第6話: 小説とトーキング
先生と僕、それに他の9人のクラスメイトが、大きなテーブルを囲んで教室に座っていた。
教室の前方には壁に掛けられた巨大なホワイトボードがあり、まるで今しがた清掃されたかのように、インクの跡ひとつないほど真っ白だった。周囲の本棚にはたくさんの文具やクラフト小物が並べられていて、最上段には地球儀が置かれている。かなりの埃が積もっているのが遠目でもわかる。
古久保先生が準備をしている間、僕の隣で「君を打ち負かす」と言っていた有馬君が、ノートに何やら書き込んでいた。
彼の視線を感じたのか、有馬君はふと顔を上げて僕を見た。
「よう、何か見てたの?」
「いや……別に……」
「ははっ、古久保先生が言った通り、確かにちょっと俺はイキりすぎたかもな。」
有馬君はノートを閉じ、僕に集中できるようにしたのか少し身を乗り出した。「あんなこと言って驚かせたよな。まだお互いあまり知らない仲なのにさ。」
お前も分かってるんじゃん。
彼が手を差し出してきたので、僕は反射的に握手を返した。
「俺のフルネームは有馬真司。村上さんのことは前から噂で聞いてたよ。」
クラスに入ったばかりの頃から、僕は彼のことを何となく気にしていた。彼の専門が「文学」だとは知らなかったが、整った顔立ちは一度見たら忘れられないほど印象的だった。それに、廊下で彼を見かけるたびに、彼の周りにはいつも女の子たちがいた。
間違いない、彼はクラスの「イケメン枠」だ。
「だけどさ、」有馬君は手元のペンを回しながら、「俺が『地球最強の高校生作家』を目指してるのは本気だからね。」
僕は黙って彼を見つめた。彼の目には確かな決意が宿っていて、否定する気にはなれなかった。
「俺の目標は『地球最強』だからさ。君が地球人である限り、俺は君に勝たなきゃならないってこと。」
その口調は軽やかで、少し挑戦的でもあった。でも、彼の言葉にはどこか大人びた雰囲気が漂っていた。
もしこれがライトノベルのキャラクターだったら、彼は典型的な「陽キャ」ポジションだろう。
カッコよくて女の子にモテるだけでなく、物語の主人公に対して、突如として意味不明な挑戦を仕掛けてくるような存在だ。
なんかさ、こういう時って主人公が結局勝つことが多いかもね……?
*****
僕たちの初めての文学の授業が始まった。古久保先生は、まず自己紹介をするようにと僕たちに求めた。
最初に立ち上がったのは、少しぽっちゃりした男子生徒だった。
「えっと……僕は安部私房って言います。みんな、脂肪って呼んでくれていいよ。だって、えへへ……」
そう言いながら、自分のお腹を掴んでぷるぷると揺らしてみせた。「太りやすい体質だけど、でもね、僕の執筆への情熱は誰にも負けないんだ!」
脂肪君はカバンから『マルコフの肖像』という本を取り出し、僕たちに向かってニコッと微笑んだ。
「それって、あの世界中で話題になったホラーSF小説じゃないですか!私も大好きです!」
ツインテールの女子生徒が驚きの声を上げた。「確か、ヨーロッパやアメリカでもすごく人気があるって聞きました。まさか、あなたがその作者なんですか?」
「そうだよ。出版する時はペンネームを使ってるけど、間違いなく僕が書いた作品さ。」
脂肪君は『マルコフの肖像』を机の上に置き、表紙がこちらを向くようにした。「というわけで、僕はホラー小説を書くのが得意なんだ。」
そう言い終えると、彼はほっと息をつき、リラックスした様子で席に戻った。
「いいねえ!先生も彼の小説を読んだことがあるけど、間違いなく一流のホラー作家だよ。」
古久保先生が手をひらひらと振り、次の生徒に自己紹介を促した。
短い沈黙の後、僕の隣に座っていた有馬君が立ち上がった。
「よし、じゃあ次は僕かな。」
有馬君は鋭い目つきで教室をぐるりと見渡した。
「俺の名前は有馬真司。目標は『地球最強の高校生作家』になることだ!」
……なるほど、彼は僕だけをライバル視してるわけじゃないらしいな。
脂肪君の実力を考えれば、たぶん彼はこの場にいる誰よりも格上だろう。『マルコフの肖像』は言わずと知れたホラー小説の名作で、僕が作家を志すきっかけになった作品のひとつだった。あの世界観やストーリーには多くの影響を受けた。
そう考えると、脂肪君は僕にとっても先輩にあたる存在だ。
僕がこれまでで一番人気を博した作品でも、欧米にまで名前が知られているわけじゃない。
それなら目の前の有馬君は、一体どれほどの実力を隠しているんだろう?
