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病みまくった幼馴染  作者: 白烏
5月 14日 (木)
13/22

オルウェイズ・デイズ

「先輩、いたんですか……?」


「あら、いたら悪い?」


「い、いや……てっきり、頼みを蹴ったものとばかり」


 意外な事態、上手く言葉を紡げなくなる来人を前に、依美はふんと鼻を鳴らす。


「ええ、まあ、そうしてやろうと考えなかったと言えば、嘘になるでしょうね。けれど半々よ。面倒だと喚く自分を偽れる程、私は物分りのいい方ではないから」


「半々?」


「指針に変わりなかった、という方が直接的かしら」


 まったく理解不能な説明がなされるが、その不明瞭さこそが、依美復調の確かな証と言えるだろう。一字一句に余裕の色が垣間見えた。


「ところで」


 切り出す声音がやや下がり、依美の顔に浮かんでいた茶化した笑みが潮を引く。目もすっと細められ、睨みつけられたかのような威圧感が来人の背筋を這った。


「お前の方こそ、私を呼び出した要件は何? 確か、水橋神奈の件は週明け、事の動向を見てから決めると忠告したはずなのだけど?」


「はい?」  


 予想外のことを尋ねられて面食らう。荘平の話では、電話で事情と要件を一通り伝えたらしいのだが、そんな様子が一切窺えない。


 来人は左腕で荘平を小突き、二者間で聞こえるように声量を落とした。


「おい、どういうことだ? 先輩に言ってくれたんじゃなかったのか?」


「確かにちゃんと言ったっすよ」


「ならどうしてだ?」


「それは……。ちょっと待っててください。確認するんで」


 来人に代わり、今度は荘平が一歩前に出た。


「姐さん、俺が今朝掛けた電話のことを覚えてるっすか?」


「誰の記憶を心配しているのよ。忘れるわけがないでしょう? 畏れ多くも上司を呼びつけた、あの不躾な電話を、ね」


 目が放った冷気をもろに受け、『うっ』という呻きと共に荘平の上体が仰け反る。機転を利かせた来人が背を支えていなければ、そのまま床に倒れかねない威力だった。


「そ、その電話の後半で、今回の目的を伝えたはず、というか……。補足したというか……」


「補足? そんなもの耳に覚えは……」


 訝しみながらも、美蒼乃は口に指を添えて考え込む。満更覚えがなかったわけでもないようで、そう掛からず答えは示された。


「そういえば、電話越しにぶつぶつ言っていた気はするわね。途中からアイスのことを考えていたから、完全に聞き流していたけれど」


「はぁ!? アイス!?」


 思わず来人が二の句を継ぐ。突拍子もなく登場した謎の存在を、黙認して看過するなど来人には到底無理だった。


「何故そこでアイスが出てくる!?」


「敬語が逃避行」


「どうしてそこでアイスが出てくるんですか!!」


 こんな状況下でも恒例の流れに乗ってしまう(さが)は如何ともし難いが、一々掘り下げてもいられない。支障が出ないならそれで御の字である。


「どうもこうも、食べたくなったから以外に理由があって? ふとした拍子に食べたくなるなんて、よくあることじゃない」


 これはもう紛いようもなく依美の完全復活だ。気品よく持論を並べ挙げながら、それでいてふてぶてしく説き伏せにかかってくる。


「だからって電話中に思い立たなくていいだろ……」


「文句は筋違いというものよ。私がローテ『ソウ』を食すのに、お前の許可が必要だとでも言うの?」


「ローテ……『ソウ』?」


『微細氷の爽快咀嚼感――ソウ!』という宣伝で馴染み深い、アイスクリームを代表するローテのソウ。


 荘平は先程、依美との通話は素っ気ない返事で切られてしまったと語った。その返事とやらが確か、『そう』という淡白な相槌だとかなんとか。


「それかよッ!!」 


「は? 何をいきなり発狂しているの、お前」


 少女が汚物を見る目で引いていた。本人にはまるで自覚なし。


「もう、いいです……。話が通ってなかったなら、ここで一から説明して片しますんで……」


 不本意この上ないが、依美相手にすることなすこと逐一言い合っていたのでは、昼休みが余裕で終わってしまう。とっとと本題に切り込むのが賢い。


 未だ部屋の外で内情をキョロキョロ観察していた美蒼乃を掴まえ、前に押し出す。過多の設備と装飾が散りばめられた部屋に放り込まれた美蒼乃は、元来小さな身体を一層縮こまらせてビクッと震えた。


 およそ一般的な部室とはかけ離れた空間。模範生であるところの美蒼乃には衝撃が強かったらしく、未開の領域に踏み込んだ小動物よろしく、一つ一つ焦点を当てながら環境を確認し始める。


 もの珍しそうに周囲を見渡す美蒼乃を、こちらも珍しそうに依美が見つめていた。


「お前は?」


「えっ? あ、申し遅れました! 私、風紀委員で副委員長を務めさせてもらっている、荻島美蒼乃といいます」


 不意打ちに近い依美の問い掛けに、美蒼乃が礼を正して返す。瞬時に表情を切り替えられる転換力はもうほとんど特技と言って差し支えないだろう。


「風紀委員……」


 頭を垂れた少女を見据えながら、小さくそう漏らした依美。微かに眉がピクッと震えたようにも見えたが、来人の位置からでは明瞭としなかった。というより、あまりに一瞬の微動で気にする暇もなかった。


