海岸まで
駅のロータリーに入るか迷ったが、時計を見て帰還することにした。
社内の取り決めで午前零時を過ぎたら新規の客を乗せないことになっている。あと数分残っていたが、この日はそれなりの売り上げがあったので、終電を降りた近距離の客で小銭を稼がなくても良いと判断し、そのまま営業所に向かった。
駅前を通過するとタクシー乗り場に並ぶ客の視界に入るので、ひと区画だけ遠回りする。結果としてそのルートを選択したことで、思いもよらない事態に巻き込まれる羽目になった。
「八崩海岸団地まで。」
ビルの裏口が両側に迫る細い路地を走行中、女性の一人客が手を上げるのが見えた。ウィンドーサインの「回送」を出すのが一瞬遅れたため、仕方なくハザードランプを点滅させて路肩に寄せる。
行き先を聞いて、思わず後部座席を振り返る。そして息を飲んだ。
「八崩海岸団地の十号棟まで、お願いします…。」
雨が降った形跡も無いのに女性の髪は濡れていた。車窓から差し込む街灯に照らされた素肌が青白く光り、長い髪に隠れたその隙間からは異様に充血した両眼がこちらを凝視している。まだ二十代そこそこの若い女性と感じた。白のノースリーブのワンピースは夏らしい装いと言えたが、露出する両腕は色白を通り越して、むしろ不健康に感じた。
「あの辺りは、あまり人が住んでいないのですが、お間違いないですよね…。」
遠方から訪ねてきて行き先を間違っているのかもしれないと思い、聞いてみる。それに対する答えがまた、私を震え上がらせた。
「自宅に帰るんです。間違えるはずありません…。」
そう言われてしまうと、もう行くしかなかった。
※ ※ ※
「他社の知り合いに、出会ったことがあるって言う奴がいる。」
以前、乗務を終えて営業所に戻った時、先輩のドライバーからそう聞かされた。四十歳の時にこの仕事を始め今年で八年目になるが、さすがに幽霊に出くわした経験はない。噂話として耳にすることはあっても、それを本気で信じたことは一度として無かった。
「うちの社内で出会った人がいたら、本当だと思うことにしますよ。」
俺はあると思うけどなあ…。還暦間際のその先輩ドライバーは、そう言ってブラックの缶コーヒーを飲み干した。
「八崩海岸へ行ってくれって、女が言うらしいですよ。」
年下だが私より経歴の長いドライバーが話に入ってくる。ホントにそこへ行けと言われたら確かに怖いけどさ…。そう返すと、隣の鳴原海岸なら夜行ったことがあります、と彼は答えた。
「あそこは海水浴場があるし、民宿だって何軒も営業しているじゃねえか。怖くねえよ。」
先輩ドライバーが勢い込む。
「もし八崩海岸へ行けって言われたら、無線で“鳴原海岸の北側”って伝えてくれ。助けに行ってやるからよ。」
そんなことにならないと良いですけどね…。
私はペットボトルの緑茶を一口だけ含むと、立ち上がった。
それが、ひと月前のことである。
※ ※ ※
駅前から南に延びる大通りとの交差点を通過し、県道を東へ向かって走る。商店街を抜け、静かな住宅地の中を数キロ進むと、やがて民家が途切れて田園地帯が現れる。さらにそのまま直進すると、二十分ほどで女性が行き先に指定した八崩海岸に突きあたる。
「普通の団地をあんな不便なところに建設して、人が入ると当時は思っていたんだよな。」
三階建ての団地が十棟ほど。目の前に太平洋が広がる抜群の景観、などとうたい文句をつけて売り出していたと聞く。が、いかに地価が安いとはいえ付近に商業施設も公共交通機関も何も無い田舎の海辺に定住しようという住民は少なく、別荘にするにしては何とも味気ない外観や内装だったこともあり、結果空室は埋まらぬまま次第に老朽更新もままならず、いつの間にか誰も住まない廃墟同然の幽霊団地へと朽ち果てた。
「けど、本当に廃墟になったのは、あの事件が決定打になったからだと思うぞ。」
