■ シーン11
小鳥の鳴き声とかすかなコーヒーの香りが、卓也を夢から揺り起こす。
「う…ん」
布団の中で身体を伸ばしながら、ゆるやかに目覚めることの心地良さ。
その感触を楽しみながらも、だんだんと意識はハッキリしてくる。
ああ、久しぶりに布団で眠る時間は天国だ……
まどろみの中そう思った途端、卓也はまるでバネが跳ね返るように飛び起きた。
バタバタと布団から這い出すとジーンズをはき、
鞄から白いシャツを取り出して羽織ると髪の毛に手をやった。
ひどい寝癖はついていないことを手のひらで確認し、
手櫛で簡単に髪を梳かすと部屋を出てキッチンに向う。
キッチンでは時枝がコーヒーをカップに注いでいるところだった。
ハムエッグにトースト、レタスとトマトときゅうりの入ったサラダが
二人分ダイニングのテーブルに並べられ
それは卓也の来るのを待っているかのように見えた。
「お、おはようございます」
卓也の声に振り向き、
「あら、もう起きたの? そろそろ起そうかと思ってたんだけど」
時枝がコーヒーをテーブルに置きながら言う。
「丁度良かったわ。じゃあ、ご飯食べよ?」
促がされるままにテーブルにつき、卓也は不思議な思いにとらわれていた。
昨日、知り合ったばかりの年上の女の部屋で今こうして朝を迎え
二人で朝の食卓を挟んでいるのが、現実ではないように思えた。
時枝が昨日、この部屋に住まないかと言った言葉も
まだ卓也には信じられない。
あれから突然、時枝が頭痛を訴えて倒れ、卓也は帰るに帰れずにいた。
帰るとは言っても、どこにも行くあてなどはなかったが
とにかく「ここから逃げなければ!」という気持ちが湧き上がった。
時枝に対しての不信感や、また騙されるのではないかという
底知れない恐怖が卓也を支配したいた。
しかし目の前で倒れた時枝の顔色はひどく悪く、
このまま出て行くのも気が引けた。
気分の悪そうな時枝に肩を貸し、ベッドまで運んでやると
時枝は申し訳なさそうに
「ごめんね、びっくりしたでしょう。少し休んだら良くなるから、
それまで気にしないでのんびり過ごしていて」
と弱々しい声で呟くように言った。
気にするなと言われても、平気でいられるほど卓也も無神経ではない。
だからと言って看病してやるほどの知識もない卓也は困惑した。
思いつく看病と言えば、額に冷たいタオルを乗せてやるくらいがせいぜいで
あとはただじっと時枝の様子を眺めているのが精一杯だった。
時枝が回復したのは、もうとっぷりと日も暮れた頃で
顔色は少し良くなり足取りもしっかりしていたが、
まだどことなく危なっかしい雰囲気が漂っていた。
帰るタイミングを図っていた卓也に先回りするように時枝は、もう一度
「あの話、考えてくれた? 一緒に住んでほしいって言ったこと。
貴方には迷惑なのかもしれないけれど、私にはとても意味のあることなの・・・・」
と言った。
当の卓也はまだ決断しかねていた。
と言うよりも時枝が倒れたのを目の当たりにして
とてもそんなことなど考える余裕もなかった。
大体まったくの他人同士で知り合ったばかりだと言うのに、
一緒に住むなんておかしいじゃないか。
いくら年が離れていたって、仮にも男と女が
恋愛感情もないのに同じ部屋に住むだなんて……
シェアリングと言うのにしてもあまりにも二人の年齢や環境は違いすぎる。
俺はともかくとして、一緒に住んでこの人に
一体何のメリットがあるというのだろう?
そんな卓也の気持ちを察してか、時枝は
「今夜一晩だけでも家に泊まって、ゆっくり考えてみて」
と最終的に卓也の判断に任せた。
しかし大して考える間もなく、すっかり疲れ、睡魔に襲われた卓也は
朝を迎えてから自己嫌悪に陥っていたのである。
いくら疲れていたとしても少しくらい考えれば良かったのに、
昨夜は好意に甘えてしまったけれど、やはり泊まるべきじゃなかった。
何も考えてない上に、今、さらに好意に甘えて
朝飯までご馳走になっている自分自身が情けなかった。
一晩泊めてくれた時枝さんに何も返せないのは悪いけれど
朝飯が済んだら、ここを出て行こう……
そう卓也が思いをめぐらせながら、パンに手を伸ばそうとした瞬間
「怖い顔してる」
と時枝が笑って言う。
「え?」
目を上げる卓也に
「昨日私が言った事、まだ悩んでる?」
と時枝は聞いた。
「悩むっていうか、そりゃ考えますよ。だってやっぱ有り得へんていうか」
「昨日も言ったけれど、貴方を騙そうなんて思ってないし、
一緒に住むことは私にとっては
とても意味のあることなの」
「それは聞きましたけれど、でもその意味は教えてくれへんかったやないですか」
少しふくれたような卓也の顔を見つめ、時枝は笑いをこらえたような表情になる。
「な、何か俺おかしいこと言いました?」
「ううん、そんなことない。そっか、そうだよね」
また時枝の顔が笑いをこらえた表情になる。
内心、時枝はおかしくてたまらなかった。
もうすぐ22歳になると言っていた卓也のふくれっ面は、
とても子供じみていて「成人した男」とは言い難かった。
年齢や体格とは釣りあいの取れない表情のアンバランスさを可愛いとも感じた。
どうやら卓也は思ったことはすぐに表情に出る性質らしい。
今にも笑い出しそうな時枝を見つめ返し、卓也は不安そうな表情を隠せないでいた。
「あの・・・・、時枝さん?」
「ああ、ごめん。昨日は私の説明不足だったわよね」
そう言うと時枝は、真面目な顔になり正直に卓也に話す事にした。
自分の職業がフリーライターであること。
駅前で初めて卓也の声を聴いた時から、卓也の声に惹かれたこと。
いずれは小説を書くつもりでいること。
その小説で卓也をモデルにした人物を書きたいこと。
一緒に暮らすことはモデルの人物像を知る事になり、
それは小説の完成に大きく関わりがあること。
今時枝が考えていること全部を卓也に話してみた。
時枝の話を聞き終えると、卓也の顔は幾分か晴れやかになった。
「本当に、俺なんかがモデルでええんですか?」
「何言ってるの。卓也君だから書きたいのよ。これからの貴方を」
その言葉に、卓也の顔は満面の笑みになった。
「なんやそういうこと言われるとうれしいっすね。
でも俺、甘えちゃっていいんすかね……」
「その代り卓也くんは必ずプロミュージシャンになること。
貴方が成長していく過程を書きたいんだからね。これが私の条件よ」
神妙な顔つきで、こくりと頷きながら
「あ、でも」
一転して目を曇らせ、卓也が口ごもる。
「でも?」
「俺、一応男だし。その近所の評判とか……。
それに…、俺が変な気を起さないとも限らないし……」
そこまで卓也が言うと、ついに時枝は声をあげて笑い出した。
「あははは。卓也君たら、すごい心配するのね?
大丈夫大丈夫! ここはそんな気なんて起こらないくらいの家だから」
卓也の杞憂は十日もしないうちに時枝の言葉通り、
跡形もなく吹き飛ぶこととなった。