 顔を上げた美蒼乃の全身を俯瞰気味に眺める。しばし品定めするように目を細め、軽く息を吐いてから瞳を澄ました。


「私は烏野……いえ、どうせそこの二人にある程度聞いているのだろうから、口上は割愛させてもらいましょうか。一応歓迎しておくわ、荻島美蒼乃」


「あ、ありがとうございます」


 そこまできて依美の視線が再び来人にターンする。


「で、この子がどうかしたの? 一応断っておくけれど、ヒロインの同時攻略は賭博に近いリスキーなルートよ?」


「いや、なんで俺が荻島を攻略する流れで話が進んでるんです?」


「ロリキャラの攻略フローチャートを聞きに来たわけではないと言うの……!?」


「誤解を招くから驚愕するな!!」


 恋愛シミュゲーを嗜むだけあり、男の立場を危うくするからかい方がえぐい。もはやジョークと呼べるかさえ怪しく、何故か警戒色に染まった美蒼乃の瞳が直視できない。


 美蒼乃も美蒼乃で、昔馴染みの肩書を白紙に戻す疑いっぷりは如何なものだろうか。思えば出会ってからここまで、事あるごとに疑惑の対象にされている気がした。


「まあ、冗談はさて置くとして」


 気が済むや否や、依美はサラッと問題を流そうとする。


「ちょっと待て。置いて行きたいのは山々だが、あんたの冗談は冗談にならないから困る。せめてもう少しソフトにしてくれ」


「そう、軟弱なのね」


「……」


 ドヤァとされると鼻に付く。が、蒸し返すわけにもいかない。ポコポコと煮え滾る度し難い感情を来人はぐっと堪えた。


「軟弱でも蒟蒻(こんにゃく)でも好きなだけ言ってもらって結構。もう捨て置いて構わないんで、とっとと話を進めましょうか」


 強引な進路補正で仕切り直す。それでもっていざ本題へ、と果敢に挑みたいのだが、流石に立ったまま、しかも入口でというのは落ち着かない。無駄に高級そうな来客用ソファーがあるのだ、使わない手はないだろう。


「先輩、ソファーを使わせてもらっても?」


「好きになさい」


 許可が下るとまず先に座るよう美蒼乃に促し、それに対面する形で来人と荘平も腰を下ろす。


「うわぁ、すごくふかふかですね、これ……」


 部屋に入ってから一度も警戒モードを解かなかった美蒼乃が、ここにきて初めて感嘆の声を上げた。ソファーの表面を摩ったり加圧したりしながら、触感が伝える本革の肌触りに目を輝かせる。


「あ、あの、烏野先輩。このソファーはえっと……部の備品なんですか? それにあなたが座っているその椅子や、机も、全部が全部とても値が張りそうな家具ばかりですけど……」


「備品よ」


 即断即答。有無を言わせない凄みが詰め込まれていた。


 視覚的な豪壮さに留まらず、この部室は無線LANをちゃっかり設置していたりする。しかも監視用の小型カメラやら通信機やら、普通から逸脱した品々まで格納されているおまけつきだ。目を疑うような光景に、それらの出所が気にならない奴などまずいない。


 だが訊いても所詮煙に撒かれる。来人自身も右から左へ受け流されたくらいだ。つまりはまあ、そういうことなのだろう。


 同じ疑問をぶつけたことがあるのか、江美の回答には荘平も苦笑いを浮かべていた。


「美蒼乃さん、気にしたら負けっすよ」


「そう言われても……正直な話、これだけのインテリアが一介の部室に配備されてるなんておかしくないですか? とても学校側が容認するとは……」


「荻島、お前の学年は?」


「へ? 一年生……ですけど」


 サクッと話の腰を折った江美に戸惑いつつも美蒼乃は応じた。


「なら、この学校を訪れてからまだ一ヶ月程度しか経っていないのでしょう? 風紀委員でしかも副委員長をやっているというなら、早々に学ぶといいわ。この学校では時として常識が足枷になりかねないことを」


「常識が? どういう意味ですか?」


「どこにでも闇の根は潜むもの。学校が聖域とは限らない、ということよ」


「学校の、闇……」


「ストップ、中二成分満載の偽物語はそこまでだ」


 くだらないのでじきに終息すると高を括ったが、エスカレートしそうなので来人から割って入って流れを一刀両断した。現実っ子のくせにごくりと生唾呑み込んでんじゃねーよという非難めいた視線を美蒼乃に浴びせてから、首を左に捻って江美と向かい合う。


「曖昧模糊な語りで、俺の後輩を勝手にいじらんでください。こいつ風紀委員とか胸張ってますけど、頭の弱い面もあるんで」


『よ、弱くないですから!』という反論が飛んでくるが、説得力に乏しいので無視一択。特に遊ばれたことに今頃気づいて赤面している状態なら尚更だ。


 勧告された江美はというと、あからさまに舌打ちした。それはもう清々しい勢いで舌を弾いた。


「せっかく風紀の門番を手玉に取るチャンスを……。雑に興が削がれたものだわ、まったく」


「反省の色が見えなさすぎる……」


「米谷、お前が止めに入ったということは、イコールで『先輩にいじられる玩具はこの俺だ』宣言と受け取って構わないということね?」


「構うわ! そんな方程式が成り立たってたまるか!」


 たかが趣味の悪いお遊びを止めた程度でこの言われ様、江美の内に底知れない怨恨が見え隠れする。風紀の門番がどうのこうのと、風紀委員と何かしら確執でもあるのか、真相は分からないが少なくとも来人には火の粉を振りかけられる覚えなどない。


