第13話:汗と夕日
バレーボールコートに着いた時、目の前の光景が夢と重なって見えた。
僕は無意識に歩調を緩めた。
「村上くん、まだ具合悪いの?」
戸塚さんが心配そうに小さな声で聞いてくる。
「うん……僕……」
溜め息をつき、言葉を飲み込んだ。
戸塚さんが自分の苦手を正直に認める姿を思い出し、恥ずかしくなってしまったからだ。
私、バレーボール苦手だけど、頑張ろうね!
その優しい言葉が、耳元でふわりと残り続けていた。
「大丈夫!」
僕は気持ちを奮い立たせて、そう言った。
特別才能クラスの生徒なんて、みんな偏った才能を持つ人ばかりじゃないか。
「おいおい、見ろよ!きくんが来たぜ!」
遠くから日比野赤郎の声が響き、僕に向かって手を振っていた。
他の生徒たちは軽やかにコートを行き交い、ボールを打ち合っていた。
僕はぼんやりとその光景を眺めていた。
「きくん!俺、ずっと待ってたんだぞ!ボーッとしてないで早くこいよ!」
日比野赤郎がコートの端で叫ぶ。その声はまるで夏の風のように心地よかった。
「いいよ、君たちで楽しんでくれ……」
僕は首を横に振った。
自然と生まれる拒否感。
しかし赤郎は、僕の態度を全く気にしていないようだった。
「こんな面白い試合、きくん抜きじゃ始まらないだろ?」
そう言って、赤郎は僕の肩をがっしり抱え、半ば強引にサーブラインまで連れて行った。
「赤郎、僕サーブなんてできないよ……」
額から汗がじんわりと滲む。
それが太陽の暑さなのか、それとも緊張からくるものなのか、自分でもわからなかった。
風が吹き、コート脇の植栽が揺れる。葉がこすれ合う音が耳に届き、汗がその風で冷やされていった。
「とりあえずやってみろよ!」
赤郎は軽く背中を叩き、明るく笑った。
手の中のボールが、なぜか重く感じられた。
僕はボールを空中に放り、頭の中で思い描いたサーブのイメージをなぞろうとした。
ボールが最高点に達した瞬間、僕は右手を前に振り下ろした。
「バンッ――」
ボールは垂直に落ち、僕の足元で無様に転がった。
やっぱり僕は、少年漫画の主人公にはなれないんだな。
恐る恐る周囲を見回すと、みんながじっと僕を見つめていた。
視線が突き刺さるようだった。
「貸してみろよ、きくん!」
赤郎が僕の足元のボールを拾い上げ、埃を払った。
「俺の動きを見てろよ!まずは……」
赤郎はサーブの姿勢を取りながら、ポイントやコツを丁寧に説明してくれた。
いつものような大声はなく、穏やかで根気強い声だった。
「サーブする時は、足を前後に開いて立つんだ……」
サーブの準備から、トスの高さ、ボールを打つ手の動きまで、赤郎は細かく指導してくれた。
乾いた音が響き、ボールは美しい弧を描いて空へ飛んでいった。
「さすが体育専門だね……」
僕は思わず感嘆した。
「ははっ!大したことねえよ!」
赤郎は照れくさそうに頭を掻いた。
「さあ、次はきくんの番だ!」
僕はボールを手に取り、さっきの説明を思い出しながらサーブの姿勢をとった。
まだぎこちなさはあったが、「さっきよりマシかもしれない」と思えた。
「バンッ――」
ボールは少しだけ前に飛んだ。
「おっ、上達してるじゃん!」
赤郎は笑顔でそう言った。
「何回かやれば、すぐ慣れるさ!」
風がまた吹き、戸塚さんがそっと僕たちの側に寄ってきた。
「日比野くん、私にも打ち方を教えてくれる?」
*****
バレーボールの授業が終わり、僕は校庭のベンチにぐったりと座り込んで、隣の海を眺めていた。
体育の授業が終わったというのに、校庭の向こう側で赤郎はまだボールを打ち続けていた。
「バレーボールって、結構難しいスポーツだよね。」
隣に座った戸塚さんが、ゆらゆらと体を揺らしながら呟くように話す。
「村上くん、この後空いてる?」
「うん、特に予定はないよ。」
「やった!私のアトリエに連れて行きたいんだ。」
