クロウ・スマイル
「では連絡事項も一通り伝え終わったところで、今日は解散とする。みんな気をつけて帰るように」
担任教師が名簿を手に教壇を下りる。今朝の一悶着から時は経過し、疲労困憊で挑んだ授業を無事乗り越えた末、今ちょうど帰りのSHが終わった。
授業中に何度かうとうとして危うく眠りかけた来人だが、いざ放課後に突入してからの行動は鋭敏である。担任が教卓の前で体を捻った瞬間にはもうバッグを握って立ち上がり、踵を返してドアへ向かうと、まるで自動ドアのような無駄のない流れで外へ飛び出す。その過程で、空席となっていた自分の後ろの席が来人の目にとまっていた。
伊月は現在、保健室のベッドの上でうなされ中だ。朝の一件で心に深い傷を負った伊月は、魂の抜け殻よろしくへなへなとした乾物状態へと身を落とした。それが保健室行きの直接的な原因ではないのだが、そんな不安定極まりない状態で迎えた四限目の体育、準備運動の跳び箱で八段に向かってダッシュした伊月は、案の定、そのままもろに体当たりを喰らわして即退場となった。絵的にシュールすぎたのはともかく、それ以後、伊月がボディーアプローチを仕掛けた跳び箱がクラスメイトの間で『八歳のとびば娘』などと称された時には、さしもの来人も申し訳なさに苛まれたものだ。
まあそれはそれとして、来人が焦って教室を出たのには相応の理由がある。今から例の部を訪ねるべく、神奈を撒かなければならないという理由が。犬と男を恋敵として消そうとする奇特な少女に、今から先輩の女性に会いに行くとか正面切って言うとしよう。まず間違いなく正面切って斬られる。はさみとか彫刻刀とかで、『文房具って殺傷力高いよね』なんてうふふと笑いながら、ザックリいかれる。彫刻刀は文房具じゃないけれど。
「クル君、一緒に帰ろ」
だというのに、速攻で死神が行く手を阻んだ。自然体ながらに無意識の邪気を侍らせそびえ立つ壁を前に、歩を止めた来人の頬を冷や汗が伝う。
「……帰る? 黄泉へか?」
「よみ? 何言ってるの? 私たちが一緒に帰るのはクル君のお家。二人の愛の巣。そうでしょ? ……あなた」
うっとりと恍惚の表情を浮かべて、なんかいきなりとんでもないことを口走り出した。勝手にツガイ認定まで諾していやがる。
だが、まともに受けるは凶。生徒の往来が激しい廊下で口論となると実害がでかい。短く言い包めて早々に別れるが吉だ。
「分かってる、ちょっと冗談を言ってみただけだ」
まずは適度に受け流す。呼称を全力で否定してやりたい所だが、口出しなんぞすれば神奈のことだ、『じゃあ……パパ』とか切り返してくるに決まってる。そんなもん誰かに聞かれた日には退学だってあり得る。
そして次は、さり気なく別行動を。
「けど、俺、今日はちょっと寄りた――」
「浮気?」
「まだ最後まで言ってないよな!?」
思っていたより数段決めつけが早い。
「ドラマでよくやってるよ!? 新婚夫婦の旦那さんがフェロモンたっぷりな同僚の女の人と、奥さんに隠れて……その、裏でこっそり……」
「そんな昼ドラのワンシーンは健全な高校生とは無縁だ!」
「でも、もしそんなことになったら…………私クル君を刺す以外ないよっ!!」
「なんでだよ!? 刺しようあるならやりようあるだろ!」
それこそ爛れた恋愛に端を発する殺人劇以外の何物でもない。昼ドラサスペンスである。
これだからと来人は頭を押さえた。寄り道しようものなら、神奈が勘繰ってくるのは火を見るよりも明らかだったからだ。どこぞのギャルゲー主人公さながら行く先々で、例えば図書室なら博識で大人しい眼鏡図書委員と、屋上なら陽気に誘われたメルヘン少女と、来人が親しくなるかもしれないと根拠なく疑っているのだ。
