ポートレイ・ディレイ
――たとえば。
たとえばの話、公にできない変哲な趣味を第三者が晒してしまった場合、衝撃の現場に立ち会ってしまった目撃者が取るべき行動とはなんだろうか。
指で顎を摩りながら来人は考える。
やはり叫ぶ、逃げる辺りが平均的な人間の選択ではあるだろう。
しかしだ。統計的な数字が本質を具象化するかどうかはまた別の話。多くの場合は取りこぼしが存在し、その存在は前提条件として常に付いて回るものだ。
だからどうしたと短気な輩は非難するかもしれない。
実際、こんな問答は塵一つの意味も持たない。要は問題の第三者に対し、遁走も絶叫もせず、ただ蔑みの視線を送るという手もあるのではないか、という話である。
「あのさ……」
が、そういう手段を講じるとして、行動に移せるかと訊かれたなら、返事は酷く不安なものとなるだろう。
第一、平常心でいられる自信がない。
日常あってこその平常心。非日常と遭遇した時点でまず基盤が崩れ、それから抑えの利かない動揺に見舞われた後、現場から離脱したくなるのが道理だ。
敢えて留まれる人間がいたとしよう。その時は逆に、そいつ自身に特殊な嗜好の持ち主だという嫌疑が掛かりかねない。
飛び火するくらいなら早々に立ち去るのが満場一致の結論のはずだ。
「ねぇ…………。はぁ……」
ともすれば、端から不問にするのもありである。
見なかったことにしてあげれば、本人は助かる。自分も助かる。規模の小さいハッピーエンドで丸く収まる。
その後は時の流れの赴くまま、目撃者の記憶が薄らいでいくのを待てばいい。人の噂も七十五日と嫌に長いが、噂にもならなければ期間は数分の一程度あれば足りるのではないか。
器用に事を均す必要はなく、下手なフォローは傷口を抉る。不器用で構わないから、ほんの少しの同情と共に通り過ぎてしまえばいい。
何も見なかったと、ただそう付け添えて。
「なあ、伊月」
「……何かな? 来人」
「見なかったことにしても、いいか?」
「なんでだよッ!?」
来人がフッと寂しげに微笑むと、伊月は目を剥いて突かれた銅鐘の如く鈍く声を荒げた。
昼休みから時は経過し、放課後の部室。
ソファーの肘掛に腰かける来人の前には引き戸を背にした椅子が置かれ、その椅子に伊月が座っていた。
というより、座らされていた。
椅子の骨格を支柱に強靭な荒縄が体を幾重にも縛り上げ、伊月に座位を強いていた。しかも縄抜けできないようにと後ろ手に両腕を縛って固定する徹底ぶり。
一昔前のヤンキー漫画や借金取りの強引な取り立てを想起させるそれは絶望感が濃密で、これで血の混じった唾でも吐きながらニヒルに笑ってみせた日にはさぞかし絵になることだろう。
と、そんな『無謀な俺カッコいい』といった解釈が、まあ確かにできないことはない――場所が学校でさえなえなければ。
清涼感溢れた学び舎で極道チックな真似をされようが、それはいいとこゴッゴ遊び止まりでしかない。
来人としてはむしろ、男が公の場で椅子に括り付けられたまま放置というこの惨状に、別種の危険を感じざるを得なかった。
「いや、仕掛けた側がこんなことを言うのもあれだけなんだけどな…………正直見るに堪えない」
「ほんとだよ!! 仕出かした奴が言うに事欠いて何身も蓋もないこと言ってくれてんですかね!?」
身動きを封殺しようが中身はすこぶる元気なようで、一対一の会話には不適切な大音量が続く。
誰だろうが訳も分からないまま拘束されたら、そりゃあ沸点が低くなってしかるべきだ。そんな所に冷静になれなどと、火に油過ぎてとても口にできない。
鼓膜を痛く震わせるつっこみに耳を押さえながら、来人はため息を落とす。
時間をおけと、総指揮を執った少女は口にした。
