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病みまくった幼馴染  作者: 白烏
5月 12日 (火)
1/22

スリリング・モーニング

 視線の先にナイフが突き刺さっていた。

 

 鳥のさえずりを目覚まし代わりに起床し、世界が横になったまま目を開けると、よれよれになった真っ白いシーツから果物ナイフのような短刀が生えている。刀身の半分がベッドの中へ深々と埋もれ、その柄には黒魔術にでも使うのかとつっこみたくなるほど珍妙かつ不気味な文字が所狭しと刻まれている。


 目を擦ってナイフが幻覚でないことを確認すると、来人くるとは一人っ子にもかかわらず母親がふざけて購入してきた二段ベッドの上段からそそくさと降り、部屋のドアへと向かう。


 ドアロック、問題なし。


 チェーン、問題なし。


 念のためにと窓の鍵も確認したが、そこにも異常は見られない。


 ――じゃあ、どこから?


「私はココだよ」


「天井!?」


 頭をフル回転させ考え得るすべての場所を洗っていた来人の頭上、そいつは天井のパネルを外してひょっこり顔を覗かせていた。


 肩まで伸びた黒髪は本来ならそよ風になびくほどさらさらとして優雅の極みなのだが、今や大胆アクセのクモの巣でデコレートされて無残な姿に変り果て、二重まぶたのパッチリおめめが印象的な可愛らしいお顔もホコリまみれ。


 そんな残念な様で奇襲をかけてきた少女こそ、小学生以来になる来人の幼馴染――水橋みずはし 神奈かんなだった。


 もっとも、様が残念であるだけなら大分、いや九分九厘マシだと言い切る自信が来人にはある。そうでなくても、神奈の容姿を素で可愛いと感じている来人にとって、問題さえなければ幼馴染としていられることは非常に喜ばしいのである。


 問題はそう、たった一つの最大最恐を誇るクリティカルポイント。


「クル君を永眠させちゃえば、クル君はずっと私だけのモノ。そう思って来たんだけど……ごめんね、私、失敗しちゃった……」


 神奈は――病んでいる。


世間一般では『ヤンデレ』という属性にカテゴライズされるそれだが、実際はそんな生易しいものじゃない。デレを一蹴する圧倒的狂気。『病ん』でいる思考回路と行動理念。

 

 加えて性質の悪いことに、この少女は、


「天井裏に潜んで暗殺って……忍者か、己は……」


「そう、私は忍者。忍び、クル君を一途に想う者だよ」


「いやそれ忍者じゃないし、そもそもお前の場合忍んでもいない!」


 人の話を聞こうとしない。どんな説得も自分の都合がいい方向へ脳内変換してしまう、いわゆる重症患者なのだ。


 昔はそんな人間でなかったことを来人はよく覚えている。いつからだったかは忘れてしまったが、神奈は狂気の道を歩み始め、次第に性格が変貌していった。家がお向かい同士だったせいもあり、早朝から来人の部屋に忍びこむといった事態が多発し、元来ドアロックしか備えていなかったドアへ新たにチェーンを取りつける羽目にもなった。


 そのおかげもあってしばらくは安寧とした朝を迎えていたというのに、天井裏から入るとかもう常人の為せる技じゃない。本気で命を奪われかねない。現実味を帯びてきた身の危険に来人はひたすら身震いした。


「第一、なんだ! その得体の知れない短刀は」


「これ?」


 天井からベッドの上へと飛び降りた神奈は、毛布に残った来人の体温を味わい噛みしめるようにムギューと抱いている。その手でナイフを抜いた。


「通販で買ったんだ。『意中の男性のハートを貫くラブアイテム』って売り文句で大々的に宣伝してたから」


「ちょっとそのサイトについて詳しく聞かせてもらおうか! 警察に一報して殺人教唆(きょうさ)の容疑でしょっぴいてもらうから!!」


 来人の喧騒とした朝は、今日もかくして始まった。




 ◇◆◇◆◇◆◇

 



