表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
病みまくった幼馴染  作者: 白烏
5月 14日 (木)
16/22

ディファレント・ビューポイント

 零した墨汁がじんわり広がっていくような緩やかな侵食速度で、茜色に染まっていた室内に黒が蔓延る。


 絹衣の擦れる音さえ鳴らない無音の空間で、少女は回転椅子に腰を預けたまま机の引き出しからタブレットを取り出すと、添えた右手をそっとスライドさせた。


 背後の窓越しに重なって轟く掛け声が届く。


 体育系の部活は時期が時期だけに、陽が落ちたこの時間でも照明塔のライトで照らされたグラウンドを汗水垂らして駆け回っている。


 血気盛んなことだと、少女は一人どこ吹く風で喧騒をシャットアウトした。だからやはり窓の内側は静かこの上ない。


 ただでさえ今の今まで騒がしかった部屋である。そこへ外からも追撃を仕掛けられる覚えなどなかった。


 澄ました顔で少女は指を振る。


 少女だけを切り取ってしまえばいつも通りの光景だった。


 幼馴染のことで頭と体を悩ませる少年も、少女の手足となって動いてくれる都合のいい少年もいない。


 青春真っ盛り、イケイケアクティブ、なんて向上的な活動とは縁がない。


 これが普通で、これが本来の姿。


 そして、電池が切れたように停止し、美術室の石像よろしく座っているだけの少年がいることもまた、少女にとっては普通の光景だった。


「暗いわね」


 タブレットの画面は鮮やかに発色している。操作するのに別段不自由というわけでもないが、『テレビを観る時は部屋を明るくして――』というやつで、周りが明るいに越したことはない。


「……」


 少年に動きはなく、口も微動だにしない。


「暗いわね」


「……」


 もう一度言ってみるも、結果は変わらない。


 少年は一向に動かないし、事実を口にするだけの少女自身も端から動く気なんぞあるはずもなく、何故か膠着状態に嵌った。


 何か悪かったのだろうと、少女はマイペースに自分を顧みてみるが、思い当たる節がなく眉を顰める。


 笑顔が足りなかったのだろうか。


 世界の共通言語とまで崇められるくらいだ。礼節には欠くべからざるものかと、不承不承、少女はニッコリ微笑んでみた。


「明かりをつけてもらえるかしら?」


「いや、自分でつけてもらえませんかね……」


 露骨な言い回し二回、不躾な要求ニッコリ微笑み添え一回、それらすべてを楠伊月は開口一番突っ撥ねた。


 するとどうしたもこうしたもなく、さっきまでの魅惑的な笑みが嘘のように、それこそ化学反応でも起こしたように、烏野依美の面貌は不機嫌なそれへと一変した。


「スイッチは入口にあるのだから、お前の方が近いじゃない。断るのもつけるのも同じ労力ではなくて?」


「つけるって……こんな格好でどうしろと?」


「ああ、そういえばお前、今縛られているのだったわね」


「その発言、つっこみ所満載なんですけど……」


 伊月の両手は現在後ろ手に縛り上げられ椅子に固定されてしまっている。胴も右に同くで、辛うじて自由な足でも二足歩行などできたものじゃない。


 縄は頑強でいてため息を通す喉だけが緩かった。


「確かここ、電灯はリモコンでも操作できたでしょう? それを使ってくださいよ」


「あったわね、そんなものも」


 忘れていたわと言って机の引き出しに手を伸ばす依美。


 本格的に頭から抜け落ちていたらしいが、部屋を預かる身としてそれはどうなのか、不安が尽きない。


 そんな伊月の心中など知る由もなく、ただ適当に引き出しを探っていた依美だったが、その手がある瞬間を境にピタッと止まった。


「面倒だわ。探して頂戴」


「振り出しだよ!!」


 終いには『動けなけれ動けばいいのに』などと暴言まで吐きかねない依美の傍若無人っぷりではあったものの、自力で見つけたリモコンによってなんとか部屋に明かりは灯された。


 淡い蛍光灯の光が室内の影を払う。


 依美は明暗の遷移を気にも留めずに黙々と指でスクリーンを掃き続け、伊月も微々たる会話を交わして以降は特に言葉を発しない。


 改めて降りかかる沈黙の雨だったが、それはしかし誰かが息詰まる思いで見守らなければならないような土砂降りとはまた違い、新緑に染み渡る温かな春雨のように空気とシンクロする。