身柄を拘束しても、間髪入れずに対談させるのは得策じゃない。ある程度、心の整理は必要だから、と。
だが、来人は思わずにいられなかった。一方的に縛り上げ、あまつさえ放置した上での心の整理とはなんなのかと。
死に支度として身辺整理を指すのか。
そもそも目隠しを施し部室に連行した上で、暴れる伊月を縄で無理やり抑え込んだ人物こそが総指揮官その人なのだ。自分で興奮させておきながら時間任せのクールダウンとはほとんど鬼の所業だった。
もちろん伊月の逃げ足の速さを踏まえた上で束縛という手段を取ったのだろうが、それにしても初対面の相手に一切の手加減なしというのは、来人自身呆れながらに感服したものである。
そして同時に驚きもした。
依美という人間は依頼者、その他関係を持たない第三者に対しては、ある程度一線を退く性分なのだと勝手に決めつけていた。
初めて部室を訪れた時も言葉こそ乱暴であれ、来人との間には確実な距離が置かれていた。それが伊月の身体を縛り上げる際には、恒例の人をからかって楽しむ悪癖を発揮していたのだ。
ただの認識不足ではあるが、来人の目にはそれがどうにも不思議に映った。
「しかしまあ」
頭の中で渦を巻く疑問は一旦保留とし、来人はもう一度まじまじ伊月を眺める。
「あっさりと捕まったんもんだよな、お前も。あのプラン、確かに緻密だったけど、精密さと粗雑さは紙一重だしな。成功したことが俺は今でも信じられない」
「うッ……。あ、あのさ来人……今度は僕が言うのもなんなんだけど、そっちがそういうこと吐露しないでくれないかな……? 加害者にそんな過小評価されると、まるで捕まった僕の方が馬鹿だったみたいじゃない?」
「……え?」
「その『違うのか?』って顔ほんとやめてくださいません!? せめて対等な強者っぽくフォローして!」
「分かった分かった。分かったから、少し抑えろ」
来人がやんわり窘めてみると、ばたばたと暴れていた伊月の両足はとりあえず鎮静化した。
体を動かせない代わりなのか、感情的な方向で非常にナーバスになっている節がある。いつにも増して面倒くさいというのが来人の率直な感想だった。
「俺は過小評価なんてしてない。ただあれだ。先輩の作戦通りに動くお前が、追込み漁で自分から網に掛かっていく魚みたいで清々しかったって言いたいだけだ」
「……それ、どの辺がフォローなのかな?」
「あー違う、そうじゃなくて……撒き餌に釣られた魚? ……でもなくて、クマに捕食されるの覚悟で川登りする鮭? えーと…………悪い、これ以上はもう……」
「諦めるなよ!」
伊月は真に迫る勢いで催促するが、出ないものは出ない。
それだけ依美の講じた策は単純であり、多少の捻りはあっても特定の誰かしか思い至れないような、そんな特殊なものではなかったということだ。
とはいえ、すぐさま来人や美蒼乃で思いつけたのかと言えば、それはやはり無理だったことも否定できない。
論点を履き違えれば議論が歪になり、観点を誤れば答えへのルートは遠回りになる。要は来人たちが歪曲した道をのろのろ歩いている間に、依美は最短距離のルートを見極め、真っ直ぐ突っ切ったということである。
依美の方が、捕える対象のことを把握できていた。
『楠の方から中庭に来てもらいましょう』。
昼休みの終盤、緩急もなくサラリとそう宣言した依美が、来人に対して下した指示はたった一つだけだった。
放課後中庭へ来るようにという旨を紙に綴り、授業中に渡す。
直接話すことはできない。けれど授業にきっちり参加しているなら、紙を渡すくらいなんてことない、というのが依美の見解である。
『紙一枚で来るなら苦労しないんですがね』。
否定的な立場から苦言を呈した来人だったが、依美はしかし、余裕の表情を保ったまま右手を艶やかに返した。
