2話 初飛行での出会い
初めての感覚に目を開けられない。
足に何も触れない浮遊する感覚にひやっとする。
風が髪を切るように吹き、「きゃっ」と思わず声が出て、両腕に力を込めた。
「箒は……まあそのうち、今は我慢ね。なに? 飛ぶのは初めて?」
外に出た瞬間、ローアンは細長い杖を家の中に向けた。杖の先が藍色に染まるのが見えた。
洋服や本が何冊か、いくつかの日用品がカバンの中に飛んでいく。あの古い鞄は祖母のものだ。色は濃い茶色で古めかしいが、ミラはこのカバンの匂いが好きだ。祖母の安心する匂い。ハーブのような甘くスパイシーな香りがする。
あっという間に準備が出来上がり、今、ミラはローアンの箒の後ろに乗って、空を飛んでいる。一般的には箒に乗れるのは六歳からだ。
もちろんその年の頃には部屋の中にいたので、ミラは乗ったことがなかった。
渋るミラを横抱きにして投げるように箒に乗せたローアンは、涼しい顔をしている。
「もう少し、空の旅を楽しみなさいようっ。ほら、目を開けて!」
ゆっくりと目を開く。最初に見えたのはオレンジとピンクがじんわり混ざり合ったかのような空の色だった。
光が空に溶けていく瞬間だ、と思った。この景色を温かい飲み物にしたらきっと、幸せな味がするに違いない。日は完全には落ちていないが、星が少し出ていた。空に穴が開いて光が漏れているみたいだ。
「初飛行祝いに、サービスするわ」
帽子にさしてあった杖を空に向け、ローアンは楽しそうに一振りした。
途端、空の星が一気に増えた。流れ星、ミラの頭近くまで星が流れた。何だか触れそうなほど近い。触れようと手を伸ばすと、星はしゅんっと消えてしまった。それを見たローアンは可笑しそうに笑う。
「それは幻よ、どう? 私の魔法は?」
胸の中が温かくなる。星の光が自分の中に入っていくようだ。そしてその光は、きっと勇気に変わるのだとそう思えた。
「綺麗です、とても」
「……ローアン先生? あの、わたし、昨日母のことを知ったばかりで、色々混乱していて、教えてもらえませんか?」
ローアンは、ちらりと後ろを振り向いた。
「そうねえ……一先ずは学校の説明からしようかしら」
ローアンが話したのは、ミュルスン魔法学校について。ミラが通う予定のそこは、地方では有名な学校であるらしい。女性だけが通う学校で、寮もあるようだ。ミラがこれから暮らす所はそこで、十五歳から通えて、四年制。
そして、入学試験がある、ということだった。
「え? 試験って落ちたら……」
「もちろん今年は通えないわよ」
ふふんと、鼻歌交じりで呑気に言う。
「私、魔法の勉強とか本を読むくらいしかしてないですよ。使えるのも少ないですし」
そういうと、ローアンは高度を下げ始めた。風が目にしみる。落ちないように腕に力を入れ直した。
「大丈夫。勉強はそこまで大事じゃない試験だから……たぶん」
それからローアンは、いくつか、ここでのルール、いや法律というのだろうかそういった決まりを教えてくれた。
魔法で誰かを傷つけてはいけない。これは当たり前だ。だけど、胸にくるものがあった。魔法は私利私欲のためだけに使ってはいけない。
そしてもちろん、魔法で人を殺めてはいけない。
「罪を犯した魔法使いはどうなるの?」
ミラがそう聞くと、ローアンは答えた。
例に過ぎないが、昔、こんなことがあったらしい。
一人の青年が若く魅力的な女性に恋をした。だが、女性にはすでに婚約者となる恋人がいた。
青年は何としても女性を手に入れたくて、婚約者を魔法の薬で殺してしまった。その瞬間、青年は女性に恋する気持ちがなくなってしまった。魔法で人を殺めると、その見返りとして何かが失われたり、不幸な出来事が起きる。その内容は、その時まで誰にもわからないのだが、この青年の場合は、誰かを好きになるという感情が、一生失われたのだった。
「このように、魔法で人を殺すと、必ず災いが降りかかる。これを『呪い』と言う」
ローアンは低い声で言った。魔法石を盗みに入って警備を殺めた魔法使いは、二度と家族に会えなくなったし、水の魔法で大勢の魔法使いを殺めた魔法使いは、その者の頭上だけ雨が降り続けるようになった、と言われているのだ。
「人を殺めること以外にも、禁じられた魔法は色々あるんだけど、想像してみれば何がそうか分かるはずよ。誰かを不幸にする魔法は禁止なの。でも『呪い』のおかげで、大罪を犯す馬鹿な魔法使いは、ほとんどいないのよ」
