サプライズ・アイズ
わんっ、という甲高い鳴き声。
白い毛玉が猛進して飛び掛かってきたのは帰り道、来人が漆瓦家の前を通り過ぎようとした時のことである。
どうにか受け止めようとするも、あまりの勢いに堪えきれず、後ろに倒れる。
体中を覆うふわふわの白毛の中から、キョロっと覗く円らな瞳。ピョコっと生えた二つの耳と不恰好に垂れる赤い舌。
「モフッチ!?」
返事の代わりか、再びわぉんと一鳴き。
漆瓦家の愛犬モフッチが来人にのしかかり、嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振り回していた。
「お前な、心配してたんだぞ! 昨日も今朝も全然姿見せくれないしさ! 俺にお前の癒しがどれだけ必要だったと思ってんだよ!」
感慨無量。
モフッチを抱き寄せ、ひたすらワシャワシャと体を撫でた。
余す所なく撫で上げ、撫で下ろし、それでも足りずに頬ずりまでして、絶妙な撫で心地を全身で堪能する。
モフッチもそんな来人の心中を察し、励ますように頬を舐め、小さくきゃおんと声を上げた。
『大丈夫、私はいつも来人の傍にいるから』。そう言ってくれているかのようで、内側からじんわり温かくなる。
「モフッチ……」
泣きそうだった。一歩間違えると惚れてしまいそうだった。
荒んだ心を一掃し、立ち上がる活力をくれる。やはりモフッチ分とは、来人にとってなくてはならない必須エネルギーなのだ。
「あら、来人ちゃん?」
聞き覚えのある声がすると、懐中電灯の光が来人の顔を照らした。
極か細い光である。それでも暗さに慣れていた分だけ刺激は強く、眩しさで思わず手をかざす。
光源を片手に、不思議そうに来人を見下ろす品のよさそうな年配の女性。
女性は来人にじゃれつくモフッチを確かめると、納得したように微笑んだ。
「あらあらまあまあ、道理でモフッチが駆け出すわけね。来人ちゃんのニオイがしたから我慢できなかったのかしら」
間延びした口調で、うふふと頬に手を添える。
来人は自分が今地面に座っていたことを思い出し、すぐさま腰を上げて砂ぼこりを払った。
まだ遊び足りないと、足元でくぅんと鼻を鳴らすモフッチ。
構ってやりたい、すぐにでも抱きかかえて顔を埋めたいという衝動に駆られるが、ここは少しお預けだ。
「こんばんは、ヨネさん」
「はい、こんばんは」
漆瓦ヨネ。米谷家のお隣に住むご婦人で、モフッチのご主人である。
御年七十二歳という話だが、血色の良さもさることながら、衰え知らずな肌のつやで十歳以上は若く見える。
加えてモフッチの散歩を朝夕一日二回こなしており、足腰の丈夫さにも定評があった。
「来人ちゃんは、学校の帰り?」
「はい。部活とか、他にもいろいろ用事が立て込んで遅くなりましたけど。ヨネさんの方はその……モフッチの散歩、ですか?」
つい歯切れが悪くなる。
朝の散歩は時間がまちまちな一方で、夕方の散歩は大体六時から七時と決まっている。ヨネの右手にリードが握られていたことから判断した来人だったが、これから出発するにしろ、今到着したにしろ、時間帯が合わない。
「ええ、まあ、散歩コースを回って、たった今家に着いたところなのだけど……」
顔にこそ出さないが、どう聞いても浮かない声だった。
「何かあったんですか?」
「あったと言えば……そうね、あったことになるわね。でも、こんなこと、学校帰りで疲れている来人ちゃんに話すのも、なんだか気が引けるわ」
「いいですよ、気にせず言ってください。隣人同士ですし、俺でよければ聞きますよ」
「そう? じゃあ、ちょっとだけ聞いてもらおうかしら」
まだ少し遠慮がちに、けれど幾分かホッとしたような面持ちになる。
