カインド・マインド
理事長室を後にした来人が、ついさっき届いたであろう荘平からのメールに気づくの時間は掛からなかった。
丁度連絡をつけようと考えていただけに悪くないタイミングだ。
廊下を急ぎ足で歩きながら文面を確認すると、そこには短く『美蒼乃さん 中庭』とだけ書かれていた。
――中庭か。
昨日久しぶりに美蒼乃と来人が再開したのも、そして今朝話をしたのも中庭だった。どうにも自分たちと中庭には数奇な縁があるらしい。もっとも呼び寄せるのは人間だけに留まらず凶事ものようだが。
今からだって多分に漏れないが、そんなことは重々承知の上で辛酸を嘗めにいかねばならない。時間が経って余計に酸化していることを思うと、すぐに対処すべきだったと悔やんで悔やみきれないが、これも先延ばしにしたつけか。
『廊下は静かに歩きましょう』と大きく書かれた掲示を横目に、来人は昇降口へと続く廊下を走り出した。
来人が昇降口で靴に履き替えて中庭に出ると、そこに顔を深々と俯けてベンチに座る少女と、それを近くで心配そうに見守る少年がいた。
各方向から降り注ぐ光のおかげで遠くの人物も判別できる。どうやら少年も来人に気付いたらしく小さく手を振り、それにつられるようにして少女の方も徐に来人の方へ顔を向けてくる。
数十メートル先の少女の表情は影になっていて分からないが、少女が見ている、ただそれだけのことで足が止まってしまう。一時は隅に追いやっていた痛みが体の中心で再び荒れ狂い始める。
生暖かい風が吹き、そっと草木を揺らして泣き喚かせた。
花を散らした桜が暗に現状を体現しているかのようで、ついこの間までは心を癒してくれた春の象徴が、今は視界に入れるだけで辛くなる。
二人の下へタイルの上を、ゆっくりと来人は歩いていく。ここでの時間稼ぎは悪あがき以外の何物でもないと知りながら、後ろへ戻りそうになる足を一歩一歩前へと踏み出す。そうして少女の前に立った時、やはり無駄だったことを知る。
何一つ、言うべき言葉が見つからなかった。
「その……悪かったな、荻島。俺が余計な口出ししたせいで……」
「謝らないでください」
いつもと変わらない元気を纏う美蒼乃の微笑み。それが装いだと見抜くのはあまりに容易かった。
日々衰弱していくベッドの上の患者や、あるいは死期が近づいても群れの中で平常に努める野鳥と同じだ。自分の傷がどれだけ痛もうとも周囲に不幸を振り撒かんとする、意地と似通う屈強な意思。
隠さなくてもいいと言ってやれるなら、どれだけ心が救われることだろう。
けれどそれは口にできない。小さな身体には釣り合わない量の悲しみに刺し貫かれて尚、この後輩はそれに耐えようとしている。外に溢れ出さないように蓋をしている。
ここで指摘しまえば美蒼乃の好意がすべて無駄になる。だから矛盾だろうとなんだろうと、それだけはできなかった。
「むしろ謝らなければならないのは私の方です。せっかく米谷先輩が作ってくれた機会だったのに、私は台無しにしてしまいました」
「気にするな。お前が決めてそうしたんなら、それは誰のせいでもないだろ。俺に申し訳なく思うのは筋違いだ」
「ありがとうございます……でも、今考えると、分からなくなるんです」
ずっと伏し目がちに来人を見ていた美蒼乃が、その物憂げな瞳で黒々と広がる夜空を仰いだ。
「私自身が一体何をしたかったのか。何を思ってあの人を追いかけていたのか。何がそうさせていたのか。全部全部頭の中で犇めき合って、上手く思い出せないんです。少し前までは、挫けそうになる度に自分に言い聞かせられていたのに」
呟くように流れ出した言葉が空に馴染んで消えていく。
来人の隣で荘平が励まそうとするのだが、口を開いて、何も言えないまま静かに口を閉じる。苦々しい表情が言いたくとも言えないもどかしさをありあり物語っていた。
無数の星を見つめ、来人は一人息を吐く。
慰めることさえままならない自分がどうしようもなく恨めしい。話を聞いてやることしかできない自分を、改めて無力だと痛感した。
「お前は、伊月に戻って欲しかったんだろ? 中学の頃のあいつに」
