第15話:ルールと美食
僕はいつも、日常の些細な出来事を文学作品にどう組み込むかを考えている。リアルで親しみやすい雰囲気を出すためには、それが不可欠だからだ。
さらに、物語の中で意外な展開やどんでん返しがあると、読者はページをめくる手を止められなくなる。
もちろん、ストーリーの面白さ以上に僕が重視しているのは、物語の世界観がどれだけ説得力を持つかだ。
そのためには、物語自体の構成を考え抜く必要がある。だけど、もし読者がその世界に没入し、物語の主人公になったとしたら? 非日常的で奇妙な出来事でさえ、一つ一つが解くべき謎に変わるだろう。ちょうど科学者が宇宙の真理を解明しようとするようにね。
そして、その謎の答えこそが、作者が伝えたい人生哲学そのものなんだ。
「村上さん、考えごとしてるんですか?」
有馬の声が、僕を内なる世界から引き戻した。
ふと目をやると、有馬のノートが視界に入った。そこには整然とした文字が並び、まるで印刷物のようにきれいだった。ノートの見出しには「古久保先生おすすめ書籍」と書かれている。
最初に挙げられていたのは『Pride and Prejudice』。傲慢(Pride)な男性主人公と偏見(Prejudice)を持つ女性主人公が、お互いを嫌っていたところから始まり、徐々に相手の不完全さを受け入れて恋に落ちるという物語。現代のロマンチックな恋愛小説の基本的な構図を築いたとされ、多くの後続作品に影響を与えた名作だ。
二冊目は、同じ作者の『Sense and Sensibility』。理性(Sense)と感性(Sensibility)の対照的な視点で人間関係を見る二人の姉妹を描いている。恋愛だけでなく失恋や結婚といったテーマも掘り下げられていて、読む者に深く考えさせられる作品だ。
三冊目は『Wuthering Heights』。第三者視点で語られる物語で、複雑な恋愛関係に巻き込まれた主人公の復讐劇が描かれている。人間関係の軋轢や誤解、愛憎入り混じった展開は、まさに元祖ドロドロ劇といえる内容だ。
どれも外国文学の名作ばかりだ。
僕はこれまでいろんな小説を読んできたつもりだけど、外国文学となると英語という壁が立ちはだかる。結局、翻訳版に頼らざるを得ないのが現状だ。
ストーリーの本質を完全に理解するためには、作者の立場で考える能力が必要だろう。だけど、言語や文化の違いを考慮すると、いくら優れた翻訳作品でも、原作の玄関先に立つくらいが精一杯で、その全貌を味わうのは難しい。
「僕は次の授業はあまり興味がないんですけどね。むしろ記事の段落分析でもやったほうがいいと思いません?」
有馬くんは僕をじっと見つめながら、小声でそう言った。
「うん、まあ、そうかもね。」
僕は適当に相槌を打った。
「それじゃあ、村上さん、『文学対決』について少し聞いてくれませんか?」
その自信満々の態度が、どうにも気に食わない。僕はそもそも有馬の文学対決なんて承諾した覚えはないし、彼が僕に「君を打ち負かすつもりだからね」と言ってきたときから、あまりいい印象を持っていない。
「対決って話なら遠慮しておくよ。」
僕はやんわりと有馬の誘いを断った。
「やっぱりそうですか。」
有馬は僕の言葉の意味を察したのか、自分のノートを黙々と開き、それを僕の目の前に差し出した。
視界に入ったのは、まるで印刷物のように整った文字列。その美しい字面に思わず見入ってしまった。
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執筆大会(暫定)
項目:短編小説執筆
参加者:有馬真司、村上樹雨
審査員(進行役):古久保先生
評価方法:
クラス会でクラスメートによる投票を実施。
ルール:
1. 執筆内容や文字数に制限はないが、物語として完全な内容を持つこと。
2. 次月初めの月曜日の朝までに執筆を完了し、古久保先生に提出すること。
3. 審査後に問題がなければ、クラスメートに回覧される。その後、各自の好みで投票を行う。なお、古久保先生および参加者は投票に加わらない。
4. クラス投票によって勝者を決定。絶対多数決を採用し、票数が多い方が勝利とする。
5. 投票結果が同数の場合、古久保先生が投票権を行使できる。ただし、先生が投票しない場合、再投票を行う。
6. 有効票数がクラス出席者の3分の2に満たない場合は、再度投票を行う。
7. クラス出席者が40人未満の場合、別の日に投票を行うこと。
8. 古久保先生には投票結果を「却下」する権利がある。この権利を行使した場合、無条件で投票結果を無効とし、再投票を行う。
