デッド・オア・デッド
「同じ不幸なら、いっそのことトラックでも飛び出してきて俺を轢いてくれればいいのに……。そっちの方が苦しみは一瞬だろうよ」
「だ、ダメだよ、クル君! 生きとし生けるもの、昆虫でも植物でも人間でも、命を粗末にするようなことしちゃ」
「お前が言うな」
通勤者や通学者がちらほら見られる小さな商店街通りを、制服に身を包んだ来人と神奈が歩いていた。二人が通う高校は自宅から片道二キロの徒歩通学圏内にある私立校で、神奈の待ち伏せや先回りといった奇行故に二人で登校というのが専ら朝の日課だ。おまけに今朝は神奈の魔の手から逃れること叶わず、一緒に仲良く『行ってきます』の挨拶をしての登校になってしまった。
地球温暖化か、将又、梅雨や夏の早期到来か、五月半ばとはいえ気温・湿度が例年よりも若干高く、冬服のブレザー着用が流石にしんどい今日この頃。来人は額に滲む汗で顔を歪めるが、隣で来人に歩調を合わせる神奈は元気いっぱいの様子で笑っている。推察するに、愛しの人としばらく寝食を共にできる嬉しさで気分が有頂天なのだろう。ちなみに来人の顔色が優れない理由の大半は、相反してそれだ。
「ったく、なんでこうなるんだ。恨むよ、父さん……」
「クル君、子供は何人欲しい? 男の子でも女の子でも大丈夫なように、ちゃんと名前を考えておいてあげないとね」
「……ああ、せやな」
取り合うべからず。反応するということはアリ地獄に進んで嵌りにいくようなものだ。イヤッホーとか叫びながら身を躍らせるアリを想像してもらえば、その行為の愚蒙さは考えるまでもない。
「せめてモフッチがいてくれれば俺を癒してくれたんだけどな」
口にはするものの、今日はもう実現しない希望なだけに一段と気分が落ち込む。
「あのふわふわな毛に包まれて身体の芯から癒されたかった……」
モフッチ、それは来人の家の右隣に住む漆瓦家が飼っている白毛柴犬の名前である。柴犬でありながらまるでポメラニアンのようなもふもふの毛並を持つことが名前の由来で、主人の代理で散歩をよく手伝っている来人とは大の仲良しだったりする。だから来人が登校する時は決まって近寄ってきてくれるのだが、散歩にでも行っているのか、今日は何故か姿を見せてくれなかった。
神奈からの精神的重圧を毎日モフッチが軽減してくれていたというのに、モフッチ分を取れないまま今日一日を乗り切れるのか、来人自身も見当がつかない。
目に見えて落胆する来人の横、膝丈のチェックスカートを翻さんばかりにステップを刻んでいた神奈が、徐々にその歩幅を小さくしたかと思うと、例の瞳で来人のことを見上げた。
「クル君……浮気?」
「俺今犬の話してたよな?」
「だ、だって…………だってモフッチ雌じゃないッ!!」
「だからどうした!? 俺は人間! モフッチは犬! そんなアンモラルな関係になるわけないだろ!」
「愛の前には身分も人種も境遇も信仰も、性別や種族だって無力なんだよ!?」
「いや種族は有力であれよ!」
ひとしきりつっこんだところで、周囲から突き刺さる奇異なものを見る視線。誰かが『おい、犬とだってよ。ストライクゾーンマジパネェ』とかほざきやがったのを、来人はしかと聞いてしまった。
とにもかくにも、自分は至って冷静なのであるアピールとして咳払いを一つ。
「モフッチは俺の大親友なんだから、仲がいいのは当然だ。そんなことで一々揉めてたらきりないし、少しは妥協ってもんを覚えろ」
「……やっぱり、本を探しておいてよかったよ」
「本?」
「そう、昨日図書館で一生懸命探したんだ。なかなか見つからないから職員さんに問い質して、初めの人と二人目の人は顔を真っ青にして逃げちゃったけど、三人目で懇切丁寧にお願いしたら笑いながら探してくれたの、この韓国料理の本を……」
浮ついた声でなにやら物騒なことを淡々と語り始めた神奈が、手に持ったスクールバックの中から一冊のカラフルな本を取り出した。
「ねぇ、クル君、知ってる? 栄養を補うために作られる朝鮮半島由来のスープ、ポシンタン……。辛味スープで犬肉を煮込ん――」
「モフッチをどうするつもりだ!!」
「男の子だもん……魅惑的な女の子に性欲を刺激されたら、食べたくなっちゃうものだよね……?」
「食べねーよ!!」
ハッと稲妻のような悪寒が来人の背筋を襲った。今日モフッチが出迎えてくれなかったその原因は、もしかしたらという最悪の可能性。これが平凡な幼馴染なら歯牙にもかけずに笑っていられる冗談か何かだが、目の前の奴は勝手が違う。とてもじゃないが冗談を冗談で終わらせてくれるようには思えなかった。
「お、おい神奈……お前まさか、もうモフッチを……?」
「ううん、残念だけど、今朝は犬小屋の奥に隠れちゃって手が届かなかったの……」
――グッジョブ、モフッチ!