 他人には気まずく重たいものかもしれない。それでも彼ら自身が恒常とする空間はしかと出来上がっていた。


「私としては関知する所でないのだけれど、彼女、本当に追わなくてよかったのかしら?」


 タブレット内の世界へ浸りながらに依美が切り出す。


「恋仲だったのでしょう?」


「まあ、一応。でも僕を縛り上げた張本人にだけは言われなくないですよ――部長」


「……部長、ね」


 懐かしさにも似た感慨が依美の指を止めた。


「今のお前からそう呼ばれる義理はないのではない? 特に部活渡りなんてしている男ともなれば、そこいらで部長を拵えているのでしょう?」


「卑猥な言い方はなしで。『部長』で呼ぶのは、それ以外に打ってつけの呼称がないからってだけですよ。それともエミりんとかって呼びます?」


「お前の痴態をコラッて量産、校内にばら撒いて、自主退学に追い込んで欲しいなら好きに呼びなさい」


「……。は、はは……ほんと、相変わらずで……」


 仕打ちが現実味を帯びている分だけ性質が悪い。気付いたら実行されていました、なんて未来が余裕で目に浮かぶ。


 下手に藪を突くと蛇どころか龍が飛び出してきかねない。そんな強者を前に伊月の首筋を冷や汗が伝った。


「まあいいわ。そんなことよりも話を元に戻しましょうか」


 依美が余興へ流れかける話を矯正し、上目で伊月を見据えた。


「私が拘束した事実を免罪符代わりにされると気分が悪いの。縛られずとも、どうせお前は追わなかった。違う?」


「……」


 答えないのは首を縦に振る行為に等しいが、伊月はそれでも黙り通す。もう誤魔化しも何も無意味になった現状、口を開くと聞くに堪えない戯言をペラペラ並べ尽してしまう確信があった。


「他人の惚れた腫れたに私情で関わるつもりはない。けれど、お前がいざこざを起こす原因が私だとしたら、非常に不快で寝覚めも悪い。言いたいことは分かるでしょう?」


「……別に、理由を部長に求めたことはないんですけどね」


 そっぽを向いて呟く男が、依美には拗ねた子供と重なって映る。


 不思議と和やか感情が胸を満たしていく。心静かに指で液晶画面に浮かび上がった文字をなぞっていた。


「下手ね、本音を隠すのも……隠そうとするのも。初めて会った時にも言ったけれど、お前はそういうものに向かない。技術や精神力の問題でなく、性質がそぐわないのよ。そしてそれは今も変わってない」


「変わらない、か……。それは何一つも、ですか?」


「さあ。当てにならない他人に訊く前に、自分の尺度で測ってみなさい。お前は人から花丸満点を貰って喜ぶ人間でもないのだし」


「うぅ……なんか身に沁みすぎて痛みが……」


 少女の忠告は先の鋭い矢だった。伊月の身体を貫くか貫かないかのさじ加減で絶妙に突き刺さり、内側から悲鳴が漏れた。


 言い返そうとは、しかし毛程も思わない。ぐうの音も出ないのは事実だが、それ以上に自分の行為に対して責任があるからだ。自分を好きだと言ってくれた後輩からも目を背けてしまう逃げ腰でも、一度責任をかなぐり捨ててしまえば本当に何も残らない。


 辛いことは辛い。さっきの対談は間違いなく三指に入るしんどさだった。


 でもまだ耐えられる。いつの間にやら被虐に耐性をつけつつある自分を褒めるべきか哀れむべきか。


 自分を許せるようなそんな日が来たら、その時はちょっと考えてみよう。先延ばしを決めた難題に、自然と伊月を頬は緩んでいた。


「その顔は何? ひょっとして体を締め上げられる快感に目覚めてしまったの?」


「いやいや、それはないです……。どちらかと言えば早く解いてくれないかなぁと。これ逃亡阻止用でしょう? もうお役御免なんじゃ……」


「ああ、それただの趣味よ。だから平気ね」


「平気じゃないよ! つーか、それのどこが平気たる理由なんですかね!?」


「私が見て楽しめる辺りが」


「鬼……!?」


 慄く伊月を見つめて依美がうふふと妖艶に笑う。


「そう驚くことかしら? せっかく久しぶりに会ったのだから、少しくらいドラマチックに演出してみただけのこと。よくあるでしょう? 生き別れた兄弟と高校で再会、妹はヤンデレ化していて即束縛。まあそんなものね」