ミラは黙りこんだ。
はっとしたようにローアンが言う。
「ごめんなさい」
悪意はないが、嘘がつけない性格らしかった。
「『呪い』の対象外だけど、禁じられた魔法って例えば何があるんですか? 浮遊魔法で人にものをぶつける、とか?」
「そうね、それはもちろん駄目よ。他には、炎の魔法はみんなよく使うけど、それを魔法使いに向けたり、森を焼いたり、そういう使い方をしたらだめ。当たり前だけれどね。魔法自体が禁止なんじゃなくて、ようは使い方ね」
「……『呪い』を受けた者ってどうなるの?」
少し間を開けて、ローアンが言いにくそうに声を出した。
「分からないの……罪を犯して運よく捕まった者は、監獄に入れられる。でも『呪い』は取り消すことができない……」
それだけ聞いてぞっとした。
「逃げた魔法使いたちは……」
言いかけたローアンは、急に杖を取り出した。藍色の光のようなものに箒ごと包まれる。触ってみると、薄く見えるけど壁のようだ。手が跳ね返ってくる感覚がした。
「先生?」
また何か綺麗な魔法を見せてくれるのだろうかと、ミラは思った。話の途中だったけれど、気まぐれな魔女なのだろう。
急に黙りこんだローアンは「静かに」と、初めのようなきりっとした声を出した。
慌てて口をつぐむ。
すると、お腹の底にまで響くような、低い何かのうめき声が聞こえてきた。口にあてていた手を今度は耳に当てる。右手はローアンの腰にまわしているので、右耳は肩で何とか塞ぐ。大きな大きな古い箪笥を引きずったら、こんな音が出るかもしれない。とにかく不快な音だ。体全体に力が入る。
ようやく音が薄れたと思ったとき、
「ほら、見て」
ようやくローアンが小声で言った。言われた方を見る。
「あ……あ、あ、空亀っ」
本で読んだことがある、挿絵は載っていなかったので実物を見るのは初めてだったが、絶対にそうだと思った。本当に、空を泳いでいるだなんて、嘘みたいな光景だ。
大木五本分くらいの体躯に、エメラルドグリーンの甲羅、この世のものとは思えないほどキラキラと輝くそれは、魔法石の原石なのだといわれている。見る位置によってその輝きは違って見え、その生態は謎に包まれている。どこから来てどこへ行くのか、誰にも分からない神秘の魔法動物。飛んでいった軌跡が天の川のように光る。それは魔法石の破片だった。
「願う者の前に現われ、幸せをもたらす」
「え?」
ローアンが呟いたのを、ミラは聞き逃さなかった。
「古くから言い伝えられているの、私も、はじめてみた……」
途端泳ぐのを止めた。空亀の目がぎょろりとこちらを見た。
てっきり目も甲羅と同色だと思っていたが、目はコバルトブルーだった。見る者の全てを見透かすような澄んだ瞳だ。ローアンが魔法を解く。囲まれていた藍色の光が消えた。咄嗟に守ってくれていたのだとそのとき分かった。
「ミラ、私と同じようにして」
ローアンは帽子を脱ぎ、杖を下した。そして、頭を垂れる。
ミラは帽子も杖も持っていないので、頭だけゆっくりと下げた。
『だいじょうぶ』
「え?」
これはローアンの声じゃない。男のそして年配の人のしわがれた声だ。
思わず顔をあげた。空亀と目があう。どこか、懐かしい気がした。周りの音が消えていく、不思議な気持ち。
空亀は小さく頷くと、また空を泳ぎ始めた。魔法石の欠片は夜の闇に、まるで珈琲に砂糖を溶かすかのように、じんわりと消えていった。
夢のような瞬間だった。
しばらく放心していた二人だったが、ローアンが声をあげた。
「びっっくりしたあ!」
その声に驚いて肩があがる。今まで我慢していた分が声量として表れているみたいだ。
「ねえ、ローアン先生? 何か聴こえた?」
マントを引っ張る。
「なにか? あの鳴き声じゃなくて?」
本当に聴こえなかったようだ。あんなにちゃんと聴こえたのに不思議だ。
「うん。多分『だいじょうぶ』って言ったと思う」
「空亀が? 嘘でしょう! 気のせいじゃない? だって魔法動物の中でもレア中のレアよ、言葉だってとても古いはずだし、それにミラはまだ、魔法動物学も魔法動物言語学を習ってないんでしょ?」
顔の前でぶんぶんと手を振る。
魔法動物言語学、という魅力的な単語について口を挟めなくなってしまった。
「ほんとに?」
いきなり真顔になって、ローアンが振り向く。遠くを見ているような目だった。