「……そうなんだと、思います。昔の思い出をいつまでも引き摺って、憧れた人にはずっとずっと変わらないままでいて欲しいなって……。ほんと、馬鹿ですね、私。人が変わらないなんてありえないのに、自分のエゴで風紀委員会や先輩方まで振り回して」
一粒だけ、美蒼乃の頬を伝った涙が地面に染みを作った。
「だけど、自分を偽って生きることも、できませんでした。私は嘘をつくのが下手ですから」
「そうだな。でもそれがお前の長所だ」
「はい」
自分の言葉に応えた美蒼乃の笑顔。来人にはそれが本物のように思えた。
「それで、どうするんだ? これから。さっき言ってた、もう関わらないっていうのは本気なのか?」
そう訊くと、美蒼乃の顔は再び落ち込んだように暗く曇る。
「……ええ、そのつもりです。風紀委員に関しては、あの人の言うように元々校則違反でもなんでもないものを、一度は下火になった問題を、私が蒸し返したにすぎません。なので委員長に伝えて取り締まりリストから外してもらいます。明日にはもう平時の状態に戻るはずです」
「そうか。じゃあその……お前の方は?」
わざわざ明示して訊くかどうか迷ったが、案の定、美蒼乃の身体が小さく震える。
追い詰めかねないと分かりつつも、訊いておくべきだと来人は考えた。見届けるなら最後まで目を逸らしてはいけないと、自分自身を罰するように。
美蒼乃は震えをいなすためにギュッと拳を固めると、少し呼吸をして息を整えてからその手を開放した。
「私も同じですよ。今まで通りこれからも、風紀委員として高校生活を送っていくだけです。強いて言うなら、当面は三年生の方々が担っている特別業務のお手伝いでも、と考えてます」
「……なら伊月のことは、本当にもういいんだな?」
その問いに対して美蒼乃は答えられず言葉に窮したが、来人にとってはそれでも構わなかった。
数年越しの希望を一瞬で滅却するには、美蒼乃と伊月が築き上げていた信頼関係はあまりに強固すぎる。今がどうであろうと記憶に残る頼もしい面影は、そう簡単に消えてくれるものでもない。
忘れたくとも脳裏を過ってしまう残像なら、忘れたくないと思う人間にはより強く、より鮮明に浮き上がってくる。それこそ目に焼きつく程に。
だったら後は美蒼乃次第なのだろう。
忘れて前に進むか、忘れないで停滞するか。
またあるいは、忘れないままで進化するか。
人は変わると美蒼乃は言ったが、変化には退化と共に進歩も含まれる。それだけに、俗世間での価値観はどうあれ、変わることが概して悪いという見方には首を傾げざるを得ない。
そんなことを脳内で主張しながら、来人はさっき伊月に見たイメージをふと思い出していた。
赤信号と青信号。
整合性の欠片もないイメージ。それを変化と捉えるなら、退化というのは何色か、進歩というのは何色か、そして変化する前の中継ぎは何色か。
――黄色。
昨日、そう口にした美蒼乃が、その色を危惧していたのではなかったか。思い出そうとしても靄がかかる。そもそも高々イメージの話でいくらなんでも飛躍しすぎだろうと、来人は思考を一時停止した。
それからなんの気もなしに上空の時計を見上げ、気付いた。
「またこんな時間か……」
昨日程ではないにしろ、十二分に遅い。文化祭の準備をする生徒のいる部屋は例外なく電気をつけているので、正直な所時間の経過が分かり辛い。
「荻島、お前はもう帰った方がいいんじゃないか?」
「へ? あ、はい。そうですね……」
美蒼乃の方は先の会話から抜け切れていなかったのか、突然話題を切り替えられたことに少々虚を突かれていたが、そこは持ち前の対応力で傍らの鞄を手に立ち上がる。
「では、私はここで」
両手で鞄を下げて一礼した美蒼乃と来人の視線が一瞬だけ交差した。
「先輩……ありがとうございました」
「え? あ、ああ」
鞄を片手に小走りで遠ざかっていく美蒼乃の後ろ姿を呆然と眺める。
二度目のお礼の言葉には何か腑に落ちない違和感があったが、それを意識した頃には時既に遅く、美蒼乃の姿は中庭から消えていた。
「なんだったんだ、今の」
光の死角となって影が掛かった美蒼乃の顔は、笑っているような泣いているような、どっちつかずの虚し気な表情をしていた。
とはいえ、今さらとやかく考えた処で意味があるとも思えない。気には留めておくとして、今は深く考えないことにした。
