第1話:ファンと画室
新入生登録を終えた翌日、それは僕にとって高校生活最初の日だった。
昨日の遅刻を反省し、今日は早めに起きることにした。
「村上くん、今日は随分早いね。」
校舎の廊下を歩いていると、聞き覚えのある声が隣から聞こえてきた。「あ、私の名前は戸塚薊七海。昨日も声をかけたんだけど、覚えてる?」
そちらに目を向けると、やはり昨日少し気恥ずかしい思いをさせてくれた彼女だった。
「ああ、君はあのファンだよね。」
「うん!村上くんが書いたネット小説、全部読んでるよ!本当に面白い!」
彼女は廊下で僕の前に立ちふさがるように話した。
「そう?ありがとう……」
そう、僕は村上樹雨。ネットで短編小説を書いている身として、こういう状況にはもう慣れっこだ。
しかし、そうは言っても、自分はどこにでもいるような凡人だと思っている。才能が六角形のグラフで表せるなら、執筆以外はすべてゼロ点だろう。
戸塚さんの言葉は、普段ネットのコメントで目にする評価とは違い、直接耳に届くものだった。ネット上のコメントは極端に賛否が分かれることが多く、特に人気作品ではそれが顕著だ。
……なんだろう、少し感動してしまったかも。
「え?村上くん、嬉しそうだね。てっきり、有名なネット作家なら、こういう評価には慣れっこだと思ってたけど。」
戸塚さんは僕の表情を見て、わざとらしく首を傾げる。
「はは、実際には直接の賞賛を受けることはあまりないんだよ。ネットで見る評価と、面と向かって聞くのとでは全然違うからね。」
「本当に?ふふっ、何はともあれ、村上くんは私の超・推し作家だからね!本棚には君の出した本がずらりと並んでるよ!」
突然、戸塚さんは僕の制服の襟を掴み、教室の前の扉を開けて引っ張り込んだ。彼女に連れられながら、机と椅子の間を縫うようにして教室の最後列まで進んだ。
彼女は掲示板に寄りかかり、右手で教室の隅にある銀色の本棚を指さした。
「これ、学校の生徒会が募金活動の一環で設置したクラスの本棚なんだよ。見て!」
彼女は本棚に手を伸ばし、青いマットなカバーと文字だらけの帯が巻かれた一冊を取り出した。
それは僕の書いた作品の一つ、『泡沫という名の記憶』だった。
「ええっ、これが選ばれるなんて光栄だな!」
驚いたふりをしてみせる。
クラス本棚に並ぶ他の文学作品に視線をやると、一瞬だけ自分が「ジョージ・R・R・マーティン」や「J.K.ローリング」と肩を並べる大物作家になった気分になった。
「村上くんの作品って、普通に人気作どころじゃないでしょ?」
戸塚さんは私の本を両手で持ち、揺らしながら問いかける。「作家として、読者のネットコメントをちゃんと読んでる?」
……どうして作家だからってコメントを読む必要があるんだろう?
「まあ……読んでるかな。」
苦笑いを浮かべる。「でも最近はあまり見てないけどね……」
ネットコメントは極端な意見が多く、感情的な嵐に耐えきれず、投稿サイトのコメント欄を閉じた経緯がある。それ以来、評価には無頓着を装っている。
そして、僕は有名な作家になりたくて書き始めたわけじゃない。だから、僕の書いた物語を誰かが読むかどうかなんて、全然気にしなかった。だけど、名声が徐々に上がっていくにつれて、読者からの反応を無視することができなくなってしまったんだ。
もちろん、それは小説の人気と売上が正比例することを考えれば当然のことだ。小説の執筆を生活費の一部として考え始めるようになった僕は、筆の下にいるキャラクターたちを大衆の「好み」に合わせて形作るようになっていった。
「はあ、まあいいや。とにかく、次はちゃんと読者のコメントを確認しておくんだよ。」戸塚はそう言って顔をそらし、小さくつぶやいた。「せっかく……私だって……」
「え?今何か言った?」
「い、いや、何でもないよ。ところで、村上くん、午後の放課後に近くの本屋さんに一緒に行かない?面白そうな本を一緒に探してみたいな。」
「うん……いいよ。」顔が赤くなるのを見られたくなくて顔を背けた。「一応作家だから、結構いい文学作品も読んでるよ。」
戸塚は返事をせず、僕は彼女の方を見た。
彼女の紫色の長い髪が廊下から吹き込む風に揺れ、深い色の瞳は紫の中に光を宿しながらどこか漂うように視線を泳がせていた。
赤みがかった肌と洗練された顔立ちは、よく見れば意外と可愛らしく、新しいクラスでも人気が出そうだと思った。