 相変わらずだなこの人、と通常稼働する依美を前に心中で呟きつつ、いつも通りと安堵するべきか、あるいは丁寧に(たしな)めるべきか、そろそろ判断しあぐねてきた。


 お手軽に遊ばれていた後輩風紀委員は悪化した体裁を修復させようとしてか、『ほ、本当に素晴らしい部屋ですねぇ、いえまったく』などとわざとらしく称賛しつつ目線を部屋の内装へと流して時間を稼いでいたりする。


 重たい息と共に頭ががっくり沈み込む。


 いくらなんでもこうも話が進まないのは予想の範囲外だ。来人の想定では、依美に会えさえすればものの十分程度で用が済むはずだった。そうしたら余った時間でいい塩梅に昼食にありつけるはずだと。


 ――人間性を見誤った……。


 時間のことはもう忘れよう。そう折り合いをつけてから顔を起こすと、テーブル上に置いてあった箱が視界に映り込んだ。


 手のひらより少し大きいくらいの楕円形を底面に持つ箱。本体も蓋も黒く塗色され、漆塗り特有のつやが高級感を放つ。料亭等でよく見かける、料理を盛り付けるための漆器に似たものがある。


「先輩、この箱はなんですか?」 


 手に取ってみるが、見た目に反した重量感である。木製なら不思議ではないが、自然の温もりとはまた違う、馴染み深い温かさが内側から染み出している。


「ああ、それ? ただの弁当箱よ」


「弁当? なら先輩は、ここで昼を?」


「ええ。さっきも言ったでしょう? 指針に変わりはなかったと。昼休みはこの部屋で昼食を済ますことが私の日課なの。だからお前たちが来ようと来まいが、そんなこと一切関係なく私はここに来ていた、ということね」


 依美の淡白な説明で『半々』の意味を納得しかけるも、しかし来人は思い止まった。依美の話からだと、自分たちの頼みなど一顧だにしない姿勢を否定できなかったからだ。


 とはいえ、この不安分子も今さらである。とにかく少しでも希望があると見繕っておくべきだろう。


「まあ昼食と言っても、今日はあまり食欲が沸かなかったから半分くらい残してしまったけれど」


 軽く弁当箱を揺する。すると確かに中で何かが動いた。先程から手のひらに伝わる微かな温かさは、どうやらその弁当の残りによるものらしい。


「朝からアイスなんて食べるからっすよ、姐さん」


 来人の隣で荘平がやや呆れ気味に言う。


「うるさいわね……。食べたい時に食べるのが人間なのよ。それがダメと言うなら、その理由を五文字以内で述べなさい。無論、句読点込みで」


「実質四文字っすか!?」


 右手の指で苦悩し始めた荘平を脇目に、来人の中ではとある欲求が理性を四方から囲い込み、一斉に臨戦態勢を整えていた。


 それは人間が先天的に備える三大欲求の一角、食欲だ。


 美蒼乃に対しては昼食を抜くことなどざらにあると発言し、時間の都合上今まさに諦めてしまったところではあるが、目の前にそれがあるなら話は違ってくる。


 もちろんこの場で行動に移すことは無礼に当たるだろう。それは承知の上だが、現在手にしている弁当は、なんといってもあの依美の弁当なのだ。食欲もさることながら、ここまで興味を惹かれる対象というのも極珍しい。


「先輩……ちょっと中を覗いてもいいですか?」


「は?」


 気軽に尋ねたつもりの来人に対し、依美の眉は八の字に歪んだ。別段齟齬のある要求ではないはずだが、浮ついた言い方が不審を誘ってしまった。


「いや、その……こんな状況であれなんですけど、少し興味が」


 必死になって誤魔化すような後ろめたさはない。なので、来人は回りくどい言い回しはバッサリ切り落とし、直球で訴えることにした。


 依美自身、断固として拒否する理由がないのだろう。頬杖として支えにしていた右手をひらりと振る。


「興味って、お前も随分と酔狂な男ね……。まあ、別に構わないわ」


「ありがとうございます。――じゃあ早速」


 玉手箱とでも表現するのが妥当な厳かな弁当箱をテーブルに置き、両手を添えてそっと蓋を開けた。


 蓋の向こうに現れた小空間、外面とは異なる紅色の壁や床に囲まれ、それらは在るがままの姿でそこにいた。


「これは……」


 口をついて出るのは豪快な感嘆などではない。もし中身が伊勢海老、松坂牛、キャビア、フォアグラといった類の珍味だったなら、興奮して驚嘆さえしただろう。だが、とてもじゃないが、今はそんなリアクション、逆立ちしようが出てこない。


