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病みまくった幼馴染  作者: 白烏
5月 16日 (土)
19/22

イントリケート・デートⅠ

「よーしよし。しかしお前ってほんと、ふわふわしすぎて触り飽きることがないよなぁ。俺の枕に欲しいぐらいだよ」


 青々と広がった空にぽつりぽつりと綿状の雲が浮かぶ晴天の下、開け放たれた漆瓦家の門扉の前にしゃがみ込む来人は、地上に落ちてきた白雲のようなモフッチを両手で優しく撫で回していた。


 ずっと黙って為されるがままのモフッチだったが、来人の言葉に反応し、短くわんわんと二回吠える。いつもより上擦りな、若干荒い鳴き声だ。


「悪い悪い。そうだよな、頭の下に敷かれるのは御免だよな。でもちょっと残念だ。お前が近くにいればいい夢も見れそうなのに。……いっそ抱き枕になるか?」


 冗談も交えて訊いてみる。すると、モフッチはしばし首を傾げた後、今度は遠吠えに近い間延びした声でわおんと鳴いた。


「まさか……了承してくれるのか?」


 犬に人間の言葉が理解できるはずもないことなど自明の理。だが、モフッチの見せた動作は如何にも人間様のそれと似通っていて、『うーん、どうしよっかなー? ……よし、決めた。今日だけ私が来人の隣で寄り添って寝てあげるっ』と脳内再生させるのは超を絶して余裕だった。


 相手はよくよく見知った女の子のはずだ。だというのに、真っ向から受けた好意の塊に体中の細胞が異常に活性化し、心臓が早鐘を打って血流を加速させる。留めきれないエネルギーが身体の奥底から迸って弾けた。


「よし、なら行こう。気が変わらないうちにすぐ行こう。俺とモフッチの新編開幕はもうすぐそこだ!」


 喜び勇んで抱きかかえようと両腕を回す。だが、あと少しで足が地上を離れようとしたその瞬間、モフッチは後ろ足だけで強く地面を蹴りつけ後ろに跳躍。来人の両腕からするりと抜けた。


 拒絶された、と愕然とするが遅く、モフッチはそのまま植込みの向こうへ爆走して行き、ガクガク震える縮こまった体の半分だけを覗かせる。つぶらな瞳はじっと来人の方を凝視していた。


 より正確には、来人の後ろを。より精細には、恐怖に染色された揺れる瞳で。


「クル君、何がもうすぐそこなのかな?」


 来人の中の対人センサーが接敵に対して警笛を鳴らす。


「…………」


 振り向けば――殺られる。


 意味もなく確信した。首を背後に回した瞬間、先の尖った突起物で両目を、あるいは突起が付いた鉈で骨ごと首を、いや直接的な斬撃打撃以前に、濃硫酸的な劇薬を浴びせられる線も捨て難い。できれば捨てたい。


 考え出せば切りがないたらればルートも、行き着く先は死して朽ち行く己のみ。


 ならいっそ、モフッチを見習って一目散に駆け出すべきかと一考するも、足がコンクリートにめり込んでしまったかのように動かない。それどころか、首、手首、腕、膝、体中のありとあらゆる関節が、錆びついた鉄くず同然にピクリともしない。無理に行けば間違いなくぽっきり逝く。


 現行犯だ。巧言令色ベラベラ語ればうるさい口からぱっくり裂かれてもおかしくない。言い訳を待たずして、というか、逮捕から拘留、検察、面会、入廷、尋問、判決、もろもろ飛ばして即刻死刑執行の瀬戸際である。


 こうなったらもう破れかぶれだと、来人は碌に動かない体に鞭を打ち、後ろに捻って地を這う亡者の姿勢を取る。そして肘から先で八の字を描き、膝は折り曲げ、背を丸め、恭しく、ひたすら恭しく頭を垂れる。


 絵に描いたような土下座をする来人の姿が、そこにはあった。


「悪かった! 冗談だったんだ! ただの出来心だったんだ! 悪ノリしたらいつの間にか目の前が真っ白に……いやこれは別にモフッチの毛に埋もれた想像をしていたとかじゃなくて――」