ただの紙約束は酷く脆い。メッセージは届いても、相手が素直に従うかは危ぶまれる。それが伊月ともなれば常識の比ではない。
だが依美が推したのは、紙の約束ではなく、紙そのものの特質だった。
口語やメールにはない二面性を持っている紙だからこそ、今回は打ってつけの媒介になるのだと、自信たっぷりに語って見せた。
時間的猶予もなく、結局その場は押し切られる形で来人が意見を飲まされた。依美の用意した適当な紙に指示を書き、そして午後の授業で後ろに放った。
これが来人のした下準備の全貌である。
むしろ問題となったのは準備を済ました後の行動だった。
指示を出す際、依美は三本の指を立て、一つ一つ折り曲げながら意外を通り越して意味不明な手順を教えた。
放課後になったら西棟二階、廊下突き当りにある未使用の部室に行くこと。
競技用のネットを置いておくので、それを構えつつ、息を潜めて待機すること。
最初に入って来た人間を捕えること。
来人には一から三まで理解不能だった。
そもそも伊月は中庭に現れはしないだろう。あの伊月に限って馬鹿正直に誘き出されはしない。それが来人なりの見解だった。
一方、件の空き部室に伊月が訪れるわけもない。中庭以上に可能性のない部屋で待ち構えることは、明らかに無意味。時間の浪費である。
無論、拒否は立場上許されないので指示通りその部屋に潜んだ来人だったが、内心辟易していた。
仮に依美が何かしらの方法で伊月を呼び出していたとする。それでも、中庭と同じで愚直に来る奴ではないことを来人は確信していた。
自分は一体何をしているのだろうかと、自問する内にどんどん流れていく時間。
だが、その時間が決して無為でなかったことを来人はすぐに知ることとなる。
完全に侮っていた。万一の可能性すら排除していたが故に、宣告通り部屋のドアが開いた折は息が止まる程の衝撃を受けた。
その一瞬の硬直が解けたなら、後は至極簡単な仕事。投網の要領でネットをそいつの頭上に降り注ぐだけ。
理解は追いつかないまま、けれど結果として、標的の伊月は捕えられた。
――二面性、ね。
『放課後、話があるから中庭に来てくれ』。そう簡潔に書かれた紙を手に、来人は依美の言葉を復唱する。
捕まった伊月がネットから抜け出そうともがいていた際、床に落ちたそれを来人はなんとなく拾っていた。
呼び出した場所が中庭だというのに、どうして伊月は中庭から距離がある部室棟を訪れたのか。答えはその紙切れが明々白々にした。
表面が来人の書いた呼び出し状。その裏面に『新設! 電子電脳部!!』の太文字が手書きで書かれ、その下に活動日時と活動場所、煽りには『新入部員募集!(お試し仮入部も歓迎)』のコメント。
紛うことなき部活動のビラだった。しかもその活動場所というのが依美の指示した例の部室である。
最初から期待していなかっただけに不注意にも見逃していた来人だったが、裏面さえ確認しておけば伊月に渡す前から依美の真意に気づけていただろう。そのくらい単純明快なタネだ。
要するに、伊月は自ら進んであの空き部室に訪れたのだ。より正確さを追求するなら、進んで訪れるよう依美の手で調整された。
紙の呼び出し状を受け取ったなら、要件の書かれた面と一緒に裏面が目に触れられる確率はそう低くない。その相手が警戒心を強めていた伊月なら、尚のこと来人の行為を訝しみ、まず十中八九確認しただろう。
そうして伊月は意識にも上げず判断した。来人が自分を中庭に呼び出すため、『適当なビラの裏面』に要件を書いて渡したのだと。
その時点ですべてが決した。
一度素通りしてしまった紙自体にはまったく意識を割かず、文字だけを追い、伊月は選択肢を絞ってしまった。
