イントリケート・デートⅣ
「でも、さっきはちょっともったいないことしちゃったかな? ウエディング体験なんてそうそうできるものじゃないし」
「いや……危なかったと思うぞ、あれは」
ショッピングモール内を南に抜けた先にある、芝生の広がる自然エリア。そこに来人と神奈はやってきていた。
自然と言っても人間が手ずから造り上げた人工の公園。木陰に設置されたベンチや子供が遊べるちょっとした遊具はもちろんのこと、極小規模な小川や緑に彩りを加える種々の花々は、すべて人の手で一から用意されたものだ。
だが背景となっているモールと重ねて見れば、人工か自然かなど些細な違いに過ぎないと思える。あの巨大建造物と対比してしまうと、大抵の景観は相対的に自然物に見えてしまうのだ。
そしてそのギャップこそがこのエリアの売りなのだろうと、木陰のベンチに腰掛け自分の周囲に広がる景色を見渡しながら、来人は考えていた。
視界に映る人々は皆、傍らに買い物袋を携え、芝生に仰向けに寝転がったり花を観賞したり、あるいは川の水に手を浸してみたり、思い思いに自然を満喫している。きっと人混みに疲れ、開放感を求めてふらりと立ち寄った客が大半だ。
自然に触れてストレス発散。
リラクゼーションエリアとしての需要は自分が思う以上にあるのかもしれない。遊具で楽しそうにはしゃぐ子供たちの姿が目に入り、来人の口元は自然と綻ぶ。
しかしだ。やはりというのか、太陽は目立ちたがりのお調子者であり、雲に隠れるといった奥ゆかしさを未だ晒さない。日蔭に座っている分だけまだマシな方だが、正直な話、それなりに暑い。
子供たちのように元気いっぱい走り回れるだけの気力は到底沸いてこない。
ではどうしてわざわざお日様の下に出てきたのか。それはまあ一口に言って、神奈が昼食を外で食べようと提案したからに他ならなかった。
「はい、クル君」
「ん? ああ」
神奈が突き出した手のひら。その意図を即座に汲み、今はもう空となった弁当箱をほいと手渡す。
「結構美味かったよ」
「お粗末さまでした」
朝から入念に準備していたお弁当だっただけに思い入れも強かったらしい。味の評価を聞いた神奈はこそばゆそうに照れ笑いながら、渡された弁当箱と入れ代わりに冷茶を注いだ紙コップを差し出す。
飲み物まで用意している周到さに少し面食らいつつも、ありがたくコップを受け取る来人。そのまま口元へと運んで軽く一口流し込むと、喉を降下していく冷茶の冷たさが体中に広がった。
「しかし、暑いな。まだ五月だってのに」
「そうだね。やっぱり夏が近づいてる証拠なんじゃないかな?」
「その前に梅雨があるけどな。このままいったら熱気と湿気で茹で上がりそうだ。文化祭はどうなることやら」
口では心配そうにそう呟いてみるものの、実際来人は大して心配などしていなかった。そもそも心配する理由がない。文化祭に青春を掛けている連中ならまだしも、来人の中では単なる年中行事の一つという認識から外れなかった。
忙しい時間をやりくりして準備に励むクラスメイトに悪いので一応形式的に手伝うことはあるのだが、やはり熱中して輪の中に入っていけた例がない。
去年もそう。割り当てられた仕事を専門としてこなした程度。
振り返ってみると依美の言い分もなかなかどうして分からなくないから困ってしまう。精々の救いと言えば依美のような敵意までは抱いていない点だろうか。
「楽しくなるといいね、晴間祭」
「……。ああ、そうだな」
遠くを見据える神奈の言葉に、間を開けつつ来人は相槌を返した。
今年の文化祭がどうなるかなんて誰にも分からない。無論来人だってそうだ。神奈の言う様に楽しくなるかもしれないし、結局流れ作業になるかもしれない。すべては当日を迎え、すべて終わった後で総括される。
だが本当にそうなのかと、ふと疑問に思ってしまった。
もし予定調和が現実にあるのだとしたら、祭りなんてものは楽しめる人間だけが楽しめるものなのかもしれない。
気分をもやもや曇らせた人間は、顔で笑いはしても、裏では引っ掛かりを覚えてしまう。足に括られた鉄球をずるずると引き摺りながら、なんの憂慮も感じていない他人と歩調を合わせる時間。そんなものが楽しいか否かは議論するまでもない。
なら、自分は?
