エモパ
初投稿
朝、地下鉄の改札を通ると、
ゲート上のモニターが「平均幸福指数:71.2」と点滅した。
リナはそれを一瞥し、いつものようにスマートバンドをタップして出勤記録を送信する。
勤務中の感情データも、同時に会社へ自動転送される仕組みだ。
上司は数字を見て「今日は機嫌いいね」と笑う。
それが挨拶代わりになって、もう二年が経つ。
昼休み。
同僚の美咲が、弁当を食べながら端末を見せてきた。
「見て、私の今週のエモパスコア、九十二よ。週末の映画が効いたのかも」
リナは笑顔を返しながらも、心のどこかがざらついた。
“感情の効率化”という言葉を、初めて聞いたのはいつだったか。
たしか、コスパやタイパが流行りすぎて飽きられた頃だ。
夕方、帰りの車内。
窓の外に、広告スクリーンが流れる。
「あなたの今日の感情、ちゃんと測れてますか?」
『エモメーター2.1』──感情のムダをなくす新世代AIデバイス。
乗客たちは誰も不思議に思わない。
みんな淡々と、自分の幸福度を確認し、
平均値より低ければアプリで“感情改善プラン”を購入する。
リナはイヤフォンを外し、
電車の走行音だけを聴いた。
久しく、何も“感じない音”を聴いた気がした。
──夜。
部屋の照明が自動で落ちると、壁のスクリーンに一日の感情レポートが表示された。
《本日の総幸福指数:74.8(前日比+2.1)》
《ポジティブ反応:17件/ネガティブ反応:3件》
《感情安定率:89%》
《推奨:週末に“感動系体験”を追加しましょう》
それを見て、リナは小さくため息をついた。
感情が点数で管理されるようになってから、
人の会話も“データ前提”になった。
「最近、幸福指数伸びてる?」
「いや、残業続いてて下がり気味。睡眠AIに相談しようかな。」
そんな他愛のないやり取りが、世間話の代わりになった。
数字で安心し、数字で落ち込む。
“感じる”よりも“把握する”ことが、いつのまにか目的になっていた。
リナはバンドを外し、机の上に置いた。
その瞬間、部屋の照明が警告色に変わる。
《デバイスとのリンクが切断されました。再装着を推奨します》
警告音が鳴り続ける。
しかし、彼女は黙ってそれを見ていた。
ふと、腕の皮膚が少し軽くなったような気がした。
窓を開けると、秋の冷たい風が頬を撫でた。
脳波も、心拍も、誰にも記録されない。
ただ風の音だけが、生きているように部屋を満たしていた。
──翌朝。
会社のゲートで端末をかざすと、
係員の端末が赤く点滅した。
「昨日のデータ、途切れてますね」
「電池が切れてて」
そう言って笑ってごまかすと、
係員は「気をつけてくださいね」とだけ言った。
けれどその笑顔の裏には、わずかな不信の色があった。
昼過ぎ。
上司からメッセージが届いた。
《感情ログに不規則な欠損があります。健康管理部門で再確認をお願いします》
リナは無言で画面を閉じた。
心拍が少し上がった。
でも、それを誰も知らない。
その感覚が、妙に懐かしかった。
──昼下がり。
リナはいつものように昼休みの散歩に出た。
感情の変動を穏やかに保つため、会社が推奨している“リセット行動”のひとつ。
端末は歩数や呼吸数をリアルタイムで計測し、
心拍が上がると柔らかな音を鳴らす。
まるで飼い主を気遣うペットのように。
その日、ふと脇道へ入った。
AIナビはすぐに警告を出す。
《このルートは感情安定指数が低下傾向です。安全経路へ戻ってください。》
だが、リナは従わなかった。
何かが、あの整った街路の向こうに置き去りにされている気がした。
ビルの谷間を抜けた先に、古びたカフェがあった。
看板も、電子決済端末も見当たらない。
ドアを押すと、アナログな鈴が鳴った。
中には、数人の男女が静かにコーヒーを飲んでいた。
テーブルの上に光るバンドは一つもない。
彼らの腕は、すっきりと空いていた。
「ここ、デバイス禁止なんです」
カウンターに立つ女性が、穏やかに言った。
「……どうやって支払うんですか?」
「現金で。少し古いけど、ちゃんと使えます」
紙の札を差し出すと、女性は目を細めた。
「珍しいですね。あなたの世代で現金を持ってる人、ほとんどいないのに」
リナはコーヒーを受け取り、窓際の席に座った。
香ばしい湯気が立ちのぼる。
データでは測れない、濃い香りだった。
「あなた、オフラインズに興味あるんでしょ」
隣の席の男が、突然声をかけてきた。
彼の腕にも、バンドはなかった。
「オフラインズ?」
「デバイスを外したまま生きる人間のこと。
政府は非推奨って言ってるけど、正式には違法じゃない。
ただ、どこにも“存在しない”ことになる」
リナは息を呑んだ。
「存在しない……?」
「感情ログがなければ、あなたの幸福も、怒りも、何も証明できない。
だから“いない”のと同じなんだ」
男は笑いながら、マグカップを掲げた。
「でも、悪くないよ。誰にも測られない笑いってのは」
その瞬間、
リナの胸の奥で、何かが微かに鳴った。
そのことは、自分だけが知っている。
それがなにより心地よかった。




