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第14話:水彩と選択

日が地平線に沈み、空は徐々に暗くなり、周囲の空気は青黒く凝縮されていく。

僕と戸塚さんの足音だけが、静まり返った校舎の中に響いていた。この静けさが、少しだけ不気味な雰囲気を醸し出していた。


「懐中電灯、つける?」

僕が先に提案した。


放課後の校舎には明るい電灯がなく、滑らかな床には目に見えない障害物がたくさんあるようで、僕はつまずきそうだった。


「私は大丈夫だよ。」

戸塚さんは驚くほど落ち着いた声で答えた。「村上くんが暗闇が怖いなら、懐中電灯つけてもいいよ。私は気にしないし。」


「いや、別に怖いわけじゃないけど……ただ、暗すぎると何かに引っかかりそうで。」


「そう?でも……」

戸塚さんはくすっと笑って、「……この雰囲気、肝試しにぴったりじゃない?」


「肝試し?」


「このあたりにちょっとしたお化けの飾りでも置けば、完璧な肝試しコースになるかも!」

戸塚さんは楽しそうに体を左右に揺らした。「それにね、こういう怖い雰囲気って吊り橋効果を生むんだよ。」


「吊り橋効果?」

僕はその言葉を繰り返した。

「怖さからくる心拍数の上昇を、恋愛感情と勘違いしちゃう現象だよ。」


「その通り!」

戸塚さんの目が楽しげに輝き、何か企んでいるように見えた。


「もしかして、戸塚さんは肝試しが好きなの?」


「そうかもね。」

彼女はウインクをしながら、長いまつ毛をふわりと揺らした。


冗談を交わしつつ、僕は以前から気になっていたことを尋ねることにした。


「そういえば、さっき体育を休もうと思ってたって言ってたけど、それってどういう意味?」


「そのままの意味だよ。」

彼女の足が少しずつ遅くなった。「貧血気味だから、保健室で休もうと思ってたんだ。」


僕よりよっぽど正当な理由だな、と内心感心する。


「それで保健室に行ったら、先生はいなくて……村上くんがベッドで寝てるのを見つけたの。」

彼女は一瞬言葉を切った後、続けた。「それで、なんとなく気になっちゃって、つい見てたんだ。」


「なるほど。」

不本意ながらも、自分が寝顔を見られたことを想像すると、少し気恥ずかしい気持ちになった。


僕らは足を速めたが、校舎の中は相変わらず僕らの足音だけが響いている。

しかし、僕のそばで突然別の声が響き出した。その声は何度も繰り返されていて、思わず鳥肌が立つほどだった。


「フフ……ヒヒ……」


「フフ……ヒヒ……」


「フフ……ヒヒ……」


何だ、この声……!?

僕は周囲を見回し、戸塚さんの表情を見て、彼女が肩を震わせて笑っていることに気づいた。


「もしかして、戸塚さんが笑ってるの?」

僕は少し怒ったように問いただした。


「ごめんね、村上くん!さっきの保健室のことを思い出して……ププ……!」

彼女は耐え切れない様子で笑い始めた。


「もう、何がそんなに面白いんだよ。」


「本当にごめん!」

彼女は息を整えながら、「これで償いになるかわからないけど、ほら見て。」


僕たちは戸塚さんのアトリエに足を踏み入れた。視界が暗く、周囲の様子はよく見えなかったが、街灯から差し込むわずかな光を頼りに、戸塚さんが指差している壁に掛かった目を引く一枚の水彩画を見つけた。


キャンバスには夜の闇が広がり、静寂で深い雰囲気を醸し出している。戸塚さんがアトリエの照明をつけたが、壁に掛かったその水彩画がもたらす重苦しい感覚を払拭することはできなかった。


黒を基調とし、グレーがかった青が縁から中央に滲み込んでいる。時折散りばめられた白が、全体の背景と鮮やかなコントラストを成していた。


僕はその絵の前に立ち、絵が伝えようとする感情を理解しようと懸命に目を凝らした。


この絵は、きっと戸塚さんの心の内を描いたものに違いない。


「なんだか、この絵、すごく静かだね。」


「そうでしょ。」

戸塚さんは窓際に寄りかかり、穏やかな声で続けた。「これ、夜の湖なんだ。」


「湖?」

僕は少し戸惑いながら、視線をその一番濃い黒の部分に向けた。


戸塚さんはふっと笑い声を漏らし、紫の長い髪が肩でふわりと揺れた。「そうかもしれないね。実は、この絵を描いているとき、湖の水と夜空って大して違わないなって思ったんだ。」


「どういうこと?」


彼女は首をかしげながら少し考え、視線をキャンバスの左下に移した。

「こんな感覚を持ったことない?夜、湖のほとりに立つと、水面がまるで鏡みたいに静かで、星がその上に映り込む。そんなとき、湖のほとりにいる人は、どこが空でどこが湖なのか分からなくなるんだよ。」


