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病みまくった幼馴染  作者: 白烏
5月 16日 (土)
21/22

イントリケート・デートⅢ

「すいません、そこのお二方」


 よく通る女声の声に来人たちが呼び止められたのは、丁度そんな時だった。


 反射的に足を止め、神奈と共に振り返る。すぐ後ろにはレディーススーツ姿で微笑みかける女性が一人。毛先まで整った黒髪のショートボブに、けばけばしさのないナチュラルメイク。マスカラによってパッチリ開いた目は可愛い成分が色濃く、どことなく若作りしている感が否めない、推定年齢三十歳前後の女性。


「何か?」


 少し警戒心も織り交ぜながら来人が訊くと女性は若干慌てたようだったが、すぐにコホンと咳払いしてニッコリスマイルを再形成する。


 驚かしてすいませんね、と通じないのを承知で心の中で詫びる来人。隣にいる少女が警戒心、というか敵対心を戦闘民族並に放っていたため、そうせざるを得なかったのだ。相手が初対面の女性だと大抵いつもこうである。


「いきなり呼び止めてしまい申し訳ありません。私、そこの店舗に努めている三内と申します」


 女声は素性を明かすと共に丁寧にお辞儀する。それに伴い、相手がただの店員だと分かったためか、来人の隣で膨れ上がっていた黒い闘気もすっと消える。


 三内と名乗る女性がその手で示した先には小規模なテナントスペースがあった。大きさは他のテナントの二分の一から三分の一程度。側壁は全面ガラス張りで中が透けて見え、そのガラスの表面に『ブライダルコンサルティング専門 ハーピー』の赤文字が貼り付けられている。


「ブライダルコンサルティングって、確か結婚式とかの……。そんな店の店員さんが俺たちになんの用ですか?」


「はい、実はですね、我々の店は現在オープン記念と題しまして、こちらのようなキャンペーンを期間限定で実施中なのです」


 三内は来人たちの視線を巧みな手の動きで操り、店前に立っていたのぼり旗へと流れるように誘導した。


「それであなた方のようなカップルのお客様に声を掛けさせていただいているわけなんですよ」


「キャンペーン……」


 白地に浮き出る赤の文字列を視線でなぞる。


『オープン記念・期間限定!! ウエディング体験実施中!!』。


「よし神奈、とっとと行くぞ」


 百八十度体を回転させて踵を返そうとした来人だったが、二、三歩進んだ所で隣にいるべき少女の姿がないことに気づく。ハッとなって元来た方を見てみれば、神奈が三内に案内される形で今まさに店に入ろうとしていた。


「ちょっと待て!」


 全力でUターンを決めて神奈の腕を掴む。


「なんで当たり前のように入ろうとしてるんだよ!」


 声を荒げる来人。しかし神奈はいまいち要領を得ないようで、『何かあったの?』と言わんばかりの無垢さで小首を傾げる。小動物のようで可愛いには可愛い。が、可愛いは正義などという甘っちょろい法則、来人の中にありはしなかった。


 正義というのは胸の奥に秘めた信念と理念と情念によって形作られるものでなければならないのだ。だからそう、嫌だ怖い帰りたい、そんな臆病風に吹かれた来人が駄々をこねれば、それが正義だ。異論は認めない。


「とにかく行くぞ。早く付いてこい」


「えー、せっかくのチャンスなのにもったいないよぉ。期間限定なんだよ? 今しかできないんだよ?」


「いいんだよ、できなくて。いい年なんだから聞き分けなさい」


 もうなんだか途中から娘を躾けるお父さんみたいになっていた。我儘な娘を持つお父さん方は毎日こんな苦悩を抱えているというのか、なんと悲惨な、などと高校生のくせに同情心が湧きそうになる来人である。


 まあ世のお父さん事情はともかくとしてだ。ここらで一発男の威厳を見せつけて、神奈には引き下がってもらう他ない。さて言ってやるぞと、来人が肺に空気を溜め込む最中、神奈がぼそりと呟いた。


「時間がずれちゃったのは、クル君が服を見たくないって言ったからなのに……」


「ぐ……」


「それでクル君がいろんな所を見て回ろうって言ったのに……」


「ぐぶ……」


「いろんな所見ちゃ、ダメなんだね……」


「…………」


 空気が、肺の中からぷすぅと悲しげな音を立てて抜けた。


 レベルアップしたのは伊達じゃないということか、自制心と一緒にいつの間にやら妙な呪文まで覚えている神奈だった。敵一体の防御力をがくんと下げる補助系呪文。攻撃系より性質が悪い。


 HPゲージが急速に減少、点滅。色が白から黄へ変わったところで来人は限界に達した。


「分かった……聞くだけだ。話を聞くだけだったらギリギリ許すよ」


「ほんとに!? ありがと! クル君」


 許しを貰って感極まる神奈は勢い余って来人に抱き付こうとする。が、それを来人はすかさず肩に手を置いて制止させる。


「ストップ! むやみやたらに接触を図るな。さっきも言ったけど、少しは時と場所を考えて動け」


 まるで暴れ牛の角を掴んで止めているかのような絵面になっていた。とても人様に見せられたものではないが、運の悪いことにここにはその人様の目がある。とりわけさっきから傍にいる三内に関しては言い繕いの仕様がない。


