発くらい(はた)く権利があって然るべきだろう、と。


 そしてもう一つ、おそらく荘平が口にする言葉は一から十まで依美が指示を飛ばしたものだとして、問題はその出所である。第二の策などと大見得を切るのだから文章はすべて準備していたとみて間違いないが、それを作ったのが誰かという話だ。


「ところでこれも作戦の内だと豪語なさるそこの先輩、この頭の悪そうな台詞の数々、考えたのは誰だ? 答えようによってはそれ相応の――」


「いきり立っているところ非常に悪いのだけれど、残念ながら私じゃないわよ?」


「じゃあ誰が……」


「ネットよ、インターネット。ネット世界の住人に米谷のイメージを基にして罵倒するよう依頼した結果がこれ。彼ら、血気盛ん怒涛の勢いで数多の美辞麗……罵詈雑言を書き連ねてくれたわ」


「今、美辞麗句って言いかけなかったか!? というか本人の承諾もなしに裏でなにとんでもないことしてくれてんだ!」


「匿名よ?」


「重要だけどそこじゃねえ!」


 神奈の持つ勝手なイメージに焦点を当てて作戦を練るのはいい。そのために荘平が恋敵を演じて罵ることもまだ分かる。だがそれは果たして来人に対して秘密しなければならないものだったのか、来人にはそこが分からなかった。歪んだ依美ならでは、誰かをおちょくりたいという思いがそこにあったのではないか、そう思えるのだ。少なくとも稚拙極まりない悪言を美辞麗句と言いかけるくらいには。


「文句しか出てこない口ね。これでも数あるコメントの中から過激さの度合いを抑えて選抜した方なのだから、少しは我慢しなさいな。中には嫉妬の炎に脳を溶かされて歯に衣着せず『死ね……』とコメントした猛者(もさ)もいたくらいよ。そんなのに比べれば可愛いものじゃない」 


「どれだけ嫌われてるんだよ、俺……」


 いくら見ず知らずの人間だといっても心に刺さるものがある。やはり人から悪印象を受けるというのは、いつの世も、インターネットが張り巡らされたこの世の中でも気分がいいものじゃない。


 そんな来人の心境などいざ知らず、荘平の口から飛び出す誹謗中傷の数々。途中から本人が本気で言っているのでは、という錯覚に見舞われるが、さっきあったばかりの自分に対していくらなんでもそれはないだろうと握った拳を抑え込む。


 そして映像の中、荘平の正面で棒立ちになって固まっている神奈。先程から言葉は何一つ発せず、ずっと聞く側に回っていた少女の姿に来人は違和感を覚えた。ピクリと動いた右手、俯いた顔、暗さと解像度のせいで表情は正確に読み取れないが、沈黙を守る少女のその口元に、笑みが浮かんだ。


「これ……まさか!?」


 その僅かな兆候ですら幼馴染であり経験者でもある来人にとっては事態の深刻さを伝えるのには十分すぎた。


 そして同時に、遅すぎた。


 気づいた時には神奈は右腕を振るっており、美しい直線的な軌跡を描いくように投擲された何かが荘平の左の頬を掠めた。その何かは後方の壁に衝突して鈍い金属音を奏で、重力にまかせて床へ。落ちたそれは一回だけ弾むと、今度は木と木がぶつかったような柔らかな音を鳴らして静かに横たわった。


『へ?』


 事態の急激な変化を前に言葉は途絶え、荘平から間抜けな声が漏れる。振り返り、視線を落とした先に転がっていたのは、先端がⅤ字の形に尖った一本の彫刻刀だった。それを視認した荘平の顔が一気に青ざめる。


『な、なな、なあぁぁッ!?』


 完全にパニック状態へと陥る荘平だが、それも無理はない。何がどうしてこうなったなんてことよりも、少しでも軌道がずれていれば鉄の突起物は確実に自分を顔を抉っていたというその事実。それは一瞬で受け入れるには衝撃が強すぎる。とにかく強烈すぎた。


『フ、フフ……クル君、私分かったよ……。これは私とクル君の愛の試練なんだね……? 私たちが幸せになるための試練……愛の障害……邪魔者……。この人は、私たちの関係を壊そうとする、邪魔者……。待っててクル君、今…………消すから』


 真っ暗に染まる空と同化したような輝きを失った瞳が見開かれ、不気味な微笑みと共にフラフラと立つ少女がそこにいた。それはまさしく来人が闇神奈と称する少女そのものだった。


