■ シーン16
卓也がアルバイトに行くようになってから一週間が過ぎようとしていた。
最初、力仕事も覚悟していたようだったが
リリコに連れられて行った仕事場から帰って来るなり
「リリコさんて社長やったんですね!」
卓也は興奮気味に時枝に言った。
もちろんリリコと付き合いの長い時枝にとっては、
知っていて当たり前のことなのだが
小さな子供が、今日一日の出来事を得意気に母親に報告するかのように
仕事場の様子やリリコの仕事ぶりを事細かく報告する卓也を
時枝は微笑ましく思った。
リリコの仕事はインターネットを中心としたアクセサリー販売が主で
そのデザインはリリコ本人が請け負っていた。
独特のセンスが受け、そこそこの売り上げもあるのだが
最近になって学生街にも小さな店舗を構えていた。
一方的に発信するだけでなく、若い女の子の感性を直に感じ取り
いずれは自分のデザインとコラボレートしたアクセサリーを作りたいと言う
思いから展開した、いわばリリコにとっては実験的な店舗だった。
『ぴゅあはーと』と名付けられたその店には
アクセサリーの他に、リーズナブルな鞄や小物類も扱われていて
少しずつ学生客が集まり始めていた。
長身で凛々しい顔立ちの卓也は、そこのアルバイト店員として雇われたのだ。
ちょっとしたイケメン店員がいれば、もっと多くの女の子達が
集まりやすいだろうというリリコの戦略は見事にはまり
卓也目当ての女の子たちが少しずつ『ぴゅあはーと』に
集まって来るようになった。
もっとも当の卓也は意外と無頓着で、淡々と日々の仕事をこなしているようだ。
卓也の音楽活動のことも考慮されてアルバイトとしての拘束時間は
朝10時から5時間と決められていた。
毎朝、決まった時間に仕事に出かけて行く卓也を見送り、
仕事のない時は小説の執筆に取り掛かる時枝だが
この数日間と言うもの苦しんでいた。
最初の言葉が降りてこないのだ。
どんなストーリーにもあらすじはあるが、文章の切り口によって
たとえ結末は同じでも、まったく違った印象の物語になる。
時枝は初めての小説のモデルを卓也と決めた時点で、
卓也がプロミュージシャンとして成長していく様を描く
ある種のサクセスストーリーにしようと考えていた。
しかし、何度書いても書き直しても、どれもがしっくりとこない。
書き出しのたった一行がこんなにも苦しいものだとは、
時枝もまだ経験していなかったことだった。
ライターの仕事も文章を書く仕事ではあるが、小説を書くのとはまた性質が違う。
小説は作家の言葉の表現力や感性が作品の魅力を大きく左右する。
せっかく卓也というモデルを得て、物語の構想も出来ているというのに
最初の一行にこれほど苦労するとは時枝にとっても計算外だった。
パソコンに向かうものの、納得する言葉が出てこず
時間だけがいたずらに過ぎていくことに
時枝は焦りを感じ始めていた。
このままでは小説が書き終わるまで、どれほどの時間を無駄にするか……
それまでに卓也との生活が続く確証もない。
何の成果もないままに、卓也と暮らしていくのはさすがに心苦しくもある。
どうすればいいのかしら……
真っ白いままのパソコンの画面を見つめ何本目かの煙草に火を点けながら、
一向に進まない執筆に時枝は苦々しくため息を吐き出した。
一人で苛々していても仕方ないことだとはわかっている。
煮詰まりすぎてはいけないことも知っている。
あまりにも一面にこだわりすぎて、物事の全体が
見えなくなることも有りがちなことだ。
言葉が出てこないのなら待つしかないのかもしれない。
いわゆる『言葉が降りてくる』というやつだ。
また視点を変えれば、いい言葉が見つかることもあるだろう。
時枝は、ようやく自分自身を納得させると気晴らしに出掛けようと思い立つ。
時計に目をやると、昼の1時をまわったところだった。
「卓也くんはまだバイトしてるわね……」
一言つぶやくと、時枝の行き先は決まった。
濃紺のパンツスーツに着替え、軽く化粧を施し踵の低いヒールを履くと
時枝はふと、
「その姿って、時枝さんの戦闘服みたいや」
と言った卓也の言葉を思い出した。
「でも俺は戦闘服の時枝さん、カッコイイと思うし好きですよ」
衒いもなく言った卓也の瞳を思い浮かべ、自然と笑顔になる時枝は
「さて、行きますか」
独り言を呟くと、少しずつ秋の気配が濃くなりだした街に繰り出した。