 そうっと横目で三内の様子を探る。


 三内はしかし、全くと言っていい程動じていなかった。ドン引きしても無理はないこの状況で、さっきと同じニッコリスマイル、すなわち営業スマイルを一部も崩していない。商売人根性というやつか、将又職業柄、異性間のごたつきに慣れているのか、どちらにしろ微笑みの仮面には傷一つついていない。


 普通なら胸を撫で下ろして然るべき場面のはずだった。


 だが不思議なことに、三内の称賛に値するであろうその対応力を素直に称えることが、その時の来人にはどうしてもできなかった。


 こちらですと言って案内してくれる三内に導かれ、今度は来人も一緒になって店の敷居を跨ぐ。


 外から見えていただけに驚きも少ないが、やはりというか、床面積が小さいだけに非常に簡素な内装だった。あるのは仕切り板で三つの区画に区切られた白一色のカウンターテーブルとその前に並ぶ椅子、それと入口から入ってすぐ横に、待機所代わりとして置かれた丸テーブルとソファーが一つ。


 奥にはスタッフルームに通じている扉らしきものもあるが、このテナントの規模を考えると空間にゆとりがあるとはとても思えない。精々休憩スペース、よくて更衣室程度がやっとというところか。


「どうぞ、こちらの椅子に」


 促されるまま、来人たちは中央の区画前に用意された椅子を引いて腰を下ろした。


 三内は向かい側に回ると、手際よくグラスに注いだ麦茶を来人たちに差し出して、同じように椅子を引いて腰を据えた。


 ここまでされてしまえば詰みだ。気軽に出ていける雰囲気は既に遠い彼方。


 やっちまったと、自らの浅はかさを憎みながら、どうにか事態を挽回できないものかと思考を巡らす。


 確かに一旦約束を交わした以上は男に二言はない。ただし三言までないとは誰も言っていない。『てことは三言目でぶっちすればいいんじゃね?』なんて屁理屈を一瞬案じるも、流石に人としてダメ過ぎる。


 何か、何か突破口はないのかと、当てもなく来人は店内を見渡した。だがそう都合よく逃げ道が用意されているわけもなく途方に暮れる。後ろを向けば目と鼻の先に自動ドアがあるというのに、遠い。


 そんな折、ふとある疑問が沸いた。


「三内さん、ひょっとしてお一人でここに勤めてるんですか? さっきから他の従業員さんたちが一人も見当たらないんですけど」


 来人が思ったことをそのまま口に出すと、三内はバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。


「ええ、実はそうなんですよ。恥ずかしい話、この支店の設置に関しては本社の方でもいろいろとありまして、まだ人事が滞っている状態なんです。かくいう私も体制が整うまでの間一時的に駆り出されている身でして、この支店の正規社員というわけでございません」


「はあ、なるほど」


 少しディープな所まで首を突っ込みすぎたかもしれない。恐縮してつい控えめな相槌を返す来人。


 いろいろなどとぼかす辺り、それなりのことが本社側でもあったのだろう。本社が如何なる規模の会社かは知らないが、少なくともこの支店より小さいということはないはずだ。なら本社の社員にとってみれば、こんな狭苦しい支店に送られることは左遷以外の何物でもない。問題があるというならその辺りか。


 とはいえ、この店は良くも悪くも小さい。人一人でも回そうと思えば回せるだろうし、逆に人が増える程効率は落ちかねない。事情はどうあれ、本社が手を拱いている今こそがベストの勤務体制というのは随分な皮肉である。


「大変そうですね。辛くないんですか?」


 心配そうな顔をする神奈に尋ねられた三内は『ありがとうございます』と謝辞を述べてから、陰鬱さを吹き飛ばすような営業スマイルになって続けた。


「ですが私は、ブライダルコンサルティングという仕事に誇りをもっていますから、場所なんて関係ないんです。ただ誰かが幸せを叶える手助けができるなら、どんな僻地でも、それこそ地球の裏側だろうと構いません。私は私がしたいことをするだけです」


「うわぁ、凄いなあ。私尊敬します!」


「恐縮です」


 感銘を受けたらしい神奈は目を輝かせて絶賛し、絶賛を受けた当の三内は笑顔の中に少し恥じらいの色を滲ませていた。


 三内はそのまま奥に置かれたスチール製の書類ケースへ手を伸ばすと、中から数枚の資料を取り出し、それらを来人たちが見えるようにテーブルの上に広げる。


「聞くに堪えない私事ばかり語ってしまい申し訳ありませんでした。では早速、期間限定キャンペーン、ウエディング体験について説明させていただきますね」


 遂にこの瞬間が来た。とうとう核心部へと踏み込んできた三内に対して来人は身構える。一つ選択を誤るだけでも結果は大きく変わる、そんな局面。慎重に、それでいてスムーズに、更に可能ならばさり気なく、話を白紙に戻さなければならない。


