第4話:三味線と猫
「準備はいい?」戸塚さんが聞いてきた。
「たぶん準備できてると思う。」僕は木製の椅子に座った。
「絶対に動いちゃダメだよ。それと、目は私を見ててね。」
「了解。」
「ちょっと待ってね、村上くん。」戸塚さんはそう言うと、自分のイーゼルの前からゆっくり歩いて僕の横に来た。「ほら、手を膝の上に置いて。」
彼女が僕の腕をそっと握る。柔らかくて暖かい手に触れられて、少し恥ずかしくなった。
「戸塚さん、あの……」
「肩も力を抜いてね。」彼女は僕の両肩を軽く掴んで、前後にゆっくり揺らした。
「うん、これでいい感じ!」彼女は再びイーゼルの前に座り、スケッチを始めた。僕は彼女の目をじっと見つめたまま、彼女がアートの世界に没頭していく様子を感じた。
数十分が経過し、僕の太ももは完全に痺れてしまった。
「できた! 村上くん、お疲れ様。」
「やった、助かった。」
僕は立ち上がり、硬直していた体を伸ばしながら、彼女のスケッチに近づいた。
鉛筆で描かれた線の中には、どこか虚弱で疲れ果てた雰囲気が漂っていた。削げた顔、痩せた体、乱れた髪。僕のクマってこんなに目立ってたのか?
「なんだか、この人すごく疲れてるみたいね。ずっと夜更かししてるんじゃない?」戸塚さんは自分の絵を見つめながら、独り言のように話し始めた。
「確かに。そして、この人ってさ……」僕は親指と人差し指で顎を支えながら、わざと真剣そうに言った。「毎日ずっと原稿を書いてるやつだね。」
「本当に冗談好きだよね。」戸塚さんは僕をチラッと見てから、また自分の絵に視線を戻した。「でも、似てるね……」
僕はスマホを取り出し、カメラアプリで自撮りモードを開いた。そこに映ったのは、目の下に大きなクマを抱えた高校生の姿だった。
*****
だいたい夕方6時頃、僕と戸塚さんは学校近くのレストランで夕食を済ませた後、この辺りで一番大きな書店、「Netro Book Store」へ向かった。この書店は普段からお客さんが多いことで知られていて、蔵書の量も豊富だ。僕もよく通うお気に入りの書店の一つだ。
戸塚さんは僕と話すとき、いつも話題を切り出そうとする役割を果たしてくれる。
「村上くんの小説を読んでいると、自分の考えが誰かに理解されているって、本当に実感できる時があるんだよ。」
「どうして?」
「なんとなく、文字を読んでいるとき、自分の思いを受け止めてくれる人がいる気がして、それが物語の中に映し出されているように感じるの。」
戸塚さんは一瞬言葉を止め、再び口を開いた。
「誰かに自分の気持ちを伝えたいと思ったとき、私は好きな本の中に没頭することが多いんだ。本の中の世界は、私の考えを否定せず、それを形にしてくれるから。」
僕の隣を歩く戸塚さんは、時折僕の小説について触れてくる。どの場面で共感したのか、どの部分で心が動かされたのか――そんな感想を丁寧に伝えてくれる。
僕はただの聞き手として、遠慮なく彼女の感想を受け止めることができた。
「幸いなことに、村上くんの作品を読んだおかげで、村上くん自身のことも前より少し分かるようになったよ。」
話をしている間、戸塚さんの笑顔には、自分の好きなものへの熱意がはっきりと表れていた。
一方で、僕には彼女ほど尽きることのない熱意はない。
「正直言うと、僕も君の絵をもっと見て、君のことをもっと知りたいと思ってるんだ。」
「えっ……? えぇ!? 」戸塚さんが驚きの声を上げた。
「どうしたの?」
「あ、いや……なんでもない。ただ、その……私、まだ自分の作品を人に見せるのに慣れてなくて……。」
戸塚さんの恥ずかしそうな声色は、これまで彼女から聞いたことがなかったものだ。
「でもさ、今日だって漫画のコマ割り見せてくれたじゃん。」
「あれは別!!!」
戸塚さんは自分の声が大きくなったことに気づいて、慌てて顔を背けた。
「話しても……たぶん、村上くんには分からないと思うし……」戸塚さんは小さな声でつぶやいた。
彼女は徐々にうつむき、しばらく黙り込んだ。夜道の街灯が彼女の頬を照らし、まるで枯れそうな花のように蒼白で儚げだった。
「無理して見せなくてもいいから、気にしなくていいよ。」僕は彼女を慰めるように言った。
「大丈夫。ただ……少し準備がいるだけ。」彼女は顔を上げ、落ち着いた声で言った。「それより、書店に行った後、君に渡したいものがあるから。楽しみにしててね。」
「分かった。楽しみにしてるよ。」
戸塚さんが自分のことについて何か隠しているような気がしたけれど、彼女の気持ちを尊重して、僕はそれ以上追及しないことにした。
書店に到着した僕たちは、小説コーナーを一通り見て回った。
