第3話:小悪魔と彫刻
麻里さんが弁当を取りに行った後、僕はその場に一人で立ち尽くし、全身が溶けてしまいそうな感覚に襲われた。
これは暑さのせいなのか、それともさっき麻里さんが近すぎたからだろうか?僕は頭を振って、なんとか落ち着こうとした。
*****
僕と麻里さんは教室で向かい合って座っていた。昼休みになると、教室には自然と人が集まってくる。友達と一緒に昼ご飯を食べる生徒が多いけれど、僕はどちらかといえば一人で食べたい派だ。
「村上くんって、コンビニのおにぎりが好きなの?それともお弁当を作るのが面倒だから?」
「ん……まあ、たまに便利だからってだけかな。それに、君には関係ないだろ。」僕は麻里さんが僕のおにぎりにそこまで興味を持つ理由が分からなかった。
「そうなの?じゃあさ、私が作ったお弁当、食べてみる?」麻里さんは弁当箱を開けながら、さらっと言ってきた。
「いや、遠慮しとく。」僕は苦笑いを浮かべた。
「え~、残念~。」麻里さんは言いながら、「そういえば、村上くんは何か部活に入る予定はないの?」
「うーん……正直、どこにも入るつもりはないかな。」
「えぇ~?ダメだよそれ!高校生なんだから、ちゃんと部活に入って青春しないと!」麻里さんは楽しそうに言い、太陽のような笑顔を浮かべた。「じゃあさ、村上くん、一緒に『ボードゲーム部』を作らない?」
「ボードゲーム部?」僕は不思議そうに聞き返す。「学校にはすでに色んな部活があるんじゃないの?なんでわざわざ新しい部活を?」
「村上くん、知ってる?ボードゲームって世界で一番面白い遊びの一つなんだよ!頭も使うし、想像力やひらめき力も鍛えられるんだから!」
麻里さんは箸を置き、両手で顔を支えながら真剣な顔で僕を見つめた。「でもね、今の学校の部活には、みんなで座ってボードゲームを楽しめる場所が全然ないの!」
「君、ただ単にボードゲームがやりたいだけだろ。」僕はツッコんだ。「それに、新しい部活を作るのって結構面倒なんじゃない?」
「だからこそ、頼りになる助手が必要なんだよ!」麻里さんは僕を見て、期待に満ちた目を向けてきた。
「え?僕?」思わず驚いて、手に持っていたおにぎりを落としそうになった。
「そうだよ!村上くんって小説を書いてるでしょ?それって頭がいいってことだよね。きっと面白いイベントの内容をたくさん考えられるはず!それにさ……」
麻里さんはわざと声を潜め、顔を近づけてきた。「運動系の部活、あんまり好きじゃないでしょ?」
僕はその言葉に驚いて、慌てて身体を後ろに引いた。
「そ、それは……」図星を突かれて、言葉に詰まった。
「それにさ、ボードゲーム部を作れば、部活の活動を小説のネタにもできるじゃん?面白そうでしょ?」
「……確かに、それは悪くないかも。」僕は頭をかきながら言ったが、それでもまだ少し迷っていた。
「それにね、ボードゲームって村上くんにピッタリだと思う!頭が良くて観察力がある人ほど、絶対に強くなれるんだから!」麻里さんは真剣な顔で言う。
「頭がいい?どこを見てそう思ったんだよ?」
突然、麻里さんは僕の手を握り、顔を近づけてきた。「村上くん、私、本気で誘ってるんだよ。お願い、一緒にやろう?」
さっきからの麻里さんとのやり取りで、僕は彼女との距離感が分からなくなりつつあった。
「でも……部活を作るには、メンバーが僕たち二人だけじゃダメだろ?」
「心配無用!もう何人か候補は見つけてあるから!」麻里さんは自信満々に言った。「安心して、村上くんがいれば学校もきっと承認してくれるよ!」
麻里さんはその親しみやすい外見と明るい性格で、中学時代から友達が多かったらしい。学校でも人気者だから、メンバー集めなんて彼女にとって簡単なことだろう。
「黙ってるってことは……承諾したってことでいいんだね!!」
麻里さんは立ち上がり、両手を頭の上に掲げて叫んだ。「村上くんは絶対に手伝ってくれると思ってた!じゃあ、明日先生のところへ行って、部活設立の手続きを一緒に相談しようね!」
「え、ちょっと待って!」
彼女の嬉しそうな様子を見て、僕は苦笑いしながら頭を振った。正直、ここまで来ると断る気にもなれなかった。
「ところでさ、麻里さんの専門って何なの?」
「答える前に……」麻里さんはわざと間を置いて、「まずは私のこと、『香織』って呼んでみない?さあ、言ってみて。」
こいつ……悪魔か?
