18話 会計、瓦解
多目的室には、教室ほど机や椅子が置かれていない。教壇も無く広々とした空間だった。
そんな場所の床に座り、目を丸くしながらこちらを見ている菊重。
何か言わなければと思いつつも、ついさっき目の当たりにした光景に適当な言葉が見当たらない。
ただ、この静寂に耐えられる訳もなく、俺は何とか口から声を絞り出した。
「あーそのーあれだ。くるみんって胡桃沢のこと?」
「うわぁぁ!」
その瞬間だった。菊重は突然立ち上がったかと思うと、何かを遮るかのような大声と共に俺の方へと走り出した。思わぬ行動に動けずにいると、力強く制服の下衿を掴まれる。
(やばっ!)
キツい一発でもお見舞いされるのかと身構えるも、待ち受けていたのはある意味それよりも辛いものだった。
「みっ、見たのかぁぁぁー! 聞いたのかぁぁぁぁー! うおぉぉぉ!」
前に後ろに揺らされる。
これでもかと言わんばかりに揺らされる。
頭の振動と、ぼやけながらも見える菊重の崩れた顔。二重の恐ろしさに恐怖を覚える。
(いやいや、気持ちは分かるけど、このままだと色々とヤバい!)
ただ、流石に体が心配になり、とりあえず落ち着いてもらおうと声を掛けることに決めた。もちろん、舌を嚙まぬように細心の注意を払いながら。
「ちょっ、菊重……さん……落ち……つけ……って!」
「見たのかぁぁ! 聞いたのかぁぁ!」
(話の論点はそこかよっ! 下手に嘘ついてもあれだよな……)
「見た……し! 聞い……た! 胡桃……沢の……こと……だろ!?」
「……はっ!」
その言葉が何かに響いたのか、突然揺らすのを止める菊重。視界はハッキリとはしないものの、とりあえず頭や首に支障がないことに安堵する。
ただ、問題は目の前の菊重だ。どうにか話をしなければ。
「終わったぁぁ!」
なんて考えは一瞬で消え去る。
さっきまで制服を掴んで一心不乱に俺を揺さぶっていたにも関わらず、今度は四つん這いになる菊重。まさに項垂れるという表現そのものの姿に、身の変わり具合もさることながら、情緒の不安定さは俺の知る菊重ではなかった。
「うぅ……よりにもよってチャラ男に見られた……」
(えっ? なんかサラっと毒吐いてません?)
そんな状態でも口にされる、チャラ男という言葉に若干の虚しさを感じたものの、すぐさまその光景のマズさに気が付く。見下ろす自分と四つん這いの菊重。誰かに見られでもしたら、あられもないことに発展しかねない。なんとか立ち上がらせなければ。
そう思い、とりあえず声を掛けようとした時だった。
「なぁ……頼む……」
何かに取り憑かれたような声が聞こえてくる。
(えっ?)
「くるみんには言わないでくれよぉ……」
(ちょっ、えっ?)
「頼むよぉ……井上……頼むから言わないでくれよ……」
あまりの声色の違いに戸惑いを隠せない。ただ、そんなのお構いなしに菊重は四つん這いのままこちらへ近付いてくる。その光景はさながらゾンビそのもの。
「嫌われちゃうだろぉぉ~。だから頼むよぉ……井上ぇぇ!」
足元まで来ると、ズボンを引っ張りながら物凄い形相で訴えかける菊重。
もはや情報収集やら、生徒会会計やら、赤縁生意気機械女なんかはどうでも良い。全力でその体勢を止めさせることに専念することにした。
「わっ、分かったから! 一旦落ち着けって!」
「頼むぅ……」
「とりあえず、座れって! なっ?」
必死の呼びかけに、ズボンを握る手がするりとほどかれる。俺はそれを確認すると、ゆっくりと椅子が置かれている場所へ向かった。
すかさず菊重の近くへ椅子を持って行くと、自分も少し離れたところに椅子を置いて腰を下ろす。
こうして、置かれた椅子に力なく腰を下ろした菊重。まともな姿勢に戻ってくれたことに内心ホッとしたものの、問題はここからだった。
項垂れる菊重はさっきの光景から大分マシになったとは言え、未だ傍から見れば俺が何かやらかしたと思われかねない。
一体どうするべきか考えた末に、とりあえず声を掛けようかと思っていた時だった。徐に菊重が口を開いた。
「何が目的?」
その言葉に一瞬、下塚さんとの出来事が頭を過る。しかしながら、俺にはこれと言って思い当たる節はない。
「目的って、なんだよ急に」
「くるみんには言わないで。そうしてくれるなら、何でも言うこと聞くから」
そう言いながら顔を上げる菊重。
その真剣な眼差しに、下塚さんの時とは違った意味で冷静になれた気がした。
(いや……そう言われてもな?)