 来人の部屋は二階の端に位置しており、その隣には物置として利用されている広さ六畳ほどの部屋がある。工具を片手に持った来人はその部屋で、襖を前に一人頷いていた。


「これでよし」


 神奈の侵入経路は大方予想がついていた。お向かいだけあって親同士の面識もあり、来人の母親が有事の際に備えて鍵を神奈にも渡しているので家へ侵入すること自体は容易。後は二階のこの部屋から、襖上の通路を経由して隣の部屋へ、そういう寸法だ。


 だから、その入り口を木の板と釘を使って滅多打ちにして塞いだ。そうすれば天井裏ルートを潰すことができる。


 我ながらいい仕事をしたと額の汗を拭う来人の元に、一階から響いてくる病持ち少女の声。


「クルくーん、朝ご飯できたよー」


 なんでお前が作ってんだと怒鳴り返したい衝動に駆られたが、ここはグッと我慢する。寝起きを襲われて、それでも冷静さを保ち続けたのだ。一々つっこんでいったら朝の時点で体力とか精神力が底をついてしまう。


 自然とこぼれるため息。


 本当ならとっくに警察沙汰にして然るべき案件だが、来人は今まで通報することをしていない。それはまあ、神奈に残る削りかすのような良心が殺人を思い止まらせてくれるという淡い期待からなのだが、最近は、いよいよどうしたものか、なんて考えることが増えた。


 一段一段気分を沈めながら階段を下り、玄関から見てすぐ右手にあるキッチンへ入ると、赤黒い液体が滴る包丁を右手にニコニコと笑う神奈が出迎えてくれた。


「なに、やってんの……?」


 よく見ると、神奈が身に着けている淡黄色のエプロンにも所々赤いシミができている。


「切ったら、ブシャアァァって凄い勢いで飛び散ったの」


「何がッ!?」


「トマ……ト?」


「嘘つくなよ! そりゃ確かにトマトは赤くて果汁たっぷりだけども、そんなドロッって効果音がお似合いな液体が出るわけねーだろ!」


「知り、たいの……?」


 何故か知らないが急に神奈の瞳から光が消えた。深海に潜ったかのような真っ暗な闇がその眼を支配し、少しでも視線を交えたら吸い込まれそうな黒々としたオーラを放っている。ブラックホールと比喩してもきっと差し支えない。


「い、いや……やっぱり、いい……」


「うん! クル君はやっぱりお利口さんだね。そんなクル君が、私はいつでもどこでも大好きだよ!」


 知らぬが仏とよく言うが、これはどうなのだろうと来人は泣きそうだった。知る知らぬ以前に訊かぬが仏状態だ。なんというか、懐疑心からうっかり訊いてしまうと拾った命をドブに捨てる結果になりかねない。


 蛇に睨まれた蛙。


 ――蛙、同情……。


 ルンルンと機嫌よく料理をテーブルの上に並べていく神奈を、来人は黙殺せざるを得なかった。


 メニューは、ご飯と味噌汁、ほうれん草の胡麻和えと、奥の長皿に置かれた塊は、おそらくは鶏肉の煮物だろう。


「今日はもう朝ご飯を作らなくても大丈夫って思ってたから、時間がなくてあんまり大した料理が作れなかったの。ごめんね……」


「いや他に謝るべきことがあると思うけどね、俺は。料理云々言う前に」


 言いながら料理に口をつけるが、とりあえずは毒が盛られているということもなく、味は合格点。ほうれん草の湯で加減も悪くない。


 ただ、来人の箸は鶏肉に触れず、ご飯と味噌汁とほうれん草の間だけを行ったり来たりしていた。


とり、食べないの?」


「ははっ、なんでだろう、無性に食べたくない……」


 見た目は美味そう、そしておそらく、味もいい。なのに本能が嫌だ嫌だと拒否反応を起こしている。脳裏に死にもの狂いで暴れるにわとりと、それをむんずと鷲掴みにして悪鬼の笑みを浮かべる神奈の姿がよぎったが、頭を左右に動かし全力で振り払う。


