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病みまくった幼馴染  作者: 白烏
5月 15日 (金)
18/22

アネスト・クエスト

「あ」


「あ」


 放課後、部室棟へ続く渡り廊下の手前にある曲がり角から、片手に鞄を下げて優雅に歩み出てきた依美と、来人は鉢合わせした。


 互いに足を止め、野良猫同士の如くじっと牽制を利かせる。


 時間にして五、六秒程度だっただろうか、依美は興味を無くしたようにふいと顔を正面に戻すと、すらりと伸びた足ですたすたと渡り廊下の方へ歩いて行く。道端の石ころ扱いを受けたようでどことなく癪だったが、来人も依美の後ろに続く。


 こんな所で出くわすとは、正直来人も予想していなかった。


 いつも扉の先でふてぶてしく座っているのが烏野依美という女生徒であり、出会ってからの今の今まで、来人が部室以外で依美を見かけたことはない。固定観念と言ってしまえばそれまでなのだが、それがどれくらいかは、咄嗟に浮かんだ感想が『この人、ちゃんと授業出てるんだ』であると言えば概ね想定されるだろう。


 だからと言うのはお門違いも甚だしいけれど、できることなら部室にいて欲しかったというのが来人の本音だった。


 いきなり現れたのでは心の準備などできるはずもない。その結果、出合い頭に睨み合って固まる奇妙な構図になってしまった。


 なんというのか、部活や依美のことを頭に上げると、ついでに昨日会った理事長の顔と言葉がおまけで蘇ってくるのだ。だから部活に出ればきっと気まずくなるだろうと、そう危惧して直帰も考慮に入れたのだが、やはり契約の条件として指定されているだけに背くことが憚られた。


 せめて部室に着くまでには心の整理をするという算段が、こうも早々打ち崩れることになろうとは。おかげで挨拶一つ碌に交わせなかった。まあ向こうも堂々と無視を決め込んでくれたので、そこら辺はお相子なのだが。


 しかし、どうしたものか思索する。


 理事長――一宮は依美にも話を通したと口にしたが、それはあくまで転校の件を指して言ったのだろう。まさか依美も、自分の母親が来人に交渉を持ち掛け、半強制的に事を進めようとしているとは思ってもないだろう。もし完遂を謳う彼女の耳に入れば、おそらく親子喧嘩が勃発する。一宮と依美の仲が順風満帆と無縁なら尚更だ。


 ともすれば黙っているよりない。


 来人としても今この一件を荒立てるメリットはないのだ。隠し事がいいのか悪いのかはそれこそ別問題。ただでさえ非力な自分が伊月と美蒼乃の二人をどうにかしようとする以上、また依美の手を借りることだってあり得る。


 もっとも依美の意志を尊重するなら、とっとと断ってしまうのが最善なのかもしれない。


 一宮がくれた時間を願い下げ、あの場できっぱり断ることが来人にはできた。が、どうしてそうしなかったのかは、実際の所、来人もよく分からないでいた。


「どうして付いてくるのかしら?」


 渡り廊下を悠々歩く依美が背中越しに問いかける。


「いや、目的地が同じってだけで、別に付いていってるわけじゃ」


「そうね、言葉を間違えたわ。――どうして来るの?」


 続け様に今度はそう訊かれて困惑する。


 どうして来るのと訊かれれば、それはやはり依美が提示した条件、『米谷来人にも黒羽談合会の仮部員となって働いてもらう』というのが頭に浮かぶ。それを答えにしようとして、しかし待てよと思い止まる。


 条件と命令は全く違う。条件として与えられた仮部員の身分としては、今日という日に絶対顔を出さなければならない拘束理由はないのだ。


「どうしてって…………どうしてですかね……。癖というか、条件反射というか、放課後になったらついなんとなく」


「なんとなくとは不純なことね。部室は聖なる空間なのであって、屯場たむろばとは違うのよ?」


「その空間を私物化してるあんたに言われたらお終いだよ」


「敬語が慰安旅行」


「先輩お終いですね」


「略せとは言っていないわよっ!」


 何度も何度も反復されたやり取りに、身体の方が順応している。慣れとは恐ろしいものだ、などと酔いしれている所に前方から殺意めいた視線が飛んでくるので、とりあえず『すいませんでした』と詫びた。