「そんなものもこんなものも縛られた側からしたら知ったことじゃないですし……。なんだかなぁ、まったく」


 誰かをからかって楽しむ気質は健在のようで懐かしさよりも倦怠感があった。


 が、当然流され続けるつもりは伊月にもなく、反撃の狼煙はもう目視可能な所で立ち昇っていた。


「ああ、ヤンデレといえば――来人の方、どんな感じです?」


 伊月が来人の名を口にした瞬間、依美は嬉々とした表情から一転して眉を寄せた。


「……ここで米谷を出してくる以上、やはりお前の差し金だったというわけね。薄々は気付いていたけれど」


「差し金? いや、そんな複雑な関係とかでなく、ただ死にかけて困っていた親友に学生支援部の話をしただけですけど」


「その部活の部長が依頼を受けないかもしれない。それを知った上でかしら?」


「……」


 圧を増した視線が伊月を刺し貫く。少女の目は先程の悪戯な瞳と同一なのか怪しまれる程に冷たく冴えていた。


 対して伊月は無防備な構えのままで依美と目を合わせる。既に言うべきことは決まっていた。そうなれば後は狼狽えようが怖気づこうが関係ないのだ。ただ真っ向から話せばよかった。


「正直、断るだろうと思ってました。もう部長が誰かから頼みを受けることはないだろうって」


「じゃあ何故?」


「なんとなくですよ。本当になんとなく。来人を見てたら、ちょっとだけ期待してみたくなったってだけで、後は流れで」


「意味不明ね」


「そうですかね? 部長ならそのなんとなくの正体、とっくに分かってるんじゃないですか? だからあいつの依頼を受けた」


「……」


 言われるがままの依美というのは良くも悪くも珍しい。誰かを言い負かして悦に浸ることはあっても、言われたままで大人しく引き下がることは滅多に、それこそ全くないといってもいい。


 そんな依美が伊月の問い掛けに食って掛かることをせず、小さくふんと鼻を鳴らしただけでタブレットへと視線を落とした。


 伊月の推論は的を射ている。敢えて肯定しなかったのは言うに及ばずと判断したからである。何より伊月の思い通りになることがどうしようもなく癪だった。


 もっとも心の隅に欠片くらいの気恥ずかしさもあったわけだが。


 してやったりと、一矢報いた伊月は口を弛ませる。


 そして、暇な時間をこんな風に潰していた少し前の日々を傍らに思い出す。言葉で各々の位を奪取し合うゲームのようなもので、座布団重ねと達磨落としの合成版と言ってもいい。


 要は相手を蹴落とし自分が上位に君臨するという自己満足ゲーム。


 幼稚だが、存外悪いものではなかったように思う。当時は互いが好き勝手に笑えていたし、何一つ欠けた箇所のない円滑な日々を上々に楽しんでいた。


 それにその頃はまだ美蒼乃とも時より顔を合わせては些細な日常の情報を交換し、ああだこうだと陽が沈むまで語り合っていたことも覚えている。


 ほとんど幻想になりつつある過去の残像。


 縋り付くつもりは微塵もない。


 記憶を掬う手を止めた伊月はとりあえず息を吐いてみた。すると周囲に広がっていた安息の光景が霧の如く晴れていき、先程と同じ現在の部室が戻ってくる。もちろん目先には上目で自分を睨む美少女のおまけつき。


 バックの宵闇と相まって流石に怖い。


 話を挿げ替えようと控えめに笑いかける伊月だったが、それを無視した依美はタブレット端末の電源を切って机に戻すと、すっと腰を持ち上げた。


「え? 部長、どこへ?」


 すたすたと軽い足取りで依美が伊月に近づいていく。


「あの…………え? まさか……」


 嫌な汗がダバダバ濁流のように溢れ出して伊月の首筋を落下し、猛烈な悪寒が皮ごと削り落とす勢いで背中を駆ける。


 伊月の隣まで来た依美はその足を止めると、遥か下方で震える伊月の方へ徐に首を回した。


「決まっているでしょう? 帰るのよ」


「……嘘、でしょう…………?」


 愕然として口が塞がらない。


「嘘をついてどうするというの? このまま待機していた処で、どうせ誰も帰ってはこないのでしょうし、帰ろうとするのが普通ではない? まあ、お前とうだうだ話していても仕方ないというのもあるけれど」


「いやいや! 帰宅は結構ですよ!? でもその前に縄解いて!」


「嫌よ。面倒じゃない」


 口をムッと張らして依美が言う。


「大丈夫。声が枯れるくらい叫び倒せば、人の一人や二人は気付いて駆けつけてくれるわよ。それがダメでも最悪、警備の人間がそう遅くならない内に見回りで来るわ。彼らに解いてもらいなさい」