 依美の弁当ということで何故か無意識的に高級食材をリストアップしていたが、この弁当箱は絢爛な外殻からは想像もできない程、どこまでも庶民的な食の詰箱だった。


 主食が白米、主菜は卵焼きと照り焼きつみれ団子、副菜には金平ごぼうとほうれん草のナムル。


「ふ、普通だ……」


「ほんと……なんていうのか、よくスーパーの惣菜コーナーとかに並んでる王道料理の、集合体って感じっすね」


 いつの間にか作文を放棄した荘平も、横から弁当箱を覗き込みながら来人の感想に相槌を打っていた。やはり荘平にしてみても、依美の弁当箱が放つ魔性の引力からは逃れられなかったらしい。


「でも、よく見てください。このお弁当、おかずはどれも一般的ですけど、それぞれすごく丁寧に作られてます」


 同じように、平静を取り戻してきた美蒼乃も弁当に関して提言してきた。


「例えばこの卵焼きとか」


 そう言って身を乗り出しながら伸ばした指先を卵焼きに向ける。


 卵焼きを注意して観察すると、美蒼乃の指摘通り、その秀逸さがありありと確認できた。卵は火の通りがよく、加えて卵焼きは砂糖を含む分だけとにかく焦げやすい。それを薄く焼きつつ層を形成せねばならず、層の厚みによって焼き加減を調整する必要もあるので、焼きすぎて焦げたり、逆に生焼きだったりすることが多い一方、適切に留めることは酷く困難なのだ。


 その点、この卵焼きは完璧と言える。黄金色の表皮に焦げはなく、生焼きの水っぽさもない。層の厚みも一定で、卓越した技術ありきの芸当だ。


 卵焼き以外も、つみれの形、タレの粘度、金平ごぼうにおける彩りのバランス、ほうれん草の茹で具合等々、どれも平凡の域を脱している。


 出来栄えからして、そこらのスーパーで量産された物とは思えない。


「先輩、これ、どこの惣菜店で買って来たんですか?」


「ほぅ、それは宣戦布告と受け取ってもいいのかしら? 米谷」  


 依美のこめかみがピクリと震えた。


 不用意な発言が沈黙の雨を降らせ、壁に掛けられた時計の秒針だけが心細くリズムを刻んでいる。


 依美の鋭利な視線に貫かれた来人は竦み上がり、恐る恐る弁当を見遣る。


「じゃ、じゃあ……この料理は、まさか……」


「私が作ったのだけれど?」


「嘘っす!!」


 轟声を上げながら立ち上がったのは荘平だった。


「姐さんが料理なんてするわけないじゃないっすか!? しかも……しかもこんな高レベルなお弁当を手作りだなんて絶対にありえないんぐッ――」


 身に余る真実に冷静さを失った荘平が捲し立てるように咆哮するが、それは突如として飛来した文庫本が鳩尾にめり込んだことで強制解除された。


 脇に放っていた本を容赦なく投げつけた依美は机から乗り出さんばかりの勢いで両手を叩き付け、体を丸めて蹲る荘平を睨みつける。


「やかましい! お前たちが私に勝手な負のレッテルを貼り付けただけのことでしょう!? 料理くらいするというのよ!」


 依美が断言してみせるも、やはり俄かには信じがたいことだ。荘平が先んじてくれて、来人は内心ホッとしていた。先に荘平が立ち上がっていなかったら、我慢し切れず自分が叫んで同じ目に会っていたに違いなかった。


 唯一依美の実態を知らない美蒼乃だけは驚かなかったようだが、本が荘平にクリンヒットする衝撃映像を目の当たりにした時は目を丸くしていた。


 それにしても、と来人は繰り返し思う。荘平が我を忘れてしまったのも無理はない。それ程までにビックリ仰天な大事なのだ。


 事ここに至るまで、一度たりともそんな繊細さなど微塵も見せなかった依美が、よりにもよって弁当を手作りしていると言う。


 徐々に慣れてはきたが、ふと油断すると部屋の四方八方に目を凝らして隠しカメラを探してしまう。ドッキリだと言われれば、そちらを信じることの方が来人にとってはるかに簡単なことだった。


 またそれとは別に、精彩にも富んだこの弁当が正真正銘依美作であるとして、視覚だけで胃袋を刺激して止まないくらいだ。


 当然、味の方も気になる。


「この弁当ですけど、少し摘まんでみてもいいですかね?」


「はぁ……好きになさい」


 虫でも追い払うように振られた右手。もう勝手にやってくれという依美の心情が態度に出ていた。


 気怠そうに再び頬杖をついた少女から許可をもらい、改めて来人は弁当箱と向かい合った。


 おそらくはつみれ団子用に添えられたであろう爪楊枝を拾い上げ、まず注目度では他の追随を許さない卵焼きに楊枝を差し込む。硬すぎず柔らかすぎない触感を楊枝越しに堪能してから、落とさないよう手を添えて口に放り込んだ。


 あるいは、見た目だけが立派な芸術品なのではないか。


 そんな落ちを脳裏に浮かべてしまったことが、来人の油断であり、同時に味覚を鋭敏にさせる神経調味料となった。


「美味い……」


 シンプルな感想。


 口の中で弾けた美味しさは、もちろんそんな一言では語り切れないほど複雑で、延々と余韻が続いている。


 塩味と甘味が絶妙にブレンドされて生み出される第三の味が、恐ろしいくらい卵本来の味とマッチする。


 各層の火通りが均一となるように焼き時間をずらす工夫に加え、敢えて少し長めに焼かれた外側の層が水分の蒸発を防ぎ、その内外で異なる触感がまた、咀嚼する毎に味にも劣らない幸福感をもたらす。


