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病みまくった幼馴染  作者: 白烏
5月 14日 (木)
12/22

デイタイム・エイム

 昼休み、集合場所に指定した校舎西棟三階の階段際、来人は自重を壁に預け、青く澄み切った空を窓越しに眺めていた。


 事実だけを述べてしまえば、美蒼乃は伊月を捕まえられなかった。だから来人は約束を継続し、今この場でメンバーの到着を待っている。


 直接目にしたわけでも、風の噂に聞いたわけでもないが、授業に平然と出席する伊月を前に、風紀委員が粛清を下せたと考える方に無理がある。来人が予見した通り、逃げ(おお)せたとみて間違いない。


 もう一つ、来人が伊月を制裁することもまた、叶わずにいた。授業中は逃げずに学に専心しているとはいえ、流石に教師の目の行き届いた状況下、振り返ることもままならず、ましてや報復などできるはずもない。


 教師という盾に守られようと休み時間なら、と帰着するのは半ば必然だったが、それすら伊月は見透かし、無防備な休み時間は身を潜め、授業の時だけ後席に姿を現した。


 授業終了と同時に反転した時でさえ既に空席。手の打ちようがなく、会話さえ交わさないまま現状に至る。


 叱責や暴力を恐れた逃亡――でないことは、来人も薄々気づいている。単純に触れられたくないのだ、自分と美蒼乃のごたついた事情に。昨日の騒動で事が露見し、過去も把握している来人なら、絶対に詰め寄ってくるだろうと先読みして予防線を張ったのである。


 実際、来人が伊月とまともに話す機会を得ていたとすれば、内容はその方向に流れただろう。 


 強制的に機会を作ることも考えたが、敢えてそれを選ばなかったのは、美蒼乃がいないという一点に尽きた。面と向かって伊月と思いの丈をぶつけ合うのは、美蒼乃でなければ始まらない。来人では空に筆を走らせるのと同じだ。


 美蒼乃と伊月の話し合い。実現させるにはやはり、この昼休みこそが鍵だった。


 眼下では、女子生徒数人が色とりどりの包み片手に地上を駆けていく。ここからは校舎が死角で確認できないが、おそらく向かう先は中庭だ。


 正午の陽光と花卉を揺らす穏やかな涼風が人の心を魅了し、この時間の中庭は弁当箱を広げる生徒で溢れかえる。小川目当ての生徒も多いらしく、評判がうなぎ登りで理事長はさぞかしご満悦なことだろう。


 食堂で昼ご飯を購入した上で、わざわざ中庭まで足を延ばす生徒がいる程で、人間を誘い込むフェロモンが放たれているという怪談さえ囁かれる始末。


 頭を悩ませる諸問題も、思えばあの中庭こそが元凶なのだから、怪談扱いもあながち外していないのがまた数奇なものだ。


 昼ご飯に思考が及ぶと、来人のお腹がぐーと情けなく悲鳴を上げた。


 本来なら食堂で定食か何かを頂いている時間帯だが、四限目が終わり次第駆けつけたため何一つ口にしていない。用事が早く片付いたら軽く食べようとも思ったが、甘く見積もりすぎだろうか。