「あ、あの……でも……でもですよ……? それってその…………途轍もない誤解が代償とかになりま、せん?」


「さて、どうかしら。けれどまあ――」


 黒いオーラの奔流。


「精々理解が深い人間が来てくれることを、神にでも祈っておきなさい」


 最後に悠々と伊月に背を向けて退出していく依美は、したり顔をしていた。





◇◆◇◆◇◆◇





 職員室への道中、来人は自戒していた。


 あの局面で部屋を飛び出していった美蒼乃を追わなかったことは、自分の弱さであり、過ち以外のなんでもない。


 もし無機質な傍観者で終わりたくないと本心から願うなら、あそこで追わない方がどうかしていた。


 だというのに、負債をすべて荘平に押し付けてしまった。


 本当は少し救われたような気になってしまったのだ。あの放送が流れてくれたことで、自分は正当な理由を得たと。これで自分は美蒼乃を追わずとも済むと。


 ――追って、どうしろっていうんだよ……。


 伊月に言い放った台詞は悉く自分へと降りかかった。


 美蒼乃を追い、呼び止めることは造作もないだろう。けれど呼び止めたその先で、どう声を掛ければいいのか、自分に何ができるのか、それが分からない。


 月並みな慰めなんて口にできやしない。


 もし今一番すべきことがあるなら、それは謝ることだ。ただ、それも美蒼乃はきっと受け取らないだろう。責任を感じないで欲しいと、無理やりに微笑む後輩の姿が想像できてしまう。


 ボロボロな心で他人を気遣う、そんな奴の顔だけは絶対に見たくなかった。


 辛辣な言葉で罵り、何もかもを自分の所為にしてくれた方が、あるいは割り切ることもできるかもしれない。もう既に呪いのような重荷を背負っている背中。今さら一つ増えたろところで構いやしなかった。


 頭を埋め尽くす思考に追われているうちに、体の方は目的地に辿り着く。来人は急ぎ足で早々に到着した職員室のドアを開け、『失礼します』と断って入室した。


「おう、米谷、こっちだこっち」


 見ると、クラス担任の三柴が声を挙げながら手招きしていた。それに誘われるように、教師や机の間を縫って三柴の前に立つ。


 直前まで書類を整理していたらしく、片手にペンを持った三柴はどっしり椅子に腰かけたまま近くに立った来人を見上げた。


「悪いな、こんな時間に呼び出してしまって。放課後は早々に帰る生徒もいるから、あまり呼び出しはしないことになっているんだが」


「いえ、構いません。でも、どうして呼び出されたのか分かりませんけど、可能なら早めに済ませてはもらえませんか? ちょっと急ぎの用があるので」


「む……そうか、やはりタイミングは良くなかったか。しかし、手短に済ましてやりたいのは山々なんだが……」


 あまり浮かない表情で三柴は無精髭を摩る。


「無理そうですか?」


「すまん。お前を呼び出したのは俺だが、別に俺から米谷に用があったわけじゃないんだ。ある人から米谷来人を呼ぶように、と」


「ある人? 誰です?」


 近くで待機しているのかと周囲を確認するが、三柴以外の人間は来人たちに注意を向けてはいない。集まって会議の打合せをしたり、電話に応対したりと、教師たちは全員自分の作業に没頭している。


「まあ、ちょっと付いてきなさい」


 そう言って胸ポケットにペンを挟んでから、のっそりと立ち上がって歩き出す三柴。その後ろを来人も付いていく。


 職員室から廊下へ出て、来人がさっき来た方向とは逆の方へ向かう。


 先にあるとすれば教員兼来客用の玄関くらいしか覚えのない区画。


 行く先に見当がなく頭を捻る来人の前で、三柴は足を止めて振り返った。


「ここだ」


 職員室からさして距離がない部屋。他とは違い、やけに荘厳な造りで佇む木の扉の真上には――『理事長室』と刻まれた煌びやかなプレートが掲げられていた。


「ここ……」


「ああ、そうだ。ここまで来れば分かるな?」


「……どうして、理事長が? 俺、何か問題でも起こしましたか?」


 対人関係でやや面倒事を抱えていることは自覚の上だ。けれど今のところは学園生活に支障をきたすレベルではないし、あったとしても学び舎の長が出張ってくる程の問題を無意識的に起こせるとは思わない。