指示に従って来人と会うという選択肢を先んじて却下し、記憶に新しい新設の部活動へ足を延ばしたのだ。
一つに、中庭と物理的な距離が開いた部室棟は身を隠しやすいこと。さらにもう一つは、逃げ続けるが故に部活動に参加できないもどかしさ。
潜在意識に訴えかけるサブリミナル効果とは違い、依美が巧みだったのは現状における伊月の心情を底の底まで見透かして利用したことだ。
部活荒しであるところの伊月。
しかし現在は参加できていない。
二つの乖離を俯瞰で眺めた上で、今の伊月がどんな刺激に対してどのような行動を取るのか、予測できることが絶対条件の策。
来人や美蒼乃にも実行可能ではある。がしかし、ものの数分で立案から布石を打つ所まで成し遂げた依美には及ぶべくもない。
また依美曰く、『電子電脳部』はビラを作ったくせに部員不足で発足ならず、という哀れな末路を遂げた建設放棄ビルのような存在らしい。敢えてそのビラを使ったのも、『自分でさえ初耳の部活なのだから風紀委員の警戒は薄いはず』という油断を誘うため。
真相をすべて理解した時には来人も唖然としたものである。
抜かりのなさもさることながら、骨子は格段にシンプル、かつ性質の悪いおふざけをちゃんと実のある策として昇華している。
同時に、出来のいい悪戯と言われてしまえばそれまでだ。
運が良かっただけ。二度目はどうなるか分からない。
名の知れた策士が知れば顔を真っ赤にして怒鳴り散らしかねない。分類としてはやはり賭博に近いのだろう。
とは言うものの、依美に相談を持ち掛けた自分の判断は正しかった。それだけは来人にも断言できることだった。
「人をこんな格好にしたまま、よくもまあそんなに自分だけの世界に入り込めるもんだね、来人」
事の発端となった一枚の紙切れが気に障ったのか、伊月の口調がやや皮肉よりに傾く。
「そろそろこの縄を解いてくれない? それが無理でも、せめて訳ぐらい聞かせてもらいたいところだよ。こんな誘拐染みた真似までしてさ」
「誘拐?」
伊月が何を思ってそう口にするのか、来人には皆目見当がつかない。
「お前は何か誤解しているようだから、最初に断わっておくぞ? お前に誘拐される価値はない」
「僕じゃなくて誘拐を否定しろよ!!」
ようやく下火なったかと一安心するのも束の間で、伊月が再燃する。
自分がそうさせたという自覚は来人にもあるが、二人で話しているとどうにもいつもの癖が出てしまう。それだけに本来この役回りは来人に不向きなのだ。
こうなると承知で依美に口答えをしなかった。だからどうしたと、あの暴虐武人は突っ撥ねるに決まっている。実に悩まし狂おしい。
「じゃあ誘拐でもない。それに訳だって一々訊くまでもないだろ。心当たりがあるくせに、ここまで来て誤魔化そうとするな」
「……。心当たりがあったとして、それは僕が拘束される理由にはならないと思うけどね」
「筋金入りだな……」
自ら認めること、進んで踏み出すことを伊月はしない。
普段からここぞの場面で笑って誤魔化してきたその延長なのか、それとももっと情動的な何かか。面と向かっているはずの来人にも掴み切れない。
ただ少なくとも、縛られて身動きできない今ならば、背を向けて撤退するのは物理的に不可能だ。荒縄は伊月の足だけでなく心の逃げ場も確実に削いでくれていた。
「お腹空いてイライラしてるようならかつ丼でも買ってくるぞ?」
「いや突飛すぎるでしょ。今の流れでなんでそこに行くのさ……。それじゃ取り調べか何かだし、別に悪いこともしてないっての」
「……だな。むしろいいことをしてる奴だった気がする」
「……」
伊月が口を閉ざすと、ほんのひと時、静寂が波紋のように広がった。
「今は、どうなんだろうな。俺は絶対的な基準を持ってるわけでもないから分からんが」