コップの中でゆらゆら揺れる自分の顔を見つめながら、来人は自問した。
神奈の問題に解決の糸口すら探し出せない自分は、果たして鬱屈していないと言えるのか。
こうしてゆったり流れる時間に身を委ねていても、不安を感じる瞬間がある。さっきも、そして今も、神奈とのデートを楽しむことがまるでいけないことのように、どこかで否定している自分がいる。
考えなければいいものを、つい考え及んでしまう。それもこれもすべて今日を楽しんでしまっているからだろう。
楽しく思えるからこそ拒否反応が勝手に出る。
お前にそんな資格はない。そう言って、快く思わない別の自分が後ろ指を指してくる。
晴間を見ない来人の心情を反映するかのように、頭上の空では長く連なった雲の塊が太陽を取り込まんと白の巨体を投げかける。端から喰われていく太陽はその光を徐々に弱め、地上に影を落とし、最後にはすっぽりと雲に呑まれてしまった。
「雲、出てきちゃったね……」
世界を影が覆ったせいか、空を見上げて目を細めた神奈の声音が、来人の耳には酷く悲しげに聞こえた。
「そろそろ戻るか」
「うん」
手早く片づけを済まして立ち上がる。そうして来人たちは再びモールの方向へ足を向けた。
目指す先はモール一階の一角にあるフリースペース。これもまた神奈の提案だった。
フリーと語頭がつくだけあって、そこでは一般人が商品となる品を持ち寄っての商いが行われているらしい。テナント料云々の制限が存在しないので出店は自由。個人レベルで企業と競える一風変わったフリーマーケットというわけだ。
おそらく買わせるだけでは不十分と判断した上層部の誰かが、売らせることによる集客力の増強を狙ったのだろう。その発想は柔軟と言えば柔軟だし、貪欲と言えばどこまでも貪欲である。
何しろ手にした売上がそのまま買い物の予算と化すのだ。合理的かつ凶悪。神奈から話を聞いた時には来人もつい感服してしまった。
まあそんな営業戦略は別にしても、買いたい何かが決まっているわけでもない自分たちにとって打ってつけの場所であることには変わりない。来人も二つ返事で神奈の案に乗ったのだった。
「どんな店があるんだろう。なんかちょっとワクワクしちゃうね」
「ま、ある意味では日替わりで商品が変わる店なわけだからな。こればっかりは行ってみてのお楽しみってやつか」
その有り様はおみくじに似ていた。流石に凶はないだろうが、意外な掘り出し物でもあればそれはきっと大吉だ。そうでなくても気に入る何かがあるかもしれないのだから、自然と足を運びたくなる人の気持ちはよく分かる。
隣の神奈も例に漏れず、期待で胸を膨らませながら弾むように歩いていく。
しばらく歩くと出てきた時に通ったゲートが見えてくる。そこさえ潜ればまた冷房の効いた屋内で涼めるだろうと、来人は楽観視していた。
が、再度入ったショッピングモールの中は、先にも増して人の軍勢でごった返していた。
「……なんか、人増えてないか?」
「う、うん。やっぱり午後の方がお客さんは来るのかな?」
「まあ普通はそうだよな……。けど、これは流石に」
開店直後より正午過ぎの方が客が来るのは自明の理。見落としていたのではなく、錯覚していただけだ。午前でさえ混雑していただけに、まさかそれ以上があるとは思いもよらなかった。それこそ、井の中の蛙人海を知らずと揶揄できる程に。
冷房もこう人が多いのでは大した効果がない。外がカリッとジューシーな暑さとするなら、中はジュワッと汗が噴き出る蒸し暑さ。不快度数はどっちもレッドライン。
人の流れは濁流を成し、飛び込む者を有無を言わさず運び去る。橋の一つ二つくらい欲しい所だ。なんなら今からでも構想を練って建設すべきでないのか。そっちの方が安全上よろしいように思えてならなかった。
げんなりする来人の隣で、神奈はよしと両手で小さくガッツポーズを作る。それでもって来人の顔をちらちらと窺い始めた。
急にどうしたのかと訝しむ来人だったが、そわそわしながら所在なさげに手を摩る神奈を見て、すぐその意味する所を把握する。
言葉に出さないのは雰囲気で察しろという試練か何かか。
どちらにしろ先手は打たれた。なら、後手には後手の意地がある。意地っ張りの子供のようにそっぽを向きながら、徐に手を差し出す。
差し出された手を最初は目をパチクリさせて確かめていた神奈も、顔に喜色を浮かべると、そこにゆっくり自分の手を重ねた。
