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病みまくった幼馴染  作者: 白烏
5月 14日 (木)
15/22

セカンド・エンド

「ひ、久しぶり…………美蒼乃……」


 幕開けは穏便に、伊月が初手を取ってぎこちなく笑いかけた。


 美蒼乃。


 その一言が少女の小さな身体を僅かに震わせ、膝元の拳を一層強く握らせる。


 美蒼乃は何も喋らないでいた。


 湧き上がる感情で言葉を失ったのか、それとも切り出し方を探しているのか。心の内は覗けないが、苦々しい心の(もや)だけは外野で見守ることしかできない来人にもひしひしと伝わってくる。


「最後に会ったのが去年の夏頃だったから、もう半年以上も経つのか。いやほんと、時間が経つのは早いよ、はは、は……」

 

 伊月は尚も上澄みで繕った笑みを貼り付けて続ける。


 逃げ場は潰したはずだった。


 だが伊月は相手と面と向かって話すこの極限状態に至ってさえ、本物を(かくま)い、平べったい偽物を積み重ねる。崖っぷちに追い込まれたからではなく、息が詰まるからこそ息を止め、気まずいからこそ気を晴らす。


 こうも面倒なシチュエーションに放り込まれれば、伊月でなくとも自分を退かせる奴はいるだろう。


 理解もするし、同情しないわけではない。


 だが覚悟を決めて伊月の前に立った美蒼乃に対して、その行為は彼女の気持ちを否定する冒涜に過ぎない。


 少なくとも、こんな張りぼての舞台を美蒼乃は望んでいなかった。


「まさか美蒼乃もこの学校に進学していたなんて知らなかったな。教えてくれたなら入学祝のパーティーくらい喜んで開いたのに。でも、相変わらず元気にやってることが分かって僕も――」


「……もう、やめてください」


 それはとても小さな声だった。


 美蒼乃が発したとは到底信じられないような酷く衰弱した声が、淡々と続いていた伊月の話を遮って消えていく。


 今までは重力に逆らい目に滲むだけだった滴がここにきて初めて頬を伝った。


「どうして……そんな取り繕うように話すんですか?」


「取り、繕う? いや……僕は別にそんなこと……」


 伊月の乱れた心に同調して瞳が揺れる。その返答には覇気の欠片もなく、無論説得力など皆無に等しい。


 来人が分かる以上、伊月には分からないはずがない。


 荻島美蒼乃に伊月の嘘は通じない。


 瞳孔の拡縮、呼吸の乱れ、あるいは声のトーン。嘘を見抜くファクターはごまんとあるが、美蒼乃のそれはもっと直感に由来する。


 誰よりも伊月の傍にいた人間だからこそ、理屈を度外視して感じてしまう何か。


 伊月に生じた不和とでも呼ぶべき乱調を、美蒼乃は感覚の世界で見ている。正確には嘘を見抜くというより、本来の伊月と照らし合わせた間違い探しに近い。


 今美蒼乃の目尻に浮かんでいる涙がそれらをすべて裏付けていた。


 もしかしたら彼女は望んでいたのかもしれない。会いたくない、傷つきたくないと恐れを抱くその裏で、顔と顔を合わせて言葉を交わすその折に、伊月が昔のままでいてくれること、以前のよう何気なく笑いかけてくれることを。


 結果は見るも無残なものだ。


 伊月は本心を隠して虚偽の笑みで応対し、美蒼乃はその嘘を一発で見抜いてしまった。見抜いてしまったが故に、望みは吹けば消える蝋燭の灯同然に掻き消された。


 二人の歯車は完全にずれていた。


 絶えず流れ落ちる涙を隠すように美蒼乃は顔を俯かせる。その弱々しい姿に掛ける言葉を失った伊月もまた、力なく視線を虚空に向けてしまう。


 一切の会話が途絶えたまま、一分、二分と時間は過ぎる。


 来人の隣で同様に二人を見守っていた荘平が、如何にも不安そうな顔つきで来人に目配せした。すぐに中断を提案しているのだと察するが、しかし来人はその眼差しに対して首を横に振る。


 確かに中断して場を整理することは一つの選択肢だ。けれど、それを決断するのは来人たちでなく当人たちでなければならない。


 二人が合意した上で時間を置くというのなら、来人としても力を貸すつもりはある。


 だが自分の親友や後輩がそんな根性なしの奴らでないことは、他でもない来人が一番よく知っていた。


 込み上げる涙を指で拭い、顔を軽く叩いて涙腺を締め直す。そうして勢いよく束ねた髪を舞わせながら、美蒼乃は顔を持ち上げた。


 目元は依然として赤く腫れてはいるものの、しかと見開いた瞳に先程までの臆する弱さは感じられない。


 こんな出鼻で挫けるわけにはいかないと、恐れる自分を必死に奮い立たせて鼓舞している。ひょっとするまでもなく空元気なのだろうが、それでも美蒼乃は伊月の前に立ち戻った。