それから、来人の足元で行儀よくお座りをしているモフッチに近づき、ヨネはその頭をそっと撫でた。
「この子ね、実は昨日一回も散歩していないのよ。どうしてか朝からずっと小屋の奥で丸まったまま震えていて、結局一日中外には出てこなくて。今朝も同じだったわ。それで、昼過ぎくらいから、ようやく出てきてくれたんだけど……」
「……」
汗が一滴、来人の頬を滴り落ちた。
無音が心を支配する。
精神世界。不穏な気配が這いずるように接近し、最終防衛ラインを軽々と越え、精神を蝕みながら侵攻してくる。
嫌な気だけはビンビンにしていた。
「……だ、だけど?」
「だけどね、夕方に散歩しようと連れ出し時に下校中だった神奈ちゃんと偶然会って、それでほんの少し世間話をしてる間に、この子ったらまた小屋の中へ戻っちゃったのよ。神奈ちゃんを見送った後は普通に出てきたから、こんな時間でも散歩に行ったのだけど。本当、どうしちゃったのかしら、この子。変な病気とかじゃないかしら?」
「…………」
来人には言えなかった。
口が裂けても言えなかった。
というか、どう言えばいいというのか。
『自分の幼馴染がお宅の愛犬をポシンタンに調理してやろうと狙っているからです』なんて。
どれだけ遠回しに叙述したところで、これでもかと歪曲したところで、その主人を前にして話す度胸なんてあるはずもない。
一応確かめておこう。そう思って来人はしゃがんだ。
「…………神奈」
きゃいんッ。
もの凄い勢いで毛を逆立て、モフッチ全力の警戒態勢。
完全に恐怖が体に染み込んでいた。
「どうかしら、来人ちゃん。ひょっとして、モフッチは本当に何かの病気に?」
「あー、えっと、その……大丈夫ですよ。モフッチは病気じゃないです。…………モフッチは」
「そ、そう? それならいいのだけど」
そう、モフッチは至って健康体だ。自由に青空の下を駆け回る体力も、餌をおなか一杯食べる食欲も、誰かに分け与えるくらい有り余っている。
病気なのは、まあ、言わずもがなである。
「なんだか、来人ちゃんに話したらすっきりしたわ。ありがとうね」
「いや、俺は何もしてませんよ。それにこいつがまた同じような状態になったら、その時は俺に言ってください。絶対なんとかしますから」
「ふふ、助かるわ。じゃあその時はご厚意に甘えちゃおうかしら」
モフッチに手を出すなと、来人が神奈に釘を刺したのは昨日のことだ。だからしばらくは平気なはずである。
だが、再発しない保証はない。
疑わしきは罰す。あの病持ち少女が少しでも怪しいと判断すれば、再び奇行に走るだろう。なんの見境もなく。
そんなことがないよう、来人は病状の早期改善を強く誓った。
「ところで来人ちゃん、神奈ちゃん、今日学校で何かあったの?」
「神奈? あいつがどうかしたんですか?」
「いえね、それが、さっき話をした時の神奈ちゃんの様子が、それはもうとっても幸せそうだったのよ。見ているこっちまで幸せになっちゃうくらい明るく笑っててね。だから、学校でいいことでもあったんじゃないかって」
満面の笑みを浮かべ、意気揚々と帰り道を歩く神奈。ヨネが語るそんな神奈の姿を、来人は容易に想像することができた。
興奮冷めやらぬ、というわけでもないが、神奈は一度ある感情の方へ心が振り切れると、良くも悪くも、しばらくはその感情一辺倒になってしまう。
喜怒哀楽の暴走。
そしてその延長、同時に複数の感情がせめぎ合って心がパンクした時、防衛本能が負荷を最小限度に留めようとリミッターを外す。
その状態は来人が闇神奈と称するものだ。