「お前がなんと言おうと、今日は外せない用があるんだよ。心配ないから、一人で先に帰っててくれ」
「な、なら、私が外すよ!?」
「いや、そういう問題じゃ――」
「クル君の肩を!」
「脱臼!?」
本気だ、本気の力づくで止める気だ。神奈の瞳が端から少しずつ黒味を帯びていき、潜んだ邪気が表に顔を出し始める。
「おーい、水橋、まだ残ってるかー?」
その時、救いの声がかけられた。
「三柴先生? 何か用ですか?」
「おお、いたか。実は来月の文化祭の件でまとめなきゃならん書類があってな。日直のお前に手伝ってもらおうと思ったんだが、この後時間あるか? 急な話だから無理にとは言わんが」
本日二度目の救いの神もとい担任三柴の降臨である。まあ神といっても無精髭に黒縁メガネの単なるおっさんなのだけれど。
「え、えっと、その、私……」
「ん? どうした? やはり今日はまずかったか?」
「いえ、そうじゃないんですけど……」
しどろもどろな対応を見せる神奈。幸福感と責任感が凌ぎ合ってるのだろうが、なんにせよ、来人としてはこの好機、絶対に逃せない。
来人はそっと神奈の背を押した。
「行ってこいよ。行って先生を手伝ってやれ」
「で、でも、クル君……」
「いいか神奈、よく聞くんだ」
手を肩へポンと置く。
「訳もなく他人を切り捨てるのは、人でなしのすることだ」
神奈である。
「困っている人は身を挺してでも助けるのが人情だと俺は思う」
伊月である。
「お前が誰かを助けたら、喜ぶのは助けられた人だけじゃない。巡り巡って他の誰かだってきっと喜ぶよ」
来人である。
「だから、手伝いに行ってこい」
「クル君…………うん、分かったよ! 私、これから三柴先生を手伝ってくるね」
「ああ」
若干涙ぐんだ神奈を他所に、来人の親指が密かに立った。そんな二人の様子をまじまじ見つめながら、三柴はニヤニヤと笑っている。
「米谷、お前随分と言うようになったじゃないか。教師冥利に尽きるぞ」
「え、ええ、まあ……」
これが数多の修羅場を掻いくぐった末の口八丁手八丁とは流石に言えまい。こちらは愛想笑いで誤魔化した。
何はともあれ、これで神奈の方は問題ないだろう。そう確信した来人が三柴と神奈の横を抜ける。しかし、その後ろ姿を黙って見送ってくれるほど、神奈は甘くなかったらしい。
「クル君、ちょっといいかな……」
来人の袖を掴んで引き止めた神奈が小さな声で呟く。
「……な、なんだ?」
「ほんとに……本当にダメだよ?」
消え入りそうな言葉の指す意味が掴めない。だが、時間を惜しく思った来人は、言葉の真意を闇に沈めたまま神奈の手を軽く振り払う。手を宙に伸ばした神奈が一瞬だけ唇を噛んだようにも見えたが、それも気にはとめなかった。
「分かった」
曖昧な返事一つだけを残し、来人は部室が集まる離れの西棟に向かって走り出したのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
屋外との出入りが激しい運動部の部室は主に一階、それ以外が余った一階の部屋と二階。部が多いこの学校では部室専用の西棟が設けられ、割り振りはこのようになっている。中央の吹き抜けをぐるりと囲むような構造をした三階建ての棟で、天窓の採用により日の光が各フロア万遍なく行き届く仕様になっているのが特徴だ。
三階の部屋は基本的に物置か非常時の作業スペースになっていて普段は人気が少ないのだが、来人は今正しくその三階に来ていた。
――にしても、どうして三階なんかに部室があるんだ?