「神奈、流し台の前の床に、その……鳥の羽的なものが落ちてるんだが?」


「カラスちゃんかな? 後で綺麗さっぱり消しておくから、安心して」


「……白いんだけど?」


「突然変異種だね」


「ああ、そっか……」


 訊かぬが仏、そう念じて、来人はバクバク鼓動を打つ心臓を必死に宥めた。


 出所の知れない鶏肉を認識不可の存在として扱い、一通り朝食を終えたところで、来人はあることに気づく。


「そういや、父さんは?」


「やだ、クル君ったらボケが上手いよ。子供ができたら、もちろんお父さんはクル君だよ?」


「お前の発言のがよっぽどボケてるよ」


 これを本気で言っているのだから手に負えない。


「そうじゃなくて、俺の父さんがどこに行ったのかって訊いてるんだ。まだ寝てるのか?」


 ――まさか、永久にぐっすりとかってオチじゃないだろうな……


 横目で黙々とご飯を口にする神奈を見遣るが、こいつだったらマジでやりかねないと来人は本気で懸念していた。病気の具合からいっても、『クル君が生まれてからずっと同じ屋根の下で暮らしているなんて、万死に値しちゃう重罪だよ。死刑だよ』なんて螺子が外れた言い分で人一人抹殺してもおかしくない。十二分にあり得る。


「オジサンなら、今日の初便でアメリカに行ったよ?」


「アメリカ!? じゃあ父さん、母さんの所に行ったのか? 何も聞いてないぞ!」


 来人の母親はバリバリのキャリアウーマンで、高級ランジェリーを主に取り扱う企業の女社長を務めており、多忙を極める生活を送っている。特に最近はニューヨークに支店を出す関係で単身渡米しており、来人自身も接点を持てないでいた。


 その一方、父親は清流を思わせるほど清く澄んだ人柄をしており、何事に対しても朗らかな面持ちを崩さない人だ。母親のいない穴を埋めるため、来人が小さい時から専業主夫となって家事全般を担っていた。


「それは仕方ないよ、オバサンが倒れたって急な知らせだったんだもの」


「母さんが!?」


 鉄人とまで呼ばれた屈強な母親が倒れたなんて、来人にとってにわかには信じられないことだった。


「自分は様子を見に行くから、クル君はいつも通り学校に行くようにって言伝を頼まれたよ」


「……そう、なのか」


 確かに向こうの状態を聞かない内から浮足立っても仕方ない、それは分かる。けれどやはり、息子として母親を心配する気持ちに理屈がいらないのも事実。どうしたって不安になってしまう。


「だ、大丈夫だよ!」


 波立つ来人の心を感じ取ったのか、両こぶしを胸の前で揃えた神奈が、体を突き出すようにして励ましの言葉をかけてくる。


「神奈……」


「全部私の嘘だから!」


「……は?」


 思わず漏れる間抜けな声。神奈の口にしたことの意味が理解できなかったのだから当然だ。


「嘘って……父さんはアメリカに行ってないってことか!?」


「ううん、そこは本当」


「じゃあ何が嘘なんだよ!」


「オバサンが倒れたってくだりだよ。私がこの家に電話をかけて、捏造ねつぞうした話をしたら、オジサン血相変えて飛び出していったの」


「なっ……」


 ――気づけよ、父さん!


 来人は全力でこぶしを机に叩きつけた。


「なんでそんな嘘ついたんだよ!」


「あのね……私とクル君の、愛の巣を作りたかったの」


「常人が理解可能な次元で説明してください、頼むから!」


 母親が倒れたなんて縁起の悪い嘘をつきやがったのである。中途半端な説明で納得し切れるものじゃない。会話が成立しないのはそれ以前の問題だ。


「えっと、今ね、私のお母さんとお父さん、親戚の人が危篤状態になったって連絡を受けて、しばらく九州の方に行ってるんだ」


「ああ」


 それは来人も聞いている。


「だからね、私は今うちで一人なの」


「ああ」


「クル君がうちに泊まりに来てくれればいいんだけど、クル君は絶対に来てくれないよね?」


「ああ」


「だったらオジサンを人払いして私の方からクル君と一緒に暮らせば、二人の愛のお城が出来上がるよね?」


「そこが分からない」


 連射される弓の如く持論が次から次へと飛んでくるが、来人だって黙って容認してやるほど、人間がまだできていない。というか、できていたとしても看過できる域をとうに越えていた。