 謝意の欠片もない形式的なそれだったが、依美はまあいいわと言わんばかりに鼻をふんと鳴らすと、また前を向いて歩を進める。


「けれど、そうね……ある意味ではなんとなくで来てもらった方が助かるわ。また面倒な依頼を追加で持ち込まれても厄介だから。そういう点ではお前を見てすぐ、どれだけ女難の相に恵まれているのかこの阿呆は、と思ったことを詫びるとしましょう。勝手な憶測に、しかも阿呆はないものね」


「それはそうだがその前に、俺が女の子のことでしか悩まないみたいな前提を謝れ」


「事実じゃない?」


「荒唐無稽だ!」


 神奈はともかく、美蒼乃の方は伊月も一応関してきている。さも贅沢な悩みをひけらかすチャラ男のような扱いを受ける謂れはない。


 こんなくだらない言い争いをしていると、目の前の少女が本当に母親と対立しているのかどうか、そこからして疑わしくなってしまう。それこそ、実際は親子ともども自分をからかいにきている可能性を推したくなる程だ。


 ――いや……違う、よな……?


 部室棟に足を踏み入れ、右手前にある階段を上る。放課後になった直後というだけあってまだ人の姿は疎らなもので、話し声もほとんど届かない階段では、二人の足音が殊更強く反響する。


 二階の踊り場を経由したところで、吹き抜けを囲むように設計された各教室前に、やたらと段ボール箱の山が点在しているのが視界の隅に見えた。


 この階を占める部活動の割合は百パーセントが文化部で、一階は約十パーセント程度。その一階にも所々に積み重ねられた段ボールはあった。率先して解明したくなるような謎でもなんでもないが、一度気になってしまうとやけに頭に粘着する。


 そしてそういうプチ謎は、概して呆気なく、例えば階段の壁に貼られた掲示か何かで解決するものだ。


『来たれ! 志木西高校晴間祭!!』


 色鮮やかに描き込まれた派手なポスターには3D体でそう書かれていた。


「そういえば最近忘れがちになりますけど、文化祭が来月まで迫ってましたね」


 文化祭というと、大抵は秋の風物詩として十月、十一月辺りに開催されるものが最も印象深いが、志木西高校は曲がりなりにも進学校であるために、開校当初から文化祭は六月の年中行事となっている。受験シーズン突入前に気が散らないようにとの三年生への配慮であり、このご時世ではこの時期に執り行う学校の方がむしろ一般的かもしれない。


 その六月は梅雨の時期。当然この地域も日本の気候の例に漏れず、雨がしとしと降り続いて気分が落ち込む、いろんな意味で空気が湿っぽくなる一ヶ月だ。


 創立以降初めての文化祭の日も雨が降っていたらしい。予定していた屋外イベントが中止の危機となり、狭苦しい屋内に押し込まれた閉塞的な祭りを憂う全校生徒。そんな彼らをまるで救わんとするかのように、次第に雨が止み、雲の隙間から光の橋が伸びた。文化祭の全プログラムは無事決行され、その年の文化祭は幻想的な光に彩られた空の下、見事大成功を収めたと今なお語り継がれている。


 故に――晴間祭。


 と、噂されている。あくまでも噂の範疇で、実の所は分かっていない。というか、大多数の人間は信じていない。いくらなんでもそう都合よく天気が微笑んでくれるわけがないし、ネーミングからして脚色めいた何かが怪しく光っている。


 実際雨の中で実行された文化祭なんて過去に幾つも存在する。そんな祭りの開会宣言で、『晴間祭』という名を声高々に叫ばなければならなかった歴代の生徒会長たちの胸の内は如何様だったのか。不憫でならない。