伊月から部室の場所を聞き出した時も不思議に感じていた。通常、文化系の部室は二階ないし一階にある。三階の部屋を貸りるのも可能と言えば可能なのだが、誰もわざわざ移動の便が悪い三階を選んだりはしないのだ。そのおかげでやはり三階の廊下は明るい割には閑散としている。吹き抜けによって下から届く生徒の話し声が唯一の救いといったところか。
なんの意味もない考察を繰り広げる内、来人は目的の部屋の前に到着した。中心から外れた隅の部屋である。
「……ここか」
ノックしようと掲げた腕が、自然と停止した。そのままの姿勢でしばし固まってしまう。
なんと説明したものか、とにかく躊躇いが半端じゃない。開けたが最後、神奈の病気で手一杯な両手に、更に厄介な何かを抱え込まなくてはならなくなりそうな、そんな不安と怖気が背筋を駆ける。本能が警笛を鳴らす。
詰まった息を静かに吐く。確かに不安要素は大きいが、かと言って無策のまま帰宅するのも考えものだ。ここまで来たのだからと意を決し、来人はドアをノックした。
返事がないまま数秒。もう一度ノックするも結果は同じ。
「いないのか?」
試しにドアに手を掛けるが、しかし鍵は開いていた。扉がレール上を滑らかに沿い、部屋の全貌が明らかになる。来人は思わずその光景に目を奪われた。床一面を覆う淡緑色の絨毯、その上に設置された高級感のあるソファーや平机、奥には校長室で見かけるような豪華な長机と回転椅子まで兼備されていたからだ。いち文化部の設備として常軌を逸している。
「これが、部室……?」
一歩踏み入れて室内を見渡してから、部屋の入り口で呆然と立ち尽くす来人。その視線の先で、背凭れを向けて静止していた回転椅子が軋んだ音と共に回り出す。来人の瞳には、膝を組んで椅子に座っている一人の少女の姿が映った。黒に近いブラウンのストレートヘアと青味がかった鋭い瞳。醸し出される高圧的な雰囲気は、和の撫子というより洋の騎士を思わせる。直観だが、来人はすぐにこの女子生徒こそが伊月の語った烏野依美その人であると分かった。
来人の視線と少女の視線が交差する。そして、少女が徐に口を開いた。
「帰れ」
「……はい?」
格調高い声が波となって耳へ届くも、意味が分からず来人はぽかんと呆けてしまう。
「聞こえなかったかしら? 帰れと言ったのよ」
「は、はあ……」
話半分に理解し、回れ右してから廊下へ出て後ろ手にドアを閉める。そして即座に体を反転させつつ全力でドアを開いた。
「いやちょっと待て! 俺は――」
「敬語!」
少女の言葉がぴしゃりと来人の言葉を遮った。これまたよく分からないが、おそらく目上の人間には敬意を払え的なそれだろう。堂々巡りになる前に素直に従った方が良さそうだ。
「ちょっと待ってくださいよ。あなたが烏野先輩ですよね? 俺は今日、この部に……あなたに依頼があって来たんです」
「それはなに? 依頼者依頼者詐欺?」
「違う。そんなピンポイント詐欺は存在しない」
「……敬語は?」
「ぐっ……。違います。正真正銘の依頼者です……」
面倒くさい。既にしてもうとてつもなく面倒くさい。出会って数分で分かる面倒くささだ。まともじゃないのは覚悟していたが、これは話を聞いてもらうことすら骨が折れそうである。なにより、目の前の少女は気怠そうに社長座りをかまして、来人にひとかけらの興味さえ持っていない。
「それでその……あなたが烏野先輩で間違いないんですよね?」
「ええ」
「学生支援部『黒羽談合会』の部長」
「ええ」
「なら、俺の依頼を引き受けてくれますよね?」
「帰れ」
「…………」
おかしい。話の流れが読めない。
「帰れって、どうしてですか?」
しかしだ。最後の賭けのつもりで掴んだ綱を、来人とて簡単に手放したりなどできない。なんとか食い下がろうと言葉を紡ぐ。そんな来人の様子を観察しながら、依美は腕を組んでため息を吐いた。
