7話目 剣聖
俺はこの日も鍛錬に励む。呼吸は森の息吹。スクワットは山々を均し、バケツは谷を浚う。腕を立てるのではない。星を寝かすのだ。
「ふっ、ふっ」
今日もまた青き地球が銀河の輪を広げる。心は太陽と渾然一体になって大地をあまねく照らし、森羅万象のことごとくは己が内に帰す。
(騒がしいな)
木々のさざめき、小鳥のさえずり。村でなにか起こっているようだ。
「いくか」
八年ぶりの帰郷。母は元気だろうか?
懐かしい匂いを辿りながら、俺は森を駆けていった。
「アハハ。いけ、踏みつぶせ~」
「わああ、魔族だ」
村は魔族の襲撃を受けていた。
襲撃、といっても二本の角が生えた魔族の少女がひとりに亀が一匹。寡勢。だが、この亀がとんでもなく大きい。
「押しつぶせ~」
家屋をゆうに上回る図体でのしのし歩けば大地が揺れる。
「これ以上はやらせない!」
「止められるもんなら止めてみろって~の」
ジェイの母親、クインが正面に組み付くも、
「止まれえええ!」
「ムリムリ。この亀は大人百人がかりでも止められないんだから!」
歩みは止まらない。
「クイン。助太刀する!」
「エレナ様!」
エレナを皮切りに駆けつけた騎士たちも助勢する。全員が脚を突っ張り、地面をえぐるようにして止めにかかるも、効果なし。
「あぁ~、誠に気分いいんですけど!」
魔族の少女が甲羅の上できゃっきゃとはしゃぐ。
「力がダメなら、私の剣技で」
「およっ?」
エレナが腰に帯びた細剣を抜き放つ。美しい金細工の鍔からすらり伸びた刀身がまばゆく輝くや、一条の閃光が亀の甲羅を突いた。が、
「ば~か。この子には物理も魔法も効かないんだよ」
無傷。亀は村長の家に突撃し、
「わしの家がぁぁぁ!!」
木っ端みじんに踏みつぶした。
「あ~あ。せっかくこんなとこまで来たのに、ぜんぜん手ごたえな~い」
勝利を確信し、これ見よがしにあくびをする魔族。そこへ、
「なら、俺が相手をしよう」
屈強な男、ジェイがあらわれた。
「誰?」
「雑魚に名乗る名はない」
ジェイはクインを押しのけ、亀の下に潜り込むと、
「ジェイ!?」
「下がっていろ」
気合一発、亀を持ち上げ、
「ちょ、ちょっとどうなってんの?!」
「どっせい!」
ドンッとひっくり返した。衝撃で大地に亀裂が走り、遠くの山々が鳴動する。
「あ、ありえない……」
間一髪下敷きをまぬがれた魔族が腰を抜かして座り込む一方、亀はその巨体故に起き上がることができず、己が敗北を悟って涙する。
「他愛もない」
「ア、アンタ、ほんとに人族!?」
「ああ。鍛えているからな」
「人族って、鍛えたらそんなんできるようになんの?」
「魔族だってできるさ。毎日、ぶっ倒れるまでやればな」
ジェイが優しく微笑むと、
「せっかくだ。君の性根を鍛え直してやろう」
「ひっ、ひぃ~~~!!」
魔族は這って逃げていった。
村に静寂が戻る。と、ジェイのもとにクインが駆け寄る。
「ジェイ!」
八年越しの邂逅。母は両腕を広げ、我が子を抱きしめた。
(母はこんなにも華奢だったのか)
ジェイに昔日のおもかげはない。十五歳。あどけなさは影を潜め、かつて腰にも届かなかった背丈もいまでは母と同じくらいに。
たくましい腕、太い脚。あの日の子どもは男になったのだ。
「こんなに立派になって」
「ただいま」
八年。クインはひとり暗い部屋で、壁に立てかけられた木剣を眺めながら、心を鬼にして我が子を送り出したあの日を悔いることもあった。ひとり分の食事、ひとり分の洗濯物。窓にひとり息子の影を見る日もあった。
(きっと、あの子は強くなって戻ってくる)
すべては我が子のため。信じて待った。
「おかえり」
八年。ジェイは疲れた体をベッドに横たえて、暗い天井を見上げ、母に捨てられたことを恨んだ。「私が悪かった」と、母が迎えに来る夢を見て目が覚めることもあった。
(絶対許さない)
戻ったら復讐する。そう誓った。
だが、母の涙を前に、
「ただいま」
「うん」
すべてを悟った。捨てられたのではない。愛ゆえにふたりは袂を分けたのだ。
(いまはただ再会を祝おう)
親子が抱き合っていると、
「見事だ」
どこからともなく男が姿を現す。
「マスケル」
「成ったな」
マスケルはしわの増えた顔でにっこりと笑い、
「ジェイ。今日から剣聖を名乗れ」
弟子の成長を無邪気に喜んだ。
(このマスケルはなにを言っているんだ?)
