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■ シーン12

二人で暮らすことになってから時枝と卓也の間にはいくつかのルールが作られた。



・ 挨拶は必ずする。


・ プライバシーの侵害はしない。


・ 自分の下着は自分で洗う。


・ 風呂は最後に入った者が洗う。


・ 何か意見の食い違いがあった時は納得するまで話し合う。


・ 嘘はつかない。


・ お互いが家に居る時は、必ず一緒に食事する。



まるで生真面目な新婚夫婦か、小さな子供と暮らすようなルールだったが、

卓也には新鮮に感じる。

自分が育ってきた家庭とは何と違うのだろうと思った。

時枝にしてみても、このルールは苦肉の策だった。

今にして思えば、まったくの見ず知らずの女の

こじつけとも言える無茶苦茶な提案を

卓也もよく受け入れてくれたものだと時枝は感謝していた。


しかし、両親が亡くなってから10年以上も気ままな一人暮らしだったのだ。

どこかでルールを作っておかないと、今までまったく違う環境で生きてきた

二人の暮らしは、いつか破綻することになるかもしれないと恐れていた。

それだけは時枝にとって絶対に避けたい事態なのだ。

出来るならば少しでも長く一緒にいて、

自分の小説を完成させるまでに漕ぎ着けたい。

このささやかな望みを叶えるためなら、考えつく限りの

努力も忍耐も惜しまない覚悟もしてる。

だが小説は建前で、本音はただ卓也と暮らしてみたいだけなのかもしれないと

時枝は自分の心理を分析した。


一方、卓也の方は毎日をまるで生き急いでいるかのように

忙しく動き回る時枝を今までお目にかかったことのない類の女性だなとつくづく思っていた。

普段、家に居る時はきちんとした格好はしているものの

化粧っ気もなく、肩まで伸ばした髪の毛はただヘアーゴムで結んでいるだけ。

体つきも痩せぎすでそれを誤魔化すかのように

ダボダボのシャツを好んで着て、年上の女の色気など微塵も感じさせない。

だがひとたび仕事が入ると、薄化粧をして

髪の毛をアップスタイルに結い上げてパンツスーツに身を包む。

元々、目鼻立ちの整っている時枝は薄化粧でも充分化粧映えした。

踵の低いヒールを履いて出かけて行く様は、

綺麗というよりもカッコイイという形容詞がぴったりだ。

取材に出掛けると深夜まで帰らない日もあったが、

それでも卓也の食事だけはちゃんと用意されてあった。

食卓に残されたメモ書きには必ず、冷蔵庫に何が入っているか。

何を食べるか、レンジで温めるかどうかが

几帳面にも書いてある。

苦笑しながらも、卓也は手書きのメモから伝わるやさしさを感じた。

京都の実家では味わえなかった“家庭の温もり”のようなものを、

時枝との暮らしの中に感じ始めていた。

実家でも一人の食事はよくあることだったが、こんなメモ書きどころか

笑い声に満ちた家族の食卓など、卓也の記憶にはない。

それは幼い頃からだったのかどうかは、卓也にもわからないが

ただ気がついた頃には、もう家族が一緒のテーブルについても、

会話すらない食事風景だった。

皆、黙々と目の前の料理を食べ、食べ終わるとそれぞれがテーブルから離れていく。

それが以前の卓也の日常的な食事風景だった。

今は夕食は一人でも、朝食は大抵時枝と二人で食べることが多い。

時枝は口数は少ないものの、無口というわけではなく

ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。

卓也も相槌を打ったり今どんな曲を作り始めているかを話した。

もっぱら時枝は聞き役の方が多く、ほとんどは卓也が喋っていた。

前日見たテレビの話や出掛けた先での出来事や音楽の話が多かったが、

どんな話でも時枝は笑顔で聞いてくれる。

二人で話しながら食べる朝食は楽しく、食事の時間が楽しいものだと

卓也は初めて知った気がした。

やがて食べ終わると卓也は率先して洗い物をするようになり

「そんなことしなくていいのよ」

時枝は言ったが、卓也は

「これくらいはさせてもらわんと」

と返した。

卓也からすれば住む場所を与えてくれた時枝に、今の自分に出来る

せめてもの感謝のつもりなのだ。

時枝は黙って卓也の隣に立ち、洗いあがった食器を

クロスで拭いていくのが二人の日常となりつつあった。


「なあ、時枝さん」

「なに?」

「俺、バイトしようかと思うんやけど」

「何か欲しい物でもあるの」

流し台に向かいながら、二人は前を向いたまま話し続けた。

「いや、そうやなくて。俺、プロミュージシャン目指して頑張るつもりやけど。

それまでプーってわけにはいかへんし。

家賃は払えんでも食費くらいは出したいなと思って」

思わぬ卓也の言葉に時枝は

「そんなこと思ってたの!」

と顔を覗き込んだ。

一緒に暮らし始めて、ほんの数日しか経っていないのに

卓也が急に成長したような気がしてそれが時枝には嬉しい。

自然とほころぶ自分の顔に気づきながら、卓也には

「卓也君にも欲しいものはあるでしょう。

だから食費はいいのよ、気にしなくて」

と首を振った。

「いや! もう俺、せめて食費くらいは稼ぐって決めたんで」

頑固に言い放つ卓也に時枝は

「わかった。だけど無理はしないでね?」

とだけ答える。

「うっす!」

皿を洗いながら大きく頷き、力をこめて返事する卓也に

言葉にならない愛おしさにも似た温かな感情がこみあげて、

時枝は笑顔のまま無言で頷いていた。



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