 けれど来人はグルメリポーターではないのだ。それ故に長々と熱弁を振るわずとも、ただぽつりと零れた素朴な感想だけで十分だった。


「すいません、先輩…………これどこで売ってますか?」


「お前、一体どれほど私が調理した事実を認めたくないというの……?」


「あ……いや、違うんです、これは」


 傷口に塩を塗る形で馬鹿にされたと受け取ったのだろう。機嫌を損ねた依美に、来人は必死になって頭を振った。


「正直、こんな美味い弁当は食べたことがなかったんで。先輩のことだから、特注で取り寄せた弁当なんじゃないかって、つい」


「……」


 依美が放つ重圧がピタリと止む。


 気に障る発現に、苛立ちさえ通り越して関心まで失ったのかとも危惧する来人だったが、しかし目の前のそれは見当違いも甚だしい極めて不思議な光景だった。


 冷淡で冷酷で、人を食ったような言動にちょっぴり憤怒を混ぜ込んで出来上がっていた依美の表象が、面影もなく消えていた。時が止まったように微かに口を開いたまま、青い瞳の目を(みは)る。


 昨日の沈み込んだ暗い一面が鎧で身を固めた騎士ならば、今の依美は無防備なただの少女だった。戦えば多分勝てる。


「先輩?」


「……何?」


「今なんか、固まってませんでした?」


「か、固まってなどいないわ。これは……そう、呆れ果てたのよ。お前の浅はかさが浅はかすぎて」


「いや意味重複してますし……。それに、呆れていたにしては悪態の一つもなかった気が――」


「黙りなさい」


「……」


 来人の中で生命線シグナルが警戒色の赤を灯す。


 最後の一声は、これ以上口答えするならその首を刈るという殺気に満ちていた。口は禍の門と念じて黙らざるを得ない。


 神経が擦り切れそうなこの沈黙は通夜の席か葬儀の席か。あるいは経が唱えられているだけ、そちらの方が幾分マシかもしれない。


 虎の眼を借りてきたような鋭い眼光で来人を射竦めていた依美だったが、しばらくして降りた影を退かせると、今度は居心地が悪そうに視線を来人から外した。何度か口を動かしては躊躇い、ようやくといった形で声を絞り出す。


「残りは、全部食べてもらって結構よ」


「……はい? 残りって……この弁当ですか? なんで突然?」


「……。いいでしょう、別に。どうせ私は食べないのだし、そうなると持ち帰るのも面倒なの。処分してくれるというなら手間が省ける。それだけの話よ」


「はあ。まあ俺としても、くれるというなら断る理由ゼロですけど。処分どころか、昼抜きを覚悟していた身としては願ったり叶ったりですし」


 思わぬ所で出くわしたご馳走を前にして、がらんどうな胃が食欲を高潮させる。涎をじゅるりと垂らして貪り食う程欲求に屈するつもりはないが、諾否に構わず爪楊枝を振るいかねない程には、依美の弁当は来人を魅惑していた。


 ただ一つ、依美が垣間見せた一面を不思議には思うが、それも右手を突き動かす衝動を抑えるには足りない。


 冷たい金属で心を覆ってしまったなら憂いもするだろう。いくら美味な料理でもきっと喉を通らない。


 けれど一瞬の間に現れた表情はどこまで人間的で、感情が雨ざらしで、心配なんて仰々しくて畏れ多い。ただの不自然の自然さがあるだけで、来人にとっては指摘する意味さえ皆無だった。