「先輩、もしかしてお腹が空いてるんですか?」


 真後ろで出現した声に、来人の心臓がどくんと跳ねた。


 屋外ばかり注視して背後への警戒を怠っていた隙に、忍び寄った美蒼乃が腰を折って横から腹を覗き込んでいた。


「お、荻島、お前な……。息を潜めて近づいて来るな」


「いえいえ、夕暮れでもないのに黄昏ていたので、精神統一中なのかと思いまして」


「……なんか馬鹿にしてないか?」


「それは被害妄想ですね。私は崇高な先輩の霊験あらたかな儀式かと、少しばかり期待したにすぎません」


「やっぱ馬鹿にしてるよな?」


 濡れ衣です、と整然と返す美蒼乃だが、どこかしたり顔だった。この召集で時間を潰されたことへの些細な反撃と見るのが妥当な所だろう。


 分かってしまえば受け流すだけだ。子犬の噛みつきで一々目くじらを立てないくらいには、来人は自分の寛容さを自負している。


「まあいいか。それより昼に呼び出したりして悪かったな。お前だって、まだ昼飯は食べれてないんだろ?」


「それくらいどうということはないですよ。私は元来小食な方なので、一食抜いた程度じゃ問題になりませんから」


「小食ね……」


 来人は視線を下から上へスライドさせ、美蒼乃の胸部周辺で一時停止させる。身長はもちろん、たわわな果実とは縁遠い絶壁がそこにはあった。


「だからか」


「人の体見て何勝手に納得してるんですか!! 関係ないですし! まだまだこれから見込み大ですから!!」


「まだって言葉の残酷さが分からないようじゃ、まだまだだな」


「ぐぅ……。希望は捨てません……」


 全身を抱き留めるように胸の前で腕を交差させる美蒼乃を見ていると、来人の中に懐かしさに似た感慨がじんわり染み出す。


 伊月の隣席で身を乗り出しながら、他愛ない話を心の底から楽しんでいた少女をこんな風にからかってみたことがある。少女が赤面し、切れ味抜群の舌剣が錆びて舌足らずになる様は、なんとも痛快だった。来人も伊月も、遂には少女自身でさえ、思わず笑ってしまったくらいだ。


 それももう、無形と化した記憶の残骸でしかない。懐古に障る遣る瀬無さに、来人は思わず唇を噛んだ。二度と掴めない光景なのかと、懸念ばかりが蓄積されて膨張し、頭の中を圧迫する。


 まだ今だけは、あの頃の三人を胸中に(いだ)かせて欲しい。来人は惨めを承知で、誰とも知れず許しを乞うていた。


「だ、第一、昼食を食べる食べないに関して言えば、米谷先輩の方が事の重大さは上でしょうに」


 興奮と羞恥で未だに赤みを帯びた顔の美蒼乃が、咳払いで体裁を整え直すと、話を妙な方向へシフトさせる。


「重大さ? 別に、俺だって昼くらい抜く日はあるけどな……」


「違いますって。そういう意味じゃないです」


 大きく嘆息し、言外に『ダメだ、この先輩』と訴える。後輩にあらぬ嫌疑を掛けられ呆れられる先輩という絵面は、一部のマニアが奇声と共に殺到する程度には、貴重と言えるだろう。


「せっかくの昼休みなのに恋人の神奈先輩に時間を割かず、こんな所で一年の後輩を相手にしている点を言ったんですよ。少し無粋すぎやしませんか?」


「……」


 思いがけない言葉に、来人の脳は一瞬処理機構を硬直させた。


 中学時代の美蒼乃は伊月の恋人として周囲に認知されていたため、神奈が異質な勘繰りを入れず触れ合える安全圏の少女だった。恒例の三人に神奈を含めた四人で食事したことも多い。


 だから美蒼乃は神奈を知っている。知っているのはいいとして、美蒼乃の認識と来人の認識に、大きな隔たりがあった。


「恋人? 誰が?」


「だから神奈先輩ですってば! 何を今さらとぼける必要がありますか」


「……いや、付き合ってないからな? 俺たち」


「へ…………えぇ!?」


 一体全体何がそこまで意外なのか、打ち明けた曇りなき真実に、美蒼乃は役者顔負けな迫真の驚きっぷりを披露する。


「いや、でも……神奈先輩は確かに米谷先輩を熱愛してましたよ!? あれで付き合ってないって思う方が無理ですよ!」


「あれは熱愛じゃなくて狂愛って言うんだよ……。可愛さ余って憎さ百倍に近い」


「あの……いまいち意味が分からないんですけど……」


「分からなくていい。理解しない方が幸せだ」


 凄みを携えたしわがれ声の忠告に、美蒼乃は口を噤む。本能か何かが、そこに不可視の壁を悟ったらしい。


 しかし実は、美蒼乃の勘違いも半分は当たっているのだ。恋人ではない神奈だが、毎日のように来人を食堂に誘い、一緒に食べようと進言してくる。来人としても特別断る理由が見当たらず、もしもの事態に備えた伊月を携帯し、食堂で昼を済ませるのが日課となっていた。