「何慌ててるの? クル君。ちょっと変だよ?」


「……え?」


 何を言われたのか分からずただポカンと呆ける来人だったが、ゆっくり顔を上げて視界に捉えた光景は、想像を超えて異質なものだった。


 レースで縁取られ、胸元の控えめな刺繍が奥ゆかしさを際立たせる白のワンピースに、ウエストよりやや高い所で結われた黒のリボンが線の細さを強調する。そして上から羽織られる腰丈程の白緑色のカーディガンが全体を優しく調和させる。


 そんなこじゃれた格好で両手に少し大きめのハンドバッグを携えた神奈が、一点の曇りもない満面の笑みで目の前に立っていた。


「本当に、どうかしたの?」


 頭上を仰いだまま思考停止している来人を心配したように、右手で前髪を持ち上げながら神奈が来人の顔を覗き込んだ。


「ど、どうかしたっていうか……お前がどうなってるんだ、というか……。その……俺がさっきまでしてたこととか…………怒らないのか?」


 自殺行為かとも危惧するが、訊かずにはいられない。


 来人の言葉でようやく意思疎通は図れたらしいのだが、同じ場所に立った神奈は何がおかしかったのか、口に手を当て朗らかに笑い出した。


「なんだ、そんなことかぁ。だったら大丈夫だよ。私ね、ちょっとだけ大人になることに決めたんだ」


「大人?」


「うん、大人。だからモフッチがどれだけクル君とじゃれ合っていたとしても、心に余裕がある私はそれを許してあげるの。やっぱり彼氏の求める理想の彼女は理解のある彼女だもんね」


「……」


 屈託のない笑顔を、信用すべきか疑うべきか。


 モフッチの体毛が身体に付着していたというたったそれだけのことで、間髪入れずにハンマーを大振りする少女の発言である。それのどの辺が理解あるかはまあさて置き、鵜呑みにするには勇気やら覚悟やらが多分に必要だ。


 第一心変わりが急すぎる。


 一日二日で考えがコロコロ変わるのは病気の一症状であるとしても、信条までホイホイ投げ出すような神奈ではない。その辺りがどうにも掴み切れずに延々と戸惑い続けている来人に、問題の神奈はすっと手を差し伸べた。


「はい、クル君。いつまでも地面に座っていないで立とうよ」


「あ、ああ」


 その手を掴んで立ち上がる。痣や傷が一つもない真っ白な神奈の手の柔らかさに一瞬動悸が早くなりかけるが、顔には出さず平常心を保つ。


 昔から、そして今でも度々神奈は来人の手を握る。そのため手の感触は飽和状態で記憶に焼きついているはずが、これがまた慣れないのである。照れ臭いわけでも緊張してしまうでもなく、とにかく慣れない。


 とはいえ、手を重ねること自体に抵抗があるわけでもなし、普通の所作となってしまったそれを拒む理由も別にないのだが。


「じゃ、早く行こっか。時間は待ってくれないからね」


「ちょ、引っ張るな。急かさなくてもすぐ行くから、とりあえず門だけは閉めさせろ」


 軽い足取りと共に腕を引っ張る神奈に一旦制止を掛けてから、来人は漆瓦家の門をそっと閉めた。モフッチは頭がいいので庭から飛び出すような真似は基本しないが、放し飼いのリスクは常に付き纏う。門は閉じるに越したことはない。


 ちゃんと閉まっているか再確認し、ふと隣の神奈を横目で見た瞬間、来人はそれを目撃してしまった。


 未だ植込みの陰で丸くなったモフッチを見下ろし、勝ち誇ったような悦喜の微笑みを露わにした神奈を。


 ああなるほどと、一人納得する。


 優越感だ。自分の方が恋敵より一歩も二歩も進んでいるという自負心が、自然と心に余裕を生み出したのだ。それを認めて改めて神奈を観察すると、『あなたは所詮遊びに過ぎない』と、目が口ほどにものを言っている。


 遠巻きに眺めながら、呆れた来人は心の中で静かに唱えるのだった。


 ――だから犬だって……。







 土曜日。


 約束したデートの決行日である。元を辿ると約束というより取引染みた交渉の上で決まったデートなのだが、名目上はデートで間違いない。


 そんな一日の始まりは、来人がデートデートと連呼する神奈に叩き起こされるところから始まった。目覚めた後も朝食の席における神奈は異常にハイテンションで、寝起きの来人のローテンションとは当然互換性があるわけもなく、半ば嫌がらせに近かったことは記憶に新しい。遠足前夜に徹夜した人間の、あのよく分からないテンションとぴったり合致していた。