 陽気で満ちた箱の中、来人だけが一人情勢を窺いながらごくりと唾を飲み込んだ。


 ウエディング体験、それ自体はさしたる問題でない。


 問題なのは、無論神奈である。


 前提として、お試し版の存在意義とはなんなのか。質の向上、口コミによる宣伝効果、もちろんそれもある。だがそれより何より、お試しがあるのだから当然あるだろう――本番が。


 お試し版を気に入った人間は、正規版にも興味を抱く可能性が極めて高い。すなわち商業者側にとっては直接的な利益を見込める購買者になり得るということであり、また自分たちの労力を割くに値する相手ということになる。


 そして金の匂いに恐ろしく敏感なものが他でもない人間、総じて企業というものだ。


 一角が露出した金山を見つけたのなら全身全霊で採掘に臨み、リターンとリスクを秤にかけ、最良の推計を以てしてつるはしを振るう。一概にそれが悪いとは言えない。彼らにも社会の中で生活を賭けている。しかし、やっていることは考えが狡猾なハイエナとほとんど同じだ。


 彼らは客の購買意欲パラメータを巧みに操る。


 操り、買わせる。


 ここまでを押さるべき前提であるとして、では一体どの辺りが神奈の問題と関連してくるのか。それは次の疑問を連想させれば察しが付く。


 ウエディング体験をした神奈が、少しでも挙式を勧められたらどうなるか。


 想像するだけでげに恐ろしい。


 婚姻適齢がどうだとか、挙式の有無だとか、そんなものはこの際どうだっていい。すべては神奈が乗り気になってしまうか否か、ストレートに言及するなら婚姻意欲パラメータがどう振れてくるかに懸かっているのだ。万が一いけない方向へ振り切れようものならもう取り返しがつかない。


 既成事実、内縁の妻、想像妊娠。


 頭を過るのは吐き気を催す災厄ばかり。


 人生に暗幕を垂らさないためにも絶対に避けて通らねばならない道。誰かが神奈を調子づかせるような真似は、たとえ悪意がなかったとしても、全力をもって邪魔しに掛からねばならない。


 だからこのキャンペーンだけは、そこに明かな営業利益を求めるこの企画だけは、是が非でも断る。それこそが来人の下した絶対唯一の結論だった。 


 だが同時に、来人の心は折れかけていた。


 既に敵のテリトリー下に置かれたこの状態から、果たして逆転劇など可能なのか。偉そうな決意を胸に掲げた来人自身が希望を失いつつあった。


 射程圏内、あるいはキルレンジとでも言うのか、商売ではその型に応じて客を落とせる距離というのが定まっている。例えば訪問販売なら家に入れば勝利、通信販売なら値引き、併せ売りの畳みかけで安いと思わせれば勝利、といった具合だ。


 今回の場合、つまり客引きから始まる商売の型で言うなら、店に入らせれば勝利。


 ともすれば、来人は入店してしまった時点で既に死んでいる。実際今から堂々と断りを入れるには辛いものがあるし、自分の仕事に生き甲斐を感じている三内相手では気が引けてしまってとても口に出せない。

 

 八方塞がり。


 体感では通常の数倍にまで膨れ上がった重力に耐えながら、沈み込みそうになる頭をなんとか維持して来人は三内の話に集中した。


「まずは場所についてですが、式場はこのショッピングモールを出てすぐの所にある教会になります。商業エリアと並行して新たに建築されたものなのですが、ご存知ありますでしょうか?」


「はい。案内板に載っていた教会ですよね」


 来人に代わって神奈が快活に答える。


「ええ、そうです。当社はこの度そちらの教会と専属契約を結びまして、このショッピングモール内に支社を構えることになったのもそういった経緯故ということになります」


 三内は時系列を正して説明していき、続けて資料を件の教会の物へと差し替えた。


「しかし何分建てられて間もない教会ですから、大衆の認知が十分でないというのが現状です。ですので本キャンペーンを実施することによって多くの人にその存在を知ってもらい、また同時にその素晴らしさを実感してもらいたい、と考えています。もちろんお客様方の幸せの後押しをすることが、我々にとって何より優先すべき方針であることには変わりありません」


 滑り出す勢いで口にされる言葉は明らかな営業目的を孕むが、三内の丁寧な口調が耳をほだし、微塵も嫌悪感を与えることがない。その強かさには反意を持った来人でさえ思わず舌を巻いてしまう。


 このまま口車に乗せられる形で進行すれば結果など知れているだろう。黙っていても状況が好転しないのなら、やはり来人の方からアクションを起こす必要があった。


「すいません、三内さん、ちょっといいですか?」


「はい、なんでしょうか?」


「そっちの話を聞く限り、このキャンペーンって新しくできた教会のアピールも兼ねてるんですよね? でも自慢じゃないですけど、俺たちの交流関係ってそこまで幅が広いものでもないんで、結婚を視野に入れている知り合いとかは残念ながらいないんです。だから俺たちが体験してもあんまりそちらの希望には添えないかなー……なんて」


