21話目 幕間
魔王城、玉座の間。主不在の玉座の前で、宰相ロクサーヌはため息をついた。
「魔王様にも困ったものだ」
およそ二十年前、人族の反転攻勢を辛くも凌いでから、魔王は自室に籠るようになった。戦に飽いたのか、すっかり政への関心を失ってしまったようだ。
「人族は力を取り戻しつつあるというに」
先日、四天王のひとりが討たれた。下手人は不明ながら人族には勇者がいる。知らせを受けてから二年。四天王を討つほどの力をつけていてもおかしくはない。
魔族の一大事。なのに魔王は「そうか」と呟いたっきり何の対策も示そうとはしない。
「……賢者の呪いか」
英邁にして勇敢だった王がすっかり腑抜けてしまった。そう嘆くものも多い。すべては賢者を名乗る人族に出会ったときから狂いだした。
魔王城寝室。天蓋のついた特大のベッドにふたりが横になっている。
「のう賢者。お主はいまどこでなにをしておる」
ひとりは魔王。妖艶なネグリジェに身を包み、悩まし気に体をくねらせる。
「こうして長いこと帰りを待っているのにどうして戻って来ぬ?」
もうひとりは賢者、の体である。魔王に受けた胸の傷はふさがっているものの魂がない。
「もう二十年になるか。時が経つにつれ、あの日の出来事が夢のように感じるのう」
人族との決戦の日。優秀な配下の奮闘もあり戦争を優位に進めていた魔族はあえて人族との会戦に応じ、百年に渡る戦の趨勢を決してしまおうと意気込んで臨んだ。
戦いは熾烈を極めた。ひと月に渡り一進一退を繰り返す両軍。戦場には死体の山、血だまりは枯れることない。汗と腐った肉の臭い。飛び交うハエ。魔族軍は疲弊していた。
「魔王様。本陣を押し上げ、前線の兵を督戦されてはいかがでしょうか?」
「ふむ」
人族軍は勢いなお盛ん。押し負けるわけにはいかない。参謀ロクサーヌの進言を容れ、本陣を前線からほどない距離へ移動したところを人族に突かれた。
魔王軍中最強と名高い魔王親衛隊をもってしても防ぎきれぬの人族の猛攻。
「申し訳ありません魔王様。ここはこのロクサーヌが身命を賭して殿を務めますので……」
「無用じゃ。わらわ自ら相手をしてくれる」
まもなく前線が破れる。
(王国の興廃この一戦にあり)
魔王は自ら剣をとった。部下もあえて止めはしない。なぜなら魔王は戦いの天才。魔族千年の歴史をひもといても並ぶもののない万夫不当の豪傑だったからだ。
「君が魔王?」
しかし、それすらゆうに上回る天才が人族にいた。賢者である。
「怖かったのう」
寒門に生まれ、戦いの才だけでのし上がった魔王が、たったひとりの人間に歯が立たず、奥歯をガタガタさせて慄いた。
屈辱。二十年経とうとも褪せることはない。
「ふふっ。思い出すといまでも体がふるえおるわ」
魔王は賢者を強く抱きしめる。
「あの時の賢者の目――わらわは知っておる。退屈だという目じゃ。ああ、この程度なのか。魔王といってもこんなものなのか。そういう失望の目」
賢者の目に光はない。魔王は逃れるように首筋に舌を這わせ、
「初めてじゃ。わらわはお主と会うたとき胸が高鳴った。退屈な日々は終わりじゃと。全身全霊を持って戦わなければならない好敵手があらわれたと。あれほどの高揚を覚えたことはかつてない。なのに!」
鎖骨から胸へ、顔を埋める。
「お主にとってわらわは有象無象のひとり。取るに足らぬ塵芥! わらわが踏みつけてきた連中と同じに過ぎなかった!」
紅潮する頬。食いしばった奥歯がぎりりと鳴る。
「敵としてすら見られなかった。あまつさえ、子犬を可愛がるように、情けまでかけられようとは!」
拳で胸を叩いた。空っぽの心が響く。
「生き恥を晒すのがこんなにも苦しいとはのう」
魔王は賢者に勝った。自らを殺すことに躊躇した相手を、恥も外聞もかなぐり捨てて殺した。
凱旋すれば多くの臣民が「魔王様万歳」と出迎える。その度に、心は、死んでいくのだった。
「どうしてあのとき殺してくれなんだ?」
賢者は答えない。
「答えよ! お主はいまどこでなにをしておる。魂はどこへ行った? 方々探させてはいるが見つからなんだ。女神に回収されたか? もう転生してしまったかや?」
横たわるのは人形。賢者はあの日死んだ。魔王が殺した!
「よもやわらわを置いてほかの世界にいってしまったのではあるまいな」
過去、たったひとつの敗北。栄えある生涯についた一点のシミ。ぬぐわなければ先へは進めない。やり直すのだ。あらためて賢者と正々堂々戦い、勝利してこそ次の一歩を踏み出せる。それだけが彼女の願いであり救いだった。
「もしや勇者に転生しおったか?」
ロクサーヌから報告を受けた。勇者。勇者ならば是非もない。
魔王は待ち焦がれる。
「……寂しいのう」
ここから連れ出してくれる勇者様の到来を。
「はようわらわを殺しにこい」
あの日から孤独は始まった。