 心当たりがまるでなかった。


「悪いが、呼び出した理由までは分からん。それは直接会ってお前から訊くしかない。ついでに時間の件も話してみるといい。事がことでなければ、きっと便宜を図ってくれるだろうからな」


 俺の役目はここまでだと、鼓舞するように来人の肩にそっと触れてから、三柴は踵を返して職員室へと戻っていった。


 一人残された来人は直立不動で扉を見つめる。


 普通の生活さえ送っていれば、そもそも放送で呼び出しをくらうことさえ稀有な今日、まさか理事長が直々に生徒を呼び出すなど誰が予想できただろうか。


 突飛な事態も度を越えすぎて考えがまとまらない。


 それでも、ここに来た以上はもう引き返せるはずもなかった。床に縫いつけられでもしたかのように重たい足を踏み出し、呑み込まんばかりの威圧感を放つ扉の前に立つ。


 軽く息を吐いてからノックする。


「入りたまえ」


 凛とした女性の声。


 少々警戒しながら扉を押し開いて中に入ると、部屋の奥、重量感のある机に肘をついた女性が来人を見つめていた。


 瞳に映るすべてを両断しかねない鋭利な双眸。垂れた黒髪が一部を覆っているおかげで大分軽減されてはいるが、もし全開で注視されたなら筋が強張って碌に動けなかったかもしれない。それ程に、見たものを縮こまらせる圧倒的な制圧力。


 肩にギリギリ届かないラインで広がる黒髪がベールのように神妙さを際立てる。あるいは、神話の化け物が如く縦横無尽に跳ね回りそうで恐怖を駆り立てる、と言った方が近いかもしれない。


 加えて容貌からは老いが微塵も感じられず、衰えなんて知る所じゃないだろう。記憶が正しければ歳は四十代そこそこだったはずだ。


 実際に目にしたのはパンフレットの写真や入学式の檀上くらいだが、面と向かって初めて分かる。


 この女性は自分が想像する以上に、自分の住んでいる階層から遥か高みの世界に存在しているのだと。


 そんなことを悟りながら、来人は頭の片隅でつい先日のことを考えていた。一昨日の放課後、人気のない階の部室で初めて依美に出会った時のこと。


 あの時もこんな感覚だった。何故かそれをこの瞬間に強く実感する。理事長の姿があのふてぶてしい少女と重なって揺れる。


「待っていたよ、米谷来人君」


 その声で我に返ると、来人の目に映る姿は理事長のものだけに戻っていた。


 つい、どうしてと理由を探しそうになるが、理事長の手前、不敬な言動をするわけにもいかず、まずは深く考え込むのを止めた。


 今はとにかく時間が惜しい。余計な考えを振り落とすように一礼する。


「まあ顔くらいは見たことあると思うが、私がこの学校の理事長、一宮栖依いちみや すいだ」


 まず自分から名乗った一宮は、今度はその手を翻して向って右を差す。


「で、その壁際の奴が私の補佐を務める桐洲涼香」


 一宮ばかりに気を取られて気付きすらしなかったが、手が指し示す先にもう一人、黒いスーツ姿で控える女がいた。姿勢、着衣共に乱れが一切見受けらず、器量の良さが滲み出したかのような風貌の女性。


 ――この人……。


 来人は桐洲と呼ばれるその女性に見覚えがあった。


「あなたは確か、昨日、部室棟の廊下ですれ違った……」


「はい。昨日は時間の都合でまともに挨拶もできず申し訳ありませんでした。改めて、一宮理事長の補佐を務める桐洲と申します」


 苦々しい出来事のすぐ後だっただけに、忘れようと思っても忘れられたものじゃない。荘平と二人で部室を出た矢先、階段を上って現れた桐洲はそのまま二人の脇を通り過ぎ、そして依美のいる部室の中へと消えた。