闇神奈に豹変した神奈はまさしく狂い神。その一方で、平常時の神奈は感情の制御が苦手という点を除けば、一応は家事も勉強もそつなくこなす美少女。
だから想像するに難くない。来人とデートを約束した神奈が、学校で子どものように歓喜していたあの神奈が、家に帰るまでに平静に戻れることなどまずありえないのだ。
来人にとってはお馴染みの、幼馴染の心の病。
けれど新鮮だったのは、染まった感情が『喜』であること。神奈が自分とのデートを喜んでいるということ。
いつもは呆れて忠告したり、怖くなって逃げ出したりしたそれが、今回はどうにもこうにも照れくさかった。
「すいませんけど、俺にもちょっと分からないです」
内側から筆で摩られたようなむず痒さに負け、来人はつい嘘をついていた。
来人も神奈も、子供の頃からヨネにはお世話になっている。二人がずっと一緒にいたことも当然知っている隣人だ。
そんな相手に今更隠す意味があるのか、そもそも隠すようなことか、僅かな時間に思考を巡らすも、慣れない感覚には勝つことができなかった。
しかし身体とは正直なもので、一旦意識に上げただけで来人の顔は少し赤らむ。
「来人ちゃん? ちょっと顔が赤く…………あらあらまあまあ、なぁに? そういうこと?」
年の功とは実に偉大である。ヨネは一瞬で事情を汲み取ったらしく、来人に温和な微笑みを向けた。
「青春ねぇ」
回顧するかのようにヨネが言う。そこには一切の嫌味もない。
たったそれだけで来人は顔から火が出そうになった。茶化すならまだしも、ヨネの言い方は実直すぎた。
「じゃ、じゃあ俺はこの辺で。また時間ができたら、モフッチの散歩、手伝いに行きますよ」
「ええ、いつでもいらっしゃい。お茶とお茶菓子を用意して待ってるから」
「はい」
このままこの場所にいたら余計にボロが出る。来人は口早に別れの挨拶を切り出し、退散を決め込んだ。
くぅんと寂しげに鳴くモフッチを、最後にもう一回だけ撫でる。
「また一緒に散歩してやるから、毎日欠かさず歩いておけよ? あんまりヨネさんを心配させないようにな」
名残惜しい気持ちを押し殺して横を抜ける。
眼と鼻の先にある自宅へと歩き出した来人の背後、わぉんという歯切れよい返事が、夜の住宅街にこだました。
◇◆◇◆◇◆◇
玄関を開ければ、従順な飼い犬よろしく神奈が飛んでくるものとばかり身構えていたが、扉をゆっくり開いた先に神奈は現れず、けたたましい足音も聞こえず、お帰りなさいの声が響いてくることすらなかった。
神奈が住み着くお化け屋敷よりホラーな屋敷としてはあまりに平穏である。
たとえば昨晩の場合、神奈は来人が帰宅するやいなや瞬間移動の勢いで駆けつけ、ご飯が先かお風呂が先か、ご飯は米かパンか、米のおかずは肉か魚か、肉は鳥か豚か牛か羊か馬か、焼き加減はローかブルーかブルーレアかミディアムレアかミディアムかミディアムウェルかウェルか、食い入るように選択を迫ってきた。
注文の細かさに嫌気がさし、『シェフのお勧めで』と適当にあしらって食卓に生肉が並んだ時は、さしもの来人も己の未熟さを嘆いた。
それが今日は何も起きない。
もちろん無きに及ばざるなしではある。来人自身は責め苦で喘ぐ変態気質でないし、疲労困憊な身体にもこれ以上の負荷は御免蒙る。
敢えてライオンの檻に飛び込む必要はないだろうと、声を発せず、誰にも気取られることなく我が家の中へ。
そこで来人は微かに漏れる光に気づいた。明かりがついたキッチン兼リビングのドアが数センチ開けており、そこから電球の白光が暗い廊下へ筋を伸ばす。
それだけに留まらず、何かが衝突し合って鈍く反発する音が鮮明に聞こえてくる。
数センチの隙間から、突き動かされるように来人は覗き込んだ。
――神奈?