「やだよ……」僕は顔を背けた。
「もういい、話したくないなら無理に言わなくていいよ……」
そう言いつつも、彼女は僕を放っておかなかった。「それで、私の専門って何だと思う?」麻里さんはさらに身を乗り出して、顔を少し下げ、期待に満ちた目で僕を見つめてきた。「当ててみてよ、樹雨くん~」
「うーん……」僕はわざと考え込むフリをしながら言った。「もしかして……ボードゲーム?」
麻里さんは吹き出すと、僕の肩を軽く叩いて笑った。「あはは、樹雨くんって本当に私のことよく分かってるね!……でもね、私をそんな簡単に見抜けると思わないでよ。」
彼女の笑顔が少し収まり、視線が横に逸れた。そして声のトーンを落としながら言った。「私ね、チェスの駒やカードみたいに見えるものを、人の心を動かすものに変える方法を研究してるの。」
「……それで?」僕は眉をひそめ、少し警戒しながら問い返した。
「だからね、ボードゲームはただの遊びじゃないんだよ。」麻里さんは背筋を伸ばし、両手を腰に当てて得意げな顔をした。「人の心を見透かし、時には操ることだってできる。樹雨くん、私の実験台になってみない?」
「実験台?」僕は手に持っていたおにぎりを強く握りしめ、彼女を警戒しながら見つめた。「変な方法で私を実験しようなんて思わないでよ!」
「まぁまぁ、そんなに怖がらないでよ、樹雨くん。」麻里さんは僕の頭をポンポンと軽く叩いてきた。「安心して。絶対に面白いから。」
「面白いって……何がだよ……」僕は小声でぼそっと呟いた。
その言葉を聞いた麻里さんはさらに楽しそうに笑い、くるっと振り返って手を振りながら言った。「ふふっ、もうからかうのはおしまい。部活が無事にできたら、その時に教えてあげるね!」
彼女に完全に弄ばれたことに気づいた僕は、手元のおにぎりに視線を戻し、黙々と昼食を片付けることにした。
*****
放課後のチャイムが鳴った後も、僕はずっと教室の席に座り続けていた。
今朝の戸塚さんとの約束が、ずっと頭から離れなかった。
「戸塚さんに送ったメッセージも既読がつかないし、まだ授業中なのかな……。」僕はチャット画面を見つめながら、少し憂鬱な気分になった。「もう30分も経ったけど、ただ待っているのも仕方ないし、探しに行ってみるか。」
僕は歩きながらスマホを開き、学校の公式サイトで公開されている「神戸高校のマップ」を確認し、美術教室がないか探し始めた。
「あ、見つけた。」僕は指先でA4棟の4階に触れる。「よし、A1棟繋がってるから、階段を上る必要はないな。」
戸塚さんが本当にそこにいるかは分からないけど、行ってみる方がいいだろう。
夕陽がゆっくりと傾き、周りが少しずつ暗くなっていくのを感じながら歩いた。すれ違う生徒たちの会話、木々に鳴く蝉の声、途切れることなく吹く風の音――すべてが学校の日常の一部として溶け込んでいた。
数分後、僕は美術教室の前に辿り着いた。扉は開いていて、電気は消えているものの、夕陽の光が部屋全体を優しく照らしていた。僕は静かに教室に足を踏み入れた。
他の「美術」専攻の生徒たちはもう帰ったらしく、教室には戸塚さん一人だけが残っていた。彼女はイーゼルの前に座り、鉛筆で描かれたプラトンの彫刻をじっと見つめている。僕の存在には全く気付いていないようだった。
しばらくすると、戸塚さんは鉛筆を手に取り、彼女の描いた彫刻に立派な八の字髭を加え始めた。
「ぷっ、はははっ!」思わず笑い声がこぼれた。
「うわっ、えっ? 誰!?」
戸塚さんが慌てて立ち上がり、こちらを向いた。「村上くん?」
「面白いなあ、戸塚さん。」僕はまだ笑いを堪えきれなかった。「それって、課題か何か?」
「違うよ、これは自分で描きたくて描いたの。」戸塚さんは少し自信ありげに言うと、ふっと柔らかい表情になった。「あ、そうだ! 私たち、これから本屋さんに行くんだったね。夢中で描いてたら、忘れるところだったよ。」
「気にしないで。」どうやら、メッセージを読まなかったのはそのせいだったみたいだ。
「でもね……その前に、ひとつお願いがあるんだ。」戸塚さんは視線を少し逸らし、声を小さくした。
「お願い?」
「私の、モデルになってくれないかな?」
「モデル?」僕は疑問の声を上げた。
「そう。人体の細かい描写をもっと練習したくてね。だから、お願い、モデルになってほしいの!」戸塚さんは真剣な表情で、じっと僕を見つめてくる。「もちろん、手伝ってくれたお礼はちゃんとするから!」
「……それで、僕は何をすればいいの?」
「そこの椅子に座って、動かないで。それから……私の目を見て!」
なんだろう……なんだか、ちょっと恥ずかしいな……。