 理事長の補佐というなら、成程確かに校内を堂々と歩いていたことも頷ける。だが、それならそれで新たな疑問が浮上してくる。


 桐洲が一宮の命で動いたとしたら、一宮が依美へ何かしらアプローチを仕掛けたことになる。そして、問題となるのはやはり二人の間にどんな縁があるか、ということだ。


 理事長と一生徒間の形式的で良好な関係、ではないだろう。


 そうだと推論するには、依美の態度はあまりに尋常でなかった。


 ならばと、別の可能性を考えようとした刹那、足の先から頭の天辺まで舐め上げられたようなぞわっとする感覚が来人を襲った。


 一宮が薄らと笑みを浮かべて、その瞳に来人を映している。


 まるで考えていることを根こそぎ読み取られたかのような、魅惑的で、それでいて怪奇的な、ねっとりとした視線。


 だがそれも見間違いかと思えるくらいの一瞬で、瞬きした後は単に友好の意を示すであろう笑みになっていた。


「そうか、桐洲とは既に顔見知りだったか。なら話が進めやすい点もあるかもしれないな。では早速本題に入らせてもらおう」


「あ、あの……その前に一つ、お願いしてもいいですか?」


「ん? なんだ?」


 願い出るべきか否か、今に至るまで迷っていた。理事長に、しかも先程のような一面を隠し持っているともなると、正直発言すること自体が恐ろしい。


 しかしたとえそうだとしても、最優先すべきことは来人の中で曲がっていなかった。


「俺、実はやらなきゃならないことがあって、あまりのんびりはしてられないんです。だからその、失礼は承知の上でお願いします。もしも可能なら、できるだけ話を手短にしてもらえませんか?」


 誠意を込めて再び頭を下げる。生徒の分際で不躾だと叱責されてもいい。今大切にすべきは少なくとも外聞なんかじゃない。


 自分に頭を下げる生徒を眺めてしばし考える素振りをした一宮から、フッと邪気のない笑いが零れた。


「分かった。じゃあ、手短に話すとしようか」


「いいんですか?」


「ああ。こんな時間に呼び出したんだ。そのくらいの要求を呑んでやれんようじゃ、逆にこっちの方が不遜だからな」


「ありがとうございます」


 上げた頭を再三下げる。


「そう畏まらずともいいさ。それより、手短に事を話すとなると、どうしても荒削りな内容になるのは否めん。だからそこは許容してもらって端的に言おうと思うが、君の方もそれでいいな?」


「それで結構です」


 来人が頷くのを確認すると、背凭れと肘掛けに重みを預けた一宮は、『ならまずは前置きからだ』と真剣な顔になって言う。


「烏野依美を、知っているな?」


「はい? はぁ、まあ知ってますけど……」


 依美と何かあることは推し量れたが、流石にこう唐突に名を出されると驚いてしまう。 


 そんな来人の驚きを上書きするように、一宮は淡々と続けた。


「あいつは私の娘だ」


「……。は? 娘?」


 絶大な痛みが遅れを伴うように、衝撃的事実を理解して驚くことに数秒を要した。一宮のさっぱりとした口調がそれを助長した。


 動揺は大好物だと言わんばかりに一宮がほくそ笑む。


「信じられないか?」


「え……いや、でも苗字が…………」


「違って当然だ。私とあいつの父親はとっくに離縁している。だからまあ、父親に引き取られた子を私の娘と呼べるかどうかは怪しいものだが、血縁上はそういう繋がりなわけだよ」


「じゃあ、本当に?」


 一宮は瞑目して首を縦に振る。


 おそらく嘘ではないのだろう。理事長を務める程の人間が、そんな下らない嘘をつくためだけに生徒を呼び出すことはまずありえない。


 それに何より、真実を口にする一宮の表情は飄々としつつもどこか寂寥感を漂わせていた。まるで遠い昔を顧みているかのように。


 両親が離婚しているなどと、依美からは聞いてない。


 それも当然だ。随分と密度の濃い中らいをしているせいで見落としそうになるが、来人が依美に出会ってから、まだ数日しか経っていないのだ。そんな浅さで自らの事情を打ち明け合えるまでに打ち解け合えるはずもない。その事情というのが触れられたくないもの、消し去りたい程に嫌な記憶なら殊更だろう。