「昨日と同じ様な光景が、こうも違って見えるのはどうしてなんすかね……」
隣で同じように美蒼乃を見送った荘平が呟く。
「決まってるだろ? 同じような光景だとしても、あいつが違う。あいつが元気だったらこうはならないさ」
「そうっすね……なんとなくっすけど、分かる気がします」
昨日会ったばかりでさして交わりがあったわけでもない少女。その少女が周囲に与えていた恩恵を、荘平は実感しているようだった。
「ところで来人さん、さっきの呼び出しの件っすけど、どうだったんすか? 何か重大な問題でした?」
「ん? あー、いや」
不意に変わった話の矛先に戸惑う来人だったが、しかし何故だか意図せずに口が動いていた。
「別になんでもなかったよ。あれくらいならわざわざ応じるまでもなかったなって、その程度」
「へえ、そうなんすか。確かにそんなに時間も掛かってなかったですしね」
「ああ。ま、そういうことだ」
この上なく嘘に近い誤魔化し。
理事長に謁見していただけでも常軌を逸した出来事だというのに、話した内容は更にその上をいく衝撃的なもの。
依美について荘平はどこまで知っているのだろうか。そんな疑問から荘平の顔を窺ってみるが、心の中を覗けるはずもなく、当然分かるはずもない。
だが十中八九知らないのだろう。一人暮らしが判明した時の反応からだけで大凡察せられる。
短い付き合いながら、こうも親しくなった友人に嘘をつくのは本意じゃない。だが個人情報という理由を抜きにしても、この一件を他言するとただでさえ良くない現況がもっと悪化してしまうのではないかという不安が、自然と来人に嘘を吐かせていた。
言うべき日が来るとしても、今はその時でない。
深呼吸して心苦しさを空気と一緒に飲み込む。夏が近づく夜の空気はほんのり温かく、血流に乗って全身に広がっていく。
それでも蟠る思いは相も変わらず蟠ったまま。けれど、開放的な空間でゆったり流れる夜の空気に身を浸すのも悪くない。こうしているだけで一時だけでも肩の荷を下ろせた気分になれる。
たとえそれが――仮初の安寧だとしても。
英気の保養を短く済ませ、来人は荘平に向き直った。
「じゃあ俺たちも荷物取りに戻るとするか」
「はいっす」
一度だけ、美蒼乃の去った方角に視線を飛ばす。去り際の言葉に後ろ髪を引かれながらも、来人は荘平と肩を並べて昇降口へと歩き出した。
◇◆◇◆◇◆◇
「ねえクル君、明後日は駅前に新しく出来たショッピングモールに行こうよ!」
「ああ……」
「そこでクル君に私の服を選んで欲しいんだけど、いいかな? 私もクル君の服を選んであげるから」
「ああ……」
「フードコートに有名な喫茶店の支店があるみたいだからお昼はそこで……あれ、でもデートだからお弁当の方がいいのかな? それでそれで、午後は最上階の映画館で映画鑑賞して、見終わったら感想を言い合って、それから、それから――」
「ああ……」
「……」
米谷家の食卓。
卓上に出されたナポリタンをフォークに巻き付けて口に運ぶ。
平和な家庭のあるふれた食事風景。
だからそう、気が付いたら目の一寸先にフォークが迫っているはずなどないわけで、銀の凶器が生命の危機をもたらすはずなどないわけで――仰け反った来人は座っていた椅子ごと後ろに倒れ込んだ。
後頭部を抉るかのような衝撃に悲鳴さえ出ずもがいていると、涙で霞む世界の先に、ゆらりと立ち昇る陽炎が一つ。
要所要所で重力に身を任せる無駄のない動きで来人に接近した神奈が、右手に握ったフォークを振り下ろし、仰向け状態の来人の鼻先で寸止めした。
「おんな……?」
「な、なんの話だ!?」
食い入るように見下ろす神奈の目は完全に据わっていた。
「団欒から会話が消えるのは夫婦仲が冷えてきた証拠だって……私、知ってるんだよ……? そういう時、男性は大抵の人が浮気しちゃってるんだってぇ……。来人君は絶対……絶対絶対してないって信じてるけど、もしもの……もしものために…………ね?」
「『ね?』じゃねーよ! 会話どころか俺を消しにきてるお前にだけは言われたくねえ!!」
フォークを握る神奈の手を押し返そうとするが、これがまたビクともしない。それどころかジワジワと顔との距離が狭まってくる。