当時は全国的にも報道され関心を呼んだものの、今となってはほぼ忘れ去られたその事件――二十年前に起こったタクシー運転手の行方不明事件は、いまだ犯人だけでなく、運転手の消息も判明していない、未解決事件だった。
田畑の合間に点在するのは農家だけでなく、妖しげな色彩の看板で田舎のカップルを誘い込む何軒かのホテルが、県道からやや奥まった場所で雑木林に半身を隠して佇んでいる。それらを横目に、やがて目的地付近へとたどり着く。
「河口大橋を渡るルートでよろしいですか?」
分かりきった質問をしたのは、女性が後部座席に「実在する」ことを確認するためだ。バックミラーを見ると、乗せた時とほぼ変わらない様子で、濡れた前髪の間から赤い目をこちらに向け、微かに聞き取れる声で、はい…と頷いた。
もっともこの頃になると、女性がこの世のものでは無いとは感じなくなっていた。私には霊感なるものはおそらく無いが、それでも乗車してきた直後の女性には、ただならぬ不気味さが感じられた。だが今見るに、女性は確かにそこに存在し、体の一部が透き通り後部座席のシートを見ることが出来るとか、そういったことは一切なかった。陰気で小声ではあるが、喋る言葉は、普通の人間のそれと同じように、狭い車内に響いた。
問題は、雨も降っていないのに髪が濡れていることと、行き先が廃墟であることの二点だった。私は先程とは別の懸念を、うつむく女性に感じていた。
「先ほども言いましたけど、お客さんの行かれる場所には、今は誰も住んでいないはずです。団地の近くにも民家はほとんど無い。もし何か事情がおありでしたら、お話しいただくことは出来ませんか?」
幽霊でないとすれば、こんな夜中に海辺の廃墟を行き先に指定するような人間は、だいたい何を考えているか想像できる。仕事だと割り切れば言われた場所まで客を運び、運賃を受け取って営業所に帰還すればよいが、やはりそう簡単に、ひと一人を見捨てることは出来なかった。
女性は少しだけ考え、それから顔を上げ、正面を見据えてそれまでとは異なるはっきりとした口調で私の問いかけに答えた。
「ありがとうございます…。でも、そんな心配はしないでください。私、死にに来たわけじゃありません…。」
本当に自宅がそこなのだという。住人はいないはずではと私は再度聞いたが、ああ見えて実はまだ住んでいる人がいるんです、と意外なことを答える。
「祖母と母、そして私が住んでいます。いちばん河口寄りの棟の一階に明かりが灯っているのが見えませんか?」
そう言われて視線を向けると、確かに電気がついている部屋があった。それも一階の一室だけではない、二階と三階にも一部屋ずつ、間違いなく明かりが灯っている箇所がある。
「幽霊団地なんて言われますけど、生身の人間がちゃんと住んでいますよ。」
口元だけだったが、女性が笑ったのが分かった。暗い表情をしていたので今まで気づかなかったが、笑顔を見れば、結構な美人だと私は思った。
「あと、髪がびしょ濡れだったけど、それはどうしたんですか?」
すると、今度は本格的な笑顔で、私に答えた。
「友達と飲んでいて…飲みすぎて吐いてしまったんです。駅のトイレで顔を洗って服も濡れて…。そのままタクシー乗り場の列に並ぶのが恥ずかしくて、人目に付かないところで髪や服を乾かし、それから戻ろうと思っていたんですけど…。」
そこに私のタクシーが通りかかったという訳だ。
不意に無線が入った。
応答してください、応答してください…。
行き先が“鳴原海岸の北側”とは伝えていた。帰還時刻を過ぎ、その後連絡が無いため、心配して通信員が聞いてきたのだろう。
「はい、こちら十二号車。間もなく目的地に着きます。その後営業所に戻ります。どうぞ…。」
通信員は了解、と言ったが、何か聞きたそうな雰囲気も感じた。
「あとでちゃんと説明しないと…。」
え…?