「……ねえ来人、ここから先は回りくどいのがどっちかって話だよ。なんでそっちが本題を引き延ばしにするのさ」
「さあな。徹頭徹尾、先輩のお達しだ」
「先輩……?」
伊月が目をパチクリ瞬かせるその背後で、静かに扉が開かれた。
「米谷、そろそろ頃合いかと思って来てみたのだけれど、調子はどうかしら?」
来人にとっては首領であり、伊月にとっては敵対する魔王ポジションに君臨する依美がようやく舞台に上がってきた。
依美が廊下と部室の境界を超えた所で尋ねると、突如ガタンという大きな音を伴って伊月の座る椅子が揺れた。
何事かと目を向けた来人だったが、伊月は先程と同じ姿勢のまま硬直しているだけで別段変化はない。なのですぐ視線を依美に戻す。
「自分の後処理を人任せにして、あんた今までどこに行ってた」
近づき、五感を澄まして依美の周囲を窺う。すると、ほのかだがバニラエッセンスの香りが来人の鼻をくすぐった。
「またアイスか……」
「あら、随分と鼻が利くのね。将来の夢は警察犬?」
「種族の垣根が超越できたらな。そういうあんたは頭のネジが少々超越してるみたいだが。人一人縛っておいて、普通呑気にアイス食べに行くか?」
「他人の不幸は蜜の味らしいから、氷菓子は打ってつけでしょう?」
「謎理論もすぎるだろ……」
前置きから結論への道程が理解し難い。
というより、理解しようと努めて労力を無駄にするのはあまりに馬鹿らしい。下手に踏み込むより受け流す方がどう考えても得策である。
依美との接し方で徐々に諦めを覚える自分に、来人は一抹の虚しさを感じていた。
「はあ……分かりました。アイスの件はとりあえず目を瞑りますんで、話を前に進めてください。いつまでも俺とこいつが二人きりでいても仕方ないわけですし」
「ええ、そうね、そうしましょうか。どうやらそろそろ大丈夫らしいから」
「大丈夫らしい?」
妙な言い回しが来人に疑問を吹きかける。
「まるで見てきたようにものを言いますね」
「実際に見てきた、というより彼女自身から聞いてきたのだから、間違ったことは言っていないわよ」
「はい?」
本格的に言葉の意味を見失いかけたが、少し考えてすぐに気づく。
時間調整はてっきり依美の裁断だと思われていたが、実際は違うのだ。それを頼んだ人物は、他の誰よりも伊月との対談を望んでいるはずの荻島美蒼乃。
伊月を捕えたはいいが、いざ面と向かうとなると心の準備ができず、思わず間を延ばしてしまったのだろう。
結局はそういうことだ。
伊月を捕まえて処罰すると啖呵を切りながら、先頭に立って指示を飛ばしておきながら、心のどこかで直接会って話すことを恐れた。
相手の逃げ足が速い。
体のいい言い訳としては上々だ。相手が捕まらないままなら出会うことはない。鬼ごっこを続け、問題を棚上げにしておいた方が不安に苛まれなくて済む。ひょっとしたらそんな考え方でいたのかもしれない。
生物の危機察知能力と言うと味気の欠片もありはしないが、事実、美蒼乃は傷つくことに恐怖した。
こうなると伊月の逃げ腰だけを責めるのは不公平な気もするが、美蒼乃の方はまだ覚悟を決めて会うと言った分、往生際はマシなのだろうか。
「ほんと、似た者同士だな……」
「だからこそ付き合っていたのでしょう」
同族嫌悪などと世間一般では悪評を買うこともある。が、あの二人に関しては考え方や性格が似通っていたが故に親密になれたといえる。
そして逆に、今の伊月でその関係が結べるかは期待が薄い。来人から見れば、二人は互いに背を向けて逆方向を目指しているようにしか思えなかった。
「今から金戸に言って彼女を連れてこさせるわ。その間にお前はその男に事情を話してやりなさい」