「ああ、通称ゴミの日ね」


「そんな通称は存在しない」


 何故か忌々しげな声調で依美が毒づく。


「だってそうでしょう? 普段から『資源は大切に』とか、『エコ推進』とか、大々的に押し出してるくせに、自分から括弧笑い括弧閉じを括りにいく愚行。それを滑稽と言わずして何が滑稽なの?」


「……まあ、それは否定しませんけど。結局ああいうのって結果よりも過程を楽しむもんですから。大量の廃棄物が出たとしても、笑い合えれば全部宝物ってことなんじゃないですか?」


「嘲笑なら腐る程してあげてよ」


「性格悪いぞ、あんた……」


 ノリの悪い生徒が陰でぼやいたり、テンションが治まらない生徒が冗談交じりに口にしたりするのを聞いたことがあるが、ここまで一本筋が通っているのは希少種だ。文化祭に親でも殺されたのか。まあ生きているからそれはないが。


「クラスメイトや部の仲間同士で協力して事を成そうとする姿勢は、別に悪いもんでもないでしょうに。何がそんなに気に入らないんです?」


「心外ね。私だって何も、文化祭自体が気に食わないなんて言っていないでしょう?」


「じゃあ何が……」


「さあ。強いて言うなら薄っぺらな建前とかかしら。クラスで一致団結して――なんて口にする裏で、実態は協力していない人間がいたり、精力的でない人間に対して無理強いしたり。見ていてあまり気分が良くないのよ」


 依美の意見は強ち間違いじゃない。部活動はまだしも、クラスの展示物はクラスメイト全員が手を加えている物の方が現実問題レアだったりする。委員会や部の兼ね合い、ただ単にサボる者、などなど、原因を挙げれば枚挙に暇がない。


 突き詰めていくと、そういう意味での純粋なクラス展示などこの世のどこにも存在しないように思う。あるとすればドラマの中程度だろう。


 言うなれば、世の慣わしの域に達している問題である。完璧を追求すると必ずどこかでボロが出るので、程々を目指さざるを得ない命題なのだが、依美にとってはあまり芳しくないようだ。


「そこまで言うなら、先輩が先頭切ってお手本でも見せたらどうですか? クラスはダメでも、部活動単位でならやれることはあるでしょ」


「嫌よ。面倒じゃない」


 依美は悪びれもせず来人の提案をあしらう。


「……。あんた、自分勝手ってよく言われるだろ?」


「言われないわね。融通無碍ならよく言われるけれど」


「いい風に言い換えるな! そんなわざわざ四字熟語辞典引かなきゃ出てこないような熟語で形容する奴いねーよ!!」


 階段を上りながら声を荒立てるのは流石に身体に堪える。ようやく三階の床を踏んだ時には、来人の息は切れ切れになっていた。


 それに対し、終始冷やかなコメントしか漏らさない依美は、汗を浮かべた来人の顔をチラリと見遣り目で笑うと、あくまで自分のペースは崩さぬままに、何食わぬ顔で再び来人の前を先行する。


 段ボールが至る所に山積していた二階と違い、基本教室が物置化している三階の廊下は障害物もなく実に歩きやすい。唯一その三階に拠点を構える部活の部長も文化祭に関心を持っていないのだから、当然と言えば当然だろう。


 適当に周囲を観察しながら歩く来人の耳に、階下から吹き抜けを通って聞こえてくる生徒の声が一つ、二つと増していき、それらは次第に話し声となって静かだった西棟を喧騒で染めていく。


 文化祭が近づきモチベーション及びテンションが加速してきているのか、断片的に聞き取れる会話の中にはそういった類のものもチラホラ混ざっており、加えて何人かが一緒に廊下を走っている足音や、何かの衝突音と叫び声の後にドスンという騒音まで聞こえてくる始末だ。


 自分が知らない裏で、他の生徒たちは文化祭を色濃く意識し始めていることを再確認する。感傷程ではないにしろ、何かに精一杯取り組もうとする人間を傍で感じることは、やはり悪い気分ではない。


