40 アクリエ港の出会い‐①
(……落ち着け)
――どくん、どくん
(落ち着くんだ、俺の心臓……!)
耳元まで聞こえてくる自分の心臓の音がとても耳障りで、思わず歯ぎしりをする。
研ぎ澄ませた聴覚をさえぎるように早鐘を打ち続けているこの胸の音が、邪魔で邪魔で仕方がない。
けれど、決して聞き逃してはならない。チャンスはたった一度しかないのだ。
これで失敗すれば、メアが死んでしまうのだから。
(頼む。頼む頼む頼む……!どうか、)
――どうか、うまく行きますように。
心の中で何度目かになる叫びを繰り返していた時、ついにチャンスが来た。尖った自分の耳が、待ち焦がれていた音を聞きつけてピクリと動く。
人々のにぎわう喧騒の音の中、微かに聞き取れる程度のとても小さな音――けれど、決して聞き逃さない。
扉が開き、中から出てくる2つの足音に狙いを定め、頭の中でもう1人の自分が叫んだ。
――今だ!!
カッと眼を見開き、獣のように巨体を低くしたまま前のめりになって一気に駈け出す。壊れかけた靴からはみ出した自分の鋭利な爪が白い石畳を削ってギャリギャリと耳障りな音を出すが、今はもう目の前の獲物しか見えない。
俺に気が付いた周りの人間の顔が驚きに見開かれ、大きく開けた口から耳を劈くような悲鳴が次々と起こる。構わず一直線に猛進するさなか、目標の人物が悲鳴に気が付きこちらを振り返る。
――その女が大事そうに抱えている白い紙袋が視界に入った刹那、気がつけば奪っていた。
「あっ……!」
一拍遅れて奪われたと認識した女は一瞬で青い顔になり、無我夢中で逃げる俺に向かって何かを叫んでいる。単語しか耳に入ってこなかったが、「物取り」だと叫んでいるようだ。
けれど、強奪に成功した俺の頭には自分の歓喜の叫びしか響いていなかった。
(やった……やった!!これで助かる!これで生きられる!!)
……そう。成功した事に喜び過ぎて、気が付かなかった。
自分を追いかけてきている、一人の人間の存在に。
たんっ
(……!なんの音――)
耳が、何かを蹴るような音を拾った刹那、急に頭上が暗くなった。背筋に冷たいものが走る。
ヤバい、と本能が叫ぶ中、音のした上方へ肩越しに振り向き。
「なっ……!うそ――」
太陽を背にまっすぐ足を突き出して突っ込んでくる少女の姿を視界に入れた瞬間、肩口に強い衝撃を受けて意識がブラックアウトした。
**
「いやぁ~、助かりました!どうもありがとうございます!」
カモメの鳴き声とさざ波の音が絶えず聞こえる港町、アクリエ港。活気あふれる港町の一角にある自警団の詰所にて、自警団の制服を着用しているにこやかな笑みを浮かべた青年が頭を下げた。
「貴女のおかげで盗まれた薬も戻ってきて、被害者の女性も安心できて、いやぁホントによかったよかった!もしよろしければお名前を伺っても?」
にこにこと笑みを絶やさない青年に、少しだけ照れくさそうに頬を染めた少女が答える。
「――アズ、と言います」
「アズさん!素敵なお名前ですね!今度よければぜひ一緒にご飯にでも――」
「はいは~いお兄さんちょっとスト~ップ。今勤務中じゃねえの?仕事とプライベートは分けてくれねえと困るなあ」
ぐぐ~っと青年の顔を押しのけて割り込んできたのはジークだ。顔は笑っているが目が笑っていない。なんだか積極的な青年はジークに任せる事にして、アズは近づいてきた白髪混じりの初老の男性に顔を向けた。
「いや、すまんね。こいつ、若い娘となると見境なくてね」
「そりゃ聞き捨てならねえな。最低だ」
「ジークが言っても説得力ゼロだね」
アズが笑ってそう言うと、膝を抱えて壁際に座り込むジーク。とりあえず話が進まないのでそのまま放って置くことにした。
「しかしすごいねお嬢ちゃん。まさか屋根伝いで追いかけてあんな大きな獣人を蹴り倒しちゃうなんて、さすがに真似できない芸当だよ。私は感動しちゃったね」
「あはは……」
純粋に褒められて嬉しいような、恥ずかしいような複雑な気持ちで、アズはごまかすように苦笑する。
ルディアナ城での一件から1ヶ月。半壊してしまった城の修復のため、セピア・ガーデンとルディアナを行き来する日々が続いていたが、怪我をしていた城の兵士たちが回復し、他の地方や大陸からの援助もあり、アズたちが出払うことも少なくなった。
最近になって初めて知ったことだが、どうやらセピア・ガーデンは仕事を請け負うことで報酬を貰うギルドという組織だったらしい。そんな説明はされなかったし、ギルドと言う言葉を聞いても、酒場やら厳めしい顔をした人々の集う荒くれ者の巣窟というイメージしか沸いてこない。のほほんとした人間ばかりの空飛ぶ空中庭園がギルドなど、日本から来たただの女子高生のアズが思えるわけがなかった。