 習慣化している以上、下手に会食を断れば神奈が疑ってくるという流れが通例だが、今日はそれがない。それは単衣(ひとえ)に、神奈が文化祭実行委員の補佐に抜擢されたがためだ。


 日直の書類整理から始まり、ボランティアとして企画立案にも尽力したその能力を買った担任の三柴が、正式な委員二名をサポートする委員補佐をしないかと打診したのだ。最初こそ乗り気でなかった神奈だったが、来人の後押しもあり、今日から晴れて委員補佐に就任した。


 文化祭系列の役員はなかなかに多忙で、当日までの間、昼休みや放課後が会議や準備で潰れることが多々ある。来人の狙いはそこにあり、短期間とはいえ安心の(いとま)を保証されたことに、ほっと胸を撫で下ろしたことは記憶に新しい。


「はぁっ……はぁっ……」


 間隙を埋めるように乱れた呼吸音が階段の壁に反響し、駆け上がってくる足音がそれに続いた。


「来たか」


 しばらくして三階に姿を現した音の発信源は、手摺を支えに肩で息をしつつも、しっかりとした眼差しで来人と美蒼乃を捉える。


「……お、遅くなって……はぁ、はぁ……申し訳ないっす……。授業が少し延長したもんすから……はぁ」


 切れ切れにそう口にすると、顔と首筋に浮かぶ大粒の汗も構わず頭をぶんと下げる荘平。全身で誠心誠意を体現した礼節極まる謝罪だった。


 息が絶え絶えで会話というのも酷なので、しばし休息時間を置く。


 尋常でない発汗量からして走って来たのは明らかだが、果たしてどれ程急いだというのか。というより、集合時間は『昼休み』としか指定していないのに、一分一秒を争ったらしい荘平の慌てぶりには、来人も首を傾げた。


「別にゆっくり来てもらって構わなかったんだぞ? 今さらだけど、きっちり時間を決めたわけでもなかったし」


「すいません、つい、いつもの癖で」


「癖?」


 肩の上下運動が次第にその幅を縮めていく。上体を起こした荘平は苦笑いを浮かべ、滴り落ちる汗を制服の右袖で拭った。


「そう、癖なんすよ、これ。誰かに呼び出されると、って言っても今回は集合なんすけど、なんか体が磁力みたいなので引き寄せられるというか。糸で吊られたみたく、足が勝手に……」


「お前、それ……」


 荘平の背後上方、悪役然とした笑い声を響かせて糸を垂らす少女の面影に、来人は息を呑んだ。


 遅れると後が怖いという強迫観念。それはやはり、馬車馬が如く下働きに精を出す日々が育んだものだろう。そのうちベルを一振りするだけで飛んで行ってしまうかもしれないが、そこまでいくと流石に洒落にならない。


「やっぱり荘平、お前は少しルーズさを覚えるべきかな……」


「な、何を言ってるんですか! 米谷先輩」


 下から横槍ならぬ下槍の飛来。投擲主の美蒼乃が、真剣みを帯びた目の色で来人に詰め寄った。


「時間に正確なのはいいことじゃないですか! 確かに厳しすぎるとアレですが、緩い人に比べたら数百倍マシだというものですよ。それなのに先輩は堕落を推奨するんですか! そんな人だったんですか!?」


「落ち着け、お前が絡むと話がややこしくなる」


 正義を重んじるだけあり、美蒼乃は基本、時間厳守の人間である。そんな人間を前に時間を軽んじろ発言は、もちろん癇に障って当たり前なのだろうが、ここでの言及は面倒この上ない。


 もっとも依美と面識のない美蒼乃に空気を察しろと要求する方が過酷だ。ならばと、来人は荘平の背を押して踊り場の隅へやり、後ろから突き刺さる蔑みの視線は後回しにすることにした。