モフッチは奇跡的に一命を取り留めていた。ただ来人が来ても怯えて小屋を出られなかったかと思うと、可哀そうでならないけれど。
「でも、これからもクル君がモフッチとの逢瀬を控えてくれないなら、私はいつでもポシンタンを作れるんだよ? ポシンタン上手の奥さんになれるんだよ?」
そんな奥さん、嫌すぎる。
「うぅ……分かった。ほどほどにするから、お前はまずその本を図書館に返却しろ。それとお前にマイナスイメージを抱いたであろう職員の人たちにもきっちり謝罪してこい」
「うん、クル君の言う通りにする。だけど、やけぼっくいに火をつけたら絶対にダメだからね!」
「だから犬だって……」
今までも来人は『学校で女の子と話しちゃダメ』とか『女性の教師とは目を合わせちゃダメ』等の足枷を神奈からつけられ、束縛されたことがあるが、動物との仲にまで口出しされたのはこれが初めてである。日々を連ねるごとに神奈の症状が凶悪化してることを実感した来人は、神奈の自由が著しく制限される学校に早く着いて欲しいものだと、心の隅で願っていた。
◇◆◇◆◇◆◇
学校に到着するやいなや、早速と言わんばかりに来人に運が巡ってきた。本日日直になっていた神奈が、昇降口で出くわした担任教師から資料の配布を頼まれて職員室に向かったのである。別れる最後の瞬間まで神奈はその表情に悲哀の色を浮かべていたが、来人からすれば今日初めて神奈から解放されるひと時だ。もちろん笑顔で送り出してやった。
教師からは平然と頼み事をされたように、神奈の素顔を知る者は意外と少ない。大抵の者は水橋神奈という人間を生真面目で責任感があり、成績・素行共に優秀な優等生だと認識しており、加えてあの容姿である。神奈に恋心を寄せる人間が多いということも来人は分かっている。
それらの情報には誤りがないことも含めて。
実際、来人さえ関わらなければ、神奈は正真正銘の優等生だ。おかしくなるのは来人が話の筋に関わってくる場合だけで、それ以外では至って普通の女子高生としてやっていけている。来人が望みを捨てないでいられる一番の根拠はそこだった。
校舎は南北に大きく二分され、来人たち二年生の教室があるのは北棟の二階。神奈とは同クラスであるため解放感に浸れる時間は短いが、それでも精一杯羽目を外してやろうと思いながら階段を上り、廊下の突き当たりに位置する『2-C』の教室へと軽い足運びで向かう。
「珍しいね、来人。今日は一人?」
後方のドアから入ると、いの一番に声をかけられた。その声の主は廊下側最後尾の席に座りながら、体をのけ反らせるようにして来人をぼんやりと眺めている。
「一時的だけどな。そういうお前こそ、今日はやけに早いんじゃないのか?」
「今朝は野球部の朝練。朝七時から練習なんてしやがるもんだから、おかげで僕の貴重な睡眠時間は水泡に帰したよ」
「部活荒らしも大変だな」
「荒らしてないって散々言ってるだろ? 経験を積むために仮入部させてもらってるだけで、これでも部員からは好印象なんだし」
「でも顧問陣からは煙たがられてる、と」
「う……。は、はは……天の邪鬼な人たちだよねぇ、ほんと……」
楠 伊月。派手すぎるのは問題だと、生活指導で幾度となく指摘された地毛の茶髪を携えながらも、顔は童顔という、なんともアンバランスななりをした来人の親友。人呼んで『部活荒らし』。人生は経験だと豪語し、ありとあらゆる部活動を転々としては入部・退部を繰り返す、正しく荒らしで嵐な奴である。
そんな自分勝手な人間なのだが、どういうわけか人徳はあるようで、部の雰囲気に即座に馴染めるという特技をもっている。もっとも、入部届と退部届の処理をほぼ同時に迫られる顧問にとっては、ペンをへし折りたくなるくらい恨めしき対象だったりするが。
