■ シーン9
「え・・・・?」
その言葉を最初聞いた時、卓也はこれは聞き違いなのか、
あるいは冗談なんだろうかと思った。
しかし、再び繰り返された篠崎の言葉に打ちのめされる。
「いや、だからね。たしかに君は才能がある。
だからこそ僕は君に声をかけた。
ただね、君をすぐにデビューさせるというわけにはいかないんだ」
待ち合わせた喫茶店のソファに座り、組んだ足を神経質に揺らしながら篠崎が続ける。
「まず、君には僕の懇意にしている音楽事務所に登録してもらう。
その登録料として10万円。それからデビューに向けて
レッスンも受けてもらわなきゃいけないし、もちろんボイストレーニングもね。
ああ、新しい曲作りもしてもらうよ。
そのために東京へ来てもらったんだからね。
しかし、すべてがこちらの無料奉仕だとは君も思ってないだろう?」
「それは・・・・」
言いかけた卓也の言葉を遮って、篠崎が畳み掛けるように言う。
「レッスンはプロになるためには必要だよ。それはわかるね」
無言のまま、こくんと小さく頷く卓也。
「今は大きな出費と思うかも知れないけど、いずれはその何倍にもなって還ってくるんだ」
篠崎の言葉を聞きながら、卓也はどこかしら割り切れない気持ちでいた。
自分の才能を認められて篠崎に東京に誘われたという自信が揺らぎ始めていた。
今の俺のままじゃ駄目だと言うことなのか。
固く握り締めた拳を膝の上で握り返して、卓也は悔しさに近い気持ちを噛み締めた。
卓也とて、京都から出てきたばかりの自分が
いきなりデビュー出来るとは思っていなかったし
プロデビューのためには、多少の出費も覚悟はしていたが
篠崎の提示したレッスン料は卓也が想像していたよりも高かった。
「とりあえず、50万円。レッスン料として預からさせてよ」
いずれは自分のCDを作るつもりで今までアルバイトでコツコツと貯金していたが、
やっとの思いで貯めた70万円という金額はあっという間になくなりそうだ。
事務所の登録料とレッスン料を払えば、残りはわずか10万円程度しか残らない。
たった10万円で、デビューまでの生活はどうなるだろうか……
不安げな卓也の気持ちを察してか、篠崎は
「高尾君には、僕が用意するアパートにしばらくは住んでもらうよ。
ただ、まだ契約してないから少しの間 安いビジネスホテルにでも泊まって待っててくれ」
と言葉をかけた。
「わかりました」
返事をしてから
「あの……」
と、言いかけた後に続く言葉を卓也は飲み込んだ。
「なに?」
「い、いいえ。何でもないです」
首を振りながら、卓也は自分の気持ちを打ち消していた。
俺、騙されていないですよね?
本当は篠崎にそう聞きたかった。
だが、その言葉を口から吐いた途端に悪い現実になりそうで怖かったのだ。
一度疑い出せば次から次へと疑いたくなる自分の性分を、卓也はよく知っていた。
しかし悪い方向へ物事を考えて、思ったよりも良い結果が出た試しは今までにない。
疑うよりも今はこの人を信じよう。
騙されたら騙された時に考えればいい。
卓也はそう考えて、口を噤んだのだった。
「じゃあ、物件が決まったら高尾君の携帯に連絡するから。
詳しいことは、あとでまた相談しよう」
近くの銀行で必要な金をおろし、篠崎に手渡すと篠崎は卓也にそう言い残し
そそくさと足早に去って行った。
さすがに60万円もの金を渡すのは勇気がいったが、
これも未来への投資と思えば安いものかもしれないと腹をくくった。
さて、残りの金で篠崎から連絡が入るまでどこで寝泊りするか。
安いビジネスホテルとは言っても、初めての東京で一体どこが安いのか
卓也にはさっぱり見当がつかない。
仮に泊まる所は見つかっても、何日も宿泊するようでは食うにも困る。
どうしたものかと考えてから卓也は、ふとネットカフェで寝泊りする若者たちを
テレビのニュースで見たことを思い出した。
あそこなら、3000円もかからず寝ることは出来る。
食べる物は贅沢言わなければ、コンビニのおにぎりで充分だ。
卓也は覚悟を決めて、インターネットカフェを探すため再び街を彷徨った。