 のだが、前を行く依美は彼らの気合と反比例するようにテンションを落とし、歩く歩幅を目に見えて短くした。


「思い出したわ……もう一つ不快に思っていたことを」


「……。一応聞いときましょうか……」 


 聞けば疲れるのは火を見るよりも明らかだが、毒を食らわば皿まで。自分から話を振った責任の一端ぐらいは担うべきだろうと、来人は依美の話に耳を傾けた。


「動物園の真ん中に放り込まれたような気分になる」


「あー、なるほど。まあ騒がしいですからね、動物園。特にサル山とか、時々耳を押さえたくもなりますし。それなら俺もちょっとは分かる気がします」


「いえ、そうではなくて、知能指数的に」


「言い過ぎだ!!」


 動物レベルまで脳が減退するとでも言うつもりか。上から目線の高度が尋常じゃない。


「もうその域まで達したら気に食わない云々じゃなくて、ただの強迫観念だからな!? 仮にも進学校の生徒たちにそれはないだろ」


「何を言っているのかしら、進学校だからこそでしょう? 学業で束縛され抑圧された人間だからこそ、たまに馬鹿を演じてみたくなってしまうものなのよ。天才と馬鹿は紙一重などとよく言うけれど、ネジ一つ外せば天才もただの馬鹿。なまじ頭がいい人間が馬鹿になりきる絵面だからこそ、平凡な学び舎より一回りも二回りも頭が弱く映ってしまう、というわけ」


「り、理路整然と諭された……!」


 いや、実際はそれっぽい屁理屈ででっち上げられた妄言でしかないのだけれど、依美が口にするだけで言葉に乗る重みが段違いに変わる。人の思考の隙間にするりと入り込む卓越した話術。そら恐ろしいことこの上ない。


「とまあ、ここまで不平不満しか並び立てていないのだけれど、文化祭を全面否定する気がないのは本当よ」


 そう言って、部室の前に到着した依美は後ろを振り向いた。


「そこに少なからず価値があることは理解しているつもり」


「あんたの意見のどの辺とか叩けばそんな前向きな解釈が転がり落ちてくるんです?」


「ツンデレだとでも思えばいいのではない? べ、別に、文化祭のことなんて嫌いでもなんでもないんだからね――と」


「それ逆です。というか、ツンデレと思い込まなきゃやってられない時点で詰んでるんですよ」


「あら上手い。座布団一枚、私に献上できる権利を与えましょう」


「……くれないんだ」


 ――別に欲しくもないが。


 ズバズバと自分の言いたいことだけ言い切ると、自前の鍵でドアを開錠してとっとと部室に入っていく依美。融通無碍であるか否かはともかくとして、独立不羈であることだけは確かだ。


 先人追わず道辿らず。


 自分が歩けば道ができるというように、依美にとっては我が道を行く、すなわち新道開拓が基本なのかもしれない。それ自体は天晴なのだが、惜しむらくは目先に転がっている障害物を嘲り遊び倒すこと。それさえなければとも思うが、もはや一種のアイデンティティと化した悪癖の治療法などない。


 とはいえ今回に関して言えば、特に被害を被っていない来人である。別に依美が文化祭好きでも文化祭嫌いでも、個人の感覚にそこまで強く言及するつもりは毛頭ない。ただ単に話を振る相手を間違えた程度の認識で事済ましていた。


 依美が開け放ったままのドアから入り、後ろ手に閉める。


 奥を見ると、既に依美は愛用の回転椅子に深く腰を据えており、いつの間に取り出したのか、その手は例のタブレットをしっかりと握っている。行動が逐一早すぎるし、思わず我が家かよとつっこんでしまいそうなくらいの羽を伸ばし様。もの凄くだるんだるんだった。


 そういう私生活感丸出しの姿は大抵幻滅の対象なわけだが、依美の場合は元がいいから扱いに困る。ただ座っているだけのくせに、やけに凛然として絵になるのだ。その無駄な神聖さたるや、美術展に飾られている中世ヨーロッパの絵画と通じるものがある。


 依美のだらしなくも侵し難い格好に半分呆れた視線を向けつつ、来人もソファーに腰を落ち着け、膝元に鞄を置く。意識したつもりはないが、身体はここを己が定位置として覚えているようで、なんだか妙な感じだった。


