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病みまくった幼馴染  作者: 白烏
5月 16日 (土)
20/22

イントリケート・デートⅡ

「これはどうかな? 控えめなクリーム色に赤みを加えてみたんだけど、やっぱりちょっと派手?」


「ん? ええっと…………俺は似合うと思うけど」


「そう!? だったらこれにするね」


 カーテンを開け放った試着室の中で、花弁の刺繍があしらわれたクリーム色のカットソーにローズピンクのアウターを重ね、嬉しそうに何度も鏡をチェックする神奈。うんうんと首を振り、『じゃあちょっと待っててね』と一言発して、再びカーテンを閉める。


 クラシック調の木目の壁紙で一面が覆われたレディースファッション専門店。神奈が着替える試着室の外で、来人は背中に突き刺さる鋭利な視線に耐えていた。


 神奈よ早く出てきてくれと強く念じる。


 こういう類の店は男性に対しては酷く排他的で、さっきから店員が飛ばす警戒の視線に晒されて居心地が悪いなんてものじゃない。一応女性を傍に連れていれば注意も逸れるのだが、女性が試着室に入ったが最後、手持無沙汰な男はキョロキョロ辺りを窺うことしかできず、再び気まずさと心苦しさの奈落へ叩き落される。


 女性専用車両に迷い込んだ並の息苦しさに匹敵するかもしれない。どちらにしろメンタル面に自信がない来人には地獄だった。


 ほとんど念仏を唱える域まで達しかけたところで、ようやく神奈がカーテンを開けて外に出てきた。


「お待たせ。じゃあ今から精算してくるね」


「そうだな、うん、それがいい。買ったら早く脱出しよう」


「脱出?」


「こっちの話だ」


 精算を済ませようとレジに向かう神奈の後ろ姿を見守りつつ、来人は早々と店外へエスケープを図った。


 店の前にあったベンチまで退避し、ほっと息をつく。


 空気が美味かった。実際には入り乱れる客の流れで二酸化炭素が循環しているような気もするが、そんなことは取るに足りないことだ。軟禁状態からの解放感で過剰に心が躍っていた。


 しばらくして、神奈が店の方からとてとてと小走りに駆け寄ってくる。すかさず来人は右手を伸ばし、神奈が手に持っていた袋を代わりに持った。


「いいの? クル君」


「まあ荷物持ちくらいしかできないからな。そんなことより、次はどうするんだ?」


「あ、うん。せっかくクル君が服を選んでくれたんだから、次は私が選んであげるよ。だからメンズ服のお店に行こ?」


「服か……。別に着る物には困ってないんだけどな」


「買わなくなって、ただ見るだけでもきっと楽しいよ。コーディネートは想像を楽しむものだもん」


「……そういうもんか」


 お洒落には疎い側の人間である来人からすると、服選びに何時間も余裕で掛けてしまえる女性の気持ちというのはいまいち理解が及ばない。逆にそういう側の人間にとっては、自らのコーディネートは個性や感性、そして美の追及というプロセスなのだろう。


 自分なりに納得していると、神奈が来人の手を握って歩き出す。


 神奈に先導されて移動する最中、ふと背中に視線を感じた。まさか先の店の女性店員がここまで睨みを利かせているのか、と振り返るが、数多の客が縦横無尽に歩き回っている光景が広がるだけで、女性店員の姿も、もちろん来人たちに意識を向けている人間も見当たらない。


 プレッシャーに毒されたせいで視線に対して多少過敏になっている節がある。人間不信の人は衆人環視に恐怖を覚えるというが、こうも客が多いなら、そういうこともあるのだろう。


 もっとも他人にとっての自分など、現実には盤上の駒くらいの認識でしかない。気にするだけ損なので流していくことにした。


 このショッピングセンターの二階のフロアは六割以上が衣料品店で占められているらしく、日本中及び海外のブランドが多く店を構えている。両性向けの服を揃える比較的敷居の低いものから、メンズ・レディースと専門を絞る高級志向のものまで、その有り様は実に多種多様。


 雰囲気が区画によって違うのもそのためだろう。例えば婦人服売り場の場合、内壁や柱は薔薇やラベンダーの華やかさをイメージさせる色と模様が施され、視覚以外にもどこからか漂ってくる甘い香りが鼻をくすぐる。まさにここを訪れる客層には打ってつけの環境と言える。


