第10話 振り向いてはいけない
「さてと、試験に戻らなくちゃ」
「あ、そうだった! 時間、今何時だろう?」
ルミは、首に下げていた懐中時計を服の中から取り出した。かなり古いもののようで、精巧に作られている。
花の形が模られているが、何の花かまでは分からなかった。
「……十六時」
二人の目が見開かれる。
「後二時間しかない!」
「急ぎましょう、落ちてくるときに気がついたのだけれど、ここはオークの木から近い所だわ」
地面に転がっている荷物を背負いなおす。
「……ルミ」
「ごめんって言ったら怒るわよ! 私がしたいと思ったからやったの。大丈夫、きっと間に合う」
走りながら、そういえば、とミラは考える。
「ねえ、試験ってオークの木の枝をとるだけなんだよね。こんなことになっていて、言うのは気が引けるんだけど、なんか……簡単すぎない?」
ルミは呼吸を乱さず答えた。
「ええ、ミラの言いたいことは分かるわ。私も、木に辿り着くまでに、何か課題があるのだと思っていたのだけれど」
「もしかして、さっきのって試験だったりする?」
「それはないわ! 入学前の魔女にさせるには危険すぎる。入学できたとしても、私たち多分、目をつけられるかもしれないわね」
彼女の息は全く乱れない。
大してミラは走ることに慣れていない。心臓がバクバクと音を立てている。こんなに自分の耳に響くほど心臓って脈をうつのだと、不謹慎だが感心してしまった。
「じゃあっこれからなにかっ、あるかも、しれないのかな?」
「あ、見えてきた!」
その場所は、一変して木が全くない。いや一本だけある。
何もない、光の当たるその場所の中央に、幹も枝も恐ろしく太い、大木。
近づくことが躊躇われた。
神聖な雰囲気を醸し出している。ヴェズルフェルニルよりも近づくことが怖い、と思った。
近づいた瞬間、その木にのみ込まれてしまいそうだ。
だけど、行かなければならない。横にいたルミがミラを見ていた。言葉は交わさない。頷き合い、光の中に一歩、踏み出した。
きっとここには、魔法動物は近づけないのだと確信してしまった。それほど、厳かな場所だった。
目を開けられないほどの眩しさ。久しぶりに外に出た、あの時に似ていた。ゆっくり目を開く。
「ルミ?」
横には誰もいない。
「ここは?」
オークの木までゆっくりと歩く。ここは本当に、さっきまでミラがいた場所なのだろうか。
同じだけれど、違う気がした。
何故か自分の足音が聞こえない。
それどころか、森の音が全て消えた気がした。あと少し、もうすぐ、木まで着く。
『ミラ』
そんなはずがなかった。夢の中で何回も聞いた。あったかくて優しい声、現実でも聞きたくて仕方がなかったミラを呼ぶ声。
「お母さん?」
振り向こうと足が動く。でも、ミラはその体勢のまま固まった。
何故、ここに母が?
自分でもよく分からない強い感情が、ミラの足を引きとめていた。
『ミラ、おいで』
母だ。確かにこの声は母なのに、ミラはどうしても振り向いてはいけないような気がした。
確かなのに、違う。全く違う。
呼吸が、息が苦しくなる。
母に会いたい。会って聞きたいことが山ほどある。
胸のあたりに両手を置き、自分の鼓動を確かめる。 ああ、生きてる、そう思える。
そして、もう何度も唱えてきた呪文を唱える。
「レイクバ」
幼い頃の唯一の友だち、ユスが肩に乗る。
言葉を話せないのが残念だ。でも、ミラには何となくだけれど、ユスの言いたいことが分かった。
大丈夫、きっとそう言っている。丸い光のような体がミラの頬を撫でた。
『ミラ』
それでも聞こえてくる。ミラを呼んでいる。優しい声。
後ろに行きかけた足を叱咤し、前へ、前へ進んだ。 鉛のように重い。真っ黒い沼の中を進んでいるかのようだ。
『ミラ』
前へ。
『ミラ』
歩け、歩き続けろ。
振り返るな。
重い足を何とか動かし、オークの木の根元まで来る。
途端生ぬるい風が吹いた。木を見上げる。ミラの力でも折れそうな枝があった。
心の中で、折りたくないな、とミラは思った。
こんなに立派な木を傷つけたくない。
例え、この木が魔法の木で、すぐに再生するとしてもだ。
その時、枝が折れる音とともに、足下にそれが落ちてきた。
『ミラ』
最後にもう一度聴こえた。
懇願するように、泣きそうな声だった。
ミラは、外の世界で生きると決めたのだ。
学校に通って、魔法を学ぶと、そう自分で決めたのだ。
迷いはなかった。
枝を拾った瞬間、シャボン玉が弾けるみたいに、何かの膜が消えたような感じがした。
もう、母の声は聞こえなかった。
パンパンっと二回軽い何かを鳴らす音がして、見覚えのある紫色の煙が何処からともなく漂ってくる。
間に合ったのだろうか。
煙の中で振り向くと、そこには蹲るルミがいた。
「ルミ!!」
ルミだけでなく、同じ歳くらいの魔女が何人かしゃがみ込んでいた。
煙で何も見えなくなりそうになる。
また、どこかに連れて行かれる魔法だろう。
ミラがこの場所からいなくなってしまう。
ルミは? もし、あのままだったら?
「ルミ!!」
消えそうになる声を、張り上げる。
「ルミ! こっち! 早くっ」
蹲っていたルミの肩が跳ねた。
顔をあげる、涙でぐっしょりと濡れている。
どんな悪夢を見ているのだろうか。揺れる瞳がミラを捉えた気がした。
「ルミ、大丈夫! 早くこっちへ、待ってるから、わたし」
声が震える。届いただろうか、ルミは蹲ったままだ。
「待ってるから、ルミ! 私、あなたと友だちになりたい!」
その言葉を最後に、ミラの意識はまた遠のいていった。
頭の中に、泣いているルミの顔、笑っている母の顔が浮かんでいた。
そして、やっぱり移動魔法は苦手だな、と頭の片隅で思った。