僕はうなずきながら、この絵が少し具体的に感じられるようになった。「そう考えると……確かに湖面みたいだね。」


「実はね、」

戸塚さんが少し近づいて、低い声で言った。「この絵にはね、秘密が隠れているんだ。」


「秘密?」

僕は少し驚き、戸塚さんの言葉に耳を傾けた。


彼女は筆の柄の部分でキャンバス中央の深い黒の部分を軽く指した。「ここ、よく見てみて。ぼんやりと人影が見えるでしょ?」


彼女が指差す方向をじっと見ると、確かに黒の中に微妙な輪郭が浮かんでいる。まるで誰かが湖のほとりに立って、夜空の映り込みを見つめているかのようだ。


「これって……?」


「あれは私自身よ。」

戸塚さんの声は、まるで今日の天気の話でもしているかのように平静だった。


「君自身?」

僕はそのぼんやりとした人影を見つめながら驚いた。「どうして自分を描いたの?」


「だってね、」

彼女はどこか含みのある微笑みを浮かべた。「描き終わったあと、どうしても自分をこの絵の中に留めたかったんだ。」


僕は少し俯いて考え込んだあと、さっきベンチでの彼女との会話を思い出し、顔を上げた。「この絵、実は共感できる部分が結構あるよ。」


「本当?」

戸塚さんは首をかしげ、目に柔らかい光を宿して僕を見た。「どんなことを感じた?」


「少し……孤独かな。」

僕は適切な言葉を探しながら答えた。「でも、その孤独の中に、どこか説明できない温かさも感じたよ。」


戸塚さんはふっと微笑み、目をキャンバスに向けた。「それはね、きっと湖のほとりのその人が、まだ誰かがこの絵を見てくれているって知っているからだと思う。」


彼女の言葉に、僕は一瞬言葉を失い、少しぎこちなく笑ってみせた。


戸塚さんの微笑みは、まるで静かな湖面の波紋のように広がっていく。


「もし友達が欲しいなら……」

僕はゆっくりと言葉を選びながら言った。「麻里さんや赤郎なんていい人たちだと思うよ。」


「そうなんだ……」

戸塚さんは小さく息を吐いた。「でもね、私が欲しいのは君だけなの。」


「え?」

僕は彼女の言葉の意味を測りかねて問い返した。「それってどういうこと?」


「なんでもない。」

戸塚さんはいたずらっぽく目をくるっと動かした。「これでお互い様ってことよ。少なくとも、私が一方的に損した気分にはならないでしょ。」


彼女の言葉の裏にある意図を考えながら、僕はその場を後にした。


「明日、放課後また私のアトリエに来てね。」

戸塚さんは別れ際にそう誘いかけてきた。


*****


翌朝は、いつもと同じように始まった。

午前中の授業は、文学専門の「文学鑑賞」の講義だった。


「樹雨くん、ちょっと来て!」

文学教室に向かおうとした僕の手を、麻里さんが掴んだ。


「えへへ~驚いた?ごめんね。」


「表情からして、全然謝ってないよね。」


「まあまあ、そんなこと気にしないで。」


麻里さんは自分のスマホを取り出し、チャット画面を見せてきた。


「これ誰?」僕は尋ねた。


「これは学校の活動部の先生だよ!」


「本当?」

目の前にいるこの女の子が活動部の先生とLimeで繋がっているなんて驚きだ。


麻里さんなら、どんな人とでも仲良くなれるんだろうな。その性格に欠点なんて一つも見当たらない。たとえあっても、それを完全に隠しているに違いない。

戸塚さんが「友達がたくさんいて羨ましい」と言っていたけれど、本当に友達が多いのは麻里さんの方だと思う。


僕はチャットの内容に目をやり、活動部が「ボードゲーム部」の申請を受け入れたことが分かった。


「どう?どう?嬉しいでしょ?」

麻里さんは小犬みたいに興奮して、「今日の放課後から、私たちの初めての部活動が始まるんだよ!」


高校生活初めての部活動って、一体どんな感じなんだろう?


「いろんな楽しいボードゲームができるよ!そのために……」

麻里さんはスマホのアルバムを開き、一枚の写真を見せてきた。


写真の中には暖色系のベッドがあり、壁際の棚には様々なボードゲームがびっしりと並んでいる。きっと麻里さんの部屋なんだろう。


「……ボードゲーム部のことを考えると、我慢できなくてまた何セットか買っちゃったの!」

麻里さんが体を寄せてきて、まるで甘えているようだった。「ねえ、これ全部私のお小遣いで買ったんだよ。だから、副部長として一緒にいっぱいゲームを遊んでくれるでしょ?感謝してほしいな~」


なんて重たい気持ちだろう。


「まあ……ありがとう。」僕は気のない返事をした。


「そんなのどうでもいいの!今日の放課後は空いてるよね?絶対来てね!部室の場所はLimeで送るから!」


でも、放課後は戸塚さんからもアトリエに来てほしいって誘われてるんだよな……

僕は少し考え込んだ。


「その場で答えなくてよかった……」心の中でつぶやく。


麻里さんの目を見ると、「来なかったら承知しないよ!」と言わんばかりの圧を感じた。

「放課後、一体どちらの約束を優先すればいいんだろう?」と頭を悩ませたその時、


「ブーッ、ブーッ」

携帯電話が震え、思考を中断された。


画面を確認すると、見覚えのあるような、でもどこか懐かしい人から2つのメッセージが届いていた。


「久しぶり、樹雨。近いうちに君の学校で学ぶことになったよ。この学校の『特別才能クラス』が僕の進路にすごく役立ちそうだ。」


そしてもう一つは、

「今日の午後、僕らが通っていた中学校に来てくれないか?話したいことがあるんだ。場所は例の音楽室だよ。」

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