ちなみに、神奈の病気のことを知っており、来人が相談を持ちかけられる数少ない人間でもある。
その伊月の一つ前にある自分の席に来人は腰を下ろした。
「で、お前の方も今日、神奈ちゃんと何かあったみたいだね」
「分かるのか?」
「そりゃまあ…………世の中には夢も希望もありゃしない、みたいな鬱屈とした顔見せられたら、嫌でも想像つくっての」
「……そんな顔してたか?」
「してたね」
気づかなかった。だが、考えてみれば無理からぬことだ。そもそも寝覚めに殺されかけて朝食でも殺されかけて、それをなんてことない日常の一コマとして扱い、のほほんとしていられる奴の方が現実問題どうかしている。来人自身はいち高校生なのであって、報復覚悟の日々を営む暗殺者でもなんでもないのである。
それから来人は、今朝あった出来事を洗いざらい伊月に打ち明けた。起きたら目の前に刺さっていたナイフや、神奈としばらく同居を強いられてしまったこと、小さな命の犠牲などなど、言葉にできる限りすべてのことを吐き出した。
「――という具合だな」
しばらくは来人の話に耳を傾けていた伊月だったが、すべての事情を飲み込むと、その顔に暗い影を落とす。来人の重苦しい心持ちを共有してしまったことで、来人だけでなく伊月の気分までもがどんよりと沈み込んだ。
「……なんていうかさ、相変わらず人間の身に降りかかるとは思えないレベルの災難だよね」
「笑いごとじゃないぞ?」
「いや、笑ってないって。というより、幼馴染に殺されかける話で笑えとか、難易度無茶苦茶高いから」
確かにそれはそうだ。
「それで、結局は神奈ちゃんと暮らす道を選んだ、と、そういうわけだ」
「暴走する神奈を止める方法が他になかったんだから、仕方ないだろ。それに、自分の命と平穏な暮らし、秤にかけるまでもない。誰だって普通、命を選ぶと思わないか?」
「うん、まあ、そんな二択を強いられてる時点でとっくに普通じゃないとは思うけどさ」
引き気味に言葉を返した伊月は、何かを考えるように目を伏せると、指で顎を弄りながらうーんと唸り声を上げた。
「じゃあ、やっぱり例の人に相談するかい?」
「例の人?」
「え、忘れたの? そっちからしてきた頼み事だっていうのに、そりゃないよ。ほら、一昨日、お前、僕に訊いてきただろ? 自分の抱える問題を解決してくれそうな、誰か有能な知り合いはいないのかって」
「…………あぁ、そういや訊いた気がするな。生死を賭けた綱渡りの連続で、すっかり頭から抜け落ちてた」
「発言がもう高校生のものとは思えないね……。ま、いいけどさ。とにかく、残念ながら僕の知り合いに要望を満たしてくれそうな奴はいなかったけど、手当たり次第に探し回ったら、一人だけそれっぽい人がこの学校にいたんだよ」
部を転々とする伊月の校内ネットワークは殊の外広い。おそらく情報収集という一点においては右に出る者がいないほど、伊月は校内の世情に長けていた。
しかし、そんな伊月が誇らしげに浮かべるドヤ顔にちょっとイラッときた来人は、とりあえずその脛に一撃加えておくことにした。
「いつっ! って、なんで僕が蹴られるんだよ!?」
「そんな些細なことはどうでもいい。こっちは神奈の理不尽な要求で一刻を争う危険な状態なんだ。とっととそのあてになりそうな人のことを教えてくれ」
「お前も大概理不尽ですよね!?」
実を言うと、神奈によって蓄積される来人のストレスを解消してくれるのは、何もモフッチに限った話じゃない。伊月をからかって憂さを晴らすことも、もうほとんど来人の日常業務なのだ。