脳は身体能力にある種のセーフティーをかけるらしいが、感情で脳のリミッターが外れた神奈はその枷ごと解除でもされるのか、とても女子の腕力とは思えない程の絶望感がそこにある。
まずい。限界を感じ取った来人は、腕を押し返すのを諦め、なんとか顔を横へと逃がした。
ドスッと鼓膜に響く重たい音がする。見ると、さっきまで来人の頭があった床にフォークが見事に突き刺さっていた。
もし回避できていなかった場合、そこには縦列する小さな四つの穴からドクドクと赤い液体を垂れ流しにする骸が横たわっていたわけで、想像するだけですっと血の気が引く。
「お、お前、どんだけ他人んちの床傷つければ気が済むの……?」
「あはぁ、何言ってるの? クル君……。ここは私たちのお家じゃない。それに、私たちの愛の前では床の傷なんて……些細なものだよ」
「分かった! それでいい!! 些細でいい!! 些細でいいから刺さないでくれ! 心配しないでも、お前が言うようなことは一切ない!」
「そう、なの……?」
「ああ。誓って疚しいことはしていない」
必死の訴えで神奈の瞳が徐々に生気を取り戻していく。
なんとか命を繋ぎとめられたことに安堵し、来人からは乾いたため息が漏れた。若干口の中に鉄の味がするのは精神的な錯覚だと信じたい。
今回は発端が単なる空想だったので比較的宥めやすかったが、これが状況証拠なんてあった日には壮絶なことになる。丁度昨晩のモフッチの件がそれであり、説得が深夜まで及んだことは記憶に新しい。是非とも勘弁願いたいシチュエーションである。
お互いに立ち上がり、埃を払ったところで神奈に席へ着くよう促す。そして大人しく腰を落ち着けた神奈を確認してから、来人も椅子を起こして食卓に着いた。
「あのさ、神奈……お前のその突拍子もない想像力、もっと世のため人のために使えないものなのか?」
「え? えっと……私の想像力が、どうかしたの?」
やはり当人に忠告したところで自覚はないらしく、神奈は不思議そうな顔で首を傾げたかと思うと、今度は握った両拳を胸の前で揃えて目に輝きを灯した。
「でもその、よく分からないけど、私はクル君のためならいつだって全力を尽くすよ!?」
「……。なんでだろうな……言われて嬉しい台詞のはずなのに、涙出てくる」
勝手に漢字変換するところの『無知の血』。知らないが故に流れる血というのもある。
脇に置いてあった自分用の湯呑を取り、極度の緊張で渇ききった喉を潤おすためにお茶を一気に流し込む。淹れ立てで湯気が昇るお茶はしかし熱すぎということもなく、程よい温度で胃の内側から熱を伝える。
余計な運動でヒートアップした身体には冷水の方が合っているかもしれないが、決して不快なわけではなく、ホッとできる束の間の安息がそこにはあった。
せめて食事時くらいは穏やかに過ごせないものか。たった一杯のお茶に感銘を受けているようでは自分の人生もいよいよお終いだなと辟易しつつ、半分以上が未だに残るナポリタンに来人はフォークを突き立てる。
クルクルと回るフォークに巻き付く麺を漠然と見つめながら、ふとした拍子、自分が今口にしている料理はナポリタンであることを初めて認識した。
ナポリタンとトマトソースパスタの違いがどうだとか、そんな細々とした部分を見誤ったわけじゃない。むしろそれ以前の話で、自分が食べている物がなんであるか把握しようとさえしていなかった。
原因を求め時間を遡っていく過程で、開いた口が塞がらなくなる。
眼前にフォークを見る以前の記憶が欠落し、一体どこから記憶が曖昧なのか、それすら思い出すことができなくなっていた。
学校の中庭で美蒼乃を見送り、その後すぐに荘平とも別れて下校した辺りまではしっかりと記憶がある。もやもやとした気分で歩いた商店街通りのことも、所々ではあるがまだ覚えている。
それからが分からない。まるで帰巣本能に従っただけかのように、自分の意思で動いた実感が体に残っていなかった。
どうしてか。わざわざ推理するまでもなく、そんなことになる理由は大体当たりが付けられる。
考えることを止めたのだ。伊月と美蒼乃の別離に、理事長との対談、今日一日にあったことすべて、考えることで思い出してしまわないように自分で自分を縛った。頭を空っぽにした。