「お前が烏野先輩に脅されてるのは知ってるが、そのデータっていうのは、本当に身を犠牲にしてまで隠さなきゃならないもんなのか? もし違うのなら、いっそのこと……」


「へ? あー、いや」


 一丁前に友の身を案じてみたつもりの来人に、最初こそ荘平はポカンと呆けていたが、意図を汲み取るや否やニカッと破顔した。


「もちろんデータは重要ですし、絶対に返してもらわないと困るんすけどね。八割方、動機はそれっすから。……でも、何もそれだけで姐さんの下にいるわけじゃないんすよ」


「二割の理由が他に?」


「ええ、まあ。なんやかんや、姐さんは俺の恩人なんで」


 言わされている、なんてことはない。それが安直に信じられてしまう程、荘平の声音は深く深くどこまで明澄で混じり気がない。


「誰かを恐喝する人間を、人は恩人とは呼ばないんだぞ? 荘平君」


「そうっすね」


 からかってみると、思わず口元が緩む。それは相手も同じなのか、来人の冗談は波風立てることもなく、笑顔に巻かれて収まった。


 さて、じゃあ次は後ろの子犬をどういなしたものか。げんなり考える来人だったが、その前に、本題と言うべき『ある人物』の不在が気に留まった。


「ところで、お前の姐さんはどうしたんだ? 一緒じゃないのか?」


「うっ……」


 それまでの笑顔が嘘のように剥がれ落ち、荘平の表情が固まった。体温調節を担う汗とは役を異にする液体が額に滲み、瞳は水を得た魚ばりにあっちへこっちへ縦横無尽に泳ぎ出す。


 こうもあからさまに物語ってくれるなら、いかに愚鈍な人間だろうがその真意を見抜くことはちょろい。同時に、ポーカーフェイスとは縁遠い正直者としての性が、来人にはどこか他人事に思えなかった。


「そうか、断られたか」


 驚きは小さく、意外とすんなり受け止められた。


 依美に協力を仰ごうと腹を決めた昨晩、ひょっとしたら受諾どころか検討さえしてもらえないのではないかと、心のどこかで不安を煽ぎ立てる自分を感じていた。最終的には実行に踏み切ったが、憂苦は燻り濃縮され、今朝になっても渦を巻きながら来人を呑み込まんと襲ってきた。


 すべては昨日、あんな煮え切らない別れ方をされたせいだ。むざむざ退散を決め込むしかできなかった奴が、自分を棚に上げて甚だおこがましい。そんな嘲罵を億人から浴びせられようとも、これだけは確固として譲れない。


『また明日』と、去り際の背中へ一言掛けてくれるだけでよかった。その一言があったら甲斐のない煩悶に心を割く必要などなかったし、もっと大手を振って美蒼乃を呼び出すこともできた。


 誰も悪くない。自分だって悪くないはず。責任の擦り付け合いに意味はなく、だからこそ思考が億劫になるのだ。目を逸らした盲進は心地よく、現実逃避が社会に蔓延する理由が否が応でも分かってしまう。


 なにより、押並べて気懸かりばかりの精神状態で足元も覚束ないというのに、それでいて依美への期待をちゃっかり覗かせた自分が嫌だった。


 とはいえ一度口にした約束を破棄できる程落ちぶれた覚えもない。依美の助力なしに、さあどうやって動いたものかと考えを改めた来人の思考を、ぶんぶんと振られる荘平の手のひらが遮った。


「い、いやいや、断られてはないっすよ!?」


 焦って口早に否定するが、台詞と態度がまったくそぐわない。腰の引けた姿勢には、役目を全うした者としての達成感や矜持がまるで伴っていなかった。


「ただ……」


「ただ?」


「えっと、応じてもらったわけでもない……んすかね……? 電話越しに事情は一通り話したんすけど、返事は『そう』っていう素っ気ない一言で、はいもいいえもなく通話を切られてしまったんで」


「断られたんじゃありません? それ」


「うぐッ」


 いつの間にかするりと輪内に潜り込んだ美蒼乃。少女の放った冷徹な一撃が、ギリギリのバランスで留まっていた荘平の足場を容赦なく踏み抜いた。


「そもそも、私に力を貸してくれる道理がないです。米谷先輩は昔のよしみかもしれないですけど、その人にとっての私は同じ学校の生徒というだけで、基本的には赤の他人じゃないですか」