そんなこととは露知らず、荒立った息を深呼吸でなんとか抑え込んだ伊月なのだが、それでも不服そうに口をもごもごと動かしていた。口をつきそうになる文句を必死に留めているのだろう。しばしそのもごもごは続いたが、渋々といった感じで本題に入った。
「三年生の烏野 依美。文化系学生支援部『黒羽談合会』の女部長さ」
「聞いたことない部活だな」
この学校の方針だと、部活動を設立する際には実態が分かるように種別さえすれば、部の名称自体は各自自由に決定することが許されている。手芸部『わたあめ』、文芸部『締め切り前のグッドデッドナイト』など、大抵の運動部はスポーツ名が部名にくるのだが、文化部は総じてユニークな命名をする輩が多く、なおかつ数も相当数存在するため、そのすべてを把握できているのは一握りの人間だけだ。
「表立って活動してるわけでもないから、知らなくても無理ないね。でもまあ、文字通り黒い噂はよく聞いてるよ」
「噂?」
「幾つかあるけど、『校長を脅して部費増額のために裏金を充てさせた』とか、『校長を骨抜きにして高級ソファーを強奪した』とか、『校長を人質にして部の問題を揉み消した』とか」
「校長ばっかりだな……」
というか、この上なく眉唾の臭いがする。
「そんな怪しいを絵に描いたような組織の長が信頼に値するのか? まともじゃない気しかしないんだが」
「毒を以て毒を制すって言うだろ? いや、良薬口に苦し、とも言えるかな? まともじゃない人間を更生させるには、まともじゃない助っ人が必要だと僕は思うけどね」
「……否定できない所が怖いな」
「それに、神奈ちゃん、確か精神科で診察を受けてもダメだったんじゃないの? だったらもう悪魔にでも魂売るっきゃないさ」
「ぐっ……」
錨をつけて海の底に沈めたいくらい思い出したくない事実を突きつけられ、今度は来人が押し黙る番だった。
嘗て一度だけ、神奈は精神科病院に連れていかれたことがある。神奈の両親が娘の言動を心配して決断し、来人もその時同伴したのだが、それはもう惨憺たる一日だった。紆余曲折した経緯は省くが、とにかく、診察の末に院内は阿鼻叫喚の渦へと陥り、最終的に神奈は治療不可の烙印を押されて病院を追い出された。
そんな過去を思うと、四の五の言っていられる状況じゃない。溺れる者は藁をも掴むらしいが、神奈という泥沼に足を取られてしまった来人には、およそ選択肢なんて呼べるものは端からないのだ。伊月に人探しを頼んだものの、ダメで元々だと諦めていた節があったのも正直な所だった。
「わ、分かった。今日の放課後にでも、その人を訪ねてみるわ」
結局、来人は差し迫った危機に屈した。
「にしても、今回のお前はやけに協力を惜しまないな」
「ん? どういう意味さ」
「いつもより意欲的ってことだ」
薄情でもなく、傍観者を気取るでもなく、自分が知っている限りの情報である程度まで誰かを支援する、伊月はそんな奴だ。だが、いるかいないかも判然としない人物をたった二日で探し当てるのは、いくら情報通の伊月であったとしても酷く骨の折れる仕事には違いない。そんな難行を部活動で忙しい身でありながら熟してみせた点に、来人は引っ掛かりを覚えていた。
「……な、なるほど。そのことか……」
急に狼狽し、伊月はその視線を空に漂わせ始める。そうかと思うと、身を乗り出して来人に顔を近づけた。
「……実は僕さ、昨日の放課後、神奈ちゃんに屋上へ呼び出されたんだよ」
「神奈に? ……そういえば、昨日は珍しく一緒に帰るとか言ってこないから平和は素晴らしいなんて思ってたけど、あいつ、お前に会ってたんだな。でも、屋上って確か施錠されて入れないんじゃなかったか?」
