■ シーン18
リリコが言った“デート”という言葉に過剰な期待を抱いたわけではなかったが
今の卓也には何かしら割り切れないような、もやもやとした気持ちと
思ってもいなかった幸運が何の前触れもなしに
突然、向こうからやってきたような驚きの気持ちが入り混じった
実に複雑な心境がせめぎ合っていた。
そのせいか卓也の表情は微妙で、店内を照らし出す
柔らかな間接照明に彩られた卓也の顔は、
一見すると不機嫌な顔つきにも見えた。
「あらやだ。タッくんたら、イタリア料理は好きじゃなかった?」
そんな卓也の表情を読み取り気を利かせたリリコが声をかけると、
我に返った卓也は頭を振り
「いえ! こんなおしゃれなところには縁がなかったもんで舞い上がっちゃって」
苦笑いで小刻みに会釈をしテーブルに着いた全員に視線を配った。
卓也のその姿を眺め、小さく「かわいい」と笑いを漏らしたのは
長いまつ毛に縁どられた、ぱっちりした目を細め、
栗色の髪の毛を肩先で揺らしている美憂だった。
「あ~、もう。この肉食系女子はまたぁ~!」
大袈裟に手を挙げてリリコがからかうと美憂は、いたずらな目つきで
「あら、肉食系のどこがいけないの?」と軽口を言う。
リリコと美憂のやり取りを微笑んで眺めているのは時枝と橋本だった。
卓也のもやもやと幸運は、まさにこのテーブルにあったのだ。
最初、デートと言われて卓也はてっきり時枝と二人きりか、
最低でもリリコとの三人での食事かと思っていた。
だが、待ち合わせ場所のイタリアンレストランに着いてみると、
橋本や美憂が時枝と共に待っていた。
橋本の顔は何となく見覚えがあるような気がした卓也だったが、
彼が何者であるのかはリリコから聞きそびれて以来
そのまま存在すら忘れてしまっていた。
しかし、時枝の隣に座り軽く腕組みしながら笑う仕草で、
先日の時枝の誕生パーティでずっと時枝と話していた男だと、
ようやく卓也は思い出した。
その一方で、美憂に関してはまったく何も覚えていない卓也は内心焦っていた。
美憂はイタリア人の父親を持つハーフで、関東では名の知れた
ソウルシンガーとして主にクラブで活動していた。
二年ほど前にインディーズレーベルから出した美憂のミニアルバムは、
じわじわと売り上げを伸ばしヒットチャートを賑わして
“美貌のソウルシンガー”とマスコミにも取り上げられた。
アマチュアとは言え、卓也にもそれくらいは美憂に対しての知識はあった。
おそらくは、やはり時枝の誕生パーティで出会ったのであろうが、
それ以上の事は思い当たらない卓也は、何故この場に美優がいるのか
不思議でならなかった。
当の美憂は時枝の誕生日パーティで歌った卓也に興味を持ち、
一度ゆっくりと音楽の話をしてみたいとリリコに頼んでいたのだった。
先日のパーティで逢ってはいるのだろうが、ほとんど面識もなく
美優と言葉を交わした記憶すらない事を、食事をしながら正直に
卓也がポツリと告白すると、美憂は小鳥が鳴くようにクククと声を漏らした。
「卓也、これこれ」
まつ毛に指をあて美憂がウィンクすると、卓也とリリコが美憂を指さし
「あーーーーーっ!!」と声をあげた。
「あの赤いマスカラは美憂の仕業だったのぉ!?」
呆れたようにリリコがため息をついて
「でも、あんたならやりかねないわね」と笑った。
「いやもう、あの次の朝は参ったっすよ」
真っ赤な顔で卓也が頭を掻くと、美憂は肩をすくめて
「あ、私のせいにしてぇー! あれは卓也がやってみたいって言ったんだもん」
口を尖らせた。
「え、うそぉ?」
切れ長の目を、いっぱいに見開いて卓也が驚くと美憂は
「あの時卓也ったら、かなり酔っぱらってて私の化粧ポーチをぶちまけたでしょ。
一緒にコスメを拾ってたら赤いマスカラが出てきて……」
「タッくんが、やってみたいって言ったんだ?」
妙に色っぽい流し目でリリコが卓也に視線を注ぐ。
「えっ、えええ~……、マジっすか?」
「そ! マジ」
きっぱりと頷く美憂だった。
相変わらず三人の会話を笑顔で聞いていた時枝と橋本に、
時折視線をやりながら卓也はまだ、どこからか湧き上がってくる
もやもやした気持ちを持て余していた。
しかしリリコと美憂に代わる代わる話しかけられ、
料理を平らげながらそれに応える卓也に
もやもやとした気持ちの正体を解く余裕などなかった。
やがてテーブルに運ばれた料理もほとんど片付き、
食後のデザートが運ばれてくる頃、見計らったように
「それじゃ私はそろそろ…。みんな、後はごゆっくり……」
そう言いかけて立ち上がろうとした時枝の体がふらつくと、
隣に座っていた橋本がとっさに時枝の体を支える。
「トキ姉さん! 大丈夫?」
リリコが気遣うと、美憂も「顔色悪いよ、時枝さん」と心配そうに立ち上がる。
「時枝さん、俺も一緒に帰るから!」
そう言って立ち上がった卓也に時枝は
「大丈夫、大丈夫だから。卓也君はゆっくりして来て」と笑顔を見せた。
「だけど……」
「トキちゃんは僕が送って行くから心配しないで」
橋本が卓也に頷いて見せると、リリコも
「橋本さんが一緒なら安心だわ」卓也の顔を覗き込んだ。
さらに割り切れない気持ちが湧き上がる卓也だったが、
それ以上は何も言えなかった。
時枝に肩を貸し、寄り添って店を出ていく橋本の後姿を眺めながら
置いてけぼりの子供のような表情の卓也に美憂はいたずらっぽく
「卓也、時枝さんが帰っちゃって寂しい?」
と尋ねた。
卓也は途端に顔を赤くして
「え、さ、寂しいとかじゃなくて、心配だから!」
慌てて否定したものの、やはりどこかに寂しさを感じていたのだった。
リリコは、わざとからかうように
「もう、この子ったら。トキ姉さんはあんたのママじゃないんだからね。
そんな迷子みたいな顔してさ」
卓也の額を人差し指でピンと弾いてみせた。
「イテッ!」
額をこすりながら眉間にしわを寄せる卓也に、
美憂はまた「かわいい」と笑う。
「ねえ、卓也。私、卓也のことがすごく気に入っちゃった!
今度、私のスタジオに遊びに来ない?」
甘えた目つきで美憂が誘うと、リリコが
「タッくん、気をつけるのよ! 美憂に喰われちゃわないようにね」
卓也に耳打ちをすると美憂は
「ひっどーーい! リリコちゃん」
げんこつをリリコに振るアクションをしてケラケラと笑った。
それにつられて笑ってはみたものの、卓也の心の奥にくすぶった
もやもやとした感情は一向に晴れることはなかった。