「いつ……いえ、楠先輩。聞かせて欲しいことがあります」


「何かな?」


 変わってしまった呼び方に戸惑う素振りも露見せず、さも当然であるかのように享受して、伊月も美蒼乃の目を見返す。


 作り笑顔はいつの間にか外れていた。


「どうして部活荒らしのような益のない、それどころか迷惑千万な行為を繰り返すんですか? 是が非でもやらなければいけない理由もないのに」


「……」


 伊月自身予期していたであろうその問いを受け、重たい吐息と共に瞑目する。そうしてたっぷり時間を置いた後、何かを迷うように首を斜めに構える。


「あの……えっとだね……、とりあえずは一つ訂正させてもらってもいい?」


 美蒼乃がこくんと頷いたのを確認してから伊月は格式張って明言する。


「僕は部活荒らしなんてしていない」


「いえ、してるじゃないですか……」


「してるだろ」


「してるんすよね?」


「してるのではなくて?」


「ちょっと待って! なんで集中砲火!?」


 口出しは厳禁だなんだと勝手に自粛しておきながら来人の口はあっけなく滑っていた。荘平も同じだったようで、やってしまったという表情で視線を横に逃がす。


 だがこればかりは黙って成り行きを窺えという方が無理な話だ。伊月の嘘をやんわりスルーできる程、人の器は寛大な造りになってない。


「お前がとぼけた虚言を吐くのが悪い」


「いや、だから本当に荒らしてないんだって! 確かに部活動を転々とはしてるさ。でもそれがイコールで荒らしてることにはならないだろ?」


「言いたいことは分かる。けどそれを決めるのはお前じゃなく部員や顧問だ。お前は評判が上々って言ってるが、全員余さずそうだと言い切れるか?」


「それは……」

 

 全員が全員、自分を心から歓迎してくれている。そう答えることが伊月にはできないと来人は知っている。知った上で焦点をそこへ当てた。


 その理由はただ単純で、実際に前例があるからだ。


 例えば数ヵ月前、伊月が柔道部へ赴いた時のこと、顧問の教師と仮入部の件で衝突するという悶着があった。


 その当時既に伊月の所業は校内に広く知られていたため、そこから顧問が『楠伊月は遊び目的で部を訪れた』という判断を下したのだ。加えて大会前という時期が完全に火に油を注いだ。


 最終的には部員たちの賛同を獲得して練習に混ぜてもらったようだが、その一件だけでも手放しに歓迎されるばかりでないことは裏付けられる。


 ただし来人が伊月からそういった類の記憶を引き出したのは、何も伊月の傷口を抉ろうとしてのことではなかった。


 伊月は他人に不利益を押し付けてまで自分の利を通す悪童じゃない。それをよく知っているからこそ、純粋に繰り返される行為の意味を求めたのだ。


「――なら」


 と、漂う沈黙を一閃するように美蒼乃が次の言葉を継ぐ。


「今は部活荒らしの嫌疑を一時保留にします。だから最初の質問に戻って教えてください、部活を転々とするその理由を。荒らしていないと言い張るなら相応の答えがあるはずですよね?」


「り、理由……? 理由ね……」


 復活した美蒼乃の気迫に怯んだのか、再び伊月が口ごもる。普段の伊月なら確実にとんずらを決め込む窮地なのだろうが、やはり縄で拘束している効果は大きい。


 美蒼乃に嘘が通じない今、仮に伊月が抵抗しようとするなら黙秘を貫くしか術がない。が、身柄を拘束されている以上、黙っていても損にしかならないことは明白だった。


 敢えて美蒼乃を見ないように気を付けながら、弱弱しい吐息だけを通す伊月の唇がもごもごと動き出す。


「えっと……ほら、人生経験ってやつ……かな。若い時の苦労は買ってでもせよっていうのと同じで、多様な経験が僕の血肉となって後々の人生に利――」


「そういうのは結構ですから、早く理由の方を」


「そんなに信憑性ない!? それだと僕が何言ったって信用しないでしょ!」


「信じないとは言ってません。はぐらかさないでくださいと言ってるんです」


「だからはぐらかしてなんかないってば!」


 伊月が声を荒げて言い返す。その乱暴な態度には流石の美蒼乃もムッとしたらしく、伊月を捉えた眼光に若干の剣呑さが滲む。


「どうしても言うつもりはない。つまりはそういうことですか?」


「答え以上の答えがあるっていうなら僕だって回答するけどね。真実はいつだって一つなんだから、僕が言えることだって真実だけだよ」


「その真実に嘘はないと、欠片も隠し事がないと本気で言えるんですか? だったら私の目を見て言ってください!」


 叫ぶのと同時に美蒼乃はソファーから身を持ち上げ、伊月の方へ強く一歩を踏み出した。そのまま上体を僅かに屈ませて目線を伊月と並ばせる。


 伊月は首を反らし、突如眼前に迫ってきた美蒼乃の顔から距離を取ろうとする。もっとも固定された体で自由など利くはずもなく、最終的に二人の顔はたった数センチという空間だけを残して静止した。


「さあ!」


 虚をついた行動、そして逆巻く炎を宿らせたかのような美蒼乃の眼力が伊月から申し訳程度の余力すらも奪い去る。


 回りからすれば数秒の出来事も、今の伊月には耐え難い無窮の地獄として感じられるだろう。確かに美蒼乃の体躯はか弱いそれだが、その強大な正義感が放つプレッシャーは並々ならないものがある。


 抗うも敵わず、伊月の視線は美蒼乃の瞳に釘づけになっていた。


「え……っと、それは…………だから……」


 言葉に詰まる。ただ譫言(うわごと)が漏れるのみで理論の構築さえままならない。


 そんな伊月の足場を更に切り崩すように、美蒼乃の真剣な顔が伊月の顔面へじりじりと接近していく。そして残す所数ミリ、少し揺れる程度でも触れてしまう距離まで迫ると、美蒼乃は再び動きを止めた。