そういうわけで、ルディアナに通っている間に溜まってしまった任務を処理するため、クリスタルマスターたちは休む事なく片っ端から受注任務をこなしていた。たとえシャドウが関係していなくても、ガーデンには日々難易度の高い依頼がたくさん寄せられるのだ。クリスタルマスターたちだけでは処理しきれないということもあってか、ゼノとアリスの方で団員の増員を考えているようだった。
今回ジークと共にアクリエ港に来ていたのも、依頼された“海賊から貨物船を死守する”という任務を終わらせ、最寄の港まで送り届けてもらったため。これからガーデンに帰還するというところで女性の悲鳴を聞きつけ、今回の窃盗事件に関わってしまったのだった。
「それより、その獣人の人は大丈夫ですか?結構強く蹴りが入っちゃって心配だったんですけど……」
「ああ、へーきへーき。なにせ狼の獣人はみんな体が丈夫だからね。今は隣の部屋で尋問中だよ。まあ、何を聞いても一言もしゃべらんけどね」
まったく良い度胸だよ、と苦笑交じりに笑う男性の視線の先に、鉄格子のある大きな窓が見えた。傍によって中を覗き見てみると、険しい顔をした男性とにらみ合っている大きな獣人の姿があった。
「……あ、珍しいの」
耳元で囁くような小さな声。アズは他の人たちに怪しまれないよう、そのままの姿勢で小さく聞き返した。
「何が?リリム」
「あの子、スティンガーウルフの獣人なの。とっても力持ちでタフなのよ」
「へえ……」
魔法を使って姿を隠している妖精、リリムの言葉にそう返し、アズはじっくりと獣人を見やった。
見た目は絵本なんかに出てくる狼男そのものだ。
深いこげ茶色の体毛に身を包み、頭には紺色のボロボロになったバンダナを巻いている。上半身は何も身に着けてはおらず、下には薄汚れたワークパンツを着用していた。けれど人間用のものらしく、かなりサイズが合っていないように見える。というか、彼が大きすぎるだけかもしれない。大の大人2人分の幅はあるだろうか、対峙している男性が子供のように見えてくる。
金色に輝く瞳に強い意志のようなものを湛えて、ただ黙って睨み合っていた。
「――え!?じゃあ、あなたたちがセピア・ガーデンのクリスタルマスターなんですか!?」
大きな声に振り返ると、ジークと話していたらしい青年が目を白黒させながらアズとジークを交互に見ていた。
「じゃあ、アクリエとユノールの近海で暴れていた海賊を退治してくれたのって、もしかしてお二人なんですか?」
「そうそう。ついさっき仕事が終わってさ。これからガーデンに帰るとこ」
「すごいなぁ、カッコいいなぁ!俺よりも若いのに本当にすごいです。クリスタルマスターって危険な仕事が多いんですよね?怖くないんですか?」
「そんなんで仕事選んでたら終わらねえし、俺たちにしかできない事ならやるしかないだろ?」
「本物のプロですね……ホント尊敬しちゃいます」
和気藹々と話し込む2人をそのままに、アズは初老の男性に向き直った。
「彼が盗んだものって薬、なんですよね?」
「ああ、そうだよ。それもとびっきり高価なやつさ。なんでも、北大陸寄りの地方で流行ってる、高熱が1週間続いてそのまま衰弱死するっていう病気に効く特効薬らしいよ。被害に合った女性もようやく手に入れた矢先に盗まれそうになったもんだから、君には本当に感謝していたよ」
「よかったです」
にこりと笑うも、どうにも引っかかってしまい、すぐに笑みが消える。それを見た男性が「気になる?」と獣人の方に視線を送った。
「はい。……もし、もしあの人にも、その薬を必要としている人がいるとしたら――って、思っちゃって」
「……君は優しいんだね。まるで疑うことを知らないようだ」
意味ありげな言葉に顔を上げると、男性は優しげな笑みを浮かべ、アズの頭をポンポンと撫でた。
「悪いことではないよ。君の言うように、彼にもあの薬は必要なものだったのかもしれない。でも、本当に彼にとって必要なのかな?もしかしたら、倍の値段で盗んだ薬を他人に売りつけるかもしれないよ?」
「……あ」
「我々はまず疑わなければならない。たとえどんな理由があろうと犯罪は犯罪。理由が真っ当なら人を殺していい、なんて言えないからね」
「(犯罪は犯罪……か)」
つい自分の感情が先走ってしまったことに後悔を覚え、アズは目を伏せた。
「でも、君の思うように何か理由があるなら話してくれるかもしれないね。……聞いてみるかい?」