「あのさ? すんごい今更なんだけど、別に俺がさっきの菊重さんの言葉を聞いてたとしてだよ? それを他言しようと、菊重さんの対応次第で俺が嘘を言ってるって流れになったと思うんだけど?」
それはごく当たり前のことだ。生徒会会計とチャラ男の話。どちらが信用できると言えば、ほぼ確実に前者だろう。
(あれ? 何か下塚さんの時もそんなこと言ったよな? まぁいいや。とりあえず落ち着いてもらう為には、じっくりゆっくり話をしよう。またトンデモないことしだしたら、たまったもんじゃない)
「私が……つまり嘘を……?」
「いや、結果的にはそうなるかもしれないけどさ? でも、こんな感じには……」
「くるみんのことで嘘なんて言える訳ないじゃん。私がさっき言ってたのは本音なんだよ? 私が嘘を言えば、くるみんに対して言った言葉も嘘になるじゃない。それだけは嫌」
それは思わぬカウンターだった。
「でも、ここにはクルミは居ない訳だろ?」
「居ようが居まいが関係ないのよ。くるみんに対しては常にいかなる場面でも本心を貫きたいの」
なぜそこまでクルミにこだわるのだろうか。正直、菊重に狂気にも似た何かを感じる。
とはいえ、2人で話している様子を見る限りは至って普通だった。もしかすれば、本心はさっき見た姿の様に感情を爆発させたいのかもしれない。
「じゃあ、普段は感情を最低限抑えていると?」
「そうだよ……」
(なるほどね)
「まぁ、クルミは見た目可愛いからな。それに気も利くから下手な女子より女の子らしい」
「あんた分かるの? そうなのよ! 小学校の頃から可愛くて、もう離したくないの! 高校生になったらなおのこと可愛くなってさ? あれは反則だって」
とりあえず同情をしつつ緊張をほぐそうかと、クルミのことを口した瞬間に菊重の表情が明るくなる。それに加えて、とんでもない早口でクルミについて話す辺り、菊重はとんでもない感情をクルミ向けているのだと確信する。
ショタコンというやつだろうか。まさか男の娘にここまで脳を破壊された人が居るとは。
「てか、それはそうと井上はくるみんとどんな関係な訳? クルミって私だけの呼び方だと思ってたんだけど」
(うおっ、いきなり話し方変えるな。めちゃくちゃ攻撃的に感じるんですけど?)
「クルミとはこども園が一緒だったんだよ。仲良くしてたけど、小学校に上がる時にクルミが引っ越したんだ。まさか京南で再会するとは思わなかったけどな。ちなみに、その頃から俺はクルミ呼びだ」
「こども園……まさかあんたがくるみんの尊敬する人? いやあり得ない……って、こども園時代から私より先にクルミと呼んでた?」
何やら俯きボソボソ呟く菊重。尊敬やらこども園やら節々に聞こえるものの、具体的な内容は分からない。ただ、一瞬俺の顔を見上げると、
「負けた……」
そう一言呟くとまたしても項垂れる。
その姿には、もはや生徒会会計の……俺の知る菊重陽の姿は微塵も感じられない。
「はぁ……じゃあさ? 話戻るけど、くるみんには言わないで? その代わり出来る範囲で何でもするから」
結局話はまた戻り、下塚さんの時と同じ様な展開へと突入する。
「いや、だから……」
「あんたが好きなアッチ系だって構わない。心はくるみんの物なんだから」
(まったく! ここの生徒会役員はそういう系しか頭に浮かばないのか?)
またしても似たような光景に、もはや頭が痛くなる。
しかしながら何かを提示しない限り、ずっとこの調子なのだろうと思うと、変な方向へ話が膨らむのは非常にまずい。
俺は少しばかり考え……1つの条件を思いつく。
自分にもプラスであり、菊重さんとっても悪くはないだろう条件を。
「じゃあさ……」
「ここでするんだね。分かった……脱ぐよ……」
「なんでだよ! えっと、俺が同好会作ろうとしてるの知ってるだろ?」
「えっ? まっ、まぁ」
「別に変な意味もないし、純粋に誰かの役に立てないかって思ってるんだ。だから、肯定的な目で見て欲しい」
「それだけ?」
「それだけだ」
「……分かったよ。でもあんまり派手にやらかすなよ? こっちもフォローが利かなくなる」
(どんだけ怪しんでるんだよ)
「大丈夫だって。大体、クルミだって入ってくれるんだぞ? 変な真似出来る訳……」
「はっ? くるみんも協力するの? バカッ! なんでそれを先に言わないんだよ!」
「えっ?」
「だったら協力するに決まってるでしょ! なんか入用なら、出来る限り手配もするよ?」
結果オーライと言うべきなのだろうか。とにかく良く分からないものの、どうやら菊重という関門は何とかなりそうだ。
(別の意味で目を付けられた気もするけどな)
「そっ、それはありがたい。でもそこまでクルミが気になるなら、いっそのこと菊重も下塚さんみたいに兼任すれば……」
「懸命に同好会活動をするくるみんと、同じ土俵に立って良い訳ないでしょぉぉ!?」
(いや、思考が推し活なんだよな……)
次話も宜しくお願い致します<(_ _)>