戸塚さんの口元がわずかに上がり、少しだけ興奮した表情を見せる。
「そうだ!言い忘れてたけど、アトリエの申請、無事通ったんだよ!」
「おめでとう!」
僕は自販機で買ったばかりの水を口に含むと、もう一本を彼女に差し出した。
「ほら、さっき頼まれた水。」
「ありがと!」
戸塚さんは受け取りながら、「今日描いた水彩画を見せたいんだ。アトリエに置いてきちゃったけどね。」
「いいよ。今から行く?」
僕は立ち上がり、ズボンのポケットに手を突っ込む。
「ちょっと待って!」
戸塚さんが僕を引き止めた。
彼女が指さした先には、海の向こうに沈みかけた夕陽が広がっていた。
「ねえ、村上くん、見て見て!」
オレンジがかった大きな太陽が、校庭脇の金網を暖かな色に染め上げている。
夕暮れに揺れる木々の影が、静かな世界を包み込んでいく。
僕は再びベンチに腰を下ろし、腕を後ろについて空を仰ぎ見た。
赤く染まりゆく空に目を奪われ、さっきまで体育で乱れていた呼吸も、少しずつ穏やかになっていく。
額の汗も、いつの間にか乾いていた。
「今日の夕陽、特に綺麗だね。」
戸塚さんは手のひらをさすりながら、遠くを見つめていた。
「うん。」
僕は軽く頷く。
「この景色、きっと描きたくなるんじゃない?」
夕陽に照らされた戸塚さんの横顔を、思わず見つめてしまった。
ぼんやりとした輪郭が、まるで景色に溶け込んでしまいそうだった。
彼女は小さく笑い、首を振る。
「夕陽ってね、どう頑張っても本物の色は描けないんだ。」
指先で空に想像の夕陽をなぞりながら、戸塚さんは静かに語る。
「どんなに色を重ねても、微妙に違うんだよね。でもさ、こうやって目で見て、心に焼き付けるだけでも十分かなって思うの。」
「そっか。」
僕は再び空を見上げる。
「それでさ、さっきのバレー、どうだった?」
戸塚さんがこちらを振り向く。
目が合うと、彼女はすぐに視線をそらしてペットボトルの蓋を開け、一口水を飲んだ。
「まあまあかな。さっき転んじゃったけど。」
僕は膝を伸ばして右足を見る。軽く擦りむいた傷が少しヒリヒリする。
「時々ね、村上くんのことが羨ましくなるんだよ。」
戸塚さんが、ふと僕を見つめる。
「え?どうして?」
「村上くん、友達が多いように見えるから。」
戸塚さんは一息つく。
「赤郎くんや麻里さんとも仲が良さそうだし。」
「そう見えるだけだよ。」
僕は笑う。
「それに、戸塚さんも美術の専門メイトとは仲がいいんじゃない?」
「ううん、違うよ。」
「え?」
「私ね、『あの子たち』とは絵を描く目的が違うの。」
戸塚さんの声は、少しだけゆっくりだった。
「だからね、美術の話はしないんだ。話しても、みんな退屈そうな顔をするだけ。」
彼女の眉が少し寄る。
どこか寂しそうで、それでいて少しだけ諦めたような表情だった。
「なんか……私、面倒くさい人間に見えるでしょ?」
「そんなことないよ。」
僕は咳払いしてから言葉を続けた。
「実はね、僕も似たような気持ちを抱えたことがあるんだ。僕が小説を書き始めた時、最初は自分のためだけだった。でもね、誰かと一緒に作品について話すのって、案外楽しいもんだよ。」
「そっか。」
戸塚さんは安堵したように微笑む。
「やっぱり、村上くんと話すのって楽しいな。」
胸の奥に、小さな火が灯ったような気がした。
それは暖かく、心地よかった。
「どうして僕が保健室にいたのか、どうして知ってたの?」
僕は戸塚さんに尋ねた。
彼女はふっと笑い、欠伸をひとつ。
僕の正面に向き直ると、ゆっくりと口を開いた。
「村上くんには、きっとわからないよ。」
戸塚さんの声はだんだん小さくなる。
「だってね、今日の体育の授業、私もサボろうと思ってたから……」
そう言って、彼女はまたくすっと笑った。
夕陽が、そんな彼女の横顔を優しく包み込んでいた。