 ビジネスのプロである母親を見て育ったせいか、ついそういうものの目線で店内を観察することが来人の癖になっていた。


 連れられるまま通路を直進していくと、徐々に周囲の空気が変わってくる。


 黒や紺といった落ち着いた色調が目立つようになり、客層の性別比も男性寄りに傾く。気付いた時にはもう婦人服のテナント密集地を抜け、隣接する紳士服売り場の区画へと足を踏み入れていた。


「じゃあえっと……ここ、ちょっと寄ってみよっか」


 立ち止まった神奈が半身で来人に向き直る。指差す先は、紺の下地に枠と店名が金で塗装された看板をでかでか掲げるメンズファッション店。名前は『Lotto』。


 元来服のブランドなど大して知らない来人だが、それにも増して全く耳に覚えのない店である。まあこれだけ店が揃っているなら、聞いたことのあるブランドの方が少ないのは当然と言えば当然かもしれない。


 拘りも特にないので来人は神奈の提案を素直に受け入れることにした。


「私の方でクル君に似合いそうな服を探してみるから、ちょっと待っててね。クル君も探してみて気に入ったものがあれば試しに試着してみるといいよ」


 入店するや否や、神奈はウキウキという擬音を頭上に浮かべつつ、スキップするように服の山の向こうへ姿を消す。


 とは言うものの、だ。正直服を買う予定など端からなかったので、いざ探してみてくれと言われてもどうしたものか困ってしまう。張り切っている神奈には悪いが、壁に貼られたポスターでも鑑賞して時間を潰すことにする。先の店ではそんな余裕すらなかったが、ここなら特に問題はないはず。


 頭を空っぽにして時間を流す。また首筋に視線を感じたような気がして、他の客の邪魔になっているのかもしれないと思い壁との距離を詰める。そうして神奈が戻ってくるのをひたすらに待った。


 手持ちの時計で五分くらいが過ぎた頃。戻って来た神奈を前にして、来人は開き切った口を塞ぐ方法を必死に考える羽目になった。


「……よし、神奈、とりあえず説明してくれるか?」


「うん! まずはこの金のトリムのホワイトブラウスに、光沢のある紺のズボン! 通販なんかで売ってるのは質感からして安っぽさがあるけど、これは内側の縫目もしっかりしてて生地も丈夫なんだよ! トリムに合わせた金メッキのアクセサリーとベルトも相乗効果でいい味出してるし、なんと言っても純白のローブと紅玉のマントの組み合わせが最高だと思う! 一目見て『これは……』ってなってすぐ手に取っちゃった!」


 笑顔満開の神奈は矢継ぎ早にそう言って、右手に持っていた服――正しくは衣装をバッと掲げる。


 童謡の中に颯爽と現れる王子様の正装を。


「絶対クル君に似合うよ!」


「……いや、似合わないというか、似合っちゃダメというか…………。そりゃあ似合えるなら似合えた方がいいんだろうけど……」


「道行く人たちの視線を釘づけだね! ひょっとしたらみんな囲んで崇め奉っちゃうかもしれないよ!?」


「その前に桜の代紋掲げた怖い人たちに囲まれるよ」


 脚下だ。脚下。


 何が悲しくてそんなナルシスな恰好で街中をうろつかなければならないのか。ハロウィンはまだ大分先だ。もちろんハロウィンだろうが着る気はない。


「ダメ?」


「お前はダメと言われに来たんじゃないのか? 冗談だと言ってくれた方がまた精神的に助かるぞ」


「そっか……残念」


 肩を落とす神奈に胸が痛まないでもない。が、それとこれとは話が別だ。


 持ってくる神奈も神奈だが、王子の衣装なんぞを置いているこの店も大概である。普通は置かないだろう。どうしても置きたいならいっそのこと仮装屋にでも転職した方が世のため人のためだ。


 一先ずは助かったと安堵する。しかしそれは早計だった。神奈という女の病気具合を誰よりも把握していたはずの来人が、らしからぬ油断をした。


「なら次の服だね」


「まだあるのか!?」


 しんみりムードが零れんばかりのスマイルで塗り替えられる。


 意表を突かれたせいで思わず後ずさる来人。事来人に関して神奈のセンスが絶望的なのは既に疑う余地もないというのに、そこへ立て続けにもう一着。ここまでくると服選びなどただの罰ゲームにしかならない。


 言うなれば、『僕が考えた最強の主人公』をまざまざと見せつけられる苦行である。神奈の中で独りでに膨らむ高貴な来人像など、本人の来人にとっては痛々しすぎで直視できなかった。