リビングの壁際、枯れ木のように頼りなく立つ神奈がカレンダーの前で虚ろな目をし、右手に握った金槌をカレンダーに向かってしきりに振っていた。
腕をバネの如くしならせ、左手で支える釘らしき物へ、一点に集中させた力を叩き込む。その度に、口角の吊り上がった口から愉悦に浸る笑い声が漏れ出る。
「…………」
見たくなかった。より正確には、『見なかったことにしたかった』だ。何も見なかったし、聞かなかった。そういうことにして自分の部屋に転がり込み、無心になって寝てしまいたかった。
面倒事の気配しかしない。関わったが最後、エスケープはきっと許されず、事の顛末を見届けるまで安息は訪れない。
これが自宅でないなら来人はスルーを即断しただろう。が、現在進行で我が家の壁に穴が開くか否かの瀬戸際、見過ごすには代償がでかすぎた。
隙間から指を入れてドアを開く。
「何やってんだ、お前」
「あ、クル君、お帰り!」
来人が帰宅したと分かると、神奈の空気が一転して華やぎ、パッと明るく花が咲いた。
「ただいま。で、もう一度訊く。何をしてた?」
「えっとね、これは」
何が恥ずかしくてそうするか不明だが、神奈はほのかに顔を赤くすると、それを隠すように手で押さえ、照れり照れりと左右に振る。
「土曜日は大切な日だから、今のうちに予定をカレンダーに刻み付けておこうと思って。本当はクル君が帰ってくるまでに済ませてビックリさせようとしたんだけど、間に合わなかったね」
言いながら、神奈は慎み深く、ある物体を胸の前で小さく掲げた。
藁人形だった。
「いやいやいや、違うよな!? それ丑三つ時に神社とかで恨めしく打ち付けるやつだよな!?」
「愛しの人のハートに見立てて貫く、恋愛成就のラブアイテムだよ? 通販で赤字覚悟の大売出しセール中だったの」
「またそれか! ほんと恰好のお客様だな、お前!!」
運営主はサイコパスか何かか。どうであるにせよ、売る方も売る方だが、買う方も買う方である。買うにしたってお守りやら絵馬やら、直接殺傷系及び呪殺系でないもっと平和的な祈願アイテムがあるだろうに、来人には甚だ疑問だった。
「もっと手早く打ち付けられてたら、クル君もきっとビックリ仰天して喜んでくれたのに、残念だよ」
「そりゃ、今日は何日だろうって何気なくカレンダーを見て、バンと藁人形が打ち据えられてたら、誰だって腰抜かすわ。喜ぶかどうかはさて置きな!」
「……クル君、ひょっとして怒ってる?」
「むしろお前が怒られないと思ってることの方が不思議だよ。他人の家の壁に穴開けといて悪気もなしか……」
「それなら大丈夫だよ」
穴を穿った少女は急にニコッと微笑むと、カレンダーの裏で何かを取り外す。振り返ったその両腕には分厚い木板が抱えられていた。
「当て木した上に打ったから」
「当て木する選択ができるなら、端から打たないって選択もできたのでは?」
「これで好きなだけ打てるね」
「話聞けよ……。あと打つな」
もうため息すら碌に出ない。水準が下がり、これが普通だとすんなり受け入れそうで怖くなる。
方法は許容外だが、予定を書くことそれ自体は許容内。来人は近くの小棚からボールペンを取り出し、それを神奈へ手渡した。
「どうしてもって言うなら、それ使え」
「うん、ありがと、クル君」
神奈は手に持った五寸釘をポケットの中にしまう。それから藁人形をカレンダーに押し付け、渡されたボールペンをその中軸に添え、金槌を持った方の腕を引き絞った。
「じゃあ早速――」
「藁人形はもういいって言ってんだろ!! どんだけ打ちたいんだよ!!」
来人は神奈の手から藁人形をひったくって放り投げる。放られた藁人形は放物線を描いてそのままゴミ箱の中に落ちた。
そして癪に障るのは承知の上でボールペンも奪取し、神奈の言う特別な土曜とやらを演出するため、土曜日の欄に『デート』と殴り書きした。
「もうこれでいいだろ」
「クル君……」
来人の思い切った行動に神奈がえへへと照れるが、本当に照れくさいのは来人の方である。これでは自分の方がデートを楽しみにしているようで、負けた気分にさせられる。
これも我が家の壁を守るためだと言い聞かせて割り切る。ここにきてようやくため息が出た。
「そ、その、クル君、できればハートで囲んで欲しいな」
「ああ」
もうどうとでもなれ、言われるがままにハートを描き込む。
「とっても楽しみだから、そういうコメントも入れたいかも……」