 まだ数回来たに過ぎないが、畏まる必要もない心地良い空間。


 外界から隔離された別物の世界のようで、さっきまで耳に集っていた生徒たちの声も遠くに聞こえる。余計な情報に心が乱されることのない静けさは、やはり三階にただ一つの部室であることが大きいのだろう。


 何も気負わず来た時とそうでない時で、部屋の印象がこうもがらりと変わるというのは新発見だ。確かにのんびり過ごすその一点に絞れば、部室を聖なる空間と称する依美の主張も強ち的を外してない。


 体を押し返さんばかりの弾力を発揮するソファーをチラリと見遣り、それから依美の使っている回転椅子、その前にどっしりと置かれた机、絨毯、壁際の戸棚といった順に焦点を移していく。


 そして、なんとなく来人は理解した。


 ファーストインパクトが強烈過ぎてインテリアの絢爛さばかりに目が行っていたが、よくよく観察すると、所々擦り傷があったり色が変色していたりと、そのほとんどが使い古された年代物であることが窺い知れる。


 では問題として、出所は何処か。


 答えは依美が理事長の娘であることを踏まえると大方予想できる。


 一宮は娘だからといって特定の生徒を贔屓して設備を新調するような人間ではないだろう。だがそれらがもし捨てるものだったなら、新設備を導入した際に廃棄する予定だった余り物の備品を集めて寄越したというだけなら、それ自体はあまり責められることでもないはずだ。


 事実だけ掬い取ってみれば、倉庫代わりに備品を仕舞い込んでいた三階の部屋を、部室として依美に提供しているに過ぎない。言うなれば移動の不便さに伴う対価。埋め合わせである。


 依美に纏わる謎が一つ解け、ほんの少しスッキリする来人であった。


「ところで、これは敢えて伏せているのかと思って言及しないでいたのだけど、あの二人については何かしら進展があったの?」


「…………」


 世間話でもする体でずばり訊いてきた依美に、油断していた来人は条件反射で固まってしまった。伏せているのが分かっているなら訊くなよ、と頭の片隅で考えこそするが、今はそれどころじゃない。


 あの二人というのは、まず間違いなく伊月と美蒼乃だ。


 依美にとっては所詮有象無象の情事沙汰。伏せていたというよりは、そういう相手に言い出すタイミングが見つからなかっただけなのだが、まさか依美の方から話題に上げてくるとは思いもしなかった。


 胸を刺すような痛みは昨晩の一件で幾ばくか収まりはしたものの、いざ改まって口にするとなるとやはり勇気がいる。景気づけも兼ねて一つ咳払いして、来人は依美の方へと身体を向けた。


「進展も何も、昨日先輩が居合わせた席での会話が結論ですよ。荻島は伊月から手を引いて、その伊月は今日からまた部活荒らしに精を出してます。それだけです」


「ほぅ。で、荻島美蒼乃はともかくとして、それでも楠とは何か話したのでしょう? 同じクラスなのだし」


 論点を昨日から今日へと移して問いかけられるが、来人は静かに頭を振った。


「……いや、話してませんよ…………何一つ」


「あら、そうなの」


 口とは裏腹に意外そうな顔一つせず、依美は続けた。


「やけに飄々としているから、てっきり話し合いでひと段落ついたのかとも思っていたけど、そうでもないのね」


「伊月とだけ話をつけた処で何かが解決するわけでもないですから。まあその伊月一人にだって、今は言える言葉一つありませんでしたけど……」


 より正確さを期すなら、朝の教室で出会った時に互いに朝の挨拶だけは交わしていた。席の都合上、来人が伊月と一回も顔を合わせずに席へ着くこと自体、不可能に近い。だから最初の一回は会話を織りなす機会があった。


 しかし結果として、苦々しく『おはよう』と口にして以降、来人は何も話すことができず席に着いた。


 来人だけでなく伊月もだ。碌に目も合わせずに『お、おはよう……』と歯切れの悪い返事だけを零した後は、休み時間、授業通して一切来人に関与せず、もちろん昼休みも別行動を取った。