「ひっ……」


 短く響く悲鳴。


 伊月が肩から力を抜き、だらんと天井を仰いだのはその後すぐのことだった。意味する所は降伏を告げる白旗。


「…………そう、だね……。美蒼乃の言う通りだよ。僕が腹を割って話してる……とは、ちょっと言えない」


「……。認めるんですね……」


 姿勢を戻した美蒼乃がやや間を置いて訊く。


「うん、認める」


 やっと吐露された伊月の答えを、しかし美蒼乃はどこか悲しそうに影を落として受け止めていた。


 何もかもに悉く疑いの目を凝らせる程割り切れない。そこはもう改善できない、あるいはしたくない部分なのかもしれない。


「――それでも、僕は嘘だけはついてない。これだけは信じて欲しいんだ。洗い浚いは……ちょっとその……無理なんだけど……。ただ、僕が今まで説明してきたことに関しては事実だよ」


 ソファーに座り直した美蒼乃に対して伊月が穏やかな口調で言う。


 しかし、だ。少しでも信頼を回復させようと念を押したのかもしれないが、どう考えてみてタイミングが最悪だった。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 やはりというか、すぐさま美蒼乃が目を瞠る。


「そもそも(やま)しいことがないなら隠し事なんてする必要ないですよね!? 自分で隠匿を認めておいて全部は話せないなんて……。そんな姿勢のまま信じてもらえると本気で思ってるんですか……!!」


「いや、情けないけど思えない」


「だったら――」


 そこで言葉は途絶えた。続きが口にされることもない。いや、美蒼乃自身は必死に絞り出そうとするのだが、目の前のモノがその意志を撥ね退けて喉に制止をかける。


 伊月はなんとも恥ずかしそうに口を歪め、その顔に苦笑いを浮かべていた。


 トカゲの尻尾としての笑みでなく、逃避のための笑みでなく、それは伊月が心から見せた照れ笑いであるように来人の目には映った。


 来人以上に伊月に詳しい美蒼乃が差異を見落とすはずもなく、その違いに気付いたからこそ言葉半ばに固まってしまったのだ。


 この状況で何が恥ずかしくてヘラヘラ笑っていられるのか。下手をしたら気持ち悪いとさえ感じられる異質な反応が、徐々に熱を帯びてきた論戦に待ったの手を(かざ)す。


 ――赤信号……?


 来人の頭に突然浮かび上がったイメージ。


 歩行者、自転車、車に電車、あらゆるものを問答無用で静止させる、人間の作り出した絶対的番人。


 凄まじい制止力、将又赤みを増した頬の色、一体全体何から発想が飛躍して赤信号などという物が出てきたのか理解不能である。


 そして最も意味不明だったこと、真に理屈のこじつけすら不可能だったのは、来人の脳に核まで届く衝撃を与えたもう一つの想起概念――青信号。


 赤信号ならまだ屁理屈をつけられた。だが青信号はほとほと意味が分からない。どんなに捻くれようが結び付けられない。


 だというのに、第六感、すなわち直感に頼るなら、伊月は赤よりも青信号に近いのではないかと、不思議とそんな風に考える自分がいた。


 もちろんそれは理論的なイメージなどとは程遠い、現実にそぐわない空想的なイメージに他ならない。どっちにしろ今深く熟考する代物ではないだろう。


 来人は頭にこびり付いたイメージを一先ず振り払い、自分と同じように当惑していた美蒼乃へ注意を戻す。


 流石の美蒼乃も追及の手を止めざるを得ず、一旦何かを考え込んでから嘆息した。


「……分かりました。これ以上は尋ねても無駄みたいです。だから理由ももう保留で構いません」


 諦めた節の言辞を重ねながら、それでいて美蒼乃には落胆している様子が露程もない。


 根幹を保留にするというなんとも強引な処置。互いに互いを尊重し合える公議ならばとかく、疑い、探り合う二人の話し合いでは無理からぬことかもしれない。


 だがそれが本当に正しい処理なのかは甚だ疑問だ。少なくとも棚上げにして済むような表層の問題ではない。


 ここにきて一旦身を引く美蒼乃の思惑とは何か。


 パッと見はこれといった変化もない二人の距離が、何故なのか、初めよりも開いているように感じられる。


 室内は常温だというのに、体感する空気は酷く冷たい。伊月と美蒼乃だけでなく、来人を筆頭にした傍観組でさえ微動だにできない凍てついた空間。


 穏やかな水面の下深くで荒れ狂う水流のように、見えない所で見えないモノが着実に変わろうとしていた。


「質問は以上です。楠先輩、つまらない質問をしてしまったこと、お詫びします」


「待て、荻島」


 形式ばって頭を垂れる美蒼乃を次は来人が制止した。


「お前が知りたがったことだろ? それを『つまらない』なんて言葉で濁して隅に押しやるのはどうなんだ? 保留にするかどうかはお前次第だ。けど自分まで騙そうっていうなら静観しかねる。お前らしくもない」


「それは少し違いますよ、米谷先輩」


 来人の忠告を即座に否定する。その瞳からはしかし伊月が消えることはなく、ただ真っ直ぐに伊月だけを見据える。


「私は、知ろうとなんてしてません。質問させて欲しいと自分から口にして、ああだこうだと疑いながら、本当は…………最初から聞き入れるつもりなんてなかった。だから私はお詫びしたんです」