 あーだこーだと思考しつつ、来人の右手はちゃっかり弁当箱に吸い寄せられていく。だが標的にしていたつみれ団子は捕捉ならず、爪楊枝は綺麗に空を刺した。


「失礼を承知で頼ませてもらいますが、烏野先輩、私もご相伴にあずからせてはいただけませんか?」


 美蒼乃が来人の眼前からひょいと弁当箱を(さら)い、意外なことを口にした。


「どうした? 荻島にしては珍しいな。人様の弁当にがっつこうだなんて」


 右腕を伸ばして奪還を試みるも、少女は鮮やかに追撃を躱し、弁当箱はリーチを外れてより一層遠のく。


「がっつくつもりはありませんよ。ただ、米谷先輩がそこまで絶賛する上に、それが処分の対象となっているなら、私も食べて勉強したいんです」


「勉強って、料理のか?」


「はい」


 身を乗り出して左手を薙ぐ。リーチを稼いでそのまま攫い返す来人の算段も、美蒼乃が弁当箱を持ち上げるだけで呆気なく回避された。


「随分と殊勝な心がけだが、今日ここに来たのは料理を学ぶためじゃないだろ」


「いえ、それは先輩が仰っても説得力に欠けるかと……。それに女の嗜みとしても、ハイレベルな料理を実食して自分の糧にしたいので」


「女の嗜み、ね。誰かに作ってやる予定でもあるのか?」


「えっ!? ……いや、そういうわけでも……ないんですが、その……。作る相手とか……いませんし」


 論点を意図してそこへ移し替えてやると、やはりというか、途端に美蒼乃から流暢な弁舌が失われた。同時に弁当ごと体も硬直する。


 反応が露骨すぎるのは性分なのか、克服への道は依然険しいそうである。


「お、俺にも、少し味見させてもらえないっすか……?」


「うおっ、荘平、お前生きてたのか?」


 本の襲来以降、ずっとお腹を押さえて悶絶していた荘平が、今わの際から辛うじて復活を遂げていた。


「いくらなんでも、本ごときで死ぬ程貧弱じゃないっすよ」


「でもお前、完全には痛みが退いてないだろ。そんなお腹で物食べたら、余計に悪化するんじゃないか?」


 未だお腹に添えられた手が未完治である容体を痛烈に訴える。


「たとえそうなるとしても、それでも食べないとダメなんすよ。さっき俺は、自分の先入観だけで事実を否定してしまった。一度は否定してしまったからこそ、食べて味わうことが俺のできる微々たる償いだと思うんす」


「なんか無駄に壮大なんだが……。お前らしいと言えばお前らしいけど」


 もっともらしい言い分を掲げつつ、美蒼乃も荘平も、実際はご飯に目が眩んだだけではないかと思わないでもない。が、先頭切って弁当に走った来人には何か言えるべくもなく、素直に相槌を打つ。


「と、いうことなんですが、先輩?」


「二度は言わないわよ。お前たちの好きになさい」


 依美より判決は下った。


 美蒼乃が一時隔離していた弁当を再びテーブル上へ戻すと、まず荘平が爪楊枝を拾ってつみれ団子に差し込む。一方で、美蒼乃は二本の爪楊枝を器用に使い、箸の如き扱いで金平ごぼうを摘み上げた。


 荘平は豪快に一口で、美蒼乃は小さな口で少量ずつゆっくり、各々の流儀でしっかり味わい、そして同時に目を見開いた。


「と、とっても美味しいです、これ。全体的に薄味なのに、素材自体に味が浸透してます」


「こっちの団子も、時間が経ってるはずなのに内側に肉汁が閉じ込めらたままっす。しかも、噛む度に飛び散る」


 両者共に称賛の声を上げる。次から次へ楊枝が忙しなく動き続け、刺しては掴んで放り込み、夢中になって食を進める。


 元々半分程しか残っていなかった弁当が、目まぐるしい勢いでその数を減らしていく。終いには白米まで手を伸ばして本格的なランチタイムへと突入し始めた二人を前に、来人も負けじと楊枝で刃向うが、狙った獲物が片っ端から消滅する。


 事態はいつの間にやら弁当争奪戦の体を醸し、来人の善戦も虚しく、終戦を告げるホラ貝の音で弁当箱はただの箱と化した。


 終わってみれば、結局来人が挙げた戦果はほうれん草のナムル一掴み分のみ。見事な惨敗である。


「お前ら、そりゃないだろ……」


 来人は無残、無常を実感して折れそうになる心を奮い立たせ、第一に風紀委員の新米に爪楊枝の切っ先を突き付けた。


「荻島、お前は風紀を正す立場だよな!? それなのに取り締まるどころか、自分まで浅ましい奪い合いに参加とはどういう料簡だ!」


「……すいません。想像以上に美味しかったので、つい手が止まらず……。自分でもどうして自粛できなかったのか、弁解の仕様もないです……」


 続いて九十度回転させ荘平に向ける。


「荘平、お前もだ! 懺悔にしては粗ぶり過ぎだろ! 反省したいから償うために食べるって堂々と宣告してたよな!?」


「……面目次第もないっす。魔が差したとしか……」


 荘平の口述は確かに的を射ている。誰しもが、依美の弁当、その食の魔力に屈したのだ。屈し、抗えないまま愚かに奪い合った。


 そして今になって、情けなくて恥ずかしい、後悔の波に浚われている。


 中身が悉く処分されてしまった弁当。それももはや目の毒となり、視界に入れるだけで悪寒が首筋をスッと伝う。


 心の中で居場所を探して漂う悲しい記憶を、弁当箱の蓋を閉めるのと一緒に封印する。そのおかげで少々の傷を残しつつも、どうにか塞ぎ込むレベルには至らずに済んだ。


「そ、それにしても、烏野先輩って本当に料理が上手なんですね」


 沈黙を破り、切り替えには定評のある美蒼乃から切り出した。


「そう? 普通よ、そのくらい」


「謙遜しないでいいですよ。私が今まで食べてきたお弁当の中では、まず間違いなく三指に入る美味しさでした!」


 満面の笑みで立てられた指に今度は何も言わなかった依美だが、引き結ばれた口元が微かに綻ぶ。


 来人も美蒼乃に同意だった。父親の不在時によく料理をする来人も、頼んでもいないのに勝手に料理する神奈も、一般的な料理としての質は出せるが、それらは依美に遠く及ばない。


 テスト前の追い込みじゃあるまいし、料理の腕は徹夜で仕込めば間に合うような陳腐な代物などではない。低い頻度で包丁を振るうこともまたしかりで、コツコツと地道に積み上げ、改善していく気愛が必須なのだ。