「先輩、今すぐ作戦を止めてくれ! このままだと荘平が殺られる!」


 予想していなかったわけじゃない。ただ可能性は限りなくゼロに近いものだと、それこそ勝手に思い込んでしまっていた。来人を(けな)すことが神奈にとってどれほど禁忌なことか、それが色恋沙汰に絡むことでどれほど混沌とした事態を招くのか、分かっていながら見過ごした。


 どこかで、そうならないと期待していた。


 とにかく事が起こってしまった以上は全力で止めに入らねばならない。幼馴染がこんな馬鹿げた芝居のせいで人を殺してしまうことなどあってはならないのだ。


「早く荘平に指示を!」


「ふむ、今日の日経平均株価の推移は……」


「あんたはなに分かりやすい現実逃避してんだ!!」


 どこから取り出したか、依美は本日づけの新聞をパサリと広げ、我関せずといった体で目を背けていた。これはもう頼るとか頼らないとか以前の問題だ。


 そうこうする内に隣の部屋では神奈が新たな彫刻刀を両手で構え、覚束ない足取りでゆっくりと、それでいて着実に荘平との距離を詰めていく。


『な、何が一体どうしてそんな物を!? なんなんすかッ!?』


『あはっ、不思議ぃ……。知らないはずないよ……? 彫刻や版画作りに使う……ただの彫刻刀だもん』


『知ってるっすよ!? 知ってますとも! だからどうしてそんなもんを常備してるのかって話っす!』 


 次の瞬間、再び彫刻刀が今度は両手併せて四本同時に投擲された。すべては躱しきれないと悟ったのか、荘平は近くにあった椅子を咄嗟に掴んで盾にする。木製ながらに丈夫な椅子を前に四本の彫刻刀は表面に傷をつける程度で弾かれて力なく床へ落ちる。


『彫って……抉るの』


『何をッ!? 木っすよね!? 木片っすよね!? 決して血の通った人間とかじゃないっすよね!?』


『ふ、ふふっ……あはっ…………あははあぁぁぁ……』


『ひぃぃぃぃぃぃぃ!』


 奇怪な笑い声を上げながら迫りくる神奈に荘平は完全に心を折られていた。対して神奈は自我を失っている状態でありながら、転がった彫刻刀を回収、投擲して荘平の退路を断ちつつ、更に回収と重ねて距離を詰めるという徹底した頭脳戦を展開する。その立ち振る舞いはまるで知能を有した野生の猛獣だ。


 二度三度と必死に死線を掻い潜る荘平だったが、力闘むなしく呑まれてしまい、ついには入口と反対側の隅へと追いやられてしまった。


「逃げろ荘平!」


 さっきまで指令用に依美が使用していた通信機目掛けて来人が叫ぶ。その声は確かに届いているはずなのだが、現状の荘平に聞き取る余裕がないのか、どれだけ叫ぼうとも隅で尻餅をついたまま一向に動こうとしない。


「くそッ!」


 これ以上は間接的になど見ていられなかった。すぐに部室を飛び出して隣の部屋に向かう。その極僅かな時間、来人は頭の中でどうやって今の神奈を鎮静化させるかを必死に考える。正攻法は存在しない。状況に即した臨機応変な解答が必要だった。


 ものの数秒もかからず入口の前に到着した来人は、勢いそのままにその扉を力一杯打ち開いた。


「そこでストップだッ!!」


 振り下ろされていた神奈の右腕、その手に力強く握られた彫刻刀の切っ先が荘平の眼球を貫かんとする(すんで)の所で、それは静止した。


「クル君……?」


 ゆっくり振り返った神奈が、その濁った瞳に来人を捉える。だがそれは淡く一瞬のみ。すぐに神奈は荘平へ向き直ると、握った彫刻刀の狙いを左胸にシフトした。


「待っててクル君…………今ストップさせるから」


「何をだ!? 違う違う違う!! 止めるのはお前の右手!」


 越えてはならない一線を越えようとする神奈の腕を即座に間合いを詰めた来人が掴み、今度は強制的に静止させた。しかしそれで大人しくなる神奈じゃない。なお掴まれた右腕を振り払おうと抵抗する。


「離してクル君! クル君はこの後だよっ!!」


「さり気なく何言ってんだ! それを聞いて離せる奴がいるか!」


 細身の体のどこにこれほどの力があるのか、神奈は我武者羅に暴れて制止を振り解こうとする。制止された右腕に加えて左腕も降り回すので、来人はやむを得ずその両脇に腕を通し、羽交い絞めの要領で拘束した。