 相手を傷つけず、かつ相手の頼みを断つ。一番効果があるのは下手に下ることだ。自分をへりくだることによって役不足感を暗に主張する。これまで幾百もの修羅神奈を卑屈さで躱し続けてきた来人に死角はない。


 依美も言っていた、特異なことより日常行動の方が得意になると。だったらこれこそが来人の武器。自分でも畏れ多いと身震いしてしまう絶対の力。


 どうやらとんだ怪物に成り果ててしまったらしいな、と真面目な表情の裏でほくそ笑みそうになる来人。何かが涙腺を刺激しているような気がしたが、きっとゴミでも入ったのだろうと気にするのをやめた。


「いえ、そのような心配はなさらなくて結構です」


 だが解放の見通しを安易に立てていた来人を蹴落とすかのように、三内は情け深い方向で情け容赦がなかった。


「先にも申しましたように、あくまで我々の最優先事項はクライアントの幸福をアシストすることです。当然商売という形式を取っている以上は宣伝も最低限必要になりますが、それは副次的に付いてくるものであり、押しつけがましく広めるものではないというのが当社における総意です」


「……」


「あなた方に声を掛けさせていただいたのも、喧伝しようとしてのことではありませんでした。そうですね……野原で見かけた未来ある花芽に水を注いであげたくなった。その程度に捉えていただければ幸いです」


「あ、え、でも……」


「お客様に心配していただくなどまことにもって欣幸の至り。ですがどうか気を楽にしてください。ウエディング体験は何も閉鎖された密室で行うのではありませんから、一般のお客様が立ち寄って参列することも可能になっております。それだけで我々にとっては十分以上の効果が見込めますので」


「は? ……お客? 参列?」


 三内が放つ怒涛の援護射撃に圧倒される中、さらりと述べられた一つの事柄がとりわけ強烈に来人の脳天を貫いた。


「はい。本キャンペーン中は教会が一般のお客様にも開放されるので、どなた様でも実施中のウエディング体験を見学なさることができます。本番さながらの雰囲気で祝福の声に包まれるというのも貴重な体験かと思われますよ?」


 三内はふふっと朗らかに微笑んで解説を加えるが、面と向かった来人は目を見開いたまま唖然とするしかなかった。


 冗談じゃない。心臓が鷲掴みにされたような絶望感に晒され、歯を震わせる一歩手前まで追い詰められる。


 いくら本番でないからといって衆目を集めるのはまずい所の話ではない。事は神奈がその気になるかならないかという、非常にシビアなラインの問題なのだ。なのに大勢の目に触れなどしたら、たとえそれが事実誤認であったとしても神奈のパラメータは確実に振り切れる。


 下手に下手に下ったツケが早々に回ってきた。自ら墓穴を掘るばかりか、その穴に身を投じるレベルの大失策。これでもう相手の目に映る来人は、遠慮深いが満更嫌がってもいない、まさしく落とすに都合のいい恰好のお客様でしかない。


 もっと反感を露骨に表すくらいで丁度よかったのだ。そうすれば断る糸口はまだ残されていただろうし、残されていないとしても最悪曖昧に暈かし込むことはできた。


 これでは、恥ずかしいな、でもやりたいな、と踏ん切りがつかないだけのただのシャイボーイ。


 心なしか、隣に座る神奈の顔が嬉しそうに見える。今にも『もークル君たら、素直じゃないんだから』と言わんばかりに頬が朱に染まっている。


 正面と横から攻められる二面楚歌だった。


「そ、そうですねぇ……確かにとても貴重な体験かもしれないですよねぇ……。け、けど、それなら尚更俺たちより適任がいると思いますよ? 今日は土曜ですから、きっと俺たち以上に幸せムードのカップルがそこら中に……」


 状況は酷く苦しい。でもだからといって諦め切れる来人でもない。なんでもいいから話の接ぎ穂を探し出し、時間稼ぎに徹する。


 しかしその目論見を看破しているのか、三内は悉く来人の逃げ道を潰しにかかった。


「いえいえ、そんなに謙遜なさらずとも大丈夫ですよ。お二方の幸福度は私が保証いたします。これでも職業柄、何百というカップルを間近で見てきましたから、そういったものを見抜く眼力には自信がありますので。きっと良いウエディング体験ができるに違いありません」


「…………」


 ――つ、付け入る隙がねえ……。


 三内の存在はまるで巨大な壁だった。昇ろうにも手足を引っ掛ける凹凸がなく、杭を打ち込もうとしても強固な壁面があっさりとそれを弾き返してしまう。壁越えを諦めて迂回ルートを探し始めた時には既に手遅れで、聳える壁は獲物を囲い込むように展開して決して来人を逃がそうとしない。