「百歩譲って父さんがアメリカに行ったことは……まあよくはないんだが……よしとしよう。だけど、それでなんで俺がお前と暮らす話に飛び火するのかが分からん」


「お互い家で一人ぼっちという困難に、愛し合う二人は手と手を取り合って立ち向かっていくんだよ!」


「聞こえはいいけどな!? その困難産み落とした奴と何をどう協力しろと!?」


「そう、それは同棲……」


「聞けよ、人の話!!」


 あーもうとムシャクシャした感情を壁に頭突きでもして発散したくなるが、でも痛いんだろうなと考えを改めた来人は机に頬を置いて項垂れた。画面に体力とか精神力とか、レベルとかが表示されているなら、まず間違いなく来人の枠は真っ赤に染まっているだろう。『おー来人、死んでしまうとは情けない』状態一歩手前だ。


 流れ始めた暗雲を前に逃げ出したくなる。


「でもな、神奈、嘘はやっぱりよくない。あの穏和な父さんのことだから、きっとこの件も笑って済ませてくれるだろうけど、だからって限度があるだろ」


 子供が高二になっても熱々な夫婦でいる彼らのことだ、これを機に向こうで久しぶりに親睦を深めるかもしれない。それならそれで構わないのだが、やはりけじめとして、神奈には重々反省してもらわなければならない。


 これ以上誰かを巻き込む騒動を起こすようなら、それ相応の態度を取らなければならないと来人は思い詰めていた。


「うん……私、悪いことした……」


 しょんぼりと肩を落とす神奈。それを見て、やっぱり神奈にも良心は残っていて、心を籠めた説得はいつか届いてくれるのだと、来人の胸にか細い希望の火が灯る。


 だがしかし、うんうんと涙ぐんで感傷に浸る来人の目の前に、突如として身を乗り出した神奈の光を失った瞳が再出現した。


「でも嘘つく人は悪いけど騙される人はもっと悪いって世間でよく言われるよね!?」


「お前ほんとダメだな!!」


 か細い火は所詮か細かった。


「父さんに非があったことは息子の俺も認める所だが、元凶のお前が言うな!」


「ど、どうして……どうしてクル君は私を叱るの……? なんで……なんでなの!?」


「なんでもなにもお前以外に誰を叱れと!?」


 不甲斐ない父親を叱るのもアリといえばアリだが、お向かいに住む娘さんに騙されてアメリカに飛んで行ってしまった大の大人を叱るのもあまりに不憫だ。なにより来人自身が恥ずかしくてたまらない。


 厳しくお灸を据えねばなるまいと躍起になる来人。反面、神奈は死んだ魚のような目をして口を半開きにし、しきりに何かを呟いている。


「な、なんで……どうして……どうして……どうしてどうしてどうしてどうして……」


「おい、神奈……?」


「どうしてッ!!」


「ひぃっ!」


 般若はんにゃのようにカッと見開かれた目に気圧され、反射的に悲鳴を上げた来人は椅子から転げ落ちる。神奈が纏う禍々しい気迫で腰を抜かしてしまった。


 闇神奈。ヒステリックに暴走する今の状態の神奈、来人がつけたその呼び名である。病んでいる神奈は感情の制御能力が人一倍劣悪で、ちょっとしたことで心がパンクして錯乱状態に陥ってしまう。そうなった時の神奈は暴れ牛以上に手がつけられず、有効な鎮静法が皆無な上、通常モードよりその行動の過激さが格段に増す。


 そして今、神奈の右手には包丁が、強く、ただただ強く握りしめられていた。


「ごめんねぇ、クル君……私がしくじったから……私が今朝クル君を仕留め損なったから、クル君に永遠の愛を誓い損なったから、だからそんな……そんな血迷ったこと言っちゃうんだよね……?」


「ち、血迷ってるのはお前だ! 落ち着け、とりあえず一旦落ち着け。その包丁をそっと机に置け」


「それなら、今から…………一緒になろうよッ!!」


「うおぃ!」


 尻餅をついたまま手の力だけで後ずさりしていた来人目掛けて、神奈が渾身の一振りを繰り出す。来人は咄嗟の判断で右へ跳ね退き、間一髪それを回避したものの、メキッという鈍い音がしてフローリングの床に包丁が突き刺さる。