「離して! 離してよ、クル君ッ!!」


 どれだけ動きを封じようとも、神奈の昂った感情までは抑え切れない。


「この人は私とクル君を引き離そうとしたんだッ! 私はクル君とずっとずっと一緒がいいのに! 二人一緒にいたいのに!!」


 大好きな物と離れ離れになる悲しみは誰だって抱く感情だ。だから神奈は確信してしまった。荘平こそが自分と来人を悲しませる障害、つまり邪魔者なのだと。そこから先の行動がどうであれ、それ自体は人間として自然な情動と言っていい。


 悲痛な叫びを上げた神奈の姿に、来人は一瞬幼いころの自分を見た気がした。


 しかしこれは所詮一人の少女が思いつきで実行した出来の悪い芝居にすぎない。そろそろ神奈の思い違いを指摘してやる必要があるのだが、当然神奈の病気を治療するためだなどとは口が裂けても言えない。つまり誤魔化す形で事を丸く収めなければならないわけで、短い時間で来人が思いついたその方法はひどく陳腐なもの一つだけだった。


「違うんだ。これは、単なる劇の稽古なんだよ」


「……劇?」


「ああ、劇だ。そこの荘平は演劇部に入っててな、来月の文化祭で劇の主役をすることになったんだ。その劇が恋愛劇で、経験がないって荘平が相談してきたから今回の一幕を計画したんだよ。いい練習になるだろうからって」


 動きを止めた神奈が、訳が分からないといった表情で来人を見つめていた。これが来人の苦肉の策『端から芝居だったんだから芝居の練習と言い切った方が説得力あるんじゃね?』である。依美に引けを取らない思慮の浅さなのは自覚の上だが、それしか思いつかなかったのだから押し切る他ない。


 程よく錯乱状態が解けてきたようなので、それに合わせてゆっくりと拘束を解く。まだ心もとないバランスだったが、自分で足で立った神奈が不安気に来人の方へ向き直った。


「本当なの?」


「ああ」


「全部?」


「ああ」


「じゃあ……どうして私には話してくれなかったの?」


「うっ……」


 流石は病んでも優等生、突かれたくないポイントを的確に突いてくる。頭の回転が速いというのはこういった際に極めて脅威だ。


「それは、だな…………そっちの方がよりリアルな練習ができて経験になると思ったからだ。練習と分かっているのとそうでないのじゃ、雰囲気も全く変わってくるだろ? な? そうだよな? 荘平」


「は、はいっす! 雲泥の差っす!」


 よくもまあこれだけ口から出まかせをペラペラ並べられるものだと自分ながらに呆れつつ、来人は隅で縮こまったままの荘平に『頷け』と視線経由で促した。来人一人の証言よりも、本人の証言の方が信憑性が高いと踏んだからだ。


 その肯定が功を奏したのか、まだ完全には納得し切れないといった感じだが、なんとか神奈は引き下がった。と思いきや、すぐ少女の瞳に影が差した。


「でも、それでも、この人はクル君のことを馬鹿にした……」


「だからそれは演技――」


「演技だったとしてもだよ!」


 神奈の発する叫びの一つ一つが椅子や机や壁に伝播するように広がっていき、まるで部屋全体を揺すぶるように響き渡る。せっかく戻りかけていた感情の針が再び危険ゾーンへと傾いていく。


「なら、お前は荘平をどうしたいんだよ」


「……イレイス」


「荘平は文字か何かか!?」


 ダメだった。事態は誤魔化せるけど誤魔化し切れない絶妙な崖っぷちに至っていた。こうなるともう話の辻褄(つじつま)など問題ではなく、神奈の心が納得するかしないかだ。ある意味で一番恐れていた状況である。


 事ここまで及んでしまったなら、来人が提示できる交渉材料は結局自分の身一つだけなのだ。


「……分かったよ。それじゃあ今回の練習に付き合ってくれたお礼として、俺ができる範囲でお前の頼みを一つ聞いてやる。それならこの件を水に流してくれるか?」


「え……?」


 虚ろな瞳に来光が差し、神奈は口を半開きにして固まってしまう。反対に来人はつい数日前の朝、今と似通った修羅場があったことを想起して遠い目をした。何事もギブ・アンド・テイク。利与えずして利なし。身を削らずして日の目は見れないことを、来人は悟った。


「けどあくまで俺ができる範囲って条件だぞ? そこを絶対忘れるなよ? 永眠させて永久の愛とか、腐らないように冷凍保存とか――」


「じゃあ今週の土曜日にデートしようよ!!」


「週末デートとかはろんが…………は? デート?」


 目を丸くし、口はポカンと開け広げ、耳を疑い訊き返している来人がそこにいた。


 屋外のグラウンドは闇を打ち消す照明塔の光に照らし出され、野球部のノックと守備練習が淡々と続く。リズムよく奏でられる金属バットの打球音が日常を醸しているように思われて、自分が今いる直方体の空間が日常から切り出された非日常の一角であるような錯覚に見舞われて、直立不動で茫然自失、来人は二本の足で立つただのオブジェと化していた。そうならざるを得ない超然とした一撃が叩き込まれてしまった。