「……めんどくさい男ね」
「あんたにだけは言われたくない!」
「敬語が行方不明」
「あなたにだけは言われたくありません!」
なんだか相手のペースに乗せられて会話が漫才じみてきた。なので話が脱輪する前に、軌道修正をかける。
「質問に答えてください」
真剣姿勢で声に力を籠め、答えるまでは頑として帰らないという意気込みを表す。しばらくは沈黙を守る依美だが、何かを悟って諦めたように、再びため息をこぼした。
「どうということのない答えよ。お前の依頼を引き受けるつもりがないからお引き取り願おうっていう、それだけの理由」
「引き受けない? この部が学生支援部なら、困っている生徒の相談に乗るのが部の方針じゃないんですか?」
「まあ、そんなふうに張り切っていた時代もなかったわけじゃないのだけれどね。今じゃサラッと解決できる楽な依頼でノルマを埋めて、惰眠をむさぼる廃れた部よ。さくらを噛ませて建前だけ見繕えば体裁は保てるから」
「詐欺だろ、それ!」
「戦略的慈善事業と言いなさい。このご時世、献身的な心意気だけじゃ誰も救えないのよ」
「なっ!?」
身も蓋もない。
「それならやっぱり、俺の相談ごとは無視ですか?」
「内容如何によっては考え直さないでもないけれど。例えば黒板消しパンパンしてくださいとか、短くなったチョーク入れ替えてくださいとか」
「微善すぎる……」
これは本当に選択を誤ったかもしれない。得体の知れない謎の部活は、蓋を開けてみれば行く先を失った難破船。どこを信頼すればいいのか、といより信頼できる箇所なんてあるのか、来人には皆目見当がつかない。
けれど、ただの道楽部長を伊月が推すだろうか。推したということは、少なくとも他の知り合いよりは頼りがいがあると伊月が判断したということだ。それにもう、何度も何度も迷いながらに決断してきた。自分に残された可能性を。それを自覚してしまえば、来人にできることはただ、頭を下げて頼みこむことだけだった。
「それでも……お願いします。俺を……神奈を、助けてください」
「お前、話を聞いていたの? だから私は――」
「お願いします」
必死に懇願する来人には、有無を言わせない凄味が宿っていた。その様を真正面から堂々と見せつけられた依美は口を噤む。
しんと静まり返る部屋。薄氷を踏むような緊迫感、冷たく張り詰めた空気が二人の間を満たしていく。高々数十秒のその間が、来人にとっては重苦しい悠久の時に感じられる。そして、静寂は依美によって破られた。
「分かったわ……」
やれやれといった体で依美は目を伏せた。
「引き受けてもらえるんですか!?」
「いえ、まだ受けるとまでは言っていないでしょ。飛躍しすぎよ」
机の前まで迫った来人を細めた目で牽制しつつ、机の引き出しを開けて一枚の紙を机上に取り出す。
「まずこれを受け取りなさい」
「えっと……これは? 依頼書か何かですか?」
渡されたのはA4の白紙。裏返すと、その一番上に味のある明朝体で黒くでかでかと印刷された文字は――『案件解決書』。
「何一つ解決してねぇ!!」
叫ぶと同時に紙を叩きつけた。
「悩みというのは、誰かに相談する前にはもう自分の中で答えが見つかってるものなのよ?」
「飄々と己が部の存在を否定する哲学論を述べんな!」
「なんて、冗談よ」
「冗談に聞こえねーよ……」
次に依美はシャーペンを来人へトスした。
「裏にお前の名前と学年、組を書きなさい。それと……最後に私の質問に対するYesかNoの返答も」
「質問?」
「そう。問の内容は、『人は無力である。Yesか、Noか』」
人が無力か否か。ほとんど禅問答だ。
「それはどういう……」
「いいから、ちゃっちゃと書きなさい」
来人が質問の意図を尋ねようとするも、依美はそれを一切意に介さず、急き立てるように要求する。名前やクラスを訊くことは立場上必然だと得心がいくが、問答の方はまるで意味不明だ。だからといって書かないわけにもいかず、もやもやとした心の内ながらに来人は自分なりの結論を紙に記入した。