 強敵過ぎる。顔は営業スマイルなのに、神奈のそれとはまた違った狂気を全身に帯びており、床を覆わんばかりに広がった瘴気が来人の足を絡め取ろうと這い寄ってくる。


 彼女のプレッシャーに戦慄した来人の中ではいつしか、早く助かりたいと願う弱腰な自分が顔を覗かせつつあった。


 キャンペーンを素直に享受すれば、少なくとも今の苦痛からは脱せられる。


 掲げた反旗が徐々に白く侵されるのを、しかし来人は必死になって食い止めた。まだ挫けるわけにはいかない、まだ首筋へ噛みつく程度に足掻く力は残っている。そう奮起して、限界ギリギリで踏み止まる。


 独特な熱気で意識を朦朧とさせながらも、なんとか来人は言葉を返した。


「えーと……あ、そうだ。俺たちなんかよりは、よっぽど三内さんの方が幸福度高そうですよ? 他人のために働ける三内さんならもう結婚しているか、それとも結婚を予定している素敵な彼氏がいたりするんじゃないですか?」


 唐突な話の転換であることは来人も自覚の上だった。ただ単に話を逸らして本題から離れる応急処置。その僅かな間に少しでも態勢を整えようと考えていた。


 が、そんな来人の思惑を他所に、ピキリッ、と何かが割れる音がした。


「いませんよ」


「……へ?」


 突如目の前に生じた異変に思考が止まる。


 三内の声はその営業スマイルに似つかわしくない凄味を携えていた。それによく目を凝らしてみれば、不動かと思われた温厚なスマイルにも所々影が差していたりする。


「結婚はまだしていません。結婚を約束した恋人もいません。そのことが如何されましたでしょうか?」


「え、いや、その……」


「仕事ばかりに熱中すると、自分のために割く時間がなくなることは避けられないものでして。私としては嬉しい悲鳴、ということになりましょうか。それだけ自分が誰かの役に立てているという証明でもありますからね」


 そう言って瞑目した三内の声音は穏やかで、さっきと同じ丁寧なそれに戻っていた。


 戻った、というより、あるいはただの勘違いだったのか。長々と話していれば喉の調子がおかしくなる一瞬だって当然ある。その拍子に喋ったせいでくぐもった声に聞こてしまっただけなのかもしれない。


 まさか直接訊いて問い質すわけにもいかないので、とりあえずは勘違いだったという結論に落ち着いた。


「それでは」


 と、三内は資料をトントンと整えてから、改めて来人と神奈の前に一枚の紙とボールペンを差し出して続ける。


「これで概要説明は大方終了しましたので、キャンペーンの是非についてお伺いしてもよろしいでしょうか? もし是認していただけるのなら、この用紙にお二人のお名前とお歳をご記入ください」


「え? もうですか?」


 話を本題の決へとあっという間に引き戻した三内に来人は面食らう。時間稼ぎをしようと努めたつもりが、どういうことか、逆に話を加速させてしまった感がある。


「善は急げともよく言われます。私が口にするのはおこがましいでしょうが、順序立てて熟考することと同じくらい、割り切った考え方をすることもまた重要です。ならば、この機会にそういう姿勢で行動してみることもまた徳たり得るのではないでしょうか?」


「……まあ、仰ることは分かりますけど」


 徳たり得ないから引き延ばしてますとは流石に言えない。


 にしても、と思う。ここにきて強引さの目立つ是非の催促は、どうにも三内らしさに馴染まない違和感があった。『三内らしさ』などといっても、所詮は今日会ったばかりの人物のことだ。底まで理解しているわけじゃない。


 それでも、さっきまで懇切丁寧に説明してくれていた三内の人物像とは随分とかけ離れている気がしてならない。


 いつまでものらりくらりと話を歪曲させる自分に苛立ったのか。そう考えた途端、来人の胸に罪悪感が湧いてくる。


 何も三内の職務を邪魔しようとしてのことではなかったのだ。来人にだって最低限守り抜きたい自分の尊厳というものがあった。だが鑑みるに、そんな来人の事情に三内を巻き込む道理があるはずもない。


 向こうにとっては所詮ただのキャンペーンであり、渋って断ろうとする人間の方が珍しいのだろう。その経験則からすれば、来人たちへ時間を割くのははっきり言って無駄な時間だ。怒れてしまってもどうして責められようか。


 なら自分だけでなく三内も含めて迅速に解放してあげることこそ自分の責務。そう腹を決め、差し出された用紙を願い下げようとした来人だったが、しかし、視線の先に問題の用紙はなかった。