「ありがと、クル君」
「いいから……行くぞ」
やたら火照る顔を隠すように来人は神奈の手を引き歩き出す。気恥ずかしさから目を逸らす傍らで、神奈の発した感謝の言葉が今度はすんなりと自分の中に納まったような、そんな気がしていた。
はぐれないよう手を繋ぎはしたものの、しかし、事はそう容易な話じゃない。
立ちはだかる人肉の壁はなかなかの強度だった。ましてやそれらが意識を持って動くのだから堪らない。上手く隙間を探して縫うように抜けるが、もう歩くというよりは掻い潜ると言った方が近い。
まるでバーゲンセールの渦中である。掻いても掻いても碌に前が見えず、注意は自然足元へ向かう。
少しでも気を抜こうものなら誰かの靴を踏み、また気を抜こうものなら踏み返される。そんなことの繰り返しだ。来人の背後では神奈も同じく四苦八苦していたが、来人が防御壁の役割をしている分、まだスペースには余裕がある。
「大丈夫? 代わる?」
来人が険しい表情をしていることに気づいたのだろう。後ろから神奈が心配そうに尋ねてくる。
「馬鹿言え。これくらいは俺に任せて、お前はまず自分の心配をしろ」
「でも……」
「お前の力じゃきつい。今は黙って付いてこい」
半ば突き放すように口にして、ちょっと待てよと考えが巡った。
裏神奈の状態の、あのリミッターを外した神奈ならばやってやれないことはないかもしれない。悲しいかな、身をもって体験している来人だからこそ、その恐ろしさと強さには不思議な信頼を寄せてしまう。
だが、どれだけ信頼しようが絵に描いた餅は食べられない。現実味が剥離しすぎて策にはなりえなかった。
大量の人々がいそいそと行き交う人混みなのに、彼らが放った熱気だけは循環もせずに周囲を蒸らし続ける。その惨状たるや、もうちょっとしたバイオテロ。それが言い過ぎだとしてもサウナ状態であることは間違いない。
すれ違う人という人が苦悶の表情で額に汗を浮かべている。本当に何のために来てんだよ、修行かよ、と引かずにはいられない地獄絵図だった。
これはもう商業施設なんかよりダイエット施設として売り出した方が有名になるのではないか。目に入った汗を拭き、益体もないことを想像しながら、それでも来人は歩き続けた。
人波に抗うこと数分。
ある程度建物の端の方まで来たおかげか、人の密度がぐっとと小さくなった。やはり中心地に比べたら外縁の方が空くのだろう。ドーナツ化現象が起きなくて何よりと、来人はようやくほっと息をつく。
目的のフリースペースも遠くに見える。ここまで来ればはぐれはしないと確信し、握っていた手を離す。
接触が解かれたことが余程残念だったのか、拗ねたような視線を飛ばす神奈。そして我関せずと逆方向に首を捻る来人。
先程まで重なっていた右の手のひらにはまだ、熱と一緒にじんわりと汗が滲んでいた。
「フリースペースってあの一角であってるよな?」
「うん、多分そうだと思うよ。あと少しだね。手を繋いでいこっか」
「いや、あんだけの暑苦しさに耐えてた俺を少しは気遣え。クールダウンを要求する」
「分かった。じゃあクールダウンで手を繋ごっか」
「……」
――聞き分けないなー、こいつ。
その点に関してはもう諦観しているので今さらだが、かと言ってはいそうですかで割り切るのも癪なので、来人は神奈を無視してすたすた先を行く。聞き分けのない子は置いってちゃうわよ、のおかんスタイルである。
何度か声を飛ばす神奈だったが、来人に聞く気がないと判断したのだろう。諦めてとてとてと来人の後に続いた。
来人は目を動かして斜め後ろの神奈の様子を探っていた。構いすぎてもダメだし、放りすぎてもダメ。その微妙なさじ加減を誤らないように注意する。
その時、視界の隅に怪しげな人影が見え、来人は足を止めた。
「どうしたの?」
急に立ち止まった来人に神奈が疑問を呈するが、しかし来人は答えない。それ以前に神奈の声は耳を通っていなかった。じっとある方向に視線を集中させていたせいで、その他の神経が一時的に遮断される。
その人影は遠くの柱の陰からずっと来人たちを観察するように眺めていた。だが来人の視線に気づくや否や、人混みに紛れるようにして反対方向へ歩いていく。ただの偶然、何もなかった、そう思い込ませようとするかのように。
「悪い、神奈…………ちょっと先に行っててくれないか?」
「え、クル君は?」