 伊月が何を恐れたのかは分からない。


 殴られ叱責されることを避けたかったのか、あるいは万に一つでも同情されたくないと思ったのか、またあるいは――再び美蒼乃と引き合わされる事態を危惧したのか。


 どちらにしろ伊月が素直に話を聞いてくれた処で、何も言えない来人にはどうすることもできない。結局無言で俯き合うことしかできないのなら、無理に言葉を綴ったってしょうがないというのが来人の見解だ。


「ま、諦めることは至極適切な判断よ。私としても手間のかかる案件をこれ以上引き摺られたら堪ったものではないし」


「はい? えっと……俺、諦めるなんて言いました?」


「…………」


 眉を寄せて来人を見つめる依美の眼差しが、可哀想なものを見るそれだった。


「……うつけなの?」


「酷い言われ様だな……」


 だが真実を突き付けられて言い逃れもできない。確かに事ここまで及んでおいて、まだ何かしようとするのは愚者そのものだ。


 それでも来人にはもう迷いはなかった。


 神奈のことで心を挫き、無力感に苛まれ、逃げ惑うばかりだったのがこれまでの自分なら、非力を受け止め、ゼロのままでも一歩進めるか否かを見定められる機会が今だ。二人のことを大切に感じ、その大切な何かを守るために動けるかどうか。そのことに、本当はいの一番に気づいてなければならなかったのだ。


 為す術を失くすことを、心のどこかで分かっていた。だから昨日の話し合いで蹴りをつけられればいいと期待していた。


 神奈の時と全く変わらない。


 要となるのは自分ではどうにもならないと状況に追い込まれた後、それでも持ち堪えて突き進もうとする意志。それは今までの来人に欠けていたものだった。


 もし、この先本気で神奈を更生させようとするならば、それをこの機会に手にしなければならない。二人の心を噛み合わせるためにも、そして来人自身が神奈を助ける術を見つけ出すためにも、もう脇道に逸れることだけは絶対にできない。


 虚けからのスタート。


 着飾らない来人の意志はようやく芽吹きだしていた。


「まあ、なんと揶揄してもらっても構いやしませんよ。俺は何もできないながらにやり通すだけですから」


「……そう」


 憐れむような視線から一転してそっけない相槌。だが、その無情さとは対照的に、依美の口元は何故か少しだけ綻んでいるように見えた。


「で、そう言い切るからには何か考えがあるのでしょう? これからお前は何をするつもりなの?」


「……いえ、今の所はその……ノープランです」


「は?」


 頬を掻きながらおずおずと来人が答えると、無表情だったはずの依美は眉間にしわを寄せ、慈悲をかけるような、それでいて蔑みの色も含有したような、なんとも取れない微妙な表情を浮かべた。


「あまり露骨に訊くとあれだから、ここは遠まわしに訊いてあげるけれど――馬鹿なの?」


「俺はその言葉以上にストレートな謗言ぼうげんを知らないんだが」


「あるでしょう。羽虫とか、ガラクタとか」


「人ですらないのか……」


 なるほど確かに、そういう階位が宛がわれるなら、馬鹿というのはまだ成長の見込みも含めてマシな方なのだろう。まあそれもこれもあくまで依美の中の絶対基準であって、一般からは遠くかけ離れた価値観だが。


 そういう依美の回りくどさはともかくとして、馬鹿者扱いされることに、来人としてはそれほど抵抗がなかった。どちらかと言えば『ああ、その通りだ』と、首を縦に大振りしてしまうくらいだ。


「けどやっぱり、馬鹿げてると思いますか?」


「ええ。大層馬鹿げていると太鼓判を押してあげたくなる程にね。やる気だけ先走りさせるのは結構だけど、策も見込みもなしに走らせたところで、やる気が空回りして終わるだけよ。見通しも利かせられない人間なんて今の世の中じゃただの愚か者だもの」