 事実、神奈は寝ていないのだろう。わざわざ確かめるような来人ではないが、興奮の針が振り切れればそうであっても不思議はない。


 それから米谷家でテキパキと準備を済ませ、服を着替えるために一度自宅へ帰っていった神奈を待つ間、適当に時間でも潰そうと来人は漆瓦家に向かい、モフッチとじゃれ合った。その途中で少々ヒートアップしすぎた感はあるけれど、今回は神奈の無駄なハイテンションが功を奏した。


 まあつまるところ運が良かっただけである。次からは人目を憚って逢瀬に努めようと独りでに誓う来人だった。


 時間帯は早い方で、太陽もまだ東寄りの空で照り輝いている。といっても昨今の気温は五月中旬でも十分高く、熱く燃え滾る太陽は南中の前の肩慣らしと言わんばかりに地表をじりじりと焼き上げる。


 目的地の駅前は学校を挟んで対角線上に位置し、学校からは直通の道路が伸びている。距離としてはさして遠くもないが、こう暑いと気力の方が先に尽きそうだった。


 暑さで足取りが重い来人とは対照的に、隣で歩調を合わせる神奈は日光などものともしない様子で笑顔満面である。


「お前は平気なんだな。暑さなんてお構いなしか」


「そんなことないよ。私たち熱々だもん。周りの人が火傷しないように気を付けないとね」


「ああ、お前に訊いた俺が悪かったよな」


 茹だる寸前の熱波を浴びて尚、つっこみに回せる余剰分などない。


 屋内、それもショッピングモールともなれば冷房はある程度期待していいだろう。ともかく今は目的地を淡々と目指すことにした。


 移動手段にバスを、とも思案したが、バス停に引き寄せられた来人の腕を神奈が掴んで制止してきたので移動手段は徒歩。なんでも二人で歩く時間を大切にしたいとのことだが、そこら辺の主導権は神奈が握っているので従わざるを得ない。


 平日の登下校はカウントされないのかよ、と来人が力無げに嘆いたのは言うまでもないが。


 閑静な住宅街の小道を連れ立って歩き、商店街を抜け、大体二十分強程経ったところで学校の横を通過する。制服や指定のジャージ姿で校門に吸い込まれていく人影もチラホラ見られるが、土曜でそれなら部活動か文化祭の準備辺りが妥当だろう。


 そんな生徒たちを傍目に、ふと来人は『伊月は来ているのだろうか』と頭の片隅で考えてしまっていた。


 浮かび上がった親友の面影を 軽く頭を振って払い去る。また何かの部活に潜り込んでいたとしても、いたらどうだというのか。会えても言葉に窮するだけだ。考えてどうなるものでもない。


 依美にも灸を据えられたように、今日はあくまで自分の問題の方が先なのだ。


「そういえば文化祭の準備の方はどんな感じだ? 器量のいいお前が加わったんだ。それなりに捗ってるんだろ?」


「ううん……どうなのかな。クラスの方は特に問題なく進んでると思うけど……」


「けど?」


 煮え切らない返事に引っ掛かりを覚える。


「全体としての企画がまだ固まってないみたいなの。文化祭を通して生徒と来場者が楽しめるゲームみたいな催しを計画してるんだけど、たくさん案が挙がる分だけ反対意見もいっぱいあって」


「なるほど、それは揉めるわ」


 生徒だけでなく来場者までターゲットを広める点が厄介なのだろう。老若男女、誰もが楽しめる総合的なアミューズメントというのは滅多にない。あちらを立てればこちらが立たず、という奴だ。


 立案の中核を担うのは文化祭実行委員の上層部と、それにもしかしたら生徒会の面々も一枚噛んでいるかもしれない。どちらにしろ、そういう注文の多い企画に関しては、雁首揃えて提案し続けたところで互いに互いを傷つけ合うのが関の山。思い切って特定の誰かに任せた方が賢い。


「でね、実行委員の委員長さんが、昨日私に何か意見はないかって訊いてきたの。補佐として出席している私なら、凝り固まった視点の外から独創的な案が出せるんじゃないかって強く勧められちゃった」