「姐さん、さっきは疑ってしまってすいませんでした」


 美蒼乃に続き、荘平が座りながらに頭を垂れる。


「人の表層だけで何もかもを判断しようとすれば、足をすくわれる結果にもなり得る。お前はよく覚えておくことね」


「こ、心得たっす……」


 依美の全身から(ほとばし)った漆黒の妖光が、荘平を否が応でもうんと頷かせていた。


「しっかし、どうして先輩はここまでの料理の腕があるんです? 何か上達する方法でもあるなら、ぜひとも教えてもらいたいもんですね」


「方法などあるわけないでしょう? 人間だろうと動物だろうと、日常行為以上に熟達する技術などないのよ」


「そういうものですか?」


 来人の質問に対する依美の答えはとかくシンプルなものだった。


「ええ、そういうものよ。奇抜な隠し芸なんかより、毎日行っている作業の方が需要も併せて練度が増す。特に一人暮らしの場合、朝昼夜の三食を毎日用意しなければならないのだから、嫌でも上達するというものよ」


「ああ、なるほど、一人暮らしで毎日料理……それなら確かに日を重ねるごとに着実なスキルアップが――」


『できますね』と続け様に述べようとする来人だったが、それは叶わなかった。重大なキーワードが喉に引っ掛かって栓をした。


「一人暮らしッ!?」


 反射的に喉奥から飛び出す叫び声。


「先輩って一人暮らしだったんですか!?」


「言わなかったかしら?」


「いや言ってないですし、そんな素振りすら見せてませんでしたよ! 荘平、お前は知ってたのか!?」


「ぜ、全然、余裕で初耳っすよ……? え? 本当なんすか……?」


 電流の過剰奔流でショートしてしまったかのように、荘平の意識は虚ろになっていた。弁当の一件など比にもならないくらいショックが大きすぎた。


 この学校にもスポーツ特待生を筆頭として、全国から集まって来た生徒は何人か在学しているが、そういう生徒は多くの場合、学校側が用意した寮もしくは親類の家、またあるいは自ら賃貸したアパート等に下宿する。


 故に高校生という身分を差し引きしても、一人暮らしはイレギュラーとまでは決して言えない。


 だが事依美に限れば事情はまた異なる。特待生でもなければ、遠隔地から遙々入学してきたわけでもないだろう。つまり下宿する必要はないはずだ。


 それより何より、一人暮らしを満足する生活能力があるとは到底思えなかった。


「あ、姐さんはなんというか、何十人もの使用人たちを扱き使って、なんでも命令一つで自由奔放に生きる我儘お嬢様かと……」


「だ、だよな! 荘平もそう思ってたよな!」


 来人の胸の内を荘平が違わず代弁した。


「身の回りのことは下僕に任せれば万事解決とか思ってそうな先輩が、一人暮らしだなんて面白い冗談だ!」


「そ、そうっすよね! いつもと同じで、部下をからかって遊ぼうっていう、姐さんの意地の悪い考えに違いないっす!! だって姐さんにそんな生活能力あるわけが――」


 ヒートアップしていた荘平のシャウトは、中途半端な所で事切れた。それから荘平の身体がぐらりと揺らぐと、そのままソファーに横たわる。


 荘平が倒れる寸前に何かが顔の横を通り過ぎたが、それを目視することは来人の動体視力では及ばなかった。


「そ、荘平!? 一体どうし――」


 突如として背中を襲った強烈な痛みで、来人はその先が言えなくなった。傾き、倒れゆく身体で薄らと捉えられた、今まさに床に落ちようとする飛来物は、一冊の本。


「ぶんこ、ぼん……」


 掠れた声と共にソファー突っ伏す。


 そこから来人たちの異様な興奮状態、及び背中の痛みが治まり、改めてソファーに腰を落ち着けるまでに数分間を要した。


 冷静さを取り戻した来人と荘平を蔑んだ瞳で(なじ)りながら、依美が言う。


「お前たちの馬鹿さ加減は十二分に理解したわ。だから人を表層で判断するなと言ったのに、直前の忠告まで忘れるなんて、どこまで虚けなのかしら」


「あまりに衝撃的すぎて……いえ、すいませんでした」


「心から詫びるっす」


 一連の騒動を傍観していた向かいの美蒼乃も、げんなりした様子で息を吐き出す。


「まったく米谷先輩ときたら、先輩の女性に失礼が過ぎますよ。もう少しマナーを学んでください」


「お前はこの人の実態を知らないだけだ。観察して十分なデータさえ揃ってれば、百人が百人、俺たちと同じこと言うぞ」


「米谷?」


「……すいません」


 徐に取り上げられた文庫本が恐怖を隆起する。これから文庫本を見かける度に身が縮こまる苦悩に苛まれるかと思うと、流石に泣けてくる来人だった。


 幸いそれはただの牽制だったらしく、本を机に定位置に返した依美は腕を組み、久々に顔を引き締めた。


「それで、昼休みも残り十分とないのだけれど、そろそろ本題に入ってもらっていいかしら? そこにいる荻島美蒼乃に関して、米谷、果たしてお前は私に何を依頼しようと企てているの?」


 ようやくか、と来人は瞑目して安堵する。


 話が二転三転、あっちこっち迷子になった挙句、昼食を抜いたツケが弁当争奪戦という形で災禍を呼んだ時は、もう本題に戻れないのではないかと諦観しかけた。遠回りはしたが、線路が続いていてくれて何よりだ。