「えっと、クル君の歳は……」


 見れば、神奈が必要事項を絶賛書込み中。


 疾風を腕に纏わせた来人はコンマ数秒の世界で神奈の手からボールペンをひったくった。


「……何してんの? お前」


 引き攣った頬が戻らない。だがここは公共の場。声を荒げて叫び倒すのは後々面倒なことになりかねないので、噴火寸前の感情はなんとか抑えきった。


「か、返してよ、クル君。私はただクル君の代わりに全部書いてあげようとしただけだよ?」


「そんなの頼んでねーよ。それになんで俺の意見を聞かずに書こうとするんだ」


「なんでって……私がしたいなって思ったからだよ? ほら、私とクル君って以心伝心してるから、いつも考えることが一緒でしょ?」


「いや、むしろ全部真逆のような気が……」


 対称性だけなら鏡写しに勝るとも劣らない。


 とまあ、そんなことはともかくとしてだ。神奈の語る頭の中お花畑論で人生譚を締め括られるなど真っ平御免蒙る所存の来人である。当然、ペンを渡す気はない。


「とにかくダメだ。俺たちにはこういうのは向いてない。もっと将来を真剣に考えてる人がやってしかるべきだ」


「私たちだって真剣に考えてるよ!」


 正論で落としにいく来人に、しかし神奈は強く反発した。


「まず学生の内に籍を入れて、進学したらどこかにアパートを借りて同居して、子供は二人か三人くらい産んで、入園式、入学式、学芸会や参観日、それに運動会なんかは夫婦二人で出席して、休みの日は家族一緒にピクニック……あはぁ、それから、それからぁ」


「頼むから指を折るな!」


 将来を真剣に考えるのと人生にレールを敷くのでは志の気色が違いすぎる。知らないところで数年先までスケジュールがみっちり組まれていた事実には流石の来人でも驚愕を隠せなかった。


 そのまま妄想列車に乗って帰ってこないかもと怪しまれた神奈だったが、今回はそうでもないらしく、来人の呼びかけでハッと我に返る。


「そ、そういうことだから、私たちならきっといいウエディング体験ができるはずだよ?  なんだったら本番の挙式を挙げてもいいくらいなんじゃないかな?」


「何がそういうことなんだよ……」


 こっちだってそういう面倒なことを言い出すから辞退したいんだ、と言葉にしようとして喉でせき止める。言ったところでどうせ聞いてくれやしないのだ。理論立てしても説き伏せられない以上、来人に残された手段は意地で通すことだけだ。


「ダメなもんはダメだ。最初に言ったろ? 聞くだけだってな。俺が果たすべき約束はきちんと果たした」


「そんなぁ……。ここまできて照れなくたっていいんだよ? 素直になってもいいんだよ? だからやろうよー」


「俺は照れてなんか……」


 いない、と続け様に反駁しようとして言葉に詰まる。子供のように駄々をこねる神奈が突然体をぐいと来人に近づけてきたのだ。


 力づくでペンを奪いにきたかと警戒する来人だったが、それは違った。神奈は右手に持ったボールペンなどどうでもいいといった風に、ただ来人だけを間近で見上げ、円らな瞳に来人を映していた。


 くりくりとした神奈の目が遺憾なく愛嬌を振り撒く。上目遣いも相まって破壊力は抜群。可愛さだけで評価するなら間違いなく上級クラス。


 魅せられ、引き込まれれば、きっともう戻ってこられない。依存性は麻薬に匹敵するだろう。可愛いは正義なんて認めない、そう高らかに掲げていた信念がふにゃふにゃと骨抜きになっていく。


 だが来人はなんとか耐え凌いだ。自覚があろうがなかろうが、可愛さを武器に人に取り入る小悪魔に魂を売り渡すわけにはいかなかった。


 一方で神奈は来人の身体を揺すりながら執拗にせがむ。


「ねえクル君、やろうよー」


「ダメだ」


「いつまでも照れてないでやろうってば」


「照れてない」


「きっとクル君のタキシード姿格好いいよ? 絶対似合うよ? だからやるべきだよ。ねー? いいでしょう?」


「はぁ……。あのな神奈、俺は――」


「……ちっ」


「……」


 ――何だ? 今の音……。


 どこからか舌打ちが聞こえた気がした。


 神奈、ではない。もちろん来人でもない。そうなってくると、この狭い空間の中で誰がそんなことをできるのか、消去法で決まってしまう。まさかとは思いつつも、来人は視線を横へずらす。


 しかし、やはり三内はニコニコと営業スマイルを浮かべるだけだ。そこには一点の曇りもない。


 ――また勘違いか……?


 長引く極限状態で遂に耳がいかれたのか、さっきからどうも調子が悪い。一度ならず二度までも、しかも今度は三内が舌打ちするなどという、およそありえない聞き間違い。これでは、身を削いでまで顧客をサポートせんとする三内に対して失礼がすぎる。


 来人は精神世界で両頬を打ちつけ、余計な邪念を振い落した。


「俺はいくらデートだからって、別に大層なイベントを望んでるわけじゃないんだよ。お前と普通の時間を過ごせるならそれで構わない。平穏無事が何より嬉しい」


「クル君……。私だってクル君と一緒に過ごせるなら、場所なんかどこでもいいしイベントだっていらないよ? でもね……してみたいことがなかったわけじゃないんだよ? せっかく初めてのデートなんだから、少しでも記憶に残るようなことがしたいなって、私はただ、それだけで……」