「一理あるかもしれないけど、随分と強引だな。それじゃまるで今まで必死になって考えてきた奴らを否定しているようなもんだ。誰だよ、その委員長って」


國江渡くにえどさんだよ。ほら、厚縁の眼鏡を掛けて、生徒会長もやってるあの」


「ああ、あの人か」


 ツンツンと尖った短髪に、黒縁の眼鏡をクイクイ指で押し上げている姿が印象的な三年の國江渡 冬希とうき。成績は理系中トップの秀才で、一年の頃から学年一位の座を譲ったことがないとか。その堅そうなイメージとは裏腹に随分と砕けた物腰をしていて、ユーモアセンスも相まって生徒会長の座を圧倒的な票差で勝ち取った、と言われている。


 面識はない来人だが、生徒会長ともなれば嫌でも顔は覚えるものだ。なにせ集会がある度に全校生徒の前に登場しているのだから。


「にしても珍しいな。普通、生徒会長は実行委員にはならないだろ。それも委員長まで兼任するなんて」


「うん、普通はね。今回は特別で、本人が直々に先生たちを説得したらしいよ。自分が仕切った方が、生徒会の仕事と併せて上手く処理しやすいからって」


「働き者というか、自信過剰というか……いろんな意味で脱帽もんだな」


 尊敬を通り越して呆れてしまいそうだが、一応称賛はしておく。


 そんな他愛もない雑談に花を咲かせているうちに、道幅が先の数倍近く広がり、歩道の造りがレンガ敷に変わる。ガードレールを境界として、内側にはぽつぽつと点在する立木やその周囲を囲むように設置された環状のベンチ、それに衛星を意識したゴミ箱など、休憩スペースとしても活用できるようにとの配慮が至る所に見え隠れする。


 この町は志木西高校を大体の中心に、教師や生徒たちの多くが住まう住宅街と、多数の百貨店や飲食店が立ち並ぶ賑やかな繁華街に二分される。


 比較的落ち着いた雰囲気の住宅街とは異なり、こちらの地域は交通量とそれに付随する喧騒が絶えない。学校帰りにふらっと立ち寄る生徒も数知れず、そういった学生を対象にした店、例えばゲームセンターや書店等も、基本的にはこの周辺に集中している。


 俗にいう所の激戦区である。


 もっとも、ネオンやコンビニの光で昼夜明るく輝いているからこそ、そこへ闇が沸いてくることもまた事実。少し奥まった所にある路地裏などはその代表例で、何かと物騒な事件が頻発しているらしい。


 校内に張り出された掲示の中にも、予防としてその手の注意を促す物はよく見かける。


 そういう人目につかない場所へ足を踏み入れるべからずというのが、本日、来人の定めた鉄の掟だ。無論、恐喝や違法取引も注意の対象ではあるが、それ以上に神奈が暴走する危険を考慮した上での結論だった。


『本日のお天気です。午前中は爽やかな快晴の空となりますが、午後からは雲が広がり、にわか雨の降る地域もあるかもしれません。外出する方は急な雨にも対応できるよう折り畳み傘などがあれば安心です』


『洗濯ものが濡れないように注意しないといけませんね。それとも、今日は天日干しを控えて部屋干しにした方がいいんでしょうか?』


『いえ、現在の気温と湿度なら、今から干しておけば雨が降る前までには十分渇くでしょう。ですので、なるべく早めに――』


「雨が降るかもしれないんだね。今はこんなに晴れてるのに」


 電気店の前に置かれたテレビに映る二人の女性の会話を聞き、憂うように空を見上げてぽつりと神奈が呟いた。


「まあにわか雨程度なら問題ないだろ。いざとなったらコンビニでも傘は売ってる」


「……うん、そうだね」


 神奈は目に見えて元気を失くしていた。雨が降る煩わしさからではなく、きっとせっかくのデートに水を差されること自体が嫌なのだろう。来人にもその気持ちは分からなくないし、なんというか微笑ましくもある。


「まあ、その……あれだ。もし雨が降ってきたら、そこらへんの喫茶店でも入って時間を潰すっていうのもいいかもな」


「ほんと!?」


 しょんぼり肩を落としていたのが嘘のように、目を爛々と輝かせて来人に詰め寄る神奈。そのあまりの変容ぶりには思わず来人もたじろいでしまう。


「雨が降ってきたらな」


 神奈は一人、楽しみだなぁと、うっとりとした表情で感慨に耽る。


 来人の注釈など端から耳に入っていないようで、想像の世界に浸る神奈は既に雨天デートも楽しみの一つとして加えてしまったらしい。


 羨ましいくらいのタフネスだ。


 何割か増しで気分好調になった神奈を引き連れ、道路を挟んで屹立する数多の店の横をそそくさと通過していく。


 自宅から学校までが約二キロなら、学校から駅までが距離にして一キロ弱。十分経つか経たないかという内に、来人たちは駅の前まで辿り着いた。


 真の目的地、最近できたというショッピングモールはこの駅を挟んだ向かい側にある。一度駅の構内に入ってから、反対側の出口を目指して突き進む。日光がほんのり差し込む階段を上って褐色の扉を開けた先で、それは来人の視界に飛び込んできた。