 向かいを見れば、美蒼乃も目を伏せ、覚悟を決めて拳を強く握りしめていた。


「この荻島に、会って話をさせたい奴がいます。先輩にはそのための知恵を拝借できればと」


「話し合いのセッティング? そんなもの、お前たちだけでどうとでもなるでしょう。誰かに協力を請う必要があるのかしら?」


「相手が普通の奴なら頼りませんよ。けど今回の相手は少し特殊で、残念ながら荻島と話すのを避けて逃げている。だから先輩には、そいつを捕まえるための策を考えて欲しいんです」


「相手は?」


「俺と同じクラスの楠伊月」


 伊月の名前を出した一瞬、依美の瞳に驚きの色が滲んだ。


「知ってますよね? あいつのこと」


「……ええ。部活を転々とする根無し草、でしょう?」


『これはまた意外な奴が出てきたものね』と、ここ以外のどこかへ焦点を合わせて依美は小さく付け添えた。


「つまり米谷、お前は私に楠を捕まえる策を出させて、荻島美蒼乃と楠の会談を実現させようとしている、ということで相違ないの?」


「その通りです。そういう策を練ることに関しては先輩の得意分野でしょうし、伊月を知っているなら問題ないと思いまして」


 神奈に仕掛けた依美の作戦は、継ぎ接ぎだらけで穴が目立つものだった。しかし、それでも一定の成果を上げたことは来人も否定する所ではない。


 依美には事を動かす力がある。完璧な成功とは程遠くとも、静止してしまった時計の針を進めることができる。それが依美の協力の下、神奈に対してぶつかっていった来人の見解だ。


 それ以外にも、情報処理に優れた依美ならば、来人や美蒼乃、部下の荘平が見過ごしてしまう盲点も余さず洗い出せるかもしれない。そういう方向性の期待もあった。


「差し障りがなければ答えて欲しいのだけど、彼女は楠とどういう因縁があるの?」


「伊月は荻島の元カレってやつです」


「ちょ、米谷先輩!」


 突いた手の振動で、ガタンと大きくテーブルが揺れる。来人を制止しようと美蒼乃が身を乗り出した。


 不安そうに肩を震わせる少女を、逆に来人が手で制す。


「黙ってても先輩ならすぐ分かるさ。それなら情報を少しでも開示して、手段の幅を広げてもらった方が得策だ」


「うぅ……分かりました」


 美蒼乃は半ば強引に自分を納得させて身を引いた。


 とはいえ、美蒼乃と伊月の過去を洗い浚い吐くつもりは来人にもない。話す内容は有意義なものであり、かつ両者に障りのない程度。


 誰にでも、無為に知られていい過去とそうでない過去がある。二人にとっても、そして来人にとっても、そこは侵害できない唯一個人の法なのだ。


 真実の一つを知った依美は口元に指をあてがい、心底面白そうに妖艶な微笑みを浮かべていた。


「あの男が……ふふ、そうなの」


「先輩? 何か引っ掛かりましたか?」


「いえ、特には何も。それより、今のままだと情報が足りないわ。どうして楠が逃げているのか――は、まあ訊かないことにしても、どんな風に逃げ回っているのかくらいは知っておきたいわね」


「授業の時間や休み時間を除いて、朝と昼休み、それから放課後は、基本的に風紀委員で楠伊月を追ってます。気を抜けばまた部活動に潜り込みかねないですから」


 ここは風紀委員の副委員長として美蒼乃が整然と述べる。


「なら、今の楠は部活に参加せず、ただ逃げ回っているだけなのかしら?」


「そうなりますね」


 美蒼乃の答えで何かを確信したのか、フッと依美が朗笑する。


「何か思いついたんですか? 先輩」


「ええ、一応。けれどやはり、この程度ならお前たちだけで考えたとして、そう長くは掛からず解決に至れたとしか思えないわね」


「……つまり、俺たちでも思いつくような策ってことですか?」


「そう、楠が相手である以上、当然の帰結よ」


 背凭れ付きの椅子から依美は立ち上がると、窓に歩み寄って地上を見下ろした。それから再び来人たちの方へ向き直り、窓の桟へ後ろ手に体重を預ける。


「米谷、昼休みの中庭を想像することはできて?」


 藪から棒に言い放たれた問い掛けに、来人は最初首を傾げてしまった。


「昼休みの中庭っていうと……弁当を持った生徒で賑わう中庭のことですか?」


 先程も見かけた女子生徒たちは、片手に弁当の包みを携え、確かに中庭へと小走りに向かっていった。今日の天候から推測するに、この昼休みも中庭は生徒の群れで溢れかえっているだろう。


 だが、それと楠の話がどう関係するのか、繋ぎ合わせようとしても繋がらない。


 話を逸らしたわけでも、濁したわけでもない。それは依美の目が明瞭に告げていた。


「中庭には生徒を惹きつける力がある。だから昼休みの度に中庭は人で埋まるのよ。そして知ってか知らずか、生徒たちはその足を決して止めようとはしない」


 日光を浴びたきめ細かな白肌が雲に溶け込み、細めた双眸から覗くクリアな青眼が空と同化する。幻惑するかのようなその佇まいに、来人、そして美蒼乃と荘平は思わず息を呑んでいた。


 だから、と依美はその先へと続ける。


「追ってダメというのなら、楠の方から中庭へ来てもらいましょう」

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