「聞き入れるつもりがなかった? お前、何言って――」


「そもそも理由なんて関係しない。そういう意味です」 


 美蒼乃の達観した顔つきに、開口早々に涙を拭っていた少女の面影を見出すことはもう叶わなかった。目の前の少女は何時よりも何処よりも、風紀委員、そして副委員の腕章を掲げる荻島美蒼乃でしかない。


 彼女の言葉を来人が理解するが遅く、美蒼乃は今一度立ち上がり、伊月の前に迫っていた。だが今度は腰を折らず、ほんの少しだけ勝った高い目線をキープする。


 呆気にとられる伊月を見下ろすその表情に色なんてものはない。まさしく無色と呼ぶにふさわしいものだった。


「楠伊月先輩、風紀委員としてこの場で要求します。理由の如何に関わらず、部活動の入退部を繰り返す行為の一切を自粛してください。従わない場合は然るべき体制が整い次第、強制排除も厭わないものとします」


 あまりにも急な最終勧告。ここまでのやり取りを一切合財無為にしてしまう要求を、美蒼乃は言い放つ。


 居るだけで重く()し掛かった空気に潰されそうになる部室。そんな状態が殊更悪化するなどと、この場にいる誰が予想できただろうか。


 伊月は顔を引き攣らせ、美蒼乃を仰ぎ見た状態で完全に固まった。その双眸はただ単純に驚きの色一色で染まり切っている。


 荘平も、そして来人自身も同じである。衝撃的な光景が目に焼き付きついてループする。指の先まで自由が奪われたかのような錯覚に襲われる。


 ただ一人、唯一依美だけが冷静さを失わずに二人のことを眺められていた。


 こんなものは、違う。


 そう確信した瞬間、来人を捕う混迷の渦が憤りによって中心から弾け飛ぶ。いつまでも意識を白くなどしていられない。雰囲気に流され、沈黙に甘んじることは断じてできなかった。


「ふざけるな!!」


 定着しようとする不快な空間を根元からへし折るように叫ぶ。


 美蒼乃と伊月に用意された話し合いの場であることはもはや憂慮事項でない。いや、それ以前の話なのだ。


 美蒼乃本人が話し合いから降りようとしている。


 看過すれば何もかもが否定されてしまう。それこそ本当に『何もかも』だ。


「お前が伊月と直接話す意義は、荻島、お前が一番理解してただろ!? お互いが遺恨を残さないように決着をつけるんじゃなかったのか! 今ここで投げ出したら何一つ解決できないままだぞ!」


 意見の押し付け合い意味はない。人間に感情と意思がある限り、主観と客観が別物である限り、この事実は永劫に変わらない。


 だからこその話し合いの席、だった。


 途中までは順調といかないまでも進めていた。それがこんな訳の分からない形で終結しようとしている。提案した張本人だからこそ、それより何より自分が心を通わせていた奴らだからこそ、来人には容認できなかった。


「米谷先輩……」


 暗い表情で来人を横に見る。その様子は冷酷無慈悲な鬼とは似ても似つかない。押し寄せる悲しみに頭を抱え、蹲ってしまった少女を背後に隠した儚げな虚勢。


「はい。それはきっと……先輩の仰る通りなんだと思います。こんな場までもらっておいて、申し訳の仕様もないです。でも――」


 一瞬、纏わりついた鎖を噛み千切るように歯を食い縛る。それから美蒼乃は首を来人の側へ回す。


「ここから先は口出し無用でお願いします。これは結局風紀委員が責任を持つべき問題です。だから、風紀副委員長である私がすべて処理します」


「……なんだよ、それ。そんなの、認められるわけ……」


「先輩」


 細めた両目の奥に覗き見る、およそ美蒼乃のモノとは思えない矮小な光。


 納得に足る意志を見たわけでも、ましてや気圧されたわけでもない。


 それでも自分がこれ以上広言することは許されない。来人を黙らせたのはそんな不確かな確信だった。


 来人を無理に引き下がらせると、美蒼乃は仕切り直す形で足を数歩後ろに戻した。そうして絶妙な距離を確保してから目の前の男と相対する。


 俗に目の色を変えるというと、そのほとんどは感情を表に出すことを指す。だが美蒼乃の場合はまるで真逆だ。


 感情を殺した無機質な色味。


 私情は元より、痴情、温情、怨情、ありとあらゆる感情に栓をして、それこそ作業を単調に熟すだけの機械になる。もちろん人の心を捨てるわけじゃない。公私に分別をつける当たり前のことを徹底しているに過ぎない。


 差し障りがあるから、と理由づければ当然の心構え。とはいえ高々学生の委員会や部活動程度で、小綺麗に棲み分けしている律儀な人間なんてそうはいない。


 美蒼乃だってそうだ。未熟さは彼女自身が一番知っているだろうし、上手く巧みに調子を合わせて世の中渡り歩けるような、そんな器用な奴でもない。


 ただ辛いから、そうしている。


 悪者と闘う正義の味方。悪役の人間を否定し、悪役の罪を咎めることへの負い目、罪悪感、そして言い訳の末路。


 臨機応変に二面性を入れ替えられる者が一流だとして、果たして荻島美蒼乃のそれはどうなのか。きっと手放しに賞賛されはしないだろう。


 だからといって、付き纏う(しがらみ)を破棄するなと、本当の自分を沈み込ませるなと、身勝手に忠告できるはずもない。


 真に来人が言えることなどありはしなかった。


 人間同士の関係なんて容易く崩壊してしまう憫然(びんぜん)たる繋がりだ。しかしその距離感はあまりにシビアで、煩わしくても切り離せないジレンマがある。


 矢面に立つ美蒼乃は、今この瞬間も焦燥と煩慮で板挟みにされている。


「楠先輩、返答をお願いします」


「美蒼乃……」


 伊月から余裕なんてものはすべて吹き飛んでいた。放心に近かった表情が一気に崩れ、眉を顰めて傷心を露わにする。


 自分の所業が訳も構わず否定され、挙句の果てに問答無用で禁圧されようとしている。嘆き悲しみもしたくなる悪状況に違いないが、伊月が心を痛める原因はきっとそこにはない。