これ以上はやめてくれと誰にともなく駄々をこねた。
その微々たる成果が心を満たした一杯のお茶だったというわけだ。
これはもうどっちつかずなのだろうと、投げやり気味に自嘲する。うじうじ一人で考えた処で状況が好転しないのは事実であり、片や考えることから逃げて楽になりたいと甘えたこともまた事実。責められもするし労われもする。
ただやはり、少しでも今日を忘れたいと思ってしまったことだけは、鉛のように来人の心を重くした。
「ねぇ……クル君」
さっきとは打って変わって沈んだ声。
無為に行ったり来たりを繰り返すだけの銀の突き匙から視線を持ち上げてみると、神奈が悲しそうな顔をして来人を見つめていた。
「こんなのはただの我儘で、勘違いしちゃった私が言うのは変かもしれないよ? でも……でもね――」
気持ちを落ち着けるように一度だけ目を閉じる。
たかが数秒の間隙。気に掛ける前に過ぎ去る一瞬。だというのに、神奈のそれは強烈に来人を引き込む。
そして、躊躇しながら、何かを押し殺しながら、神奈は無理やりに微笑んだ。
「せっかく一緒に食事してるのにお話しもできないなんて、やっぱり寂しいよ」
先細りに消えていく一言が、来人の耳を強く打った。
――何やってんだ、俺……。
こうして同じ屋根の下で食事を共にするずっと以前から誰よりも近くで見てきたはずなのに、言葉にさせてしまうまで気づかないなんてどうかしていたとしか言いようがない。
首の骨が折れたように頭ががっくり垂れて上がらなくなる。そして痺れた体の奥の奥、来人を包み込んでいた自己嫌悪すら生ぬるい悔恨の殻がひび割れていく。
明るく楽しく話しかけるその向こう側で、心ここにあらずの相手が適当に打つ相槌を嬉しく思う人間がどこにいる。自分が幸せなら相手にも幸せそうな顔で応えて欲しい、冗談めかしくふざけたなら相手には心の底から笑って欲しい、そう思うことこそ人間にとっての普通だ。
抜け殻同然の来人に、目の前の神奈すら見えていなかった来人に、淋しさを押し殺して話しかけ続けてくれた神奈の気持ちは察するに余りある。過剰で苛烈なのかもしれないが、自分を映してくれない瞳に悲哀を感じ、貫き潰そうとした神奈を、どうして来人が責め立てられるというのか。
来人が何も考えないようにしていたのは、考えることでこれ以上誰も苦悩せずに済むと思い込んだからに他ならない。当然そこには自信の保身も含まれていて、考えないことで心が擦り切れてしまわないように手を回した。そうした無心の境地が来人に一時とはいえ平常を寄越してくれた。
末端が飛び出した釘は何かを引っ掻き傷つける。余計なことが誰かを救うことこそ稀で、大抵はお節介であり邪魔となる。だから余計なもの、はみ出した思考をばっさり切り捨て去ることで平穏でいようとした。誰も傷つけまいとした。
それなのに、来人にとって誰よりも一番、そして――これ以上、傷つけたくないと思う人を辛い目にあわせてしまった。
今日の始まりでも中継ぎでもなく、一日が終わりに差し掛かる今この瞬間、来人は何にも増して自分の無力をまざまざ知らしめられた。
膝の間にだらりと垂れさがった両手は、ぐっと握ればあっけなく崩れ落ちてしまいそうな程頼りない。誰かを救おうとして手を差し伸べたが最後、風化した岩石の如く手首からぽっきり折れそうだ。
力のなさを否定する気にはなれない。無力を知った時から、謙虚とは違うが、慎ましやかに生きてきたつもりだった。
それが今はどうしたことか、美蒼乃に手を貸したつもりになって一丁前に後悔さえしている。自分に誰かを変えられるだけの力がないと分かっていながら、分かって神奈のことを依美頼りにしておきながら、自分でも驚く程のふてぶてしさには、嘲笑えばいいのか罵倒すればいいのかも覚束ない。
美蒼乃も独りごちていた。自分が何をしたかったのか分からなくなった、と。
同じだ。考えれば考える程、どつぼに嵌っていく。したかったことがあって、原動力となる理由もあって、そこまではよくとも、どうして自分が微力ながらに力になれると思ってしまったのか。