 来人にとって神奈とは、平凡な毎日にアブノーマルを、それも生殺与奪に関わるとびきり危険な一物を引き込む恐怖の源泉である。真を明かせば諸悪の根源とさえ言っていい。だからこそ対処にもがき、同時にシビアな環境下で降りかかる災いを回避したり、また耐え忍んだりする屈強な精神が育った。だが希望が叶わぬままに生活を送ることを余儀なくされ、最近になってようやく依美という頼み綱をなんとか掴んだ。


 その神奈が今まさに『デートをしよう』と至極真っ当なことを言ってきているのだ。そりゃあ思考回路はオーバーヒートするし、今すぐ窓から飛び降りて夢よ覚めろと叫びたい衝動にも駆られる。天気予報で『明日の天気は晴れ時々曇り。所により日本が沈没するでしょう』なんて予報がされるくらいありえないことだし、そんな意味不明な例え話で現状を分析しようと試みるくらいには異常事態である。


「で、デートって、突然どうして……?」


「だってまだしたことないでしょ? だからその、えっと……そろそろ私たちもそういう段階なのかなって」


「……いや、そろそろも何も俺たちまだ付き合ってもないぞ?」


「やっぱり恋人同士はデートをするものだと思うよ!」


「あ、やっぱり聞かないのな……」


 来人のぼやきは目を輝かせる神奈の前では道端の石ころ同然だったらしい。状態的には闇神奈『喜』バージョンといったところで、狂気は影を潜めたが人の話を聞かない点では変わりない。ついでに脳内補完も絶賛進行中だ。


 だが予想外だったのは、神奈が来人の(まなこ)を優しく見つめていたことである。今まで接してきた万物を吸い込まんばかりの暗闇の瞳ではなく、触れるもの全てを愛しく抱擁するような温かな瞳。非力な外光に照らされた頬は僅かに紅潮しており、下に弧を描く口元が感情を吐露する。妖艶な大人しさ、無邪気な子供らしさ、どっちつかずの美しさがそこにはあった。


 自分の方へ歩み寄るその一歩で、来人は自らの鼓動が突如として高鳴るのを感じた。そもそもの話、来人は神奈が嫌いなわけではない。むしろ好きなのだ。現在その好意は押し殺す羽目になっているが、そんな少女に、こんな態度で、加えて真っ当な文句で迫られれば、動悸が乱れてもなんらおかしなことはない。単刀直入、米谷来人は未だかつてない神奈のデレに、照れていた。


「あ……っと、だな……えっと…………」


 しかし、だ。来人が心に思い浮かべられる神奈の素行は決して心穏やかなものの類じゃないのも事実。頼み事自体がまともであれ、内容がそれに伴うかは判然としない。安請け合いして人生に蓋をする結末が訪れないとも限らない。


 苦渋の選択に苦悶する。視界を閉じて何十パターンという脳内シミュレーションを繰り広げ、来人が気づいた時には、パチクリする円らな瞳が至近距離で来人を見上げていた。


「……ダメ?」


「……」


 死んだ。いろいろな意味で。


 ギャグコメディーなら百パーセント吐血してぶっ倒れていたに違いない。そう確信させるほどの破壊力だった。ツンとデレであるとか、ヤンとデレであるとか、そういうギャップ論で説くにはあまりに二要素の乖離が激しすぎた。


 受け切り相殺するには、来人のレベルはあまりに低すぎた。


「いいんじゃ……ないれしょうか…………」


「ほんとに!? 約束だよ!?」


 これ以上は限界だと手で顔を覆う来人の前では、神奈が歓喜の声を上げながら(はしゃ)ぎ回っている。もはや四隅の精となった荘平は擦り切れた精神と肉体の徒労で二人の会話こそまともに聞けていないようだったが、自分が助かったことだけは分かったのか、一人静かに安堵の息をこぼす。


 太陽は完全に地平線に沈んだ。教室も内装が碌に見えないほど真っ暗だ。そしてこの部屋の床を、壁を、天井を、一緒くたに染める色、それはおそらく黒じゃない。強いて述べるなら、色でなくても許されるなら、それはきっと闇色とでも表現するのが妥当なのだろう。門の中で響く音。部屋の中で響く足音。それがなんとなく正しいように思われる。


 こうしてとある少女が仕組んだ、とある微妙な茶番劇は、誰もが予想しない形でその幕を下ろしたのだった。

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