 色を揉み消した美蒼乃の瞳とは対照的に、伊月のそれは後ろめたさや後悔、申し訳なさに同情心と、幾つもの感情が(ひし)めき合って(せめ)ぎ合う。


 美蒼乃がジレンマと闘う一方で、伊月もまた別種の何かに胸を焦がされているようだった。


 けれど皮肉なことに、一番近くで見てきたはずの美蒼乃だけが気付かない。ただ自分の劣勢に慌てふためいている程度にしか認識してないのだろう。刃を鞘に納めようとはしなかった。


「そんな無様な格好は、嫌ですよね? それに時間も無駄にしたくないはずです。だから早く答えてください。答えて頂ければもう拘束する必要もなくなるんです」


 美蒼乃が矢継ぎ早に喋り切った区切りを見計らい、伊月は堂々と、しかも大々的に音を立てて深呼吸する。


 突然の挙動にビクッと震える美蒼乃。防衛本能から足が後ろに半歩下がる。


 腰の引けた姿勢をすぐに直し、怒気を交えて伊月を睨み付ける。が、二度目の衝撃によって鋭い眼光は瞬時に鈍と化す。


 胴と手を縛られ、逃げる選択肢も奪われ、その上答えを強要される始末の男。照れ笑ったり悲哀に暮れたり、節操なくコロコロ表情を変えてきたそいつは、二転三転したこの正念場に、また『あの』苦々しい笑いを前面に貼り付けていた。


 美蒼乃にとっては悪夢の再生に他ならないそれは、連続で振るう刃を削ぐには十分すぎる威力を有していた。


「えーと、あの……さっきから随分な急ぎ様なんだけど、もうちょっとこう、格式的に段取りを踏んで……とか、できたりはしない?」


 腕さえ縛られていなければ、両手を合わせ情けなさそうに頼み込む伊月の姿がここにあったことだろう。


 形を重んじ中身空っぽな恒例の逃げ腰。伊月を小指程でも知っているなら誰だろうと簡単に想像できてしまう。


 だが現状、伊月の空疎な姿勢以上に、発言そのものが美蒼乃のこめかみをピクリと震わせた。


「で、できるはずないじゃないですか! そもそも誰のせいでこんな……こんな滅茶苦茶なことになっていると思ってるんです? 段取りも、それに……信頼も、全部あなたが自分で壊しておいて……。そうして次は先延ばししろと?」


「先延ばしっていう程、露骨なもんでもないんだけど……。まあ、強ち間違いでもないか」


 勝手に自己解決して伊月は続ける。


「僕から確認したいことがあるから、まずそっちを答えて欲しいんだ」


「確認、ですか?」


 美蒼乃は訝しんで目を細める。


「……そうですね、受けましょう。風紀委員としては、委員と取締り対象、相互の立ち位置を均すのに不服はありませんので」


 不服無しを宣言するにはシンキングタイムが少々長い気もしたが、どんな葛藤があったか、それは分からない。どうであるにせよ、美蒼乃が風紀副委員長としての肩書きに重心を置いたのは確かである。


 風紀委員対問題児『楠伊月』。構図の明示は、かつての因縁は既に関与しない事柄であると、言外に告げているようにも聞こえる。


「じゃあ一つだけ。もし仮に僕がここで風紀委員の要求を呑んだとして、具体的にはどんな制限が課される? 自重して控えめにすればある程度までは見逃してくれるとか、そんな譲歩は見込めるかい?」


「譲歩? 何かの冗談のつもりですか? 通常、生徒が加入する部活動は一つです。正式に顧問の許可が得られた場合に限って掛け持ち等の例外もありますけど、あくまで特例です。制限も何も、あなたにはこの慣習に従ってもらう以外ありません。それでようやく風紀の維持に繋がるんです」


「それは要するに、僕は部を一つに絞って入ったが最後、安易に転部はできなくなる――ってこと?」


「概ねその通りです。もっとも態度次第では『安易』が『絶対』になると思ってください」


 ここで伊月が要求に対し頷けば、伊月は正式に入部を行ったが最後、金輪際転部を行えなくなる。運が良くても『適正云々の事情によって認可が下りれば転部可能』程度がやっとだろう。


 どっちにしたってホイホイと部活を渡り歩けなくなることは必至。


 周囲に与える影響が少なくない以上、風紀的に伊月の自由を制限することは間違った判断じゃない。


 対処としては妥当だと、頭では理解できている。そのはずなのだが、来人はどうにも腑に落ちずにいた。


 理由を蔑にした美蒼乃の強行。話し合いでは埒が明かないから匙を投げた、とはとても思えない。一人一人の主張に耳を澄まし、それ故に四苦八苦してしまうような少女が、そんな貧弱な覚悟でいるわけがない。相手が伊月であることを差し引いてもだ。