「それじゃあ話してみなさいな、あなたの相談ごとというのを」
依美は微笑んでいた。頬杖をつきながら、童話に登場する魔女のように妖しく、艶やかに。鈍く煌めく青色の瞳が一際異彩な霊気を放つ。幻惑されたように見惚けるが、ギュッと目を閉じて邪念を消し去り、来人もペンを置いた。
「俺の家の真向いに、同じクラスの水橋神奈って奴がいて、悩みっていうのはそいつのことです」
「幼馴染……。だけど、別に惚れた腫れたの戯言ではないのでしょう?」
「まあ。普段の神奈はどこにでもいる普通の高校生なんですけど、俺に対しては、なんというかその、愛情表現過多というか、いきすぎて狂気的というか、とにかく病気持ちな奴でして……」
「つまり、その水橋という女生徒がヤンデレていると、お前はそう言いたいわけね?」
「……一口にまとめるなら、そんな感じです。にしても、ヤンデレなんて言葉知ってるんですね。結構意外でした」
「舐められたものね、その程度は習熟済みよ」
小馬鹿にされたとでも思ったか、依美はふふんと胸を張る。
「私だって恋愛シミュゲーくらい嗜むのだから」
「そっちのが意外だよ……」
教典が著しく不安だが、まあ話が早いことはなによりであるし、ここは下手に藪をつついて蛇を呼ぶよりスルーを決め込んだ方が得策だろう。
「それで、以前はそれほどでもなかった症状が最近は目に余るようになってきまして、今日なんて俺の親をわざわざ騙してアメリカに飛ばした上で泊まるとか言い出す始末。流石にそろそろ……身の危険が……」
「それで『助けてください』に繋がる、と。病院は? 精神が病んでいるなら、例えば精神科病院の診察は受けたのかしら?」
「神奈の両親と俺で連れてったんですけど…………閉め出し喰らって二度と来るなと怒鳴られました……」
嫌な思い出が来人の中でふつふつと湧き上がり、教室の雰囲気も、天井から影でも降ったかと思えるくらい薄暗く濁る。
「…………お前は医者がどうにもできない人間相手に、一般人の私に何を望むというの……?」
「すみません、返す言葉ないです……」
厭きれられた。厭き厭きされた。至極当然のことではあるが。これが常人の反応なのであって、ここで自信満々に『俺にまかせろ』とか吐ける奴は、分析力と思考力に乏しいただの馬鹿だ。
ふうと詰まった息を吐き出す依美の眉間にはしわが寄っており、反応は決して芳しくないだろう。立ち上がった依美は茜色に染まり始めた空をバックに、窓の桟へ体重を預けて寄りかかった。
「要するにライトノベル風のタイトルでまとめるなら、『俺の幼馴染が病みすぎてヤバいから誰かなんとかしてください』ってところかしら。……駄作臭しかしないゴミクズね」
「勝手にまとめたくせに俺を見ながら罵倒せんでください」
それに今は、そんなことに対して一々つっこむ余裕がない来人である。
「で、神奈の病気をなんとかして欲しいっていう俺の依頼、引き受けるのか跳ね除けるのか、教えてくださいよ」
焦りからか、つい力んだ両手を机に打ち付けてしまう来人。そんな来人へ向けられたのは諾否の言葉などではなく、依美が差し伸べた右手だった。
「紙を渡しなさい」
「紙?」
「さっき書かせた紙よ」
そういえば、と、来人は話している間中ずっと紙を握っていたことに気づき、それを依美の右手へ。しかし、このタイミングで自分のプロフィールなんぞがどう関係してくるのか、まったく想像もできない。
依美は記された文字を上から流すようにして目で追い、そして一番下まで来たであろう所で、その目を見開いた。それは瞬く間の動きですぐにさっきと何も変わらない佇まいに戻ったが、確かに依美が驚いたような仕草をしたのを、来人は見逃さなかった。
「いいわ。あなたの依頼、この黒羽談合会が引き受けましょう」
