表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

エモパ

作者: 猫技術 歩
掲載日:2025/10/20

初投稿 


朝、地下鉄の改札を通ると、

ゲート上のモニターが「平均幸福指数:71.2」と点滅した。

リナはそれを一瞥し、いつものようにスマートバンドをタップして出勤記録を送信する。

勤務中の感情データも、同時に会社へ自動転送される仕組みだ。

上司は数字を見て「今日は機嫌いいね」と笑う。

それが挨拶代わりになって、もう二年が経つ。


昼休み。

同僚の美咲が、弁当を食べながら端末を見せてきた。

「見て、私の今週のエモパスコア、九十二よ。週末の映画が効いたのかも」

リナは笑顔を返しながらも、心のどこかがざらついた。

“感情の効率化”という言葉を、初めて聞いたのはいつだったか。

たしか、コスパやタイパが流行りすぎて飽きられた頃だ。


夕方、帰りの車内。

窓の外に、広告スクリーンが流れる。


「あなたの今日の感情、ちゃんと測れてますか?」

『エモメーター2.1』──感情のムダをなくす新世代AIデバイス。


乗客たちは誰も不思議に思わない。

みんな淡々と、自分の幸福度を確認し、

平均値より低ければアプリで“感情改善プラン”を購入する。


リナはイヤフォンを外し、

電車の走行音だけを聴いた。

久しく、何も“感じない音”を聴いた気がした。


──夜。


部屋の照明が自動で落ちると、壁のスクリーンに一日の感情レポートが表示された。


《本日の総幸福指数:74.8(前日比+2.1)》

《ポジティブ反応:17件/ネガティブ反応:3件》

《感情安定率:89%》

《推奨:週末に“感動系体験”を追加しましょう》


それを見て、リナは小さくため息をついた。

感情が点数で管理されるようになってから、

人の会話も“データ前提”になった。


「最近、幸福指数伸びてる?」

「いや、残業続いてて下がり気味。睡眠AIに相談しようかな。」


そんな他愛のないやり取りが、世間話の代わりになった。

数字で安心し、数字で落ち込む。

“感じる”よりも“把握する”ことが、いつのまにか目的になっていた。


リナはバンドを外し、机の上に置いた。

その瞬間、部屋の照明が警告色に変わる。


《デバイスとのリンクが切断されました。再装着を推奨します》


警告音が鳴り続ける。

しかし、彼女は黙ってそれを見ていた。

ふと、腕の皮膚が少し軽くなったような気がした。


窓を開けると、秋の冷たい風が頬を撫でた。

脳波も、心拍も、誰にも記録されない。

ただ風の音だけが、生きているように部屋を満たしていた。


──翌朝。


会社のゲートで端末をかざすと、

係員の端末が赤く点滅した。


「昨日のデータ、途切れてますね」

「電池が切れてて」

そう言って笑ってごまかすと、

係員は「気をつけてくださいね」とだけ言った。

けれどその笑顔の裏には、わずかな不信の色があった。


昼過ぎ。

上司からメッセージが届いた。


《感情ログに不規則な欠損があります。健康管理部門で再確認をお願いします》


リナは無言で画面を閉じた。

心拍が少し上がった。

でも、それを誰も知らない。

その感覚が、妙に懐かしかった。


──昼下がり。


リナはいつものように昼休みの散歩に出た。

感情の変動を穏やかに保つため、会社が推奨している“リセット行動”のひとつ。

端末は歩数や呼吸数をリアルタイムで計測し、

心拍が上がると柔らかな音を鳴らす。

まるで飼い主を気遣うペットのように。


その日、ふと脇道へ入った。

AIナビはすぐに警告を出す。


《このルートは感情安定指数が低下傾向です。安全経路へ戻ってください。》


だが、リナは従わなかった。

何かが、あの整った街路の向こうに置き去りにされている気がした。


ビルの谷間を抜けた先に、古びたカフェがあった。

看板も、電子決済端末も見当たらない。

ドアを押すと、アナログな鈴が鳴った。


中には、数人の男女が静かにコーヒーを飲んでいた。

テーブルの上に光るバンドは一つもない。

彼らの腕は、すっきりと空いていた。


「ここ、デバイス禁止なんです」

カウンターに立つ女性が、穏やかに言った。

「……どうやって支払うんですか?」

「現金で。少し古いけど、ちゃんと使えます」


紙の札を差し出すと、女性は目を細めた。

「珍しいですね。あなたの世代で現金を持ってる人、ほとんどいないのに」


リナはコーヒーを受け取り、窓際の席に座った。

香ばしい湯気が立ちのぼる。

データでは測れない、濃い香りだった。


「あなた、オフラインズに興味あるんでしょ」

隣の席の男が、突然声をかけてきた。

彼の腕にも、バンドはなかった。


「オフラインズ?」

「デバイスを外したまま生きる人間のこと。

 政府は非推奨って言ってるけど、正式には違法じゃない。

 ただ、どこにも“存在しない”ことになる」


リナは息を呑んだ。

「存在しない……?」

「感情ログがなければ、あなたの幸福も、怒りも、何も証明できない。

 だから“いない”のと同じなんだ」


男は笑いながら、マグカップを掲げた。

「でも、悪くないよ。誰にも測られない笑いってのは」


その瞬間、

リナの胸の奥で、何かが微かに鳴った。

そのことは、自分だけが知っている。

それがなにより心地よかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