ミラ自身を見ていない。そして、憐れんでいるかのような悲しい目のようだとも思った。ずっと感じていたものの正体が分かった気がした。
ミラが嘘を言っていないと分かると彼女は、杖を振った。藍色の光がまた、ミラたちを包み込む。今度は何だか体が温かくなった。やっぱり、凄い魔女なのだと改めて思う。
「さっきのは、圧倒的に敵わない相手や、立場が上の魔法使いに会うときにする作法よ。帽子を脱いで、杖をおろす。あなたと戦う気はない、あなたには敵いませんっていう意味を表しているの、あなたは外のことをほとんど知らない。覚えておいてね、魔法動物にもこの礼節は通用するわ」
「うん、分かりました。あの、先生? 空亀って有名な魔法動物なんですか? 私が読んだ本は大分古くて、そこには、もうこの魔法動物を知っている魔法使いは存在しないだろうって書かれていたんです」
少なくとも、ローアンは空亀を知っているではないか。
ミラは、自分が何か余計なことを言ってしまったのではないかと思った。そのくらいローアンは動揺しているように見えた。
「むかし」
「え?」
口を挟むと、黙って聞いて、と小さく返される。
「むかし、ある知り合いから聞いたんだけど、不思議な魔女が身近にいてね、その子が空亀を見たって言うのよ、しかも、会話をしたって」
ミラは声を出しそうになるのを、ぐっとこらえた。
「誰も信じなかった。でもね、私の知り合いは信じたんだって、だってね、その不思議な魔女は、魔法動物学が得意だったんだから。どんな動物でも仲良くなっていた。だけど同じ魔女とはあまり上手くいっていなくて、いつも、寂しそうにしていた。魔法動物といるときだけは無邪気に笑っていたの……って知り合いは言っていたわ」
ローアンの雰囲気が柔らかくなるのを感じた。
「私は、その知り合いから空亀がどういう姿をしていたか聴いていたから、さっきは割と冷静でいられたの。やっぱり私もその……信じたかったから」
「その魔女は……その不思議な魔女は、もしかして、私が行こうとしている学校に通っていたんですか?」
「そうよ」
前を向いたまま、彼女ははっきりと答えた。
分かってしまった。ローアンが何を言いたいのかも、こんな言い方しかできないのも、でも、問い詰めてしまって良いのだろうか、ミラは考える。おそらく、ローアンもミラが分かるように敢えて言ったのだ。
それでも、これだけは聞きたかった。
「先生?」
「うん」
「その魔女は、私のお母さん?」
日はどっぷり暮れ、降り立った所は、どこか田舎の村のような場所だった。小さなレンガ造りの家がぴったりと並んでいて、どこの家にも花壇があった。外灯の光がとても明るい。
色とりどりの花が町全体を包んでいる。ミラが見たことのない花が多かった。住んでいたところからかなり離れた場所に来てしまったのかもしれない。クルクルと花弁を揺らしていると思ったらそれが空中に飛んで、ミラの周りをまるで踊りでも踊っているかのように動き出す。驚いて目をパチクリさせていると、元の花壇に花弁達は戻っていった。
「ここは? 学校に行くんじゃなかったんですか?」
そう言うとまた、ローアンは可笑しそうに笑った。
「学校がこんな分かりやすい所にあるわけないじゃない。まあ、あなたは外に出るの久しぶりだったわね……えーと、ここは『ポラリス』簡単に言うと宿がある街、よ」
「宿? ここに泊まるってこと?」
確かにさっきから街で見かける人は、ミラと同じ年くらいの女の子たちばかりだ。
自分と同じくらいの魔女と会うのは初めてだったので、ミラは内心ドキドキしていた。小説で読んだ仲の良い少女たちの物語を思い出し、そわそわと落ち着かなくなる。でもそれは、少しの時間だけだった。ミラはすぐに思い出すのだ。自分が何者であるのか。
「試験は明朝スタート、それまで、ゆっくり休みなさい。健闘を祈る」
「は、はい」
「あ! そういえばあなた裸足ね。靴は必要だわ」
指を鳴らす。足がくすぐったくなり、少し目線が高くなる。足下を見ると、藍色の、素朴だけどレトロな、歩きやすい靴を履いていた。靴を履くなんて何年振りだろうか。軽くジャンプすると、いつもより体が軽かった。
「よし! おっけー!」
そういうと、ローアンはすぐに箒で飛んで行ってしまった。
「え? ちょっと待って! ローアン先生! どこに泊まればいいの? あと、試験って何をするの?! ねえったら」
必死に叫んでみても、もう彼女の姿は遠くなってしまっていた。