3 狭間
アズは、ただ茫然と目の前の何もない空間を見つめていた。
まだ夢でも見ているのか、アズはとりあえず何も考えられなかったので、ベタに自分の頬を両手で抓ってみる。
「……痛い」
実際に夢の中で頬を抓ったことはないのでそれで本当に夢から覚めるのかわからないが、それでもしっかり痛みを感じる。目の前の景色はわからない。
「……」
両手を下ろし、途方に暮れる。何もしないままでいるのもいたたまれなくなり、とりあえず叫んでみようと口を開いたその時だった。
「アズ」
「!」
突然背後で名前を呼ばれ、驚いて振り返る。
――振り返って、目の前の光景にさらに驚く。
「……」
開いた口が塞がらないとは、まさにこのこと。
目の前、アズの視界いっぱいに広がるとてもとても大きな樹――いや、もはや視界に収まりきらないほどの巨木が、悠然と目の前に佇んでいる。
巨木の幹はびっしりと苔生し、地面からはい出た何本もの蔓が絡み付いている。両手をいっぱいに広げても人が何千人いても足りないくらいの太さで、こんな大きな樹があったことに対して信じられない気持ちだった。
そしてその樹に生えているたくさんの葉は、空から降り注ぐ光を受け、淡く光っているように見える。
葉が光る樹があるなんて知らなかった……。
感激しながらも視線を下に持っていき……そこでアズは飛び上がった。
大きな樹の下に横たわる小さな真っ白な塊――小さいと言っても比較物が巨木しかないのでそういう表現になったが、ゆっくりと近づいてみるとそれは十分に大きかった。そして、それは体を丸めて眠っている鳥のような体毛をもつ生き物だった。
「鳥……?」
にしては体格が良すぎる。それによく見れば尻尾が付いているし、足も鳥のような足ではない。どちらかというと爬虫類系の骨格のよい足つき――。
足、翼、頭……と視線を持ってきたところで、その生き物の顔をまじまじと凝視。
そして、やっと理解した。
「……竜」
理解、とは言ってももちろんそれは空想の中の生き物。爬虫類のような顔、体格を持ち、背に翼を生やしている様は竜というよりドラゴンと表現した方が合っている気がする。
しかし、目の前の竜は広く一般的に知られている鱗に覆われた竜ではなく、長く真っ白な美しい体毛に身を包んでいた。あまり本やアニメの中でも見たことのない竜である。
それに、背には鳥によく似た形の翼が3対も畳まれている……果たしてこの生き物を竜と断言していいのか悪いのか。
そんな葛藤をしているとき、またあの声がした。
「突然の召喚を許してください、アズ……」
「!」
今度ははっきりと聞き取れた声は、アズのすぐ目の前――真っ白な竜の元から聞こえた。――否、竜とアズの間に小さな光の珠が湧いてきた。声はその光から発せられている。
召喚……聞きなれない言葉に、内心身構える。
「……あなたがあたしを呼んでた人?」
「私の名はセピアノス――この世界を創造し、すべての生命を生み出した神、グラン・グレイフォスに代わり、この世界を護るもの」
人と呼ぶには違いがあるとは思ったものの、セピアノスと名乗る竜は特に訂正せずに話す。
この世界という言葉に突っかかりを覚え、アズは眉をひそめる。
「ここは地球?」
「いえ、ここは貴女の世界と私たちの世界との狭間にある、どちらでもない世界です」
「それは……異世界ってこと?」
「ええ。決して交わることのない、平行して存在する世界です」
ということは、今アズは俗にいう「異世界トリップ」をしていることになる。……もちろんそうすんなり理解できるほど冷静な性格ではない。これが本当に現実だというのなら、それを受け入れるために少し頭の中を整理しなければならない。
ユズのように頭がよければすんなりと現状を受け入れることができるのにと、こんな状況でも考えてしまう。
「……混乱してしまうのも無理はありません。しかし、どうか許してください。私たちの世界に残された最後の希望――貴女しか、いないのです」
「ちょ……ちょっと待って!急すぎて話が全然分からない!あたしが最後の希望ってどういうこと?あたしがセピアノスに召喚……された理由ってなに?」
「……すみません、アズ」
突然謝罪され、アズは混乱して首をかしげる。すると、ゆっくりとアズの視界に白いもやが漂い始める。
「順を追って説明している時間がありません。本当に申し訳なく思っています……ですが、これだけは伝えられます」
「え?時間がないって……っていうかこの霧みたいなのって」
「聞いてください、アズ」
「は、はいっ」
どんどんと深くなっていく白い霧のようなもやにおどおどしていると、セピアノスに制される。慌てて気を付けの姿勢で向き直る。
「今、私の世界は人の心の闇が招いた混沌の影により、少しずつ蝕まれています。……もし世界に混沌の影が溢れてしまえば、私の世界「クリスタニウム」は破滅の一途を辿ります。その世界の生きとし生けるものすべてを巻き添えにして――」
「そんな……」
「貴女はこのセピアノスが選んだ、クリスタニウムを救える唯一無二の心の持ち主です。クリスタルの力を発揮すれば、影を切り裂き、人の心を取り戻すことが出来ましょう……」
もやは濃くなり、目の前にある巨木も竜のセピアノスも見えなくなる。そして、光のセピアノスでさえ見えなくなりつつある。
「私は貴女と共に行きましょう。……後は彼が案内してくれます」
目の前に漂っていた光のセピアノスがアズに近づき、そしてゆっくりと胸の中に吸い込まれていく。じんわりと胸が暖かくなり、アズは心が何かで満たされていくのを感じた。
「私は貴女と共にあります、アズ――」
セピアノスのその言葉を最後に、アズの周りに空気が渦を巻き始める。
「……?」
不意に感じた一瞬の体の浮遊感。
「え?」
そして、
「へっ――」
地面をしっかり踏んでいたはずの確かな感触が唐突に消えた。
ごううっ!
耳鳴りを引き起こしそうな豪風に掻っ攫われ、アズは理解した。
あの狭間の世界からそのクリスタニウムという世界にまた召喚されたことを。
そして、その召喚された場所が空の遥か上空であるということを。
「なんでええぇぇぇぇぇぇ!!」
はためくなんて可愛らしい表現では言い表せないくらいスカートが乱れに乱れ、裾を必死に抑えたままアズは重力に逆らうことなく、もやだと思ってた真っ白な雲を突き抜けて真っ逆さまに落ちて行った。