 理由なんて関係ないと、彼女は言い張った。


 言葉そのままに理由の有無、正誤を問わず、伊月の奇行を止めさえすれば何もかもが解決する。一連の騒動に決着がつく。


 彼女がそういう確信と決意の上に要求したとして、ではその解決とは何か。何を終わらせられるのか。


 伊月が転部することに付随する不信と軋轢。これはまず間違いなく解消される。


 だが果たしてそれだけなのかと疑り深く考えてしまう。


 確かに本元の伊月さえ押さえてしまえば万々歳だ。けれど美蒼乃の手腕を持ってすれば、もう少しくらい中立的な解決法を見つけて然るべきだ。もっと言えば伊月自身が謙譲だの処世術だの駆使して丸く収めることだってできるだろう。


 あらゆる方針を全部検討してなお、美蒼乃は伊月を取り締まることに拘った。


 その思惑は――。


 そこまで行き着くことで、ようやく答えの一端を来人は掴んだ。過程と結果の先にある答えではなく、それそのものとなってしまった答えを。


 美蒼乃の返答に、伊月は『ああ、やっぱり』とボソッと呟く。半ば分かり切っていただけにショックはそれ程でもないようで、すぐ笑顔を取り繕い、そして告げた。


「じゃあ、この要求に関して僕の返事はノーだ」


「え……」


 対して予想外の返答をされた美蒼乃は大きく見開いた目を瞬かせる。


 相対には優劣の流れが存在するが、今まで優勢だった美蒼乃のペースがただの一言でぐらついた。


「なんで……なんでノーなんですか!? ここで拒否したところで処分は同じだって……どちらにしろ身勝手に活動できなくなるって、そう言ったじゃないですか!」


「でも選択権は僕にある。どっちを選ぶか、選択肢を残してくれたのもそっちだ。だからノーでいい」


「せ、選択……。確かに、風紀委員として…………けど、だけど……。分からない……分かりません……!。どうして……」


 動揺を抑えきれずに狼狽える。風紀の門番を象徴する仮面にヒビが入り、そこからは身体を抱いて震える衰弱した少女が顔を覗かせていた。


 身体の震えは腕を強く握りしめて押し殺し、顔を俯ける。独白交じりに小さく訴えることが精一杯という有様だ。


 一方の伊月は万事が些末なことだと言わんばかりに飄々と腰を据えていた。


「別に深い思慮なんてないさ。さっき言ったかもしれないけど、僕には僕なりの理由がある。僕の行動に伴う問題だって一応自負してるつもりだよ。自負している以上は、勝手に始めた僕が勝手に降りることなんてできない。たとえ風紀委員や教師を相手取るとしても、ね」