「ほ、本当ですか!?」
予想だにしない返答だ。来人自身、断れるのが当たり前だと諦め、覚悟していた。
「その代わりある条件を呑んでもらうけれど」
「条件? ……金はないですよ?」
「違うわよ! 人を守銭奴扱いするのはやめて頂戴。そうではなくて、依頼を受ける代わりにお前がこの部の臨時部員となって、私の助手として活動を手伝いなさいということだわ」
「俺が、部の手伝い……。でもどうしてそれが条件に?」
「そうね……なんていうことない粗末な理由よ。お前のせいで増える手間はお前自身になんとかしてもらうっていう。働かざる者食うべからずとはよく言うでしょう」
「まあ確かに」
一応は筋の通った依美の交換条件。来人は部活に入っていないため、放課後には暇がある。参加は十分可能だ。神奈も帰宅部だから、問題は神奈にどう対処するのかと部長が女子であることだが、依頼を引き受けてさえもらえればそう悩む点でもないだろう。
「分かりました。その条件、呑みます」
「そう、それは良かった。なら、これで取り引き成立よ。具体的な案も含めて話をしたいから、今日は一旦帰って、明日またここに来なさい」
「了解です」
沈んでいく太陽の光は心細く、電気を灯していない部屋の中は薄暗い。そんな部屋の中で、夕焼けに照らし出された依美の姿が外から聞こえてくる烏の鳴き声と相まって、なんとも言えない寂寥感を漂わす。それを背に、来人はドアに手を掛けた。
「最後に一つ、訊いておいていいかしら」
「何をです?」
「お前は――どうして彼女の隣にいるの?」
胴を串刺しにされたような衝撃が来人を襲った。
「離れようと思えばどうとでも離れられるでしょう。警察沙汰にするなり、引越しするなり、危険だと感じているなら尚のことね。それなのにお前はあくまで水橋神奈の幼馴染であり続けようとしている。幼馴染のまま、彼女をなんとかしたいと思っている。それは何故?」
硬直してしまった来人を訝しみ、更に質問を浴びせる依美。対して、顔を顰めた来人は、歯を食い縛りながら押し寄せてくる嫌悪の波に耐えていた。この感覚を、来人は何度か味わっている。伊月に似たような質問をされた時も同じような不快感の塊に潰されそうになり、それからはずっと自分に嘘をつき続けてきた。来人のトラウマであり、そして、最大の過ち。
「……そうしないといけない訳があるからじゃダメですか?」
それが来人の言える精一杯だった。深層部には踏み出せず、話を濁して本当のことはおくびにも出せない。そんな自分が恨めしくて、情けなかった。急変した来人の態度に、これ以上は追求しても無意味だと悟ったのか、もういいわといった風に依美も肩を竦める。
「これからのことを考えて意向を知っておきたかったのだけれど、気分を害してしまったようね」
「いえ、頼んだのは俺ですから」
そこからはただ何事もなく、社交辞令として依美に一礼した来人は、部屋を出て赤く染まった廊下を抜け、神奈が待っているのだろうと憂鬱になりながら帰宅の途についたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
一人きりになった部屋の中、少女は窓に手を当て、地平線に埋没せんとする夕日を静かに眺めていた。窓に映し出された自分の顔。その口元は心なしか緩んで見える。こんな自分の顔を見たのは久々だと感心してしまうくらい、長らく忘れていた表情だ。
地上に視線を落とすと、南棟へ繋がる渡り廊下を通って遠ざかっていく一人の男子生徒の姿があった。手に持った紙も交えてその少年のことを思い出す。
「米谷来人」
心がざわつく。少年の出した答えが、乾いた絵の具に注した水のように、固まった心に新たな彩りをもたらす。
「お前は果たして、どんな可能性を見せてくれるのかしらね」
少女の手を離れた紙が、宙を滑り、ひらりと机上に舞い落ちた。