「うぅ……姐さんは、そんな風には誰かを区分して扱ったりしないと思うんすけど。現状、否定は難しいっすね」


 反駁もできず、荘平はがっくり肩を落とす。


 美蒼乃の並べた理屈が、今世紀を生き抜く社会人として適当であることは議論の余地もないだろう。問題は、美蒼乃がその理屈を持ち出す大いなる違和感だった。


「赤の他人って……荻島も他人のこと言えないよな?」


「はい?」


 横目で見下ろす来人の視線と、同じく横目で見上げた美蒼乃の視線がぶつかる。


「二年前くらいだったかな……。お前確か、学校からの帰り道で会った見ず知らずの迷子を自宅まで送り届けて、無事送り届けたものの今度は自分が道に迷ったってことあったよな?」


「な、なぁ……!? な、なんのこと、言っているんでしょうね、一体! そ、そんな不首尾、わわわたしが冒すわけな――ないじゃないですかッ!」


「……」


 ――分かりやす……。


 感情と態度が直結しすぎて、そんなメンタルが風紀委員としてまともに機能するのか怪しくなる。父性を発揮して甲斐甲斐しく見守りたくなってしまう。


 つまりこの場にいる三人は、一人余さず自分に正直な奴らだと証明されたわけだが、真実は時として解明されるべきでないなと、来人は口角を引き攣らせた。


「まあ電車に乗って駅二つ分離れた街まで行って、泣いている子供の面倒見ながら歩いてたら、そりゃ道に迷っても仕方ないが。それでもって携帯電話は学校に忘れて、道行く人はゼロで、訪ねた家々も悉く留守で、ようやく見つけた交番も警官がパトロール中でいなかった、と」


「……私、その日の記憶が抜け落ちているので、何が何やらさっぱりですね」


 美蒼乃の視線だけが、来人と逆方向にぷいと逃げた。


「誤魔化すにしても、もう少し信憑性持たせろよ……。その日がその日だって覚えてるじゃねーか」


 失敗は恥ずかしくとも、行為は純真に誠実だ。どちらかと言えば誇れるエピソードに分類されるであろうそれの、美蒼乃は何が気に召さないのか。


 それに当時この話題に話が波及した時、その時に美蒼乃の顔を紅潮させていたのは顕著な羞恥心だった。それが今は羞恥心にも勝る何かが台頭し、美蒼乃はそれを認めまいとしている。


 美蒼乃の髪に纏い、重力に負けて垂れるリボンが目に入ると、来人にもようやくその理由が分かった。


「そういえば、迷子のお前を助けたのって……」


 来人の言葉に呼応して美蒼乃が双眸を細め、歯をギリッと強く食い縛る。不要な感情を抑え込み、飲み干すようにして喉を小さく鳴らすと、少しして艶やかな唇がゆっくりと開かれた。


「ええ、そうですよ。あの人です。あの人が、一人途方に暮れていた私を見つけて、私の手を引いてくれたんです」


 美蒼乃は持ち上げた右手をぼんやり眺めながら、そっと力を入れて指先を丸めた。誰一人触れていない手のひらだが、あるいは、今はもう失われたはずの温かな感触が残っているのかもしれない。


 伊月は笑い話に語ったが、夕焼け色に染まり切った街頭で美蒼乃を見つけられたこと、より正確には見つけたことは、超推理でも赤い糸の運命でもなく、極々平凡な偶然だったらしい。野暮用でその街を訪れ、所要を済ませて帰る道中、美蒼乃を見つけただけだと言った。


 けれど過程や方法なんて関係ない。心寂しく歩き続けるそんな状況で、目の前に伊月が現れた時の美蒼乃の感慨など想像するに難くない。嬉しかったに決まっている。


 本当ならいい思い出のはずだ。ふとした拍子に思い出し、笑って語れる話だ。それが今となっては、記憶のプールから浮かんできた泡は瞬く間にくすみ、呆気なく弾け散ってしまう。