 続けられなくなったらなったでそれだけのことだよ、残念だけど。終わりにそう付け添えて話す伊月は呆気らかんとしつつも、それでいてどこか自虐の香りを漂わせる。


 美蒼乃に覚悟があるように、伊月にも思う所があった。それだけのことだったのだと、黙認するより他にない。


 ここが終着点。既に議題は尽き果てた。


 火を噴く勢いだった美蒼乃の口が徐に閉じられていく。瞳から溢れる程に漲っていた活力も枯れつつある。


 後はもう、美蒼乃が頷くのを待つばかり。


 皆の視線が美蒼乃に集まるが、しかし彼女は何一つアクションを起こさないままで立ち尽くしていた。


 依美は相変わらず無表情で成り行きを傍観していたが、気配りができる荘平は無心になれず、落ち着かない様子で汗ばんだ手の開閉を繰り返す。


 心配にもなるだろう。どちらへ転ぼうと結果が同じ要求だった。それを相手が往生際の悪い選択で返しただけでのことで、肩を落とす人間などまずいない。


 駆け引きに乗せた時点で勝利が決まる出来レース。そんなものに美蒼乃が一喜一憂するはずはない。さっきまでなら来人もそう断言できた。


 だが事実、美蒼乃にとっては重要な『二択』だったのだ。


 そこに気付いた来人には、軽んじることなど到底できなかった。


 ただ静かに時間だけが経過する。それもあくまで窓の外に限った話で、建物に挟まれて消えていく太陽とは裏腹に、部屋の中だけが境界線で断絶されている。


 誰も動かず喋らず、時計以外に流れる時間を体感させてくれはしない。


 気楽に手を叩き、『はい、今日はここまで』と、そんな風に誤魔化しを入れて帰ってしまいたい。立ち合い人になったことをひたすらに後悔だけが苛んだ。


「楠先輩」


 蚊の鳴くような声が透けて通る。


 もはや誰のものか判別困難な、気力が削げた美蒼乃の声だった。


「……何?」


 伊月も声量と声質に見合った控えめな声で返す。


「先輩は、さっき言いましたよね? たとえ風紀委員や教師が相手でも、自分の行為は貫き通す、と」


「うん、言った。そもそも一人一部の件は慣習であっても規則とは違う。できることなら、校則上は問題ないことを武器に抗ってみようかとも思ってるよ」


「……。ならもし、私なら……私だったら……………どうしますか?」


「は?」


 意表を突かれて目を丸くする伊月と、果敢無げな美蒼乃の視線が引き合うように交錯する。


 震えながらに胸に添えられた左手は、自らをありありと指し示すと共に小さく祈りを捧げる。


「風紀副委員長なんかじゃなく、ただの後輩――あなたを好きなだけの後輩としての私だったなら……先輩は、どうしてくれますか?」


 泣きそうな声だった。


 (すが)りつくような、憐れな眼差しをしていた。


 指先で触れるだけで弾けてしまう泡沫と同じ。何か声を掛けるだけでも崩れてしまいそうな柔い心。


 危ういと、そう思った。


 希望はなく、取り柄の元気すらも喪失した虚ろな器は、あまりに脆く壊れやすい。底まで届く荒々しい亀裂が傷の深さを物語る。


 胸の奥にずっと秘め続けた感情を、表に出さないよう堪えてきた恋心を、彼女は明かした。亀裂から漏らしてしまった。


 きっと誰もが気付いていただろう。だから隠す意味は最初からなかった。


 それでも隠し、欺かずにいられなかったのだ。それを認めることは弱さの証明で、強く、真っ直ぐあろうとする少女には耐えられなかった。


 だから敵であろうとした。


 迷子になったあの男を、今度は自分が手を引いて導くことを決意した。


 今の伊月を受け入れることを――荻島美蒼乃は拒絶した。


 伊月は、何も言わない。あるいは言えないのかもしれない。


 言えば美蒼乃を傷つけることを伊月は知っている。今の自分の言葉ではどうにもならないことを痛感している。


 無言でいることが、可能範囲の最良だと。


「風紀委員でも教師でもなく、風紀も校則も関係ない…………ただ、そうして欲しいからって、私の勝手な意見でも、止めてくださいと言えば止めてくれますか……? ……私にはもう、見ていることが辛いんです。我儘を押し通してでも、私は先輩に止めて欲しいんです……」


 周囲は観る。


 彼女は謳う。


 演劇のワンシーン、悲劇のヒロインが傷ましく独白する悲嘆な姿を目にしているようで、どんな台詞も一度境界を跨いでしまえば惨めに、空々しく響く。


 見る影もない。


 だが、だからというつもりはないが、思いの丈を真正面からぶつけにいった美蒼乃には、醜態に見合った報いがあってもいいはずだと、そんな風に来人には思えていた。


 これはもう論戦じゃない。彼女は自ら背を向けて舞台を降りた。


 けれど、怯える心を引き摺って話し合いの舞台に立ったこともまた、紛うことのない事実だ。その勇気の一分一厘だけだとしても、救いがあったっていい。


 失い続けるだけじゃ、虚ろな器は空っぽのままだ。


「お願いします。私も、先輩のしようとすることを、精一杯お手伝いしますから。どうか……どうか、私の知っている昔の先輩に、戻ってください」


 言葉を重ねる毎に涙声が強くなり、最後の懇願は濁って聞こえるくらい心の底まで澄み切っていた。


 瞼が落ちかけの目も既に潤んでいる。しかし、決して涙を流しはしない。


 もう、これ以上苦しまなくてもいいはずだ。


 そう思えば思う程、来人に降りかかる刺々しい記憶の欠片。思い出したくない嫌な記憶というものは、狙い澄ましたようにこんな時に限って甦る。


 記憶という名の教訓。


 愛しい人間さえも裏切りを行うこんな世界で、友人や夢、希望がいつも味方であるなどありえはしない。時にあっさり牙を向ける。


 神奈の時も。


 そして、今も。


 伊月はまた、苦く、弱く、笑った。


「また、あんな……昔の僕に戻れだなんて、そんなきついこと…………勘弁してよ」


 何かが、終わった音がした。


 ――ああ、これはもう、ダメだ。


 衝撃、感情を置き去りにして悟る。


 この二人の関係は、取り返しがつかない。


 解けない糸の縺れが、今この時を持って、真っ二つに断裁されてしまった。


 遅れて怒りが込み上げるが、どんな形で表現すればいいのか分からなかった。それどころか、誰に対する怒りなのかということさえ曖昧になってくる。


 ここで伊月に怒りをぶつけたとして、全力で殴ったとして、そんな行為は何にもならない。脳が理解するより先に身体が痛切に気付いている。


 無残な結末を前に打ち震えることすらできない。


「わかり、ました……」


 誰もが言葉を失う空間で、美蒼乃だけがなんとか言の葉を紡ぐ。


 しかし、正常と言うには遠すぎる。虚ろな目は焦点が定まっておらず、声に抑揚もない。明瞭な意思のある人間からかけ離れすぎている。


「私はもうあなたに関わりません。あなたの行為に対して処分を下すことも、しません。風紀委員会としても同様の所存で臨みます。数々のご無礼、本当に、申し訳ありませんでした……」