戸塚さんは「文化」棚に置かれていた一冊の小説を手に取り、僕の目の前で振ってみせた。「芥川神之助先生も、私の超・推し作家の一人だよ!」
「それって『ナイロンで作られた三味線』だよね。確か、西洋の現代文化と東洋の伝統文化が交錯する物語だったはず。」
「その通り!さすが『知識の泉である作家様』!」戸塚さんは本を棚に戻し、続けて言った。「みんな、この作品は西洋文化が東洋文化に浸透する悲しみを描いているって思うよね?でも、私には全然違うものに見えるんだ!」
「ほう?」
「私の考えでは、この小説が伝えているのは、人間として環境の限界を超えてしまう悲劇だと思うんだよね。」
「どういうこと?」
「三味線を作るには、もともと動物や植物の素材が使われていたんだ。例えば、猫の皮、象牙、絹糸、インド産の紫檀とかね。」
戸塚さんは一度喉を整えて、続けた。「でもね、西洋文化の流入によって、三味線の製作方法が変わったんだ。
たとえば、三味線の本体は相変わらず木材が必要だけど、本来猫皮が使われていた部分は合成ゴムに置き換えられて、象牙は硬いプラスチック、絹糸はコストが低いナイロン紐に取って代わられたんだよ。
最初は、『工業素材を使うと三味線の伝統的な姿が損なわれる!』って抗議する人も多かったけど、西洋文化を支持する日本人の一人がこう言ったの。『これで動物を殺す必要がなくなるじゃないか!』
でも皮肉だよね。工業素材を作ること自体が、環境を悪化させるんだから。それこそ、もっと残酷な方法で環境を殺してるようなものだよね?」
「確かに。」僕は頷いた。
ここまで話を聞いて、戸塚さんの言いたいことがだいたい分かった気がする。
「もしかして、戸塚さんって……『人間の虚無主義』を崇拝してるの?」
「それが一番最悪のケース。でも、私はそんなの嫌だ……。」戸塚さんはため息をついて、「芥川先生がこの作品を書いた時、どんな気持ちだったのか、想像するのが難しいな。」
「分かるよ。でもさ……」僕は指差して、書店のカウンターで丸くなっている猫を示した。「あの猫、たぶん店長の飼い猫だよね。君は、あの猫が僕たち人間をどう見てるのか、分かる?」
「かわいいね。」戸塚さんは手を揉みながら、その猫をじっと見つめた。「きっと、次のご飯はいつくれるんだろうって考えてるんじゃない?」
「僕も同じ考えだよ。」僕は軽く咳払いして、「たまには猫を見習うべきだよね。何も気にしないで生きるのって、悪くないと思うんだ。」
「ぷっ、ははは!その通り!」戸塚さんは声を上げて笑った。「よく聞くけど、取り越し苦労する人って、鬱になりやすいんだってさ。」
「そうだね。」僕も返事をした。
僕たちは物語の中の革命家じゃない。僕たちの使命は、ただ人生を楽しむことだと思う。
その後も、お互いに好きな小説を紹介し合い、それぞれの作品について意見や感想を語り合った。
しばらくして、戸塚さんが何かを思い出したようだった。
「そろそろ帰らないとね。」僕が言った。
「確かにね。でも、ちょっと待っててくれる?隣の画材コーナーに寄ってくるから、すぐ戻るよ。」戸塚さんは僕の肩を軽く叩いてそう言った。
「分かった。じゃあ、入口で待ってるよ。」
*****
少しして、戸塚さんがゆっくりと書店から出てきた。
「はい、これ。」戸塚さんは僕に紙袋を差し出した。「前に言ってた、プレゼントだよ。」
「ありがとう。」中に何が入っているのか分からなかったけど、僕は感謝の気持ちを込めてそれを受け取った。
「家に帰ってから開けてね。」戸塚さんが注意するように言った。
彼女の真剣な表情を見て、僕はすぐに頷いた。
「今日は一緒に書店を回れて本当に楽しかった。また今度……」戸塚さんは視線をそらしながら言葉を続けた。「……また誘ってね。」
「うん……分かった。次もまた一緒に行こう。」
戸塚さんと別れた後、僕は一人で家に向かって歩き始めた。
紙袋の中身が気になって仕方がなかったけど、家が近かったので、すぐに彼女のプレゼントが何か分かるだろう。
いくつかの通りを歩き、いつの間にか家の前にたどり着いていた。
僕はしばらくの間、親戚の家に住んでいる。ここは神戸高校のすぐ近くだ。もし両親と一緒に住んでいたら、こんなに遅く帰ったらきっと厳しく叱られていただろう。
「ただいま。」
「お兄さん、おかえり。」
玄関で僕を出迎えたのは、2歳年下の従妹、村上紗樹だった。
「ちょっと待って!説明して!」紗樹が怒った時によく言う台詞が飛び出した。
「僕、何か悪いことした?」
「女の子とデートしてたでしょ!」紗樹はそう言い、「どうして分かったかって?それはもちろん、女の第六感よ!」と胸を張った。