 生活面では料理が得意であることと一人暮らしをしていることくらいしか知らない。それだけで人一人を知った気になるのはいくらなんでも傲慢だ。


「……烏野先輩は一人暮らしをしてると言ってました。それはひょっとして、父親と上手くいっていないとか、そんな事情があったりするからですか?」


 来人の不意の質問に、一宮はハッとなって目を瞬かせる。だがすぐに平静に戻ると小さく頭を振った。


「今は、側面に深入りするのは止めよう。話そうと思えばいくらでも風呂敷を広げられてしまうからな。時間を惜しむ君には都合がよくないはずだ」


「そうですね……すいません」


 訊いた直後に自責した。


 ただでさえ後輩の事情に首を突っ込んで手痛く火傷している自分に、そんなものを訊く資格があるわけもなかった。


 ましてや単なる憶測だ。傷心してあることなすこと悲観的にしか捉えられなくなっている自分が、本当に情けない。


「えっと、そうなると話の本筋はなんですか? 赤の他人の俺に、どうしてそんな身内話を?」


「君と話をするには、それが最低限の礼儀だと思ったからだ。まあ婉曲には言うまい。端的に、ありのままに言わせてもらう」


 その時の一宮に配慮という概念は一切介在しなかった。少し和らいでいた室内の空気は急速凍結され、一宮はただ冷徹に来人を射竦めた。


「あいつへの依頼を取り消してもらいたい」


「……へ?」


 一宮の口にした一字一句を明確に思い出せるし、理解できる。それなのに一宮の言葉が分からず、ポカンと呆けてしまった。


「……どういう、意味です?」


「そのままの意味だよ。君が黒羽談合会に持ち込んだ依頼を、君の手で白紙に戻してもらうということだ。依頼主直々に断るんだ。あいつも文句は言えないだろう」


「違う……そういうことを訊いたわけじゃないんです」


 口調が乱れる。とても目上の人間に対する言葉遣いじゃない。けれど抑えようとは思わなかった。


 沸々と煮え滾る感情は怒りなのかもしれないが、冷静さは十分に保てている。静かな怒りの矛先では、一宮が無表情ながらも口角を上げていた。


「どうして依頼をなかったことにしなきゃならないのか、俺はその理由を訊いたんだ。あなたにそんなことを命令される筋合いがない」


「理由ならあるさ。あいつを本来いるべき場所に返すという理由がな」


「いるべき場所? それに、返すって……」


「簡単だよ。あいつをこの学校から転校させて、本来の居場所である所の明花学園高等部に編入させる」


 明花学園は県内でも有数の進学校の一つ。難関大学への進学率もさることながら、経済学や法学を組み込んだ独自のカリキュラムを掲げ、業界や政界の高位ランカーを幾人も輩出する、俗に言うところのエリート校。


 この志木西高校も同じ進学校ではあるが、明花とはそもそも毛色が違う。あくまで進学を第一に置くものと、進学を通過点に社会進出を見越すもの。カリキュラムに負けないくらい掲げる目標の次元も段違いなわけだ。


 とまあ、一般的な評価は一級のそれだが、今この場において知名度やら偏差値やらはなんら議論に影響しない。問題なのは依美を転校させるという、その一点。


 いきなり呼び出されたかと思えば、理事長は依美の母親で、自分に依美への依頼を取り消して欲しく、それは娘を転校させるためである、と。


 意味が分からず頭がパンクしそうになる。話を急ぐように頼んだ身分で申し訳ないが、いくらなんでも次から次へと情報を詰め込み過ぎだ。


 これ以上厄介な事案を抱え込む余裕などないのにと、眩暈を抑えるように来人は眉間を指で押さえた。


「よく分かりませんよ……。理事長のあなたからすれば、普通自分の学校に娘が通うことを喜ぶもんなんじゃないですか? それをわざわざ転校させるくらいなら、初めから明花に入学させればいい」


「説得ならした。自分の学校へ入学する子を喜んで迎えてやれるのが親なら、子のためにより適正のある学校へ喜んで送り出してやれるのも親だ。……だが、あいつは断ったよ。断ってここに来た」


 過去を想起しながら一宮がしみじみとした声色で続ける。


「それが正解だと思った時もある。そして……今はやはり間違いだったと思っている。だから今さらかもしれないが、あいつにはあいつ自身の道を歩んで欲しい。三年のこの時期からでも、あいつは軽く挽回してしまえる奴だ」


「それはまあ、そうなんでしょうけど……。でも聞く限り、やっぱりそれ身内話ですよね? あなたがそう考えるなら、俺を呼び出す前に当の本人に言えばいいじゃないですか」


「ああ、君に言われずとも話はした。そしたらあいつはまた断ったよ。その時あいつがなんと言ったか、分かるか?」


「分かるわけないでしょう、そんなもの……」


 エスパーも読心術も極めたつもりはない。端から回答できない問い掛けに苛立ちを籠めた視線で応じると、そこには一宮の穏やかな顔があった。


「今受けている依頼を果たさない限りはここを離れるつもりはない――だそうだ。あいつにしては珍しく、声を荒げて言い捨てていったよ」


 瞬間、言葉が温かな風になってそっと胸を撫でたような気がした。


 意外なことを聞いて動悸が早まっただけかもしれないが、自然と身体が温かくなる。その温かさが来人には不思議と心地良かった。


『それでだ』と、一宮は半ば上の空の来人を現実に引き戻すように、鋭い眼差しを一層鋭く尖らせた。


「ここまでくれば、君の中でも話が繋がっただろう? 私が君を呼び出した理由ももう明白なはずだ」


 まだ消えていない温かみをそっとしまい、一宮の眼差しを真っ向から浴びた来人が二の句を継ぐ。


「つまり、俺に先輩への依頼を取り消させて、先輩が無事転校できるように後押ししろと、そう言いたいんでしょう?」


「その通りだよ。聞けばなかなかの難行らしいじゃないか。もしかしたらあいつでさえ解決できない案件かもしれない。なら君には申し訳ないが、あいつのためを思って早々に諦めて欲しい」