「も、もういいんじゃないか? やめにしないか? というよりやめてくれ。選ぶにしても、もっと別の店に…………ほら、向かいの店なんかよさそうだぞ? これはもう行くしかないな」


「そうだね、あっちの店も品揃えはよさそう」


「じゃあ……」


「でも服との出会いは一期一会。この店にしかない服がたくさんあるし、ちょっと見るだけで出ちゃうなんて損だよ」


「違う、この店は俺に損害しか与えない……!」


 必死の訴えで神奈が考えを改めてくれるよう祈る来人だったが、甲斐はなかった。思えば勢いづいている神奈が人の話を聞かないことなど分かり切っていたことで、神奈は来人のそれを照れ隠しだと勝手に決め込んでいた。


 まさか肉体的な恐怖以上に足が竦む恐怖があろうとは。


 怯える来人の気も知らない神奈は、後ろ手にブツを控えつつ、ゆっくり、一歩一歩来人との距離を詰める。顔一面に咲いた笑顔の花が恐怖を誘う。


「や……やめ……」


 そして、もはや止める隙さえありはせず、少女はそれを胸の前にひょいと掲げた。


「はい! これがクル君のかっこよさを一層引き立たせてくれるって直感した黒橡くろつるばみのレザーコート! 内側を同系色のシャツとボトム、それにダークグレーのブーツと絡めて統一したら、シックなダークヒーローの完成だよ! あと近くにプラスで装飾品も完備してて、お勧めなのは刀身も鍔も柄も鞘まで全部が真っ黒な西洋剣! もちろんレプリカだけどすっごく精緻な造りで本物みたいにキラキラしてて、ベルトに差したそれを颯爽と抜くクル君を想像しただけで私なんだか顔が熱くなっちゃった! でねでね、決め台詞って言うのかな? 剣を構えた黒の剣士が敵に向かって叫ぶんだよ! 『たとえ俺が斬られて地に伏せる時がきたとしても、刃を握る力が一滴でも残されている限り、俺は仲間のために剣を振るう』って!! クル君がこのコートを翻しながらそんな痺れる台詞を語ってくれると思うと耳が幸せすぎて溶けちゃうかもしれないけど、たとえ蕩けちゃっても何百回だって聞いちゃう自身が私にはあるよ! あ、でもクル君がオリジナルに台詞を決めてもいいと思うよ! それだったらクル君はどんな決め台詞を言ってくれるのかな!?」


「…………」


 ――もう、やめてくれ…………。


 ファッションブランド『Lotto』。


 新次元のトラウマを見事に刻み込んでくれた憎きその店の名は、今この瞬間の惨劇と共に、もう二度とは忘れらないメモリーとして来人の頭の封印室へと丁重に安置されたのだった。







「本当にもう服は見なくていいの?」


 店を後にしてすぐのこと、並んで歩く神奈が訊いてくる。


「ああ、だからいいって言ってるだろ。あれを服選びっていうなら俺は金輪際服なんて選ばん。原始人を見習って毛皮でも巻きつけた方がまだマシだ」


「あ、そういう毛皮ならさっき隅の方にあったよ?」


「あるなよ……」


 かの店が残した傷跡は思ったよりも深く、いつにも増して話が捩れる。これ以上の被害を出さないよう、とっととどこぞの誰かに訴えられて店が畳まれることを願うばかりである。


「うーん、でもそうすると大分時間が余っちゃうね。お昼にするにはちょっとまだ早いし……どうしよう」


 指を口元に添えながら、神奈は少し困ったような声を出す。


 ちらりと腕時計に視線を落としてみると、時刻はまだ十一時前。神奈のプランでは服屋巡りで午前が潰れる予定だったらしいが、予想外かつ不愉快極まりないアクシデントのため狂いが生じていた。


 事情が事情なだけに罪悪感など欠片もない来人であるが、神奈の計画に生じた誤差は来人にも原因がある。ならばと、ここは一つ来人自ら歩み寄る。


「これだけ広いんだ。適度にそこらを回ってても時間は潰せるだろ。あとは迷わないように気を付けてさえおけば問題ない」


「うん、そうだね。でもお店で迷子かぁ……それはそれでちょっと懐かしいかも。今はもうなんともないけど、子供の頃は小さなスーパーでも買い物一つが凄い大冒険だったもんね。昔の私たちがこんな場所に来たらどう思うのかな」