「ははっ、さっきの……脂肪先輩とは違って、俺には披露できる作品がないんだよね。正直、執筆経験はゼロさ。」
執筆経験はゼロさ!?どうやら、僕は彼を過大評価していたらしい。
「執筆経験はゼロさ!?嘘でしょ!?」
ツインテールの女子生徒が、まるで僕の心の声を代弁するかのように叫んだ。
「でもさ!」
有馬君はノートを両手で掲げ、「その代わりに、俺は作品の構成やストーリー分析にほとんどの時間を費やしてるんだ。めちゃくちゃノートを取ってさ。」
彼はさっきノートに書き込んでいた内容を僕たちに見せた。
「詩から散文まで幅広くね。」
有馬君は楽しそうにペンをくるくる回した。「仲良くしようぜ!みんなで切磋琢磨しよう!」
僕には挑戦的な態度なのに、他のクラスメイトには友好的に接するこの姿勢……有馬君、君ってやつは随分とダブルスタンダードじゃないか。
「素晴らしい、なかなか勉強熱心だね!でもね、有馬君、空気を読むことも大事だよ。」
古久保先生がそう促し、有馬君は席に戻ることになった。
「りょーーーかいーーー」
彼は間延びした棒読み口調で返事をした。
僕たちの自己紹介が順番に続いていった。ほとんどのクラスメイトが、自分の得意な創作ジャンルを披露した。
そして僕の番になった。前の数人と同じ流れで、名前や書いた作品、得意な創作ジャンルを淡々と述べた。
周囲の視線をあえて避け、さっさと自己紹介を終えて席に戻る。
「わあ!村上先生だ!」
例の突然思ったことを口に出すツインテールの女子が、またも興奮して声を上げた。「すごいよね、村上先生の本、クラスの本棚に置かれてるもん!」
自分の本がクラスの本棚に並んでいることを、また思い出させられた。
「『泡沫という名の記憶』だよね。あれ、主人公が家族を探す場面、めちゃくちゃ共感できたよ。」
夏目徹という男子が言った。
「それに、別れのシーンの描写がすごくリアルでね。主人公が家を出るときの辛さだけじゃなくて……妹が記憶を失う場面も……ぐすっ……」
井上弥穂水という男子は、話の途中で涙ぐんでしまった。
僕の作品が大げさに褒められるのは、一度や二度ではない。そういうときの対処法は、もう決めてある。
「まあ、実体験に基づいた感情を少し織り交ぜて、身近なものを比喩として使っただけですよ。」
僕は両手を広げて、手のひらを上に向ける。「人生には誰しも『自分の居場所』の時期があるんです。家族や友人、恋人、あるいは社会の中で『自分の居場所』を見つけようとする。そういった感情が、人々を何かにすがらせるんです。文学では、それを『本物』と呼ぶこともあります。」
たいてい、この話をすると、ほとんどの人はポカンとして「何言ってんの?」という反応をするものだ。
だけど、ここは「文学」という分野の精鋭が集まる場所だった。
「私が心の中で思ってたことを、こんなに的確に言葉にしてくれるなんて!さすが村上先生!」
ツインテールの彼女は感激して声を上げた。
「静かにね、もあみちゃん。」
隣に座る柄谷さんが低い声で彼女を窘め、彼女の頬をつついた。
ツインテールの彼女の名前は平岡もまみ。とても明るくて元気な性格だ。一方、親友の柄谷光奈は控えめで、あまり多くを語らないタイプ。
「もまみ」という名前が言いづらいのか、柄谷さんはいつも「もあみ」と呼んでいるらしい。
本来は相手を軽くあしらうつもりだったのに、かえって反応が返ってきてしまった。
どうやら、もっと相手を遠ざけるような返し方を考えた方が良さそうだな。
……それにしても、僕はどうして「ありがとう」と素直に言えず、わざわざ難しいことを説明して、自分の凄さを打ち消そうとしてしまうんだろう。
どうして、他人の賞賛を避けようとするんだろう?
*****
授業中、退屈な講義は一切なかった。記憶すべき公式やルールもない。ただ、好きな文学作品を語り合うだけで、たくさんのことを学べた。
誰かが好きな小説を挙げるたび、「あ、それ読んだことある!」「私も大好き!」といった声が次々に上がる。この熱気の中、気がつけば授業は終わりを迎えていた。
「もうお昼か、時間が経つの早いな。」
ツインテールの平岡さんが、少し残念そうな表情を浮かべていた。さっきまでの興奮ぶりとは別人のようだ。
「皆さん、今日の課題を忘れずにやってきてくださいね。」
古久保先生がそう告げると、僕はひとり教室を後にして、麻里さんとの約束を果たしに向かうことにした。
「挑戦の件、ちゃんと考えておくよ。」
有馬君が僕の前に立ちはだかり、ニヤリと笑って言った。「さあ、準備はいいかい?」
彼は「君を打ち負かす」という目標に、随分と情熱を燃やしているらしい。