 美蒼乃がゆっくり頭を下げて謝辞を述べる。


 しばらくして顔を上げた美蒼乃は何か囁くように唇を動かすと、そのまま小走りで伊月の横を駆け抜けた。


 群青色のリボンが力無げに靡く。


「お、おい、荻島!」


 咄嗟に来人が呼び止めるも、美蒼乃は足を止めず、扉を開け放って飛び出した。


 廊下を蹴る上履きの足音だけが木霊のように響き渡り、それも次第に遠く小さいものになっていく。


 十秒も立つ頃には、その足音さえ完全に聞こえなくなっていた。


「伊月!! お前、追いかけなくていいのかよ!?」


「何言ってるんだい、来人……。こんな縛られて身動き一つできない状態で、誰を追いかけろっていうのさ」


 詰め寄った来人には目もくれず、伊月は正面だけをぼんやりと見つめる。


「……お前、まさか、これで良しにするつもりか!?」


「良し悪しの問題じゃないだろ? なるべくしてこうなったんなら……後は僕が不甲斐なかったってだけの話だよ」


「まだそんなこと言ってんのか! 終始ヘラヘラ笑っていただけの奴が甲斐のあるなしを語るな!! どうしてもっとあいつの気持ちを酌んでやれないんだよ!!」


「……」


 伊月は答えなかった。もう話すことなどないと言うように、口を噤んで無言になる。


 さっきと同じだ。不安定な美蒼乃に声を掛けられなかった時と同じ。自分が何を口にしても、それは相手が納得するに足るものではないことを自覚している目。


 そしてそれは来人自身も変わりない。どれだけ伊月を責め立てようが、そこに明確な目的を抱いてはいなかった。


 伊月に正しい行為を強要しているわけじゃない。そもそも正しい行為とはなんなのか、そこからして不明瞭だ。


 ただ膨れ上がる複雑な感情の逃げ道を探しているだけなのかもしれない。


 それでも来人には、伊月の諦め切った態度がどうしても許容できなかった。


「伊月ッ!!」


 気づけば右手を振り上げていた。理屈を放り投げ、感情のままに眼前の男を殴ろうとしていた。


「ストップ、来人さん!」


 自分の意思ではもはや止められなかった右腕が急に止まる。


 二人の論争を見るに見かねた荘平が、今にも伊月を殴り飛ばそうとする来人の右腕を掴んで静止させてくれていた。


「……荘平?」


「今は二人が争ってる場合じゃないはずっすよ! 何よりもまず、美蒼乃さんを追いかけないと」


「あ、ああ……そうだな……。悪い……」


 肺に溜まった空気を一気に吐き出し、怒りの感情へ蓋をする。そうして少しばかり精神統一を図ることで、多少なりとも冷静さを取り戻すことはできた。


 とはいえあくまで応急処置である。このまま伊月が視認できる状況にいては、またいつ感情が暴走してしまうかも分からない。


 それも含めて美蒼乃を追うことが先決なのは間違いないだろう。


 だが同時に、今度は自分が目を背けようとしているのではないかと、悲観する思いが胸に蟠るようだった。


「よし、じゃあ俺と荘平で荻島の後を――」


 気後れをなんとか飲み下して指示を出そうとした来人だったが、そこに『ピンポンパンポーン』と異質な音色が割り込んでくる。


 スピーカーから流れるその音は学生なら誰もが知っている、校内放送の知らせだ。


『二年C組米谷来人、まだ校内に残っている場合は至急、職員室三柴の所まで来なさい。繰り返す。二年C組米谷来人、まだ校内に残っている場合は至急、職員室三柴の所まで来なさい』


 再び『ピンポンパンポーン』と音が鳴り、そこで放送は切れた。


「呼び出し!? くそ、なんでこう急いでいる時に……」


 唐突な呼び出しに歯噛みする。


 時刻は放課後。校内にいない体を装って呼び出しを蹴ったところで、相手にそれを確かめる術はない。無視することは可能だ。


 しかし、何故か来人は迷ってしまった。


 呼び出しに応じず美蒼乃を追うべきか、素直に呼び出しに応じるべきか。


 無論、前者を優先する気持ちの方が強い。なのに決めきることができず、深く考え込んでしまう。


 苦い顔をする来人を気遣うように荘平がポンと肩を叩いた。


「来人さんは先に職員室へ向かってください。美蒼乃さんの方は俺がなんとか呼び止めておきますから」


「いいのか? 荘平」


「どんと任せてください」


 屈託ない笑みで胸を叩く荘平を見て、心強い味方が傍にいることに来人は安堵した。


 荘平をほぼ無関係な事情で巻き込んでおり、あまつさえ自分は最前線から外れようとしている。それを咎めない寛容さが、今の来人にとっては眩しかった。


「ほんと、いつも助けてもらってばかりだな……。分かった。なら美蒼乃の方は一先ず頼む。俺もすぐ切り上げて戻る」


「了解っす」


 張り切った返事をすると、荘平が美蒼乃の後を追って部室の外へ走り去る。


 荘平に続く形で入口まで行き、部屋の戸に手を掛けてから、来人はほんの一瞬だけ依美に目配せした。


 自分と荘平がいなくなる以上、伊月のことは依美に任せるしかない。言葉には出さなかったが、アイコンタクトで意思を疎通させ、親友を依美に託す。


 部室に背を向け走り出す傍ら、どうしてこうなってしまったのかと、来人は一人自問自答した。


 頭と心の中がグチャグチャになり、碌な解答が浮かばない。


 一つだけ確かなことは、自分が余計な手を伸ばしさえしなければ、少なくともこんな事態にはならなかったということだけだ。


 二人の関係が終わることを危惧しながら、積極的な傍観者であることを望んだ。その結果、こうやって後悔の念に溺れている。


 まったくもって笑えてしまう。


 ――やっぱり俺は、あの頃の二人が見たかったんだな……。


 決着がどうのこうのと、説教染みた弁を垂れていた自分が酷く滑稽に思える。


 どちらに転ぶか分からない。けれど、どちらに転んだとしても停滞するよりは遥かにいい。そんな綺麗な割り切り方ができる程、自分は大人じゃなかった。


 こんなことになるのなら、停滞していた方がまだマシだったかもしれない。


 後悔は、先に立たない。


 どこに向かえばいいのか、活路が見出せない暗闇を走るように、暗く怪しく伸びる廊下を蹴って来人は職員室への足取りを速めた。

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