「はいはい」
ハートの横に自然な文字で『楽しみ!』と一言。
「じゃ、じゃあ……『結婚記念日』って!!」
「それは認めない」
勢いづいて何を言い出すかと思えば、却下に決まってる。婚姻届けに無理やり判を押させるような強引さがあった。
気持ちの面も大きいが、何より来人はまだ結婚可能な年齢に達していない。情緒的にも法的にも認証不可だ。
「ここまで要望に応えただろ。少しは引くことも覚えろ」
「そう、だよね……」
目に見えてしょんぼり肩を落とす神奈。そろそろ切り上げて着替えてこようと背を向けた来人の制服の裾を、その手がしかと掴んだ。
「ところでさ、クル君、さっきから気になっていたんだけど、制服に所々付着しているこの白い毛は、なに?」
途端、空気が凍てついた。
力を入れれば折れてしまいそうな華奢な腕だというのに、来人には振り払うことができなかった。瞬間接着剤でも塗布したのか、頑として揺るぎない。
四肢を動かすこと叶わず、首だけ後ろに向けるのがやっとである。
「……なんのことだ?」
「この毛の色、質感、ひょっとしてクル君、モフッチに会ったの……?」
否定することなど造作もない、はずだった。
来人の首筋に嫌な汗が浮かぶ。ここで偽って答えようとも、今の神奈なら軽々しく看破してくるだろうという、諦めに近い推測だけが頭の中を巡り巡る。
果たして、神奈の顔に影が落ちる。
「そっか、クル君、モフッチに会ったんだ。会って、抱いたんだ……」
「……ッ」
迂闊だった。毛を払い損ねたことに加え、動揺するあまり神奈に表情を読まれた。来人にとっては痛恨のミスである。
モフッチに会ったことを、神奈に知られてはならない。分かっていたが、藁人形の茶番で気が緩んでいたのだ。
結果、神奈の瞳は混沌に呑まれ、光彩を失った。
「クル君、約束してくれたよね……? モフッチとは金輪際関わらないって」
「いや、そんな決別を表明した覚えないぞ……。俺はただほどほどにするって言っただけだよな? 確か」
「デートしようとも言ってくれたのに…………遊びでしかなかったの……?」
「それもお前から言ってきたことだよな?」
ふざけて話しているわけでなく、どうにも記憶を上手く整理できていないらしい。黒神奈一歩手前の段階ではよくある症状だ。
そして遂にその時は訪れた。
「やっぱり、動かないようにするしかないんだ……。動けなければ誰とも会えない。誰とも話せない。……クル君は、誰とも仲良くなったりしない!」
「ちょっ!!」
瞬時の機転、来人は経験則に基づいて体制を仰け反らせ、横薙ぎに繰り出された金槌を紙一重で回避した。
本日二回目、黒神奈の再来である。
「おい神奈、落ち着け……って言っても聞くわけないか」
問題がモフッチの件だけに、安易に打開策は練り出せない。それを認め、脱兎の如く来人はリビングを飛び出す。そのまま二階への階段に足を掛けた。
外に逃げる手もなくはないが、神奈が後を追ってくると考えると、金槌を片手に公道をうろつく絵というのは流石にまずい。
今の来人には、どうにか時間を稼ぎ、自然と神奈が落ち着くのを待つか、あるいは対策を捻り出して鎮静化させる以外に道はなかった。
隠れ場所に乏しい自室よりは、物が積み上げられて乱立した物置き部屋の方がまだ姿を眩ませやすい。直感を信じ、来人は襖の上段へと潜り込んだ。
普段から放置しているだけあって酷く埃っぽい。それに家電の箱やら冬服やらがこれでもかと押し込まれ、身を縮ませているというのに窮屈この上ない。それでも贅沢を言っていられる状況でないのでぐっと堪える。
一階の廊下、階段、二階の廊下、物置き部屋、すべて電気をつけることを来人はしなかった。かくれんぼの要領で、いないと思わせることが基本戦術である。
一息つく間もなく、来人は携帯電話を取り出し、ある番号へと繋いだ。
――出てくれよ。
『もしもし、荘平っす』
運よく数回のコールで相手が電話に出る。
「来人だ。すまん、荘平、いきなりで悪いが時間がない。かいつまんで俺の今の状況を伝えるから、上手く把握してくれ」
『は、はい?』
荘平は明らかに狼狽していた。それも当然である。脈絡のなさもさることながら、電話越しの声でそれらしい緊迫感は分かっても、まさか襖に隠れて電話する来人を想像できるはずもない。
それでも来人は端的に現状を述べた。経緯や原因、その他もろもろを取捨選択し、限られた時間内では最適の説明を施す。もちろん声を抑えた上だ。