「絶望することだけは確かだな……」


 泣きじゃくり、歩き疲れて座り込む姿が容易に想像できる。そして間違いなく迷子の味方、迷子センター送りだろう。成長した今となってはもう縁がないサービス施設。その頼もしさを真に理解するのが大人になった後とというのは、少し皮肉めいている気がしないでもない。


 苦笑いを浮かべる来人に対し、神奈は何かを思い出したようにフフッと朗笑した。


「そういえば小学生の頃、二人で近所のお店に行った時のこと覚えてる? 店の中で走り回ってたクル君がいつの間にか迷っちゃって、私が探しにいったんだよね。あの時のクル君、私に見られないように涙を必死に堪えてて、でも腫れた瞼までは隠しきれなくて。本当に懐かしいなぁ」


「……ッ」


 神奈が何気なく語る過去のエピソードを聞き、一瞬だけ大きく、それこそ電流でも走ったかのように心臓が跳ねる。同時に、舞い落ちるイメージが脳裏を掠めた。


 座り込んで目を擦る子供。


 手を差し出す子供。


 それらは真っ暗闇の深淵へ、飲み込まれるように空を切る。ゆっくりと静かに、もう思い出せなくなる程深い所にひた沈む。


 なんとはなしに子供時代を回想し始めた神奈に、一種の驚きがあったのかもしれない。どちらにしろ衝撃は後を濁さず消え去り、身体はとっくに平常時に帰している。しかし瞬く間に過ぎた不快な風、その違和感だけは拭い去ることができなかった。


「どうかした?」


「いや、別に……。それよりも、そんなことあったっけか? 俺はあんまり覚えてないな」


「あれ? ひょっとして迷子になったのって私の方……だったかな? それでクル君が私を見つけてくれたような、なんかそんな気もする。ごめんね。なんだか私の方こそ記憶が曖昧だったみたい」


 えへへと申し訳なさそうに笑う神奈を見遣り、来人の胸がまたズキンと痛む。それでも来人は努めて冷静であろうとした。やせ我慢を承知で取り繕い、いつもの自分をなんとか貼り付ける。


「謝るなよ。誰だって何年も前の出来事なんか忘れてるのが当然だ。正確に思い出せなくたって不思議じゃないさ。……それが昔のことであればある程、尚更にな」


 つい言い聞かせる口調で述べてしまったそれは、一体誰に向けたものなのか。一度口を離れた言葉はふらふらと宙を漂い、終いにそこらの虚空でパチンと弾け、使命半ばに無に帰った。


 何のための言葉で、何を啓発せんとして口にしたのか、そんなことはもう今さらだ。霞んで消えた言葉の意味など当の来人にさえ分からない。意味の褪せた言葉の残骸なんてなぞった処で答はもうそこにないのだから。


 そうして来人はまた一つ、自分に嘘を吐いた。


 壊しかねないなら、目を閉ざすしかないと勝手に決める。久しぶりに訪れた、気楽に神奈と過ごせる今日という時間を手放したくないと思うが故に。


 こんなものは抜け殻だ。


 最初から覚悟した上で、その抜け殻に中身を詰め込む覚悟を重ねていた。だというのに、どうにも自分は想像以上に今日を楽しんでしまっているらしい。そこに気づいた来人は嬉しくもあり、情けなくもある、そんな複雑な心境になった。


「ま、そんなことよりもだ。昔なんて気にしてる暇があったら今を見ろ、今を。人混みに呑まれたらそれこそ迷子確定だぞ。今の俺たちに迷子センターはもう優しく微笑んじゃくれないからな」


 昔よりも今は今だと、神奈に、そして自分にピシャリと言いつけ、後ろ髪を引く不安心を振り切ろうと少しだけ歩調を速める。


「うん!」


 神奈も歯切れのいい返事で応えると、来人のスピードに合わせて再び肩を並べた。


 歩く途中で目についた店という店にふらっと立ち寄っては、綺麗に陳列された商品を眺めて回る。急を要する買い物がそもそもない以上、冷やかし紛いのウィンドウショッピングが一番適した時間潰しになる。


 仮にもデートでそんな妥協が許されるのか、実直な所、微妙なラインかもしれない。だが神奈はさして気に留めていないようで、可愛らしい小物入れや赤に煌めくガラスのペンダント、ひいては食器類から包丁や鍋といった調理器具に至るまで、ありとあらゆる店で宝物でも見つけたように逐一それらを手に取り、楽し気に来人に話を振ってくる。