しばらく沈黙が続いた後、戸塚薊奈は僕に視線を向け、「じゃあ約束ね!」と明るく言ったかと思うと、すぐに教室の窓の外に目をやった。「それにしても、こんなに早く教室に来る人なんていないよね。どこか席に座らない?」
僕と戸塚は席を見つけて腰を下ろした。「実はね、さっき同じクラスの男の子に会ったんだけど、なんか僕を見た途端に喧嘩腰になってさ。あんまり友好的な感じじゃなかったな。」僕は両手で拳を作って目元に当て、泣き顔のようにしてみせた。
「ははっ!村上くん、昨日喧嘩してたあの男の子のこと?」戸塚の笑い声が教室に響いた。「なんとなく覚えてるよ。彼、中学の頃すごく有名だったんだよね。ほとんどの人が彼のことを知ってた。」
「へえ?」
「彼の名前は神崎淮。私と同学年だけど違うクラスだった書虫だよ。校内順位は常にトップで、完全にお堅いタイプだった。」
「そんなにすごいの?でも、人をからかっちゃだめだよ。」
「特に彼の外国語の才能はすごいよ。ほとんどどんな言語でも、一言二言話せちゃうんだから。」
「マイナーな言語でも?例えばギリシャ語とか、アラビア語とか。」
「ダメだよ、それらは彼にとってメジャーな言語に入るから難しくないって。だけど、うーん……」戸塚の瞳が再び泳ぎ始めた。おそらくさっきのように、彼女の頭の中で何かを考え始めたのだろう。「『西夏語』だったら、神崎くんも分からないんじゃないかな。」
「はあ?それ何?せ……せいかご?」彼女が言ったマイナー言語というものは、僕にとって存在そのものが未知だった。
「ふふっ!それは『せいかご』だよ。中国の古代の支配範囲にあった異民族が作った言語で、その後その民族は独立して国を作ったんだよ。国の名前が『西夏』だったから、そう呼ばれるようになったの。」
「君って本当に賢いね。」
「えへへ、そんなことないよ。それでね、神崎くんはうちの学校の特別才能クラスに興味を持って、多国語の特技で入学してきたみたいだよ。」
それも納得だ。この神戸高校が設立した「特別才能クラス」は、この辺りではかなり有名な存在だ。専門の訓練だけでなく、数多くの就職機関がこの特別才能クラスの生徒との連携を求めている。
「戸塚さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。」
「聞いてるよ、知識の泉である作家様。」
なんだ、その呼び名は。
「君はどんな特技でこのクラスに入ったの?」
「美術だよ。絵を描くのが得意で、ここで自分だけのアトリエを持つのが夢なんだ。」
「聞いたことあるよ。このクラスでは生徒の特技に対して学校がいろいろと支援してくれるんだってね。」
「その通り!私は学校に独立したアトリエをお願いして、もっと集中して美術制作に取り組みたいなって思ってるんだ。」戸塚はそう言いながら、肩掛けのバッグから鉛筆でびっしり描かれた何枚もの原稿用紙を取り出した。
僕はそのうちの一枚を受け取った。それはどう見ても漫画のラフだった。
「村上くん、よく見てみて。」戸塚は身を僕の側に傾けた。「水彩や油絵にも触れてきたけど、最近は漫画のコマ割りに夢中なんだよ。」
僕は戸塚から残りの漫画原稿をもらい、10枚ほどに目を通した。そして驚きの声を上げた。「これ……!」
「ふふっ、バレちゃった。」
その漫画は、僕が書いた『泡沫という名の記憶』のある場面を元に描かれたものだった。
「村上くん、」戸塚が右手の人差し指を僕の手元にある原稿用紙にあてた。
「私はね、この作品を描くとき、ページを跨いだ構図にした方がいいと思うの。真ん中には女の子が車に轢かれるシーンを描いて、左側にはその女の子が怪我で血を流しているところを、右側には『記憶喪失』を表現するために泡が消えていくように描くのがいいと思うの。」
戸塚は場面やアイテム配置に関する自分の考えを次々に話してくる。正直、あまり理解できなかったけれど、自分の書いた文字がこうして現実の絵になって目の前に現れるなんて、心の中で複雑な気持ちが湧き上がってきた。
左手の時計をちらっと見ると、もうすぐ7時だ。
教室を見渡してみると、いつの間にか他のクラスメイトが入ってきていたのに気づく。もちろん、神崎くん以外は誰も知っている顔ではない。
「戸塚くん、もう授業が始まるね。」
「うん、そうだね。」戸塚は微笑みながら言った。「村上くん、新学期、よろしくね。」