「事情って……分かってる奴に話すことなんて何もないんですがね」
「社交辞令と思って適当に済ませばいいでしょう?」
「縛り上げて意志疎通ってどこの世界の社交辞令だよ……」
前提からして付き合いが円滑に進む光景を想像できないわけだが、張り合ってどうこうなるわけでもなし、大人しく指示に従う。
「おい伊月、ようやくお前の望んだ本題に…………伊月?」
ただの屍でもないのに反応がない。
終ぞ変わらず緊縛状態の伊月ではあるが、その首から上だけが何故か綺麗に折れ曲がっていた。方向は壁を凝視する形で丁度入口の真逆。
それに硬直したまま微動だにしないと思いきや、よく目を凝らさなければ認識できないレベルで小刻みに振動していたりする。
「何やってんだ、お前」
繰り返して声を掛けるも返事はない。
ため息を一つ零してから来人が伊月の正面に回り込むと、そこでようやく伊月の焦点が来人に合わさった。
「いきなりどうした? さっきとあからさまに態度が違いすぎるぞ」
「……そんことないよ」
ワンテンポ遅れて否定の言葉を口にするものの、先程の威勢は遠い彼方へ消えてしまっている。
語るに落ちる以前の問題で、筋の強張った表情がちんけな嘘をばらしていた。果たしてそれで誤魔化したつもりなのか。
来人が伊月越しに先を見ると、そこには今まさに電話で荘平と連絡を取り合う依美の姿があった。そして伊月の首は丁度、その依美から目を背ける角度で捻られている。
伊月が何に対して異様な反応を示しているかはもはや明白だろう。
他方、その行動の意味する所が不明である。
「烏野江美。黒羽談合会の部長。お前が知らないはずないよな? まあ今回の主犯であるだけに警戒するのも分かるけど、そこまでビビる必要はないぞ?」
「ビビッてなんかないって! た、ただ、校内でも噂されるくらいの美人さんだから、いち男子生徒としては怖気つくのも許して欲しくはあるかな」
「妙な奴だな。お前が紹介したんだろ」
「まさかこんな形で会うとは思わなかったんだよ……」
拗ねた子供のように伊月は口を尖らせて言う。
その意見には来人も頷くしかない。風紀委員と伊月の闘争に依美を介入させるなど、最初は来人自身ですら想定していなかった。
それに意外なことはもう一つ。どちらかと言えば率先して動くタイプではない依美が、来人の持ち込んだ厄介事をすんなりと引き受けたことだ。
わざわざ言及して機嫌を損ねられては堪らない。そこでここまで触れないできたが、思い返してみれば違和感の塊しかない。神奈の案件ですら難色を示したあの依美からは想像もできない飛躍である。
付き合いの短い来人でさえこれなのだ。これがもっと長い時間を共有してきたはずの、例えば荘平にしてみれば失神レベルの衝撃だったのではないだろうか。
伊月の言う通り、この点だけで既に依美の介入は予測不能な屈折点だったと言ってしまえる。
「なんでちょっと楽しそうな顔してるのさ」
伊月に指摘され、来人は流れの中でいつの間にか自分の口元が緩んでいたことに気づいた。
意識して戻すが、それでも染み出してきた感情は溜まりを作る。
「悪い。お前にも予想できないことがあるって思うと、ついなんとなく」
「全知全能を僕に求めるなよ。苦手なんだ、そういうの。それに…………僕なんかじゃ到底敵わないのは端っから分かり切ってることだしね」
消え細り、それでいて真剣みを帯びた声で話す伊月の表情はどこか郷愁を漂わせ、そこにいつものような軽佻な素振りはない。
稀に見せる、前を見据えたクリアな瞳。
高校に入学してから滅多に目にしなくなったその顔を、来人はしっかり覚えている。中学時代に散々目に焼き付けた飾らない伊月の姿勢。