「……それをあっさり容認するとでも?」


「どうだろうな」


 視線の視線が交わって拮抗する。少しでも目を逸らせばその隙にやられるのではないか。それ程までに空気が鋭く張り詰め、まるで剃刀で身でも削がれているかのよう。


 油断すれば呑まれる。疑念が確信に変わり、少なくとも心理戦においては後れを取るまいと身構える。


 しかし警戒本能剥き出しの態勢を貫いたのは来人一人で、一方の一宮はあっという間に顔を綻ばせた。


「――ま、そういう所で、今日はここまでだ」


「は……?」


 でかすぎる落差に、漲っていた来人の力も風船の如く萎んでしまう。思いっきり肩すかしを食らった気分になる。


「え? 俺の答えとか、訊かないんですか?」


「ん? いや、聞かせてくれるならそれに越したことはないが、君は今急いでいるのだろう? 流石の私も詳細な事情も語らないで意見を迫る程せっかちじゃないよ。今日はただ、私の言ったことを頭に止めてさえくれていれば構わない。ちゃんと事情を伝えた上で君が答えると言ったなら、その時に私は君の返事を聞くことにするよ」


 言い括ってから、一宮が『桐洲』と名を呼ぶ。


 それに桐洲は『はい』と短く応じ、扉の前に立つ来人の方へ歩みを進めると、小さなメモ用紙を来人へ手渡した。


 紙には達筆に十一個の数字が記されていた。


「それは桐洲の連絡先だ。もし君から私に用がある時は、電話で桐洲に伝えてくれればいい。会って話があるというなら、都合のいい時に桐洲を向かわせる」


 連絡先まで教える辺り、考える時間をくれるという言葉に嘘偽りはないらしい。


 一介の学生が持つには身分不相応とも思える情報を、気まずさと一緒に胸ポケットに収める。


「ああ、連絡と言えば、忘れるところだった」


 何かを思い出したように口元に指を添える一宮。


「君は昨夜、ひょっとして家を留守にしていたのかな?」


「いえ、学校から帰った後は普通にいましたけど。なんでですか?」


「いや、本当は君の家に電話を掛けて、電話で今回の話をするつもりだったんだが……昨夜掛けても何故か繋がらなかった。それでこの放課後、多少無理を利かせてわざわざ君を呼び出してもらったというわけだ」


「……」


 ――思い当たる、節しかない……。


「米谷様、どうなされましたか? 顔色がよろしくないようですが」


「い、いや……なんでも、ないです……」


 俯かざるを得ない来人の顔を覗き込みながら桐洲が尋ねてくれるが、真実を語れるはずもなく、その場凌ぎで流すのがやっとだった。


 まさか昨晩の騒動が尾を引いているとは、世の中どこで明日が決まるか分かったものじゃない。まあそれを言ってしまえば、本日来人が学校に来てさえいない明日があったかもしれないわけだが。


「まあいつまでもこんな部屋にいるのは気分がいいものじゃないだろうな。急ぐというならもう行きなさい」


「はい、ありがとうございます」


 そう、自分にはまだやることがある。未だに揺らぐ決心を何回も何回も反芻させ、無理やり奮起する。


 理事長室を一旦出てしまえば、その先には一切言い訳の利かない現実が待っている。残念ながらまだ正答を紡ぎ出せてはいないが、足りない頭を捻り潰してでも探し出さなければない。


 だがその前に、今この場ではっきりとさせておきたいことがあった。


 入った時と同じように扉の取っ手に手を伸ばし、そして振り返る。


「一つだけ、今の段階で言っておけることがあります」


 これだけは今の苦境の中でも口にできる。胸に強く刻みつけ、来人はその先を丁寧になぞり上げた。


「あなたがどう思うかは知らないが、俺が出せる答えはきっと、烏野先輩と同じだ」


 下手をしたら煽りとも取れる発言を、しかし一宮は、至極満足そうな笑みと共に最後まで聞いてくれていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