俺は呆気にとられた。
「いや、俺、筋トレしかしてないけど」
そう、この八年。俺はただの一度として剣を握っていない。どころか目にすらしなかった。
「お前はすでに不斬之斬を会得している。なれば剣は不要」
「わけわかんねえこと言ってんじゃねえ!」
俺がどんな思いでこの八年を過ごしたか、このバカにはわからないとみえる。なにが不斬之斬だ。適当なこと言いやがって。
詰め寄る。しかしマスケルはいたって大真面目に、
「よく頑張った」
ワシが育てたと言わんばかりに誇らしげな顔をする。
「おめでとう!」
「おめでとうございます」
「アンタは自慢の息子だよ」
事情を知らない村の人々は勝手に空気を読んで拍手し出す始末。
(どうやらここにはバカしかいないようだ)
思わず天を仰いだ。あの空の向こうで女神さまも笑っているだろう。
(俺の八年を返して)
と、八年のときを経て少女から大人へ。より美しくなったエレナが進み出て、
「でも剣聖を名乗るなら、剣くらい持っていないと恰好がつかないのでは?」
「そうか?」
マスケルに言う。
「ええ。普通の人は剣聖が剣を手にしていなかったら疑問に思いますし、その度にいちいち腕前を披露していては面倒でしょう?」
「それもそうだな」
至極まっとうな話だ。
(前提がおかしいけど)
どうやらエレナもマスケル側の人間のようだ。
「よろしければノーザランド家から贈呈しましょうか?」
おお、エレナ様。さすが名門の生まれ。マスケルとは出来が違うんだよなあ。
「待て。剣聖が帯びるとなれば並の剣には務まらん」
「そうなのですか?」
「達人は剣を選ばず、と云うが剣は人を選ぶ。剣聖には相応の剣がある」
「どんな剣でしょう?」
剣聖の剣か。鬼丸国綱とか三日月宗近とか?
「聖剣は勇者を育て、魔剣は魔人を生む。なれば、剣聖が振るう剣はただ一振りしかない」
「それは?」
「古の時代。巨人族が神に戦いを挑む際に鍛えた剣。『黄昏の流星剣』!」
ぴくっ、思わず耳が動いてしまった。黄昏の流星剣。
(いいじゃない……!)
久しく縁のなかったロマンに心が躍る!
「そのような剣があるなんて初耳です。でも神に仇なす剣なんて……」
「流星は剣の涙。神を斬るために鍛られた宿命に涙し、いまだ己を使いこなす主を見つけられぬ無念が、星となって黄昏の空を彷徨うのだ」
なんてことだ。そんな剣があろうとは。
「その剣はどこに?」
思わず身を乗り出して訊いてしまった。
「ここから西の森を越え、山を登り、この大陸の最果てから海を渡った先、『巨人の墓』という島にあると聞く」
「遠いのか?」
「遠い。あらゆる艱難が待ち受けているだろう。だが、その試練を突破した暁には魔王を倒すほどの強大な力を手にするだろう」
魔王! 久しく忘れていた好敵手の名に心がときめく。
(なんだ、この感じ?!)
動悸が止まらない。苦しいというか、切ないというか、とにかくじっとしていられない。
(恐怖? いや違う)
前世で死んだときの、冷たい感覚はいまもある。が、それ以上に、魔王のことを想うと心が温かくなるのだ。
(かわいかった)
隣にいるエレナも美しい。よく手入れされた髪、シミひとつない肌。特にそのたくましい下半身は唯一無二のものであろう。しかし、
(あのおっぱいには遠く及ばない)
なんというかビビッとこない。
「コホン!」
エレナが顔を赤らめ咳払いした。そのいじらしい様にさえ俺はなにも感じない。だが、
「ふふっ。ジェイよ、魔王と聞いて滾りおるか!」
魔王! その響きに胸が高鳴る!!
「ああ。どうやら俺は己が運命を忘れていたようだ」
そう、魔王をお嫁さんにしてキャッキャウフフの幸せいっぱいファンタジー生活を送る。そのために、生まれてきた!
(力が欲しい。夢を叶えるための力が!)
名剣を、そして魔王を手にするため、俺は旅に出ることを決意した。