考えてはダメだと自分を叱咤しながらも、堰が決壊した脳内に激流となって思考が流れ込んでくる。考えて、考えを止めようとして考え、そして考え続けていくうちに、思考回路が焼き切れそうになる。触れたものを何彼構わず凍てつかせる冷え冷えとした奔流かと思えば、渦を巻いた中心は万物を溶かし尽してしまいかねない程熱く煮え滾っていて、とてもじゃないが抑えが効かない。
痛みは欠片もないといのに、ただ葛藤する精神が心臓と肺をぎゅうぎゅう圧縮して、想像もできないような苦しさに悶える。息は乱れて過呼吸になり、上手く酸素が回らなくなった脳が悲鳴を上げる。
段々と輪郭さえ曖昧になってきた右手で頭を押さえた。気休めを承知で、それでも、そうしないと頭が木端微塵に弾け飛んでしまうのではないかという錯覚に見舞われ、握り潰すように強く締め付ける。
限界だった。
内側に引き籠る幼い自分が膝を抱え、もう沢山だと目に涙を滲ませている。
そんな時、目を瞑って痛みのない苦痛に耐えていた来人の頭に、柔らかくて温かな何かがそっと触れた。その何かから伝わる温かさが、お茶と違って全体を包み込むような優しい温かさが、外殻を越して脳へと染み込み、荒れ狂った思考の流れを瞬く間に鎮静化してくれた。
後を濁さず消え去った不快感の波。そっと来人が目を開いたその先で、光彩が馴染んだ黒い瞳に来人を映して微笑む神奈が、身を乗り出して伸ばした右手の手のひらで、来人の頭を静かに撫でてくれていた。
「かん、な……?」
さっきまでの無理やり飾り付けた微笑とは違う、来人のことを労わるような他愛の朗笑。それは何物にも代え難い温かな慈愛に満ちていて、そして何より、心の底から綺麗だと思った。
「クル君、大丈夫? どこか痛い?」
「……いや、そうじゃないんだ。痛いとか、そういうんじゃなくて……」
なんと口にしたものか分からない。胸の内にあるもやもやを、外界の誰かに伝わるように形容する術がない。
けれど、そんな来人の様子からだけで感じ取れるものがあったのか、頭から手を引いた神奈は席に座り直すと、やや躊躇いながらもそれを口にする。
「今日、学校で何かあった?」
「……ああ」
来人は頭で考えるよりも先に返事を返していた。無意識にしろ悲しい思いをさせてしまった神奈に嘘はつけないという負い目もあったが、それ以上に神奈には知っておいて欲しいと切に思った。
肩の荷を分け合うのではない。事が神奈にとっても旧知の仲である二人の問題だから、といのも確かにあるが、それも主因とは違う。ただ、神奈には自分が今何をしようとしているのか、どういう道を指針としているか、隠さないでおきたかった。
「荻島のことは、覚えてるよな?」
「そのちゃん? うん、覚えてるけど……」
急な流れで飛び出した美蒼乃の名前に神奈は小首を傾げた。
「というより、つい最近学校の廊下でばったり会って話したよ?」
「話したって……じゃあ、そうか……お前は荻島がうちの高校に入学してたこと、もう知ってたんだな」
てっきり神奈はまだ美蒼乃のことを知らないと思っていただけに、少々意外で面食らう。だが聞いてみて得心もいった。昼休みに美蒼乃が切り出した神奈の一件に、どうしていきなりと訝しんだ来人だったが、どうやら久々に再開していた神奈からあらぬ風評を刷り込まれていた所為らしい。
ともすれば美蒼乃以外にも影響を受けている生徒がごまんといそうなものだが、ここは一旦目を瞑ることにした。
「知ってたも何も、クル君だって分かってたでしょ? そのちゃんが私たちの高校に入学してくるって」
神奈は口に手を当ててクスクスと笑う。
「だって、あの高校には伊月君も通ってるんだもん」
「……あ、ああ。そう、だよな……」
思えば一年前、自分たちが志木西高校に入学した時は、美蒼乃が後を追って入学してくることを来人は想定していた。卒業式を控えた中学時代終盤においても、そんな話を確かにしていたのだ。
そんな意識が薄れた始めたのは入学からしばらく経った頃、伊月が美蒼乃と別れたのを知った時からだったように思う。
伊月と別れたことで、美蒼乃の中では特別に志木西を選ぶ理由が消失したものだと勝手に受け止めていた、別れた男の傍元で生活する気まずさを押してまで、美蒼乃は志木西には拘らないだろうと。