「神奈……」


 熱を増した神奈の頬が朱色に照り、何かを憂うような濡れた瞳が来人の心をざわめかせる。そして、こつん、と神奈のおでこがゆっくりと来人の胸を小突いた。


「だけど、クル君が普通を望むんだったら、私も普通がいいな……。二人で一緒になら、なんだって楽しいはずだから」


「……本当に、いいのか?」


「うん」


 一度息を吸ってからそう答えた神奈の顔には再び陽気が満ち溢れる。そんな神奈の頭を、来人は躊躇いながらもそっと撫でた。


「…………いちゃいちゃしよってからに……」


「……」


 地獄の門から漏れ出たような、ドスの利いた声が店内に重く響いた。


 二度あることは三度ある。今度という今度はもう聞き間違いでは済ませられない。それ程までにその声ははっきりと聞こえた。否、聞こえてしまったのだ。


 できることなら聞き間違い、幻聴ということで乗り切りたかった。


 声質からして次元が違う。たった一言で場の空気を塗り替えてしまう制圧力に、音だけで伝わる圧倒的なマイナスエネルギー。恨みに嫉み、憎悪、嫌悪、自暴自棄、あらゆるスパイスがこれでもかと散りばめられていた。


「み、三内さん……? 何か、言いました……?」


「いえ、何も」


 何事もなく否定する三内だが、来人は見逃さなかった。顔全体は見事な営業スマイルを湛えていても、彼女の双眸が一切笑ってないことを。


 思い起こしてみれば、違和感は初邂逅時から燻っていた。ただ、三内の営業手腕に紛れてちゃんと考えられていなかっただけだ。あるいは、考えないようにしていたと言った方が正しいのかもしれない。


 どうせ今日限りの関係なのだからと、高を括っていた。


「では、キャンペーンの方は是認していただいたということで、早速会場の方へ移動して準備に取り掛かってもよろしいですね?」


「え!? い、いや、俺たちの話……聞いてましたよね? せっかくのキャンペーンなんですけど、今回は遠慮させ――」


「はい、かしこまりました。それでは行きましょう」


「ちょっと!?」


 勝手に解釈を進めるばかりか、三内は人の話を頑なに聞き入れようとしない。その強引な姿勢はどこぞの誰かを彷彿とさせる。極めて危険な状態であることが、経験豊富な来人にはすぐ察せられた。


 本音としてはすぐにでも店を出たいところだ。しかし、いくらなんでも挨拶もなしに去るのは良心が咎める。悠長に構えていられる場面じゃないが、基本根が真面目な来人にはどうしても憚られた。


 けれどそんな生真面目な考えを起こしたことが来人の過ちだった。


「これでまた一組のカップルを幸福に誘うことができます。なんと言っても、それが子供の頃からの私の夢でした。新たな門出を迎えようとするすべての恋人をお手伝いし、そして同時に心から祝福する。そんな仕事に精力を尽くしたい、と」


「は、はあ……」


 いきなり始まった自分語りに来人も戸惑うことしかできない。余計な口を挟めば事態を悪化させてしまう不吉な予感がある。


「私は親戚の数が多い方で、幼い時期から結婚式に参列することが日常になっていました。そんな日常の中、ふと思ったのです。どうしてこんなに式を華やかに演出できるのか。どうして人が変わっても花嫁という存在は常に美しく輝いているのか。どうやったら自分も他の女性と同じような綺麗な花嫁になれるのか。子供心に不思議を抱き、強く憧れ、必死に考えました。そして答えに至りました。幸せが循環するものなら、誰かを幸せにすることは私にとっても幸せなことで、花嫁を幸せにすることは私が花嫁として幸せになれるということなのだと」


「……」


 段々と雲行きが怪しくなってきた。


「そして私は念願の仕事、ブライダルコンサルティングの職に就きました。毎日毎日脇目も振らず、クライアントの幸福のために粉骨砕身の努力を惜しまず尽す日々。疲れ果ててしまっても、彼らの幸せな顔を見られるというそれだけのことで、私の中に形容し難い力が沸き上がってきました。それに、こんな私を神様は見ていてくださる、きっと巡りに廻った幸せのほんの一部分でも、私に分け与えてくださる、そう信じることで折れそうになる心を何度も立ち上がらせてきました。なのに――」


 くしゃり、と、三内が手に持つ資料にしわが寄る。


「何年働こうが一向に幸せは訪れず、その代わりとでも言わんばかりにあてつけがましく毎日訪れるキャッキャッウフフラブラブイチャイチャキュンキュンドキドキなカップルたち……。何度呪……いえ、祝い倒してやろうと思ったことか。土の気持ちも知らずに艶やかに咲こうとする花々が綺麗で、鮮やかに生き生きとしていて、つい摘み取ってしまいたくなる自分を必死に堪えて……。私、そんな幸せの無限ループの中で生きているんだと気づい時には、もう自然と笑顔になれていました」