「で、でかい……」


「わぁ!」


 手前には、それだけで学校の敷地面積を優に超えるであろう駐車場。その頭上には広大な駐車場を横断する歩道橋が伸び、橋の終端地点、ここからだと数百メートル遠方の所に巨大な建造物がそびえ立つ。若干揺らめいて見えるのはそれだけ距離があるという証拠だが、それを差し引きしても遠近感に自信がなくなる超スケール。


 想像を軽く絶した。


 てっきり大型を名乗る中小型ショッピングモールだろうと甘く見積もっていたが、タイトルに偽りなしとでもいうのか、名前負けしない立派なモール型ショッピングセンターである。


 建設中の姿は来人も何度となく目にしてきた。しかし、実際に出来上がったものは迫力から何から悉く段違いで、骨だけ見ても恐怖しないが実態は地上最強の爬虫類だった恐竜の化石、というギャップに似ているかもしれない。


「とりあえず入ってみるか」


「うん。中はどんな風になってるんだろうね」


 屋根のついた歩道橋を渡って真っ直ぐ建物の方へ向かう。日光が遮られた通路は暑さも幾分薄れて野晒しよりかは歩きやすい。


 ただ一点、難所を挙げるとすると人口密度だろうか。


 子連れの家族や男女のカップルに、OL風の女性集団や男子高校生の軍団、孫と思しき少年少女と手を繋いだ老夫婦。来人たちの周囲は同じようにモールへ向かう人の流れでごった返していた。


 流石にオープンしたての巨大商業施設だけあって、物見遊山で訪れる人間の多いこと多いこと。商店街どころか繁華街の客を九割以上掻っ攫っているのではとも思える大盛況ぶりだ。


 入る前からこれだと、屋内がどうなかっているかは想像に難くない。人海が形成されてないことをただただ祈る。


 とりあえず入口手前に設置された構内の案内板の前で一度立ち止まり、そこから少しでも区画の情報を仕入れることにした。行き当たりばったりの方が気ままに楽しめていいのかもしれないが、規模が規模だけに迷ったら洒落にならない。


 本当は神奈が見せてくれたパンフレットに構内図もあったのだが、なるようになるだろうと碌に目も通さなかったことがここに来て悔やまれた。


「えっと、広さは東京ドーム二個分…………って、広すぎるだろ……。一体どんな裏技使えば繁華街の中心にこんな馬鹿でかい敷地が確保できるんだよ」


「ねぇ見て見てクル君、ここの三階のフロア、全体がレジャー施設になってるみたい。カラオケにボウリング、あ、隅っこの方にはプールなんかもあるよ。それにショッピングモールの外にもちょっとした遊園地や教会なんかもあるんだって」


「底知れないクオリティーだな。先輩が毒づいた理由も分かる気がする」


 ――『無駄に金だけ掛かっていそう』というか……確実に掛かってるだろ、これは。


 どれだけの暇人でも、一日で制覇を狙うのは明らかに無謀なレベル。プチ万国博覧会とすら換言できるかもしれない。


 来人の目的は何も全体を隈なく散策することにはないので変に気負う必要などないのだが、それでもやはり圧倒的なスケールが放つ重圧というのはある。それはもう巨大生物の胃の中に飛び込むくらいの感覚だった。


「さあ行こっか」


 神奈が怯む来人の背中をポンと押した。


「あ、おい、押すなって。ただでさえ人が多いんだ。転んだら危ないだろ」


 意気揚々とした神奈の元気に乗せられる形で、丸みを帯びたアーチ状のゲートを潜っていく。狭まった通路に雑踏が反響し、なんだか別次元への入口でも通過している錯覚に陥る。日常的なのに、どこか非日常的な空間。


 ゲートを抜けた来人と神奈は辺り一面に広がる煌びやかな景観に息を呑みながら、雑踏の中へ一歩足を踏み出した。

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