「どうしてけるのぉ、クル君……。あはっ、不思議ぃ……」


「避けない方が不思議だわ!!」


 事態は深刻だった。こうなってしまった神奈を必然で止める術は来人にはない。あるとすれば偶然にすがること、ただそれだけだ。だが運の悪いことに、迫りくる脅威から押し出されるようにして後ろへ逃げ続けた結果、来人はついに壁際へ追い込まれてしまった。


「クル君、袋の鼠ちゃんみたいで可愛い……。なんだかさっきの鶏ちゃんを思い出してドキドキしちゃう……」


「鶏!? お前、やっぱりやったのか……やったんだな!?」


「命を懸けて最後の晩餐になってくれた鶏ちゃんだもん、きっと草葉の陰から私たちの幸せを祝福してくれるよ……」


「自分を食った人間を祝える鶏とか利他極まりすぎだろ!」


 ――ダメだ、このままだと本当に鶏の二の舞になる……。


 何もしなければ確実に来人の息の根は途絶え、冷たくなったその体には神奈が寄り添うことになるだろう。画面にはきっと『BAD END』の文字が浮かぶに違いない。神奈にとっては待望の『TRUE END』かもしれないが、来人にとっては紛うこと無き人生の終わり、『DEAD END』以外の何物でもない。


 一か八か、賭けるしかなかった。


「わ、分かった、どっちかの親が帰ってくるまでお前は俺の家に泊まっていいから、だからこの場はそれで治めてくれ!」


 もう破れかぶれだ。最後まで切りたくなかった苦肉の策ではあるが、死ぬか生きるかの瀬戸際に悠長なことは言ってられない。長からずとも一緒に暮らすということは命を危険に曝す暴挙だが、その心配をできるのも結局は今を生きてこそなのである。


 来人は天に祈った。捨て身の自分を救う神様があらんことを。


「ほ、ほんと……? 本当に、私、クル君の家に泊まっていいの?」


 黙祷を捧げる来人の前で、異常な圧から解放された包丁が虚しい金属音を立てながら床に落ちた。見上げると、神奈は手で口を覆うようにしてポロポロと涙を流している。


 どうやら、辛うじて難を逃れたようだ。


「ああ。その代わり、お前が寝るのは客間だ。布団はちゃんと用意してやるから、そこだけは絶対に譲らないぞ?」


「うん……うん……」


 情緒不安定というのは、何も怒りのベクトルに限ったことではない。喜怒哀楽、すべての感情においてそれは当てはまると言える。今、子供のように神奈が泣きじゃくっているのは、怒りの感情を嬉しさの感情が上回って封殺した、つまりはそういうことなのだ。


 だが、床に穴を開けられた住人であり、そしてさっきまで殺されかけていた側の来人にとっては、すべからく釈然としないのは言うまでもない。


「私、幸せだよ……」


 ご来光でも差したように神奈の空気が華やぐ。


「ううん、私だけじゃない……クル君も幸せだよね。やっぱりあの嘘は、私たちが愛を深めるための幸福な嘘だったんだ……」


「は、ははは…………嘘も、方便ってやつかな……」


「うん!」


 懐に爆弾を抱え込んで生活するなんて無謀を冒す人間は、勇猛果敢な挑戦者か、あるいは身の丈知らずのただの愚者か。それがどちらであるかなど来人にはまったくもってどうでもいいことだ。


 両者ともに少なくとも、自分で爆弾のスイッチを押すような馬鹿じゃないから。


 嘘も方便というは、どちらかと言うと、来人のためにあるような言葉だった。


「あれ? クル君も、もしかして嬉し泣き? よかったぁ、泣いちゃうくらい喜んでもらえるなんて、私もとっても嬉しいよ!」


「……少し、一人にしておくれ……」


 今日という朝、広大な大海原を創造するように、一生分の涙を一瞬に尽くすが如く、来人は泣きに泣いた。

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