全事情でなくていい。危機的状況であることさえ伝えられたなら上々。
黒神奈の狂気を真正面から浴びた荘平なら、あるいは突破口を開けるかもという、淡い希望に死線を託す。
「てなわけで、とてもじゃないが落ち着いて考えられる状態じゃないんだ。荘平の方で何か有効な策とか思いつかないか?」
『な、なるほど……。あ、それなら、自分の家に電話するってのはどうっすか!? もしかしたら流れを切れるかも』
「……悪くないな。試すから、一旦切る」
通話を終了させ、電話帳から自宅の番号を呼び出してコールする。
断続的な電子音からコール音に切り替わり、来人の耳にも呼び出し音が掠れて届く。神奈が出たなら電話越しに説得。そうでなくとも現実に引き戻す取っ掛かりにはなるかもしれない。
十秒もせず外の呼び出し音が途切れた。だというのに、携帯電話からは相変わらずのコール音だけが奏でられている。
「まさかあいつ……」
察すると、来人は再び荘平に発信した。
『どうっすか?』
「ダメだ。神奈の奴、電話線を抜きやがった……」
そこまでするかと声を荒げたくなる奇行である。もし急を要する電話だったら取り返しがつかないだろうに、少なくとも神奈の判断力が著しく低下していることは疑いようがない。
『もういっそ外に逃げるしかないんじゃ……。家の中に隠れてたら遅かれ早かれ見つかるっすよ』
「やっぱ、それしか――」
その時である。感覚を研ぎ澄まして警戒中だった来人の全神経が、階段の軋む音を確かに捉えた。そこへ足音も重なり、一歩一歩緩やかに、それでいて着実に上ってくる。
ぞわぁと怖気が背を走る。
来人はお化け屋敷に何回か足を運んだことがあるが、そんな来人の持論が『驚きと恐怖は違う』ということだ。実際、お化け屋敷というアトラクションはホラーでありこそすれ、吃驚系の色が濃い。
恐怖とは、そこに立っているだけで、見つめるだけで、漫然と近づくだけで、人の心を侵食する。来人のそれは正真正銘の恐怖だった。
『来人さん? 来人さん! 何かあったんすか!?』
「……は、はは、退路が断たれたみたいだな」
『ちょ、それピンチじゃないっすか!! 笑ってる場合じゃ』
「だって笑うしかねーよ、こんなの。そこらのお化け屋敷なんかより数段怖い……」
『気を確かに持って! 俺を神奈さんから助けてくれたの来人さんでしょ! まだ諦めるような段階じゃないっす』
新鮮な空気とは程遠いが、何度か深呼吸して、高鳴る心臓を宥める。
足音は物置き部屋の前を通り過ぎ、そのまま後方に遠ざかっていく。どうやら本能的にまずは来人の部屋へ赴いたらしい。来人は一先ず安堵した。
「諦めるとは言ってない。命懸けのかくれんぼだ、諦められるわけないだろ。普段のあいつならともかく、今は冷静さを欠いてる。このまま隠れ切ってやるさ」
『その意気っす。動かざること山の如しっすよ』
「そんなどっしりは構えられてないけどな……」
どちらかと言えば背水の陣と言った方が正しい。まあ背にしているのは水でなく段ボールの壁だが。
舞台は油断を許さない戦場と遜色ない。今にも足場が崩れて闇の中に落ちそうになる。絶対的に余裕がないというのに、来人はしかし笑えていた。
素のボケなのか、それとも激励なのか、どちらにしろそんな荘平の言葉が来人はありがたかった。電話という媒体を介してでも、誰かに心境を理解してもらえるのは荷を分け合った気分になる。
来人には神奈に負うべき責任がある。その重みも、今この時のように、誰かと共有して果たせるのではないか。今まで一度として浮かんだことのない希望が脳裏をちらつく。
なんて都合のいい期待の仕方だろう。そう嘲笑しながら態勢を少し崩し、上を向いたところで、来人の身体は固まった。
思い出す。昨日の朝、あの少女は鍵の掛かった自分の部屋に、一体どうやって侵入してきたのか。部屋を通過したくらいで警戒を緩めてしまった楽天っぷりを、悔いる間すら許されない。
握った携帯が、するりと手から抜け落ちる。
『え? 来人さん? もしもし、来人さん!? どうしたんすか!?』
密閉空間に荘平の声は反響した。
「嘘だろ……」
二度と使えないよう、来人が木板と釘で塞いだ天井裏への入り口。その木板の隙間から覗く丸々とした瞳が、来人のことをはっきりと見つめていた。
「あはっ……みぃつけたぁ」