 そんな神奈を間近で眺めているだけでこれでもいいかと思えてくることが、来人には不思議な感覚だった。


 きっとそれは楽しむことに理屈がいらないからなのだろう。誰だって、だから、なので、なんて理由を一々つけて楽しさを享受しているわけじゃない。強いて言うなれば、『楽しいから楽しい』。言葉足らずのようで、けれどその実、一番真理に近い所にある。


 ただそこにある、当たり前の普通。どこにでもある平凡を一緒に過ごすこと、ありきたりな喜怒哀楽を共有することが、来人にとって何よりも心が安らぐ時間。だからこうして、ただのウィンドウショッピングに興じられる楽しさは、十分に楽しい。


「やっぱり店の大きさと商品の魅力は比例するんだね! こんなに広いと至る所で興味をそそられちゃうから、いろんな意味で回りきれそうもないよ」


「ひょっとして、回りきるつもりだったのか?」


「無茶かな?」


「無茶だよ」


 むぅと剥れる神奈。さらりとあしらう来人。互いに互いを横目で見つめ、我慢できずに笑いが零れる。


 こんなものは抜け殻だ――その結論は覆ることなく来人の心を縛っている。だが、こんな抜け殻の一日があったっていいのではないのか。


 嘘で塗り固められた貧相な張りぼてでも、昔日に憂いしかなくとも、それらは今日を貶める毒牙にはならないし、またなんといっても、来人自身がそれらを今日を否定するための遠因にしてはならない。


 他でもない神奈に諭されたことだ。


 自分を卑下することは負の連鎖でしかない。悲劇に暮れる悲劇役者を演じ続けても、産み落とされるのは悲しみや虚しさといった負の感情だけ。その感情が溜まった泥沼に自ら身体を放り、再び泥に塗れて悲劇を嘆く役者になる。そんな馬鹿げた無限ループだけは御免蒙る。


 できることからやっていこうと、来人は決意をいっそう強く固めた。小さいことからコツコツと。勉強だろうがスポーツだろうが、悩み事だろうが、今日できることを精いっぱい熟していけるなら、それでいい。


 そっと、神奈が手を来人の右手へ重ねてくる。少し頬を染めながら、神奈にしては珍しく淑やかな微笑みと共に。


 計ったかのようなタイミング。まさか考えを読んだ上ではないだろうが、無防備な状態への不意討ちだっただけに、来人の方も顔が熱を帯びる。神経が総立ちになり、手から伝わる鼓動や濡れた唇から洩れる吐息が鮮明に感じ取れてしまう。


 ――これは……。


 やけに手が汗ばみ、動悸も早い。マラソンを走り終えた後のような、体の芯からくるあの熱さに似ている。脳の中が白い霧で覆われていき、頭が上手く回らなくなる。当然三半規管も碌に機能を果たさず、足などもはや浮いている感触だ。


 これは確実に、意識してしまっている。膝から崩れそうな足を必死に前へ前へと押しやりつつ、ガラクタに成り果てた思考回路を使って来人は必死に分析する。


 さっきまではなんでもなかった手を握るという行為が、ここにきて真価を発揮し始めた、のではない。だったらムードに流されたのかというと、それもノーだ。


 原因は、一昨日の夕食の席での神奈を思い出してしまったこと。


 病んでしまった神奈の中に僅かながらに存在した、素の状態の神奈。来人を気遣い、優しく慰め、後悔の奈落から引き上げてくれた、そしてこれまでの人生において、来人が最も惹かれた気高い少女。


 それを思い出してしまえば動揺するなという方が断然無理だった。


 ――まずい。


 ほてる身体とは対照的に冷や汗が来人の首筋を伝う。


 ここで今の神奈に来人の動揺がばれたが最後、神奈の中の連想ゲーム脳が『照れている→ラブラブ→事実上夫婦→結婚願望→法改正』のアンサーを弾き出してしまう。ちなみに来人は十六歳。結婚可能年齢でない。


 万に一つないと信じたい所だが、国に喧嘩を吹っ掛けるような真似だけは断じてさせられない。もし神奈が『クル君のために』などと吹聴などしようものなら、来人の人生はそこで終わる。後ろ指に怯えながらの隠居生活が待っている。