 小刻みに動いていた少女の右手は、最後にぎゅっと握り締められると、それきり開くことはなかった。


「――けど、昔のことはもういいです。それよりも問題は今じゃないんですか?」


 伏しがちだった瞼が吊り上がり、濁りを掃いた目に再び覇気が戻る。そこに先程まで臆していた様は欠片もなく、強い眼差しが来人を射抜く。


「何を画策しているのかは分かりませんが、米谷先輩が合わせようとしていた烏野という方が来ないこの状況で、ここにいる意味はあるんでしょうか?」


 一転した美蒼乃の言葉攻めに、今度は来人が当惑する。


「いや、まだ絶対に来ないとは、決まったわけじゃないしな……」


 十中八九来ない気はするが、と胸中で付け加える。確証がないせいで、言葉は後半に向かうにつれ尻すぼみになっていた。


 時間の無駄と言ってしまえばそれまでだろう。とりわけ美蒼乃にとっては、貴重な活動時間と待ちぼうけする時間を秤にかけることになる。どちらに傾くかはわざわざ論じるまでもない。


 なら即座に解散か、とくるとそれも果たして最適なのか迷う。このまま美蒼乃が伊月を追い掛け回しても結局意味がないからだ。


 ここまでくると、いっそのことはっきり断ってくれた方が悩まずに済んだかもしれない。来人は深々ため息を吐いた。


「まあ、部室で少しだけ待ってみるか。十分経っても来ないようなら、その時はもう解散ってことで」


「了解です」


 文句一つ漏らさないのは風紀委員としての矜持か、美蒼乃は淡々と了承した。


「荘平、部室の鍵は持ってるか?」


「はい、あるっすよ。多分必要になるんじゃないかと思って、職員室から借りときましたから」


 荘平は右ポケットからタグの付いた鍵を取り出すと、二本の指で摘まんで掲げた。流石というか、実に気が回る。


 荘平を先頭に、来人と美蒼乃が後ろに続く。


 廊下は隅々に至るまで掃除が行き届いており、光沢のあるタイルが窓から差し込む日光を微かに反射する。生徒の通りが少ないだけあって土埃やゴミとはほぼ無縁なので、汚れるといったこと自体がないように見受けられる。


 今とは様変わりする廊下――夜闇が光を吸収せんとしていた日没後の廊下を、部室に向かって一直線に歩いて行った黒スーツ姿の女性。同じように廊下を歩いていると、来人はふと昨日の女性を思い出した。


 言葉一つ交わさなかったが、女性の風儀が並のそれでないことだけは直感が告げていた。同種と言える母親と、まさしく同じオーラめいたものを感じたのである。


 あのような人間が依美になんの用だったのか、電話の内容と何か関係があるのか、疑問を列挙すれば棚から零れ落ちる程だ。だからこそ逆に、今は考えても埒が明かないと割り切ることはできる。


 部室の前に到着する頃には、来人の追想は頭の隅に遠ざかり、それも次第に消えていった。


 荘平が鍵穴に鍵を差し込んで回す。その時、荘平の表情に変化が生じた。


「あれ?」


 不思議そうに鍵をもう一度回転させる。


「どうした?」


「いや、これ……鍵が掛かってないんすよ」


「そうなのか? ……ってことは」


 鍵が掛かっていないなら、考え得る答えは二つ。一つは『最後に部屋を出る際、鍵を閉め忘れてしまった』。そしてもう一つ、来人が思い浮かべた答えは、『開けようとする前に誰かが開錠していた』。


 来人は扉に手を掛け、そっと力を籠めた。施錠時の抵抗感はなく、底に付いた戸車によって扉は静かに開いていく。


「人を呼びつけておいて上役出勤なんて、上等な喧嘩の売り方ね、米谷」


 室内に高く澄み渡る声。絢爛豪華な長机の更に奥、キィキィと力なく鳴く回転椅子を揺り動かしながら、全体重を背もたれに預けた少女。高圧的な青色の瞳が、部屋の入り口で固まった少年少女三人を精細に映し出す。


 いつも通り、平常運転の口振りで、烏野依美はそこにいた。

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