9. クラス投票が4回繰り返されても結果が出ない場合、再度執筆を行い、新しい作品で上記のルールに基づいて評価を実施する。
10. 比賽結果が確定した後、敗者は勝者の1つの要望を聞き入れること(ただし、良識に反しない範囲とする)。
11. 上記のいずれかのルールを任意に変更することはできない。
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まったく、この男、本気らしい。
とはいえ、有馬がどれだけ慎重に考えて決めたことであろうと、僕がその頼みを聞く義務なんて欠片もない。
「やっぱり君は断るか。」
有馬が口元を軽く歪め、笑った。精緻な顔立ちにその表情は妙に似合っていて、きっと多くの女子を虜にするだろう。
残念ながら、僕は完全なノンケだ。
再び意識を授業に戻す。「鑑賞文学」の教室には、古久保先生のクリアで力強い声が響き渡る。その声と、チョークが黒板を走る音のリズムが妙に心地よくて、まるで中学時代の教室に戻ったかのような錯覚を覚えた。
前回の文学講義とは異なり、今回は随分と骨の折れる「知識ポイント」がテーマらしい。
例えば、今日の授業の主軸となったのは「文学構造」という概念だ。
これはグッドマンという学者が論文で提唱した理論で、一つの作品における「各要素」がどう相互作用して「全体」を形作るのかを論じているものだそうだ。
先生が用語の解説を続ける中、僕はその意味を必死に理解しようと努め、持参したノートを開いて黒板の重要そうな単語や定義を書き留めていった。
どうやら僕はこの学校の授業方針について、ちょっと楽観的すぎたようだ。勉強のどの段階においても、必ず何かしらの重荷が付きまとうものらしい。
「個別の事例の特徴を見て、そこから全体の共通する特徴を推測する。それを『帰納推理』という。」
一通り黒板の内容を書き終えた頃には、すっかり集中力が切れていた。ふとしたきっかけで、さっき有馬が見せてきたノートに書かれていた「執筆大会」のルールを思い出す。
その間、有馬は僕が考え事をしているのを無視して、ひたすら話しかけてきていた。授業中ということもお構いなしに。
「ねぇ、村上先生、君、何してるんだい?」
肩をポンポンと叩かれるたびに、イライラが募る。「さぁ、どうする?やるのかい?」
次の授業では絶対に有馬の隣にならないようにしようと心に誓った。
「なんで僕と対決する必要があるんだよ?」僕は面倒そうに尋ねた。「他にも相手ならいるだろう?例えば脂肪くんとか平岡さんとか。」
「うーん、それがね……」
有馬は歯切れが悪い。何か言いづらい理由でもあるのだろうか?
もしかして……僕のことを尊敬しているのか?いやいや、それで切磋琢磨しようだなんて……そんなことがあるはずがないだろう。
「実は……」有馬は大きくため息をつきながら、意を決して言った。「……君と対決するのが、一番難易度低そうだからね。僕が勝つ確率が高いと思ったんだよ。」
おいおい、なんだそれ。思わず胸にモヤモヤとした挫折感が広がった。
*****
昼食の時間、僕は赤郎と麻里さんの仲を進展させるため、二人きりでランチを取らせることにした。
「赤郎、頑張れよ。」
僕は真剣な口調で彼を励ました。
「きくんがいないと、俺、緊張で何もできなくなるってば!」
赤郎は一人で麻里さんと食事をすることに不安を抱いているようだ。
「いつも通りの赤郎でいればいいさ。そしたら緊張なんてしないよ。」
僕は彼を慰めるように言ったが、正直、自分で言いながらその言葉の薄っぺらさに苦笑してしまう。
幸い、赤郎は深く考え込む性格ではない(悪気はない)。僕の言葉に特に異論は挟まず、「俺、麻里さんに気持ちを伝えるチャンスを掴むから!」と力強く宣言した。
どこかで繰り広げられるグリーンカレーと唐揚げの邂逅を思いつつ、僕は教室を離れ、期間限定のオムライス味のおにぎりを手に持ちながらA2棟へと向かった。
そこには神戸高校内の生徒と教職員が共用する食堂がある。清潔なテーブル、スピーディーに提供される弁当、そしてランチを楽しむ人々の姿が、食堂全体に忙しない雰囲気を醸し出している。
僕は厨房の近くのテーブルを適当に選んで座った。
周囲の人間が一人で昼食を取る僕をどう見ていようと気にしない。むしろ気になるのは、彼らがどんな会話をしているかということだ。それは時に小説のインスピレーション源になる。
日常的な会話――
「しぶこちゃん、高校生活には慣れた?」
「うーん、まだ慣れないよ。なんか時間がギュッと詰まった感じ。」