 絶対に嫌だと、可視化しつつある未来に来人が恐怖した、まさにその時だった。背後から刺すような視線が飛来し、来人の意識のリソースを根こそぎ掻っ攫う。


 異種の恐怖が全身を串刺しにして来人を縮み上がらせる。バッと風を切る勢いで後ろを向くが、こんな場所で、しかも一般客である来人たちに攻撃的な視線を送る人間などいるはずもない。やはり来人が視線の主を見つけ出すことは叶わなかった。


「クル君? 後ろに何かあった?」


 来人の挙動を不自然に感じた神奈も振り返る。が、神奈にしても来人が何に異常な反応を示したのかは分からず、首を傾げて不思議そうな顔をした。


「あったというか……いたというか……よく分からないけど、なんか視線みたいなものを感じた気が……。気のせいか?」


「気のせいじゃないよっ!」


 突如、神奈が声を張り上げる。


「誰か見つけたのか!? どいつだ!」


 神奈の顔は真剣みを帯びており、ただ事でないオーラがひしひしと伝わってきた。すぐに警戒を強めた来人は、周囲に注意深く目を凝らし、怪しい人物、あるいはそれに近しい何者かを特定するべく集中する。


 十秒が経ち、二十秒が過ぎ、三十秒が手を振って去っていく。が、それらしい人影はゼロ。五十秒が里帰りし始めた頃には、思い思いに買い物を楽しんでいる客よりも、棒立ちで辺りを注視している自分たちの方が怪しいのでは、と胸の内で疑問符を浮かべてしまう有様だった。


「……おい、神奈…………誰か、いたんだよな?」


「え?」


 さっきの険しい表情はどこへやら、何を言っているのか分からないといった体できょとんした表情になる神奈。


「おい、その顔は俺のものだろ」


「えっ!? ……う、うん! 私は、その……顔、というか……心も体も、えっと……く、クル君の所有物だから!!」


「違うッ! 違う違うッ!! 馬鹿! お前は大声で何言ってんだ!」


 とんでもない勘違いを口ばしってくれる神奈を慌てて抑えにかかる。こんな公の場所で、周囲を数多の買い物客で囲まれて、壁に耳あり障子に目ありどころの騒ぎじゃない。下手をしたら警備員が出張ってくる騒動にも発展しかねない、危険極まりない発言だ。


 幸い声が届いていたのは一部の客のみで、その一部の人々も少々気分が高揚した若いカップル程度に認識したのか、クスクスと笑って過ぎ去っていく。それにしたって顔から火が噴き出んばかりの恥ずかしさに変わりはないが。


 謎の視線どころか好奇の視線に晒され、来人はグッと堪えて時が過ぎるのを待つ。とりあえず情勢が落ち着くまでは待ちの姿勢を貫くことにした。


 しばらくの後、辺りの様子が元に戻ったことを確認してから、来人はまず大きくため息を吐いた。そしてすぐに切り替えて神奈と向き合う。


「こんな所でなんてこと言ってくれんてんだ、お前は! 少しは場所くらいえら……んで言ってもダメに決まってるが、頼むから多少の分別はつけろ」


「だ、だってクル君が、私の顔は自分のものだって」


「そういう意味じゃねーよ! いや、確かに変な言い方した俺にも非はあるが、それだって普通分かるだろ。面と向かってお前の顔俺の宣言って、マニアック通り越してただの危ない奴だ」


「私は! ……クル君が危ない人でも…………いいよ?」


「…………ごめんなさい……ほんっと勘弁してください」


 照れ臭そうに逸らされた顔。そしてうっとりと恍惚感だけは露わにして、ポツリと漏れた凶器の言葉。


 自然体で速攻謝り倒す来人であった。


 話は逸れたが、ついでに逸れた話は粗大ごみとして放置するが、とにかく無理やりにでも話を原点に回帰させる。


「え、えーとだな……じゃあいいか? 話を戻すぞ? 俺が言いたかったのは、注意を促した張本人のお前がなんで我関せずできょとんとしてたんだよってことだ。お前が真剣そうに言うから、俺は本当に誰かいるんじゃないかって探したのに」


「わ、私はただ、クル君が感じたっていう視線は気のせいじゃないって言っただけだよ?」


「はぁ? 気のせいじゃないなら誰かいたってことだろ? どういう意味だ?」


「だってほら、クル君ってカッコいいじゃない? だから通りすがる人たちもついつい目を奪われちゃうんだよ! そのせいでいつでも視線を浴びている感じがするんじゃないかな? 本当に罪な人だね、クル君!」