「俺はちょっとトイレに寄ってから行くよ。そんなに時間は掛からないだろうから、適当に見ててくれ」
「でも、それなら私も手前まで一緒に行くよ?」
来人の焦りが伝わったのか、神奈は心配そうな目つきで食い下がる。このままでは埒が明かない、そう危惧した来人は返事を半ばに駆け出した。
「大丈夫だ。なんかいいものないか、品定めしといてくれたら助かる」
神奈はまだ納得いかないといった表情で来人を眺めていたが、来人が軽く手を振ると、それ以上付いてくることはしなかった。
神奈には後で何か埋め合わせをしようと思いつつ、来人は一層その足を速める。
当然だが、行く先がトイレのはずはない。
確かめるのだ、足早に去ったあの人物が何を見ていたのかを。
もちろん来人たちのいる場所の何かを眺めていただけで、来人たち本人を見ていたわけではないのかもしれない。どのみち不確かな情報だ。それだけでわざわざ調べる程の価値があるかは疑わしい。
そう、だから来人が走るのはそれだけを根拠にしてのことではなかった。
遠くからでもひしひしと感じた謎のプレッシャー。奇怪なことに、その威圧感が来人には覚えのあるものだったのだ。そうなると追って確かめないわけにはいかなかった。
どこで感じたものかまでは正確に思い出せない。このショッピングモール内においてかもしれないし、あるいは今日以前かもしれない。そういう曖昧性も含めて来人の足はリノリウムの床を蹴っていた。
買い物客にぶつからないよう気を遣う分、思うように前に進めない。
だがそれは相手も同じこと。目立たず溶け込もうとする以上は、走ることはもちろん、些細な所作一つに至るまで動きが制限されてしまう。
来人の予想通り、数十メートル先の所で先程の人物はゆったりと歩いていた。やはり一般客の目を気にしているらしく、最初に見せてからは逃げる素振りをとっていない。見事な自然体で周囲に馴染んでいる。
来人にとってはまさしく好機。ここぞとばかりに距離を詰める。
一定の間合いを確保した後は、次のチャンスが来るまで待機すると共に目標を分析してみることにした。
肩口の開いた紺地のシャツに茶色がかった艶やかな髪がかかり、その髪の上にちょこんと乗っかっるダークグレーのキャスケット帽。ベージュ色のショートパンツからは黒タイツで包み込まれた細長い足がすっと伸びる。
まず確実なのは女性であること。ついで年齢だが、後ろ姿だけでも来人とそれ程違わないように見える。
そこまで一旦理解すると、奇妙な感覚が来人の胸に込み上げてきた。
――なんだこの既視感……。
と同時に、まだ熱の退かない体がぶるっと震えた。
行くな、戻れ、碌なことにならない。そんなことを延々身体が訴え続け、ひたすら来人の歩みを阻害する。それは無意識的な警戒信号だったが、来人自身も徐々に重くなる足に何か嫌な予感だけは薄らと感じ取っていた。
だからといって、すごすご引き下がれるわけはない。
せめて正体くらいは解き明かそうと来人は決めた。その時点でただの一般客と分かれば一安心。人違いということにして適当に謝り去ればよい。それだけで不安要素を潰せるのだから安いものだ。
結論は出た。後はタイミングを見計らうのみ。
意外にも、絶好のチャンスはすぐに訪れた。
先を行く少女が主要通路を脇に外れ、あまり人通りの少ない狭い通路に入っていく。すかさず来人はその背後まで一気に駆け寄り、少女の左腕を後ろからがっしり掴んでその足を止めさせた。
見た目通りの華奢な腕は力を入れれば折れてしまいそうだったが、構うことなく来人から強い口調で声をかける。
「おい、ちょっと待て。あんたさっ――」
だが、不発した。
続く言葉は出なかった。
呼吸すらできなくなった口がわなわなと震え、形容し難い感情の波がどっと押し寄せた。
危うく視界が暗転しかけるも、なんとか持ち堪える。
腕時計の針がカチリと振れたその一瞬に訪れた衝撃。
すーっと波が退いた次の瞬間には驚愕も一周して平静が返ってくる。動揺から辛くも脱した来人は、目の前の人物をキッと睨んで改めて問い直した。
「……何やってんですか…………先輩」
少女が優雅に振り返る。そして明らかに似合っていない悪趣味なサングラスをそっと取り外して、その奥にあった両の瞳で来人の顔を見返す。
「あら、奇遇ね、米谷」
跳ね回りそうな程に抑揚のついた声で答えた依美は、こんな場所でも部室と一切変わらない、あの魅惑の微笑を浮かべていた。