■ シーン1
とっぷりと日も暮れた駅前の雑踏で、相沢時枝は立ちすくんでいた。
雑音の中、途切れ途切れに聞こえてくる歌声に心を奪われたまま
その場を立ち去ることが出来なかった。
誰が歌っているのか、聞きなれないその声は心の奥深くに沁みこみ激しく彼女を揺さぶった。
どこからか聞こえてくるその声に導かれ、声のする方向へやがて相沢時枝は足を進めてみた。
道行く人の波の中、うすぼんやりとだが明るい光に包まれた空間が見える。
何故その空間だけが明るく見えたのか時枝には説明がつかなかったが、近くまで近寄ると
駅の入り口横の植え込みに陣取った若者が一人歌い続けている姿が見えた。
ひょろりと長身で細い身体つきの若者は長袖のTシャツの袖をたくし上げ
時折、滲み出る汗を拭きながら歌う。
印象的な切れ長の瞳は、どこか一点を見据えているかのように挑戦的だった。
行きかう人の流れの中で決して上手くはないギターを弾きながら歌う若者に
立ち止まって聴き入る者は少ない。
都会では珍しくもない風景なのだが、時枝は少し離れた場所から若者の声に聴き入っていた。
誰の歌なのか彼女にはまったく見当がつかなかったが、
全身から絞り出すような歌声は、時枝の心を捉えて放さなかった。
穏やかでやさしい陽だまりを想像させるようなバラード、韻を踏んだ歌詞が軽快なラップ、
わざと声を潰し気味にシャウトするリズム&ブルース。
たった一本のギターで歌い上げていく若者の声をずっと聴き続けていたいと時枝は思った。
若者の足元に置かれたギターケースには時折、僅かばかりの小銭が投げ入れられ
その度に「ありがとう」と言う若者のイントネーションを聞いて時枝はこの若者が
どうやら関西出身の人間であるらしいことを悟った。
何曲か歌い終わった頃、若者に一人の少女が親しげに話しかけ、暫くすると二人の笑い声が聞こえた。
人波の流れを挟んで、対岸にいる若者と少女の姿はよく見かける仲のいいカップルのようにも見え
時枝は軽い苛立ちを感じた。
と同時に誰かに置き去りにされたような寂しさに襲われる。
「私はここにいるのよ・・・・」
そう言いたい衝動に駆られたが、ふと我に返って、何を馬鹿なことをと時枝は自嘲した。
たまたま出逢った通りすがりの若者に、こんな気持ちを抱くなんてどうかしてる。
きっと疲れているんだと自分を納得させるしかなかった。
若者と少女はまだ会話を続けている。時々、少女が甘えたような仕草で若者に相槌を打っている。
再び歌いはじめる気配がなかったので、時枝はその場を立ち去ることにした。
しかし時枝の耳に残った若者の歌声はいつまでもいつまでも鳴り響き
時枝は彼の歌声と共に家路に着いた。