「人をナチュラルにナルシスト扱いするな」


 キラキラと、空の星を嵌め込んだかのように輝く神奈の両目を手で覆う。星の群体だけあって中には重力崩壊しかねないものもあった。ブラックホールになられて吸い込まれたくないので、とりあえず元から危険を絶っておく。


 すると、来人の手を愛おしそうに両手で包み込んだ神奈は、光をたちまちしゅるると萎ませ、今度はしゅんとした顔になって目を細めた。


「……でも、もし本当にそうだったら、やっぱり私は嫌だな……。注目されるのは嬉しいけど、クル君が遠くに行っちゃうようなことがあったら……私から離れていっちゃったら、寂しい」


「……」


 もしもの話を広げ続けて勝手に意気消沈するのは、少し外れているような気がする。だが、神奈は感情を振り切ることができる。できてしまう。だからたとえもしもでも、一度考え出したら抑えを利かせられないのだ。


 あまりに不器用な生き様だろう。しかし同時に、とても尊い生き方であることを来人は知っていた。感情を押さえこまなければ生きていけない人の社会で、感情を開放できる人間などどれだけ残っているというのか。きっと極僅かだ。それだけに、神奈のように思いの丈をすべて相手に打ち明けられることを、羨ましく思える時もある。


 後は危うい方向さえちゃんとセーヴしてくれれば言うことなし。


 いつも通り思い込みの激しさで思い詰める神奈に、どうしたものかと来人は頭を掻きながら考える。特に攻撃的なそれでもないので、できることなら穏便に、そしてそれなりにやんわりと言ってやりたい。希望を連ねてまた少し考えてから、来人はふうと小さく嘆息した。


「あほ」


 ポツリと漏れた短い言葉。


 考えるだけ無駄とか、そんな馬鹿みたいな話があってたまるかとか、言えることも、またその言い様も、幾らでも候補が挙がっていた。なのに最終的に選んだ言葉がこれというのは、口にした来人本人も呆れるしかない。


 どの辺がやんわりなんだかな、と自分の至らなさにちょっと後悔する。


 もしかしたら今のぞんざいな物言いが神奈のスイッチを入れてしまったかもしれない。不運を予期しつつ、怖々と神奈の様子を窺う。


 しかしそんな想像などあっさりと裏切り、神奈はきまりが悪そうに頬を掻きながら、笑っていた。さっきまでの泣き出す一秒前だった神奈はそこにおらず、代わりに自分の中の何かを理解したような表情で、そこに落ち着きを纏っていた。


「あはは……。確かに、クル君の言う通りだね。私ってアホな子だ。変なこと言ってクル君を困らせちゃった。ごめん、クル君」


「いや、別に困ったって程でも……。それに俺の方こそ悪かったな。視線がどうのこうの、あやふやなこと口にした。だからまあ……今回はお互いに考える所があったってことで、この件はここらで手打ちにしないか?」


「うん、そうしてくれると嬉しいな」


 消えそうなくらい小さな声だったが、それでもその声は来人の耳までちゃんと届いた。自分の失態が恥ずかしかったのか、それとも迷惑を掛けたと思って自責しているのか、詳しい所までは正直よく分からない。というより、神奈自身が一番よく分かっていないのかもしれない。だが一つ言えることがある。


 奇跡だ。


 胸の内で叫びながら、来人はぎゅっと右手を握りしめた。神奈の中にふらりと訪れた自制心の芽生え。まだ大したレベルではないし、相対的に見ても変化がないように映るだろう。しかし、神奈が踏み出した小さな一歩は、二人にとっては偉大な一歩となる。そんな展望が来人にはあった。


「ありがと、クル君」


 店巡りを再開せんとまた歩き出したところで、はにかみながら神奈が言う。


「謝ったりお礼言ったり、随分と忙しいな。けど、できるならどっちかにしてくれよ? 受ける俺の身にもなってくれ。どう応えればいいのか分からん」


「うーん……じゃあ、ありがとうの方で」


「……そっちなのか。まあいいや。どういたしまして」


 何に対してのありがとうで、何に返してのどういたしましてなのか、見当もつかないままに口が先頭切って駆けていた。


 古今東西万世不易、分からないことがあるなら率先して訊いていくべきだ。解明しようと躍起になる心意気を忘れてはならない。それでも、今それを追求することは酷く無粋なような気がして、来人には問うことができなかった。

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