だからとも言えるが、その頃から例の奇行に着手し始めた伊月を、来人は止めようとはしなかった。美蒼乃が恋焦がれていた伊月と距離を取ったなら、それはそういうことなのだろうと解釈し、好きなようにさせ放っておいた。
もし美蒼乃が来ると思い続けられたなら、きっと止めていただろう。
自由奔放に節操なく荒らし回る伊月を、美蒼乃が受け入れらないであろうことは明らかだ。とっとと一発殴って辞めさせていれば良かったのだ。美蒼乃のことで足踏みする前に、親友だからという理由一つで立ち直らせればこうはならなかった。
あるいは美蒼乃の恋心を誰よりも理解していた神奈に一言助言をもらっていれば、対処の仕様もあったかもしれない。
もう既に遅いが、流石に歯痒いことここに極まる。
「離れても、確かに繋がってた。なのにほんと、どうしてそんな奴らが、喧嘩別れしなきゃならないんだろうな……」
「喧嘩、しちゃったの?」
途端、神奈の瞳が不安の色に塗れた。
「いや、喧嘩……というよりは、すれ違いだ。いつの間にかあいつら、歯車が噛み合わなくなってたよ」
「そっか……」
懇意にしていた友人たちが仲違いするのは悲しいはずだ。けれど、そんな状況でも神奈は来人を気遣うように穏やかな口調で続けた。
「じゃあ、それをクル君が、仲直りさせてあげようとしたんだね」
事情を察して労うようにさり気なく発せられた神奈の言葉は、皮肉にも鞭のようにヒュンとしなり、縮こまっていた来人の心臓を激烈に打ち付ける。
「そうじゃないっ……!!」
思わず苛辣に否定した。自分は役に立たないばかりか、むしろ事を荒立てる後押しをしてしまったという業にも似た罪悪感、そしてそんな自分は誰かに労わってもらえる資格などないという引け目が、来人の口を操ってそう吐かせていた。
「そうじゃ、ない……。俺は何一つできなかった。勝手に口出しして、掻き乱すだけ掻き乱しただけだ。仲直りなんて少しもさせてやれてない」
「クル君……」
空回りしてばかりだ。
内心、焦っていたのかもしれない。伊月と美蒼乃を不安視する裏で、本当は二人に自分と神奈の面影を重ね、恐れに呑まれただけなのかもしれない。愚行しかしてこなかった自分の二の舞にだけはしてはならないと。
だとしたら、自分勝手も度が過ぎる。
無機質な傍観者としての立場を拒んだわけじゃなく、ただトラウマの傍観者になりたくないがための我儘。頭の奥底に沈めた映像を掘り返されたくなくて、地雷を踏んでしまわないように避けたが故の介入。
どうしようもなくため息が零れた。
結局これは偽善なのか、改まって自問する。そしてなよなよと腑抜けになった頭で自答して、善でも偽善でもない、なんて中途半端な解を出す。
自己心理の掌握は、えてして得意な人間と不得意な人間がいたりするものだが、得意な人間は善悪に依らず、自分を納得させる術に長けている。またはさばさばとした割り切り方に突出しているとでも言うのか、一旦決めたことを揺るがず折れず、結果の成否を問わずして最後まで貫いてしまう。
そして現在、結果の成否に囚われて女々しく弱り切った自分は、得意不得意など敢えて推し量る価値もなかった。
ただただ純粋な、いつまでも口の中で残り続ける苦々しさ。そんなものを延々、どこまでも引き摺っていってしまいそうな程、身体が憔悴している。たった数日の短期間で、来人の背中は負債超過に追い込まれていた。
「よしクル君! だったら話そ! 明後日のデートのこと」
「は?」
神奈が溢れ出す元気を花咲かせて笑いかけてくれたのは、来人が巡り巡って思い巡らしていた、そんな折。
降り積もっていた暗い影を打ち消す光が花火のように弾け散り、テーブルを囲んでいた陰鬱な瘴気をまるごと吹き飛ばす。『おおッ!』という掛け声と共に天井に向けて突き出された右腕が、狭苦しさで圧迫してくる空間を一発で開放的なものへと変幻させた。
「な……なんだ……、どうしたいきなり……」
そのあまりのインパクトに、陰々滅々、あれやこれやと考えていた面倒事がすべて、四方八方へ爆散してしまった。
「ううん、どうもしてないよ。ただ私は、来人君と明後日のデートについて話したいなぁって、そう思っただけ。一緒に行く場所は一緒に決めたいし、一緒に見る映画も一緒に決めたい。もちろん一緒に食べるお昼のことも話したいし、どんな風な一日にしたいかって想像も、一緒にしてみたい。だってそれはきっときっと何よりも、楽しくって仕方ないことだと思うから」