「無断で鍵を持ち出したのさ、神奈ちゃんが」
「……もう茶々入れるのが馬鹿らしくなる謎の行動力だな」
「でさ、ここからが本題。僕が屋上に行くと、フェンスの前で夕日をバックに佇んだ神奈ちゃんが、なんとその頬を赤らめながら僕のことを熱く見つめてたんだよ」
「え……?」
夕日が映える放課後の屋上で、二人きり。そして頬を染めながら熱く交わる視線。なんともロマンチックな、いや、ロマンチックすぎる状況だ。そんな舞台で執り行われる儀式など、来人には一つしか思い浮かばない。
「そしたらポケットの中から一枚の便箋を取り出して、両手に持ったそれをもじもじした態度で差し出してきてね。それであの子、こう言ったよ」
「お、おい、それって……」
告白。
――神奈が、伊月に告白……?
急展開すぎて来人の思考は置いてけ堀を喰らった。神奈が伊月を好きだというなら、今朝のあれは一体なんなのか。もし二人が付き合ったら、狂気に満ち満ちた神奈は姿を消してしまうのか、いや消してくれるのが希望なのだけれど、代償と言わんばかりに神奈が伊月と付き合ってしまうことがどうしても納得し切れなかった。
けど、あいつがそれで柵を捨てて元に戻れるというなら、幸せだっていうなら、幼馴染としてしっかり祝福してやるべきだ。自惚れに近いそんな悲壮感を胸に抱く来人。
「遺書を書いてくださいって」
「…………は?」
その逡巡は一瞬で無に帰した。
「いしょ?」
「そう、遺書。『日頃の恨み辛みを書き尽くしてね。なくてもいいから、嘘でもいいから、書き尽くして。そしたら靴を脱いでフェンスを登って、あの真っ赤な空へ飛び立とうよ! お花畑に行こうよ!』だってさ、ははっ…………はは……は……。これ、笑い話にならないよね……?」
「……あ、ああ……。ビックリするくらいクスリとも笑えないな……。貴重な経験ではあるが」
「面と向かって遺書を書かされる経験なんて要りません……!」
そりゃまあ需要なんてあるわけない。あったら困る。涙声で訴える伊月に対し、来人は同情を禁じ得なかった。
「で、原因は? お前だって理由もなしに殺されるわけにはいかないだろ」
「いや、理由があったところでじゃあ死のうとはならないけどさ!? もちろん訊いたよ。訊かないはずないって。最初は機械みたいに『遺書』の二文字しか言わないもんだから怖くて逃げたくなったけど、訊き続けたらなんとか答えてくれたよ」
「それで、なんだって?」
「…………」
「そこで黙るなよ」
バツが悪そうに口を噤んだまま、伊月は頭を抱えてなにやら苦悩していた。言うべきか、言わざるべきか、そんな感じだ。それだけ言い難いのだろうが、会話のボールを待つ来人からしてみれば焦らされる一方である。
睨むだけでは埒が明かないと、来人は渇いた喉を潤すために登校中に買っておいたお茶を口に含んだのだが、
「……どうにも来人と僕が付き合っていると疑ってるみたいだね」
「ぶっ!!」
盛大に吹いた。
「なんだよ、それ!」
「だから神奈ちゃん、僕とお前が禁断の愛に溺れてイチャイチャラブラブしてると勘違いしてるんだよ!」
「そんな馬鹿な! ただ男友達とだべってるだけなのに、あいつだってそれくらいは分か――」
登校中の出来事がフラッシュバック。
「――らなくてもおかしくない、な……」
「おかしくないの!?」
「犬との浮気を疑うぐらいだ…………性別の垣根なんて無力だ、あいつの前じゃ……」
「それもう末期症状だよね!?」
末期症状、何を今さらと来人は自嘲気味に薄ら笑う。人を殺めて永久の愛を誓うなどという発想が出てくる奴を末期と呼ばずしてなんと呼ぶ。そういうのを概して終わっているというのだ。