「分かる分かる。課題や部活に恋愛とか、全部が多すぎて面倒くさいよね。」
「え?さくらちゃん、部活入ったの?中学時代は『部活絶縁体』って言ってたのに。」
「だって、好きな部活が見つからなかっただけだもん。」
「で、どの部活にしたの?そんなに気に入った部活って。」
「それは……秘密。」
「え~、気になる~!」
こういう会話を耳にするのは面白い。例えば、さっき話していたさくらちゃんは、同じクラスで美術専攻の奈良櫻だ。普段は教室で一人でいることが多い印象があるので、友人と楽しそうに話している姿を見るのは新鮮だ。
僕はおにぎりの包装を開けて、一口、また一口と頬張った。オムライスの風味が口いっぱいに広がる。
「おい、あんた、そこで何してるとね?」
最後の一口を食べ終えようとした瞬間、不機嫌そうな声が背後から響いた。
振り返ると、エプロンを着け、フライ返しを手に持った女の子が立っていた。蜂蜜色の巻き髪には、カラフルなヘアピンがいくつも留められている。視線を奪って離さない、魅惑的なボリュームのある体つき。小麦色の肌に、日本と海外の血が交わったかのような端正な顔立ち。そのすべてから溢れ出すのは、止まることのない眩しいほどのエネルギーだ。
正直、こういうギャルは僕の苦手なタイプだ。
「あ……すみません、ここでお昼を食べていただけです。」
僕はおにぎりを掲げながら、ぎこちなく笑った。
「はぁ?ここは食堂ばい?それなのに、なんで自分、外から持ち込んだもんば食べとるとね?」
ギャルはガムを噛みながら、苛立った表情を浮かべた。
ギャルの隣には移動式のワゴンがあり、料理道具と湯気を立てる大鍋が載っている。
漂ってくる香りは……シチュー?
「何見よっと?自分、あの変なもんば食べる気ね?」
ギャルは僕が持っていたおにぎりを指差し、まるでゴミを見るかのような目を向けてきた。
「あ、いや、これって……普通のおにぎりですよね?」
僕は自分の手元を見下ろして、少し困惑気味に答えた。
「こんなもんが『おにぎり』やと?冗談にもほどがあるばい。」
ギャルはため息をつきながら、ワゴンの横に置いてあった皿を手に取ると、「ほんとの『食べ物』ってやつば、見せちゃるけん。」と大鍋からシチューをすくって皿に盛り始めた。
ギャルの喋り方はちょっと苦手だけど、ギャルは有馬に次ぐクラスのもう一人の陽キャで、その名前は熊澤金珠。
「ご飯も添えたほうがいいと?」
「いや、それは……」
「ほら、食べてみ。」
「え、でも……」
「よかけん、文句言わんで食べんね。」
ギャルは皿を僕の手に押し付けると、「感想ば、あとで聞かせてよ。」と一言。
皿に盛られたクリームシチューから漂う香りに、僕は思わず喉を鳴らした。
見た目も完璧だ。鶏肉、じゃがいも、にんじんがクリーミーなソースに包まれている。
「じゃあ、いただきます。」
僕はフォークを手に取り、じゃがいもを一口食べてみた。
口に入れた瞬間、舌先から体中に温かさが広がった。バターの風味とガーリックの香りが絶妙に調和していて、それでいてくどくない。柔らかく煮込まれたじゃがいもはほっくりとした食感で、思わず次の一口を食べたくなる。
「どうね?うまかろう?」
ギャルは腰に手を当て、得意げな表情を浮かべていた。
「美味しいです。」
僕は素直に頷いた。
「それは当たり前ばい!」
ギャルは大きく笑い、「私、特才クラスで唯一の料理専攻やけんね。将来のミシュランシェフたい。」と胸を張る。
この味を出せる高校生なんて、普通じゃない。
「本当ですか?」
「信じられんと?ま、よかよ。ところで、村上くんやろ?今まで話したことなかったね。」ギャルは僕が食べ終えた皿を指差し、「せっかくあげたんやけん、お返しに友達にならんね?」
「えっと……はい、いいですよ。」
正直、陽キャとどう接すればいいのか未だに分からない僕には、これが精一杯の返答だった。
「なんや村上くん、あんまり乗り気やなさそうやね。」
ギャルは少しふくれっ面をしたが、「まあ、無理強いはせんけどね。」と肩をすくめた。
「いや、そんなことないです。ただ……慣れるのに時間がかかるだけで。」
「ぷっ、なんそれ!おもろかー!適応せんといかん友達なんて初めて聞いたばい。」
ギャルは笑いながら手を振り。「ほんなら、またね。厨房に戻るけん。」
厨房に戻るってことは、この学校でランチを作ってるのか?
「学校で料理してるんですか?」
「そうばい。入学試験のとき、私の料理が評価されてね。そいで、学校の専属シェフになったとよ。」ギャルは自信満々に答えた。
学校が生徒をシェフとして雇うなんて、そんなの初めて聞いた。