「……。その言い分だと、俺の依頼に関して目処を立てていない先輩も、愚か者ってことになりません?」


 ポツリと率直な感想を述べてみる。すると、依美はぐぬぅと小さく呻き、タブレットを置いてフリーになった両の腕を胸の前で組んだ。


「わ、私は先々まで見越した上で段階を踏んでいるのよ。ただそれを口外しないというだけで」


「……」


「何? その目」


「いえ別に」


 依美を最後の綱として頼ったのは自分であり、ここまでくれば一蓮托生、今さら依頼を取り消すことなど考えにも入れていないのだが、如何せん、一滴の不安が垂れる依美のご高説だった。


「とにかく」


 と、流れを戻すように来人は先を口にした。


「馬鹿は承知の上ですよ。本当に、今できることは何もない。昨日の今日で何かしようとしたって、当の本人たちは気まずいだけでしょうし。だからこそ、時間を置いて機会を見計らうっていうのが現状における俺の考えです」


「前衛的なのか後衛的なのか、もう分かりはしないわね」


 目を閉じ、小さく嘆息する依美。


 その行為は愛想が尽きたという意思表示とも取れる。がしかし、瞼を持ち上げ次に来人を見つめた依美の顔は、そんなマイナス指向のものでなく、面白そうなおもちゃを見つけたような無邪気な笑みを湛えていた。


「なら、見せてみなさい、米谷。何もできないと豪語するお前に一体何ができるのか。微量な可能性というやつを」


「微量な可能性、ですか……」


 正直ピンとこない物言いに頭を捻る来人だが、依美は特別説明を加えることをしない。ひょっとすると別段深い意味合いなどなかったのかもしれないが、どこか悪戯めいた口調で囁かれたそれが、耳元でリフレインする。


 喉に刺さった魚の小骨を思い起こさせる、取れそうで取れない、分かりそうで分からないもどかしさ。足元に置いた鞄に手を突っ込み、液体で押し流そうと取り出した緑茶をぐっとあおる。


 対して依美は依美でどこからか取り出したカフェラテ片手に、机と膝でタブレットを支えて空いた片手で画面をスライドするという、淑女離れした器用さを発揮していたりする。ストローを咥えながら瞳と指だけ上下に動かす少女の姿はある意味綺麗だった。


「とはいえ」


 ひとしきり飲んだところで依美の口がストローを離した。


「他人のことに現を抜かす前に、一先ずは自分の方を優先すべきでしょうね」


「自分? というと、神奈のことですか」


「そう、水橋神奈。明日はいよいよ逢い引きの日なのでしょう?」


「いや逢い引きって……なんで人目を避ける必要が?」


「いえなんとなく。サスペンスは大抵森閑とした現場で起きるものだから」


「洒落にならないからやめろ」


 最近は同じ屋根の下で寝食を共にしているため多少は慣れてきたが、それでもやはり神奈と二人きりになるのはいろんな理由で心臓が高鳴る。常に警戒怠るべからずで、どうしても綱渡りしている感覚が抜けない。


 そんな内心ビクついた状況で楽しむも何もありはしないだろう。


 明日も周囲の目がない路地裏を筆頭として、一歩間違えれば地雷原と化す危険地帯にだけは踏み込むまいと、既に心に決めている来人である。


「完全に安心とはいきませんけど、場所が場所だけに明日は大丈夫であって欲しいと勝手に祈ってますよ」


「行き先はもう決めているの?」


「ええ。駅前にできたショッピングモールを神奈が推したんで、じゃあそこへってことに。そこなら人も多いだろうし、少しは抑止力になると思います」


「ああ、あの無駄に金だけ掛かっていそうな娯楽施設ね……」


 いかにも興味薄げに目を細め、カフェラテを一口。


 依美が気にするのは案件の進展なのであって、デートの中身自体は知ったことではないのだろう。そもそも積極的に指示を出されたとして応えられるかは未知数なので、来人にしてみればかえってありがたい。


 そんな勝手な思い込みが慢心を誘い、来人は気づくことができなかった。視線を外したその一瞬、机に置いたカフェラテのストローをクルクル指でいじくる依美が、ガラス玉のようなその瞳に来人を映していたことに。

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