厄介な事態が重なり来人を追い詰めるが、狂おしく悶えるその横へ、追い打ちのように影が立つ。
「やっぱり仲良しさんなんだね、クル君、伊月君……」
「か、神奈!?」
仕事を終えたであろう神奈が、忍び寄りでもしたのか、何一つ物音を立てずにスッと姿を現した。当人が気配を消して登場したのだ、それまで神奈談義で震えていた二人をより一層縮み上がらせるには余りある。
「ち、違う! 俺と伊月はお前が不安視するような危ない関係なんかじゃない! 俺たちが親友ってことは、お前もよーく知ってるだろ!?」
脈絡なんか繕っている暇はない。来人は生存本能に突き動かされるように、突き出した両手でジェスチャーも交えながらひたすら弁解した。今はたとえ誤魔化してでも話を濁す。そうでもしなければ、神奈の疑念パラメーターが少しでも確信に振れた時点で、すべて詰む。
「うん、分かってるよ。クル君と伊月君は中学の時からずっと一緒だもん。仲がいいのは当然だよね」
「へ?」
それなのに神奈の感触は拍子抜けするほど穏やかだった。訝しそうな顔は一切せず、ただにこやかに笑っている。本当に誰かさんの人間関係を疑っているのか、ひょっとしたら伊月とのやり取りはなんらかの手違いがあっただけなのではないか、終いには、きっとそうだ、そうに違いないと錯覚するほど物腰が柔らかい。
「それで」
だが数秒の後、口角は吊り上がったままなのに、光沢を失って淀んだその目はしっかりと見開かれた。
「どっちが責めで、どっちが受けなのかな……?」
「お前に期待した俺が悪かった!!」
時既に遅し。もう詰んでいた。
神奈の疑念パラメーターはとっくに振切れていたらしい。なんと言っても放課後の学び舎で完全犯罪を目論むほど気が触れちゃってるわけだから、そんなことも今さらの話なのだが、実状は思ったより深刻だった。
「おい、今の聞いたか!? 米谷と楠って実はあっちの気があるらしいぞ!」
「ま、マジかよ……。でもそう言われてみれば、あいつらいつも二人でつるんでるし……本気でアブノーマルなのか!? 一線越えちまってるのか!?」
「嘘でしょ? だって米谷君には水橋さんがいるじゃないっ」
「所詮は遊びでしかなかったってことね…………最低」
「伊月は挑戦者だと思ってたのに……まさかそっちの世界に挑戦してんのかよ……。あーあ、幻滅だわ」
三人だけなら来人としても波風を最小限に抑えて難局を乗り切れたのだが、まずいことにここは朝の教室、目撃者があまりに多すぎる。他人の情事・不祥事を嗅ぎ取れば素早く肉迫し、貪り食うかの如く話の種にしては何事もなかったように去っていく血染めのハイエナ、高校生とはそういう生き物だ。そんな奴らに聞かれた以上、もう否定の言葉だけで事を払拭するのは不可能となった。
「……ね、ねぇ、なんなんだろうね……僕らの教室なのに、この超アウェイな空気……」
「ああ……まるでゴミみたいな伊月を見る目だ」
「お前もでしょ!?」
「悪い、間違えた。まるでゴミを見る目だ」
「んな器用な間違い方があるもんか!」
冗談はさて置き、今すべきはなんとしてでも二人の誤解を解くこと。それも誰かが噂を広める前に対処するのが望ましい。来人は肩を引っ張るようにして伊月を寄せると、他には聞こえないように声を窄めた。
「おい、伊月、今から俺が話す内容をみんなに向けて言ってくれ」
「……なに? いい打開策でも思いついたってのかい?」
ジト目で見てくるあたり、さっきの今で機嫌が斜めのようだが、なんとか聞いてくれそうだ。
「まあな」
「へぇ、来人にしてはなかなかの策士っぷりだね。流石、危険と隣り合わせの生活を送るだけはある。で、僕はなんて言えばいいんだい?」