「……。あ、えと……もし辛いなら、その……やめたら、どうですか……?」


「仕事なんです、これ」


「……すいません」


 森羅万象を悟ったが如き営業スマイルを向けられてしまえば、もう来人に言えることなど何一つなかった。


「そんな折、新しくできたこの支店で、ウエディング体験のキャンペーンを開催するプロジェクトを知りました。それからすぐのことです。私は人事部に自分をこの支店へ送って欲しいと願い出ました。それもこれも、今までとは違う環境、そして新たな気持ちで仕事に臨みたいと思ったからです」


「あ、ああ、なるほど! 心機一転ってやつですね。それでこの支店に一時配属が決まったわけですか」


「ええ、まさしく心機一転ということになりますね。これほどまでに私に適した環境というのはあり得ません。勤務体制が一人というのも大きなポイントです。道行くカップルを片っ端から引き込み、付き合いたてのカップルから長年のカップルに至るまで、逸早く人生の墓……ああ、いえ、人生の終着え……いえいえ、人生のターニングポイントを経験させて差し上げられるのですから」


「……」


 ――逆上してるだけだ、この人……。


 真実を垣間見た来人はただただ茫然とする。


 他人を幸せにしたいという三内の願いは本心から発しているのだろうが、それに続いた邪心がすべてを台無しにした。


 行き遅れたことで純真さを真っ黒に染め上げた女性。


 憐れだった。


 そして同時に厄介だった。


 こういう手合いは、手に余るし手におえない。己が内で真意を確立させている人間は、他人がとやかく言っても一切感化されないからだ。おまけに三内は器量の良さが一際目立つ。ここまでくるとちょっとしたチートボスの風格である。


 これはもはや礼儀云々を気にして縮こまっていられる局面じゃない。タイミングをよく見計らい、がたっと立ち上がった来人は早口に言葉を捲し立てた。


「すいません三内さん、俺たち、急用があったのを今思い出しました」


 明らかな驚きを浮かべる三内と、そしてもう一人。神奈もまた来人の突飛な行動に意外そうな顔をするが、神奈の理解を仰ぐ策は既に来人の頭の中にあった。


「え? 何言ってるのクル君。私たち別に急いでいるわけじゃ……」


「お前こそ何言ってんだよ、神奈。俺とお前の甘い時間は、首を長くして待ってくれはしないだろ?」


「く、クル君……」


 恍惚な表情で瞬く間に陥落する神奈。実にちょろい。


 多少誤解を与えてしまうリスクはあるが、今のところはこれでも最小限のリスクだ。最悪を想定したからこそ最良の選択をするし、せざるを得ない。このまま三内に取り込まれればそれこそ尋常ならざる痛手を食らうことになる。


「じゃ、じゃあそういうことなんで……」


「待ってください」


 夢見心地の神奈を引っ張りそそくさと店を出ようとする来人に、後ろからぴしゃりと声が掛かる。無理やり進もうとするが足が動かない。


 戦々恐々として上半身だけ振り返った来人を、猛禽類の目を移植してきたような三内の鋭い眼光が射抜いていた。


「……何か?」


「そんな心配そうな顔はなさらずに。キャンペーンに強制力など皆無ですので、断ってもらう分には一切問題ありません。呼び止めたのも考えを改めていただこうとした上のことではありませんよ」


 ゆっくりとした歩調でカウンターの向こうから歩み出てきた三内は、来人のすぐ目の前まできて足を止めた。


「どうかこれを受け取ってください」


 三内がそっと差し出した小さな紙を受け取る。


「これ、名刺ですか?」


 紙には壁のガラスに貼られていたものと同じ会社名と、三内の氏名、そして電話番号が規則正しく並んでいる。


「はい。キャンペーンはまだしばらく実施する予定です。今日が無理でも、都合のいい日にお越しになっていただければ、その時は優先的にウエディング体験をセッティング致します。ですのでどうか頭の片隅に留めておいてください」


「ど、どうも……」


 人間、素の顔を知ってしまうと文面通りに言葉を受け取ることが難しくなる。三内の丁寧さがそのまま飽くなき執念を体現しているように思われて、来人は苦笑いを囮に視線を横へ逃がした。


「ああ、それと、他にもお付き合いをなさっている知り合いの方がいらっしゃる場合は、是非ブライダルコンサルティング専門ハーピーをよろしくお伝えください。お客様のご来店を私は心からお待ちしておりますので」


「は、はは……いたっけかな? そんな知り合い……」


 狩人。どこまで獲物を追い求め、見つめた獲物は息の根を止めるまでは絶対に逃さない狩猟人の血。あまりの殺気で本能的に顔が引き攣る。


 仮に紹介できる知人がいたとしても、きっと紹介することはないだろう。


「じゃあ本当にこれで。無駄な時間をとらせてすいませんでした」


「滅相もございません。またいらっしゃってください」


 最後の最後まで崩れることがなかった営業スマイルに見送られる形で、来人と神奈は自動ドアから店外へと歩み出る。


 ドアが閉まるその瞬間まで三内は見送っていてくれたが、そんな彼女の顔を直視することは来人にはどうしてもできなかった。

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