親友の久しい姿に気圧されながらも言葉の意味を尋ねようとする来人だったが、全身を舐め上げる蛇のような視線が来人の声帯を雁字搦めに縛り上げる。
「楽しそうね――世間話」
笑顔の面を被った依美がすぐそこに立っていた。
声だけじゃない。ただそこにいるだけという存在感で来人の身体を締め上げ、骨までギシギシと軋む錯覚に見舞われる。
「上司に手間をかけさせて自分はくつろぐ。素晴らしい発想をするものね、米谷。ノーベル怠惰賞も狙えるのではなくて?」
何一つ言い返す術がない。確かに傍から見れば来人と伊月は日常会話していたに過ぎないし、渋らなかったとはいえ、自分だけ動かされて気分がよくなる程、依美は利他主義者でもない。
声は掠れて音にならないというのに、汗だけは勢いよく噴出してくる。
働く。それが残されたただ一つの正解だった。
「伊月、ここからはもう婉曲な振りはなしだ」
咳払いして気を引き締め、そうして口をついて飛び出した声音の低い台詞に、発した来人自身が少々戸惑った。
だが考えてみれば無理もない。
馴れ合うために来人はこの場に立っているわけではないのだ。幸であれ不幸であれ、一つの決着を見るために手筈を整え決断した。
気遣わず、突き放さず。
そんな難しい調整が、不完全な自分にし続けられるとは来人も思っていない。それでも、せめて限界が訪れるまでは貫き通そうと決めていた。そうでもしないと見ているだけ苦痛に悶えそうになる。
だからこそ、今はこのまま突き通さなければならない。
「お前に会いた……いや、会わなきゃならない奴がいる。時間は十分とった。お前の方も準備は上々だろ? まさかここにきて会いたくないって駄々をこねるような小さい人間じゃないよな?」
「……じゃあ嫌だって言ったら逃がしてくれるかい?」
「嫌だ」
ほんの少しの迷いの中で断言する。
お節介かもしれないし、嫌がらせなのかもしれない。自然の摂理に人の手を加えるような、言わば禁忌とでも戒められるべき行いなのだろう。
すべて承知しながらも、来人はしかし答える。
ただ純粋に、今のままの二人を見るのが嫌だった。
厳かに、仰々しく物議を醸すことはない。
こじんまりとした部屋で、小さなテーブルを前に、取りとめのない話し合いをするだけだ。かつて囲んだ食事の席のように和気藹々と、笑いながら、罵り合いながら、喧嘩しながら。
ささやかなお話会で二人は語る。
来人が黙り、伊月も観念したように目を伏せて数秒後、トントンと、引き戸が控えめにノックされた。
開かれた引き戸の向こうに荘平が立ち、巨躯の荘平の影に隠れるようにして、少女は部屋の中の様子を窺っている。
「荻島、土壇場で怖気づいてないで早く入ってこいよ」
喝と一緒に入室を促すと、荘平も空気を読んでか、美蒼乃の肩を支えてそっと前へと押し出す。
「は、はい……」
軽快とは言えない足取りで少しずつ歩を進め、縛られたままの伊月の横に並んだ一瞬、美蒼乃の視線が斜め下へ流れる。その後は再び伏し目がちに視線を落とすと、そのままゆっくりとソファーに腰を下ろした。
美蒼乃が座ったのを皮切りに、依美は奥にある回転椅子へ、来人と荘平は邪魔にならない壁際へ移動する。
壁に寄りかかり、ちらりと窓の方へ来人が気を逸らしてみると、日の照り具合が昨日に比べて幾分と明度を増していた。
夏が近づけば日の入りが遅くなる。それが今ここでは時間の猶予という形で影響をもたらすはずである。その影響が恩恵なのか、逆に地獄の延長切符かは今の時点ではなんとも言えない。
一つ確実なのは、最後がどんな形で終息するとしても、最初は絶対的な地獄から始まるということだけだ。
静寂が支配権を振りかざした部室。
来人たちが事の成り行きを傍から見守る中、会談の始まりを告げる合図を担うように、伊月と美蒼乃、二人の視線が交差した。