「神奈、お前……」
瞬時に神奈の意図を察して、また性懲りもなく気を遣わせてしまったことに気を揉む。
――俺は本当に、何をやっ――。
再び悶々と自責に溺れようとする、そんな来人の額を、華奢でありながらも凛と伸びた指がついと小突く。微かに残留する思考を一片残らず打ち消すように。
その指は他の誰でもない神奈のもの。その神奈が、心を洗い流してくれる清らか笑みを口元に浮かべていた。
「クル君がそのちゃんと伊月君を助けてあげられなかったって言うなら、多分それは本当のことなんだと思う。けどね、だからってクル君がいつまでもいじけてたら、今日の失敗をバネに明日から頑張るチャンスだって消えちゃうよ。明日失敗したなら明後日、明後日失敗したなら明々後日、どれだけ失敗を積み重ねても、最後にクル君がこれでよかったんだって思えるその日までトライしなきゃ。そうして明日を元気いっぱいで迎えるためにも、今は楽しく話そうよ。ね?」
時間がいつもより緩やかに流れていくのを感じる。
こんな風に神奈に優しく諭されるのは何年振りだろうか。そんな疑問を心に浮かべながら、気づくと目頭が熱を帯びていた。
随分と昔、今となっては遥か遠くの過去、身長も心の器も小さかった幼い日の自分を、まるで母親のように優しく包み込んでくれた神奈。霞みぼやける記憶の残像が断片的に脳裏をちらつく。
もう長らく忘れていた幼馴染の真性だけに、それは新鮮な息吹となって来人の中に流れ込む。久しぶりに目にしてみると、気恥ずかしいやら嬉しいやら、そんなことばかりが頭を埋めて高尚な感慨なんて微塵も湧き出してこなかったが、仮初ではない確かな安らぎが身体を満たす。
同時に、本当にいいのだろうかと、ついつい後ろめたさに陰る自分もいた。
自分は救われた気分に浸り、反して伊月と美蒼乃はきっとこの時も思い悩み続けているに違いない。そんな黒白を自ら甘んじて受け入れてしまっていいのか、受け入れた自分が彼らの助けとなれるのか、不安が手を広げて襲い掛かってくる。
「それから、ほんとのこと言うとね、私は二人のこと、あんまり心配してないんだ」
未だ来人を捉えて離さない厄を払い去るように、神奈の明るく透き通った声が空気を震わせた。
「心配してない?」
「うん。だって、あの二人がお互いにお互いのことを大好きに思っているのは、私もクル君もよーく知ってるじゃない。だから多分、大丈夫」
「そういうものか……?」
「そういうものだよ」
やけに自信ありげに神奈はニカッと笑った。
アバウトというか極端というか、およそ根拠とも思えない言い分で、なんでそこまで自信満々に言い切れるのか。その辺りが一切不明な、ヒューマニズムの最高到達点とでも換言するべき超精神論。
だが、不思議と言い返す気分にはなれなかった。
ポワワと湧き出す神奈の甘く香しいオーラに中てられたのか、自分でもよく分からないうちに、そういうものなのかもしれないなと、薄ら納得してしまう籠絡ぶり。
それもなかなか悪い気分じゃなく、つい来人は頬を緩める。
頭の中にモノトーンで描く昼食の風景。来人の隣に神奈が座り、その向こう側にはあの二人が座る。そんな当たり前の景色の中、やはり相も変わらず、二人はお互いの意見をぶつけ合って啀み合み、しばらく火花を散らして睨み合ったまま、そして――決着もみないうちに笑い出す。
来人が回想する二人の姿は、今この時も変わらないまま内にあった。
「それじゃあ早速、クル君、デートだよデート! デートの計画を一緒に練ろうよ!」
「ああ。そうするか」
米谷家の平穏な食事風景。
神奈の無茶ぶりを受け流したり、むぅと頬を膨らませる神奈を宥めたり、机いっぱいに広げられたチラシを指差しては頭を捻らせたり、久しぶりに心から楽しめる時間を噛み締める。そんな充足感を伴いながら、来人の憂うばかりの一日が終息を目指し、夜は更けていく。
迎えた翌日の金曜日。あれだけ所狭しと校内を走り回っていた風紀委員たちの足音は、その存在ごと消えてしまったかのように、二度と響いてはこなかった。