「え!……いいんですか?」
「いいとも。我々が行っても進展なさそうだし、君が行けば案外答えてくれるかも」
私たちとしても助かるしね、と、男性はお茶目にウィンクしてみせた。
**
目の前にいる男を睨み付けたまま、狼はひたすら考えていた。何を聞かれても答えるつもりはないし、それよりも体中に巻かれているこの鋼の鎖からどう逃げ出そうかと、早くここから出なければと、そればかりを考えていた。
「(……くそ、不覚だった)」
途中まではうまく行っていたはずだ。そう、薬を奪った所までは。
けれど逃げる間際、突然背後からの強烈な一撃により気を失い、気がつけば切れない鋼の鎖で縛り上げられた挙句、奪った薬までも取り上げられてしまった。
自分の失態に、思わず喉の奥から低い唸り声が上がる。
「なっ……なんだ、やる気か!?」
目をそらせば負け、という本能の元、目が覚めてからずっと睨み付けていた男がどもりながらさらに顔を険しくする。その後ろに控えていた2人も持っている剣を構えているが、目の前の男同様腰が引けている。正直怖くもなんともなかった。
「(厄介なのはこの鎖だ。人間も扉も体当たりでぶち破れるが、足だけじゃ速く走れねえ……)」
骨格は人に近いが、獣型の獣人であるため2足より4足の方が走る分には圧倒的に早い。鉄なら問題なく切れるものを……今度は舌打ちが漏れた。
「こっ……これ以上こちらの質問に答えなければ、監獄送りにするぞ!問答無用で、だぞ!」
「……」
これ以上考えていても仕方がない。鎖はどうにかするとして、とりえずここから出よう。
そう思って腰を浮かせかけた、その時だった。
――コンコン。
「尋問中すまんね。交代だ」
扉を開けて顔を出した白髪混じりの男が、中にいる仲間の顔を見回した。
「こ、交代?」
「ああ。お前たちは休みなさい」
その一言で男たちの顔に生気が戻り、足早に部屋を出ていく。
――チャンスだ。
逃げるなら今だ。
そう思って立ち上がった瞬間、開いた扉から入ってきた人物を視界にいれた途端、目元が引きつった。
どくん、と心臓が大きく脈打つ。
「こんにちは」
扉が閉まった事を確認すると、入ってきた人物――黒髪の少女が、にこりと笑って近づいてきた。
「さっきはごめんなさい。体の方は大丈夫?」
「……っ」
決定的な根拠はなかったが、その言葉を聞いて確信した。この少女が自分を気絶させた張本人なのだと。
「(こ……こんなに小せぇ体のどこに、俺をひっ倒すだけの力があるんだ?――それに)」
ごくり、と唾をのみ込み、小さな少女を恐る恐る見下ろした。
「(……とてつもねえ威圧感を感じるのは何故だ?)」
群れを成す獣たちは、自分よりも力の在るものをリーダーと認め、従う本能を持つ。
その血を色濃く受け継ぐ獣人である自分もまた、その本能に忠実であった。
そのせいだろうか。獣人である自分を(物理的に)倒した少女に言いようのない力の差を感じとり、心が委縮してしまっている。
「……えっと。もしかして、まだ体が痛むのかな?」
「はっ――」
いつの間にか俯いていた自分の視界の中に少女の不安そうな顔が現れ、我に返って後ずさりした。
「……」
「…………」
しばらく沈黙が続き、先ほどの問いかけに対して返事を待っているのか、とようやく気づき、
「だ……大丈夫、だ」
なんとかそれだけ絞り出すと、少女は「よかったぁ」とホッと胸を撫で下ろした。
「手応え的には骨の1本は折っちゃったかなって思ったけど、なんともなくてよかった!スティンガーウルフって本当に頑丈だね」
「! な、なんで俺がスティンガーウルフの獣人だってわかったんだ?」
狼の獣人は外観的に種族の判別が難しく、体躯や毛色のわずかな違いでしか見分けることが出来ない。同じ狼であれば匂いで判別できるのだが、人間は狼よりも鼻が利かないはず。一体どうやって見破ったのか勢い込んで聞くと、
「リリムが教えてくれたんだよ」
と、少女は自分の左肩を指差してにっこりと笑った。
「……? ――よ、妖精っ!?」
「はーい。リリムなの~」
そこにはいつからいたのか、桃色の光を纏った小さな妖精がにこにこと笑って手を振っていた。あまりの衝撃に思わず目を瞬く。
「な、なんで妖精が人と一緒に居るんだ?……あんた、一体何者……?」
「あたしはアズ。セピア・ガーデンでクリスタルマスターやってます。よろしくね、……えっと」
黒髪の少女――アズはそこで首をかしげてこちらを見上げる。
彼女の言わんとしていることがわかり、狼はボリボリと後頭部を掻いた後、
「……ガウディ」
観念したように、自らの名を口した。