「こう高らかに宣言してくれればいい。僕、楠伊月は、十二歳未満の幼気な女の子にしか興味がありません、って」
「なるほどね! 確かにそんな奇怪な嗜好の持ち主なら同級生の、しかも同性の人間が恋愛対象に入るなんて誰も思わな……ってそれじゃあ変態のレッテルに変わりないだろ!? 同性愛者からロリコンにジョブチェンジしただけで、どのみち社会からは抹殺されるよ!」
感嘆しながら手のひらをポンと叩いたかと思えば、急に血相変えて声高に慌てふためきだす伊月。やはり素直には従ってくれないかと、来人も眉間にしわを寄せた。
「行き着く先が変態だろうが、神奈をどうにかしない限りは夜道で後ろからズブリだぞ!? 社会的な死と身体的な死、お前はどっちを取るんだ!」
「ここで究極の二択!? それならお前が言えばいいだろ!」
「俺が滅多な事口にしたら、それこそ神奈がどんな行動に走るか分かったもんじゃない。変態になって俺たちを救えるのはもうお前だけなんだ!」
「変態になる自分が救いようないよ!!」
目を剥き喚き散らす伊月の気持ちは来人とて汲み取れないでないが、残念ながら目の前でブラックに微笑む少女の、その黒く渦巻く胸の内は推し量れない。いや一つだけ分かるルートはあるのだが、ここで手を打てずに神奈が黒く染まり、キルアスエンドというルートが。無論、丁重に願い下げたルートだ。だから来人はじっと伊月を凝視した。無言の圧力をかけるように。
「あぅ……ぐぐ…………くをぉぉぉ…………」
種々雑多様々な視線に囲まれて、伊月が苦悶する。
「…………わ、分かったよ、言や言いんでしょう、言や……」
そして屈したのだった。
背筋をピンと伸ばして神奈を正面で捉えた伊月が、それでも迷い戸惑い、来人の方へと視線を逃がしてきたので、来人は親指を立てて少し笑ってやった。お前ならできる、そう思いを込めて。
「悪いけど、神奈ちゃん、僕にとって来人は本当に友達以上の関係じゃない。何故なら……何故なら僕は……」
そこでついに、伊月が開眼した。
「十二歳未満の無邪気でマジ天使な女の子たちにしか、燃えるような愛情を捧げられないのだから!!」
「え……?」
ほんとに言った。しかも脚色し、この大衆を前に堂々と。その光り輝く立ち姿に、というか発言に、観衆は皆ポカンと口を開けていた。
「楠って、ゲイじゃなくてロリコンだったのかよ……」
「つーか、実際問題ロリコンの方がやべーだろ……。十二歳未満って、言ってることほとんど犯罪じゃねーか」
「クズね」
「同性婚は認める国もあるけど、ロリコンはちょっと……」
言葉の槍が四方八方から飛来し、容赦なく伊月の心を貫いていく。社会的制裁とはこうも無情なものなのか、そんな虚しさを覚える傍ら、シリアスで笑うべからずと、必死に笑いを堪える来人がいた。
「そうなんだ……」
だが、一人だけ態度を異にする者がいる。神奈だけが、伊月の話でホッと胸を撫で下ろすように、ほんわかした笑みで手を胸に当てていた。
「伊月君はちっちゃな女の子が大好きなんだね。それなら、クル君のことを好きになるなんてことないのに……馬鹿だなぁ、私……」
「と、当然さ……」
神奈に満面の笑顔で答えた伊月の頬を、堰を切ったように溢れ出した涙が伝う。それが嬉し泣きか悲し泣きか、将又それ以外の何かか、そんなことは知れる範疇じゃないが、とりあえず男がわんわん泣く絵はとても見れたものじゃないなと、今朝の自分を重ねつつため息をこぼす来人。
この日を境に伊月は『部活荒らしのロリコン』と呼ばれ、一部の者からは崇められるようになるのだが、それを来人が知ったのはしばらく経ってのことだった。