女性が私の独り言に反応する。
「ああ…いえ、何でもないんです。ただ、やっぱりこの団地に人が住んでいるとは思わないですから、行き先を言ったら心配されましてね…。」
ちゃんと会社で言っておきます。八崩海岸団地には人が住んでいますって…。
気が緩んだのか、軽口をたたいていた。河口大橋を渡り、目の前に目的地の十号棟が現れると、女性は、ここでいい、と言って停車を促した。
「家の前まで行きますよ、メーターは止めますからご心配なく。」
いえ、いいんです、ここで…。
その言葉に有無を言わさぬ響きがあった。私はそれに逆らえず、ブレーキを踏み減速させると、やがて団地への入口となる私道と公道の境目あたりに車を止め、ドアを開けた。
「ええと…三千六百円になります。お釣りを用意できますよ。」
その瞬間、女性の姿が、消えた。
※ ※ ※
慌てて半身になって後部座席を振り向いた瞬間、助手席に何かが押し入ってきた。視界の端に映ったのは、金髪の若い男だった。
「誰です…?」
私がそう言う間もなく男は私に刃物を突き付け、金を出せ、と低く響く声で私の感情を抑え込んだ。
「全部出せ。こいつで喉を突くぞ…。」
売上の半分がカードや電子決済だったので期待するほどの現金は持っていない、と私は男に告げた。
「そんなことは分かってるから、とにかく現金出せよ…!」
私は売上金に加え、自分の財布の中身もこの男に渡すことにした。私はここで死にたくはなかった。少しでも多く渡したほうが助かる確率が高くなると、そう考えての行動だった。
「よし、車から降りろ…。」
金を渡せば解放されると思っていたので、私はさらに動揺した。変な気は起こさない、あなたが逃げるまでここに留まっているから。
だから、間違っても私を殺そうとか、考えないでほしい…。
男は刃物を突き付けたまま、私と一緒に運転席側からタクシーを降りた。いつのまにか五メートルほどの距離に停まっていた黒い4WDの車中を覗くと、先ほどまで乗客だった女性が、助手席に無言で座っている。
「運転手さん、簡単に騙されたね。もうここに住んでいる人間なんていない。団地を見てみな。」
明かりのついた部屋など、どこにもなかった。呆然とする私を見て、男は笑った。
「二十年前の事件、知ってるよな。」
男は刃物を私の頬に擦り付け、卑下た笑いを見せた。
「同じ手口で金を奪い、運転手は殺して捨てた。」
その頃は今よりはもう少し景気が良く、売上金も今日のあんたみたいにしょぼい金額じゃなかった…。
「そんな昔の話を…若いあなたがどうして知っている?」
男は笑った。地元じゃ、みんな知っている。簡単な手口だ…。
「あの突堤が見えるか?」
男が指さす先に、砂浜から沖へ伸びる突堤があった。
「先端付近に死体を投げ込めば、まず浜に打ちあがることは無い。ここらは離岸流が激しいから、あっという間に沖に流され二度と戻ってこない。」
冗談じゃない、こんなところで自分の人生が終わってたまるか…。それに突堤付近の波は荒い。泳ぎが得意ではない私は、落とされたら酷く苦しみながら死を迎えることになる。いや、その前にこの男にとどめを刺されるのか。鈍い光を放つ刃物が自分の体を貫く様など、想像したくも無かった。
「あなたと助手席の彼女のことは誰にも言わない。金はあれで本当に全部だ。命まで取らないでほしい…。」
だが男は無慈悲に言い放った。みんなそう言う、何でもやるから殺さないでくれ、俺には家族がいて、とか…。
「けど、言うとおりにして命を取らずにいたら、あんたは間違いなく警察に通報するだろ。俺たちの特徴を話し、そうしたらすぐに二人ともこれだ。」
男は手錠をかけられる様子をジェスチャーで示した。
「だから二十年前の時も、同じように懇願されたけど最後は殺して海に投げ込んだ。死体はもちろん上がらなかった。」
あ、自分がやったかのように話しているが、二十年前のやつはもちろん俺じゃないぜ。やった奴は他にいる。それは間違いない…。
真夜中の海から風が吹きつける。その風を、廃墟となった団地が受け止める。
「運転手さん、行くぞ。」
男は私の首に刃物を突き付け、突堤へ向かって歩けと言った。あの先端で私を刺し、それから海中に投げ捨てるのだろう。
歩き出す直前、私は4WDの中に佇む女性を見た。タクシーを降りてから彼女は一度も私に視線を向けていない。
私は窓越しに女性へ語りかける。少しだけ空いた窓の隙間から、言葉を投函するかのように。
「このままでは貴方は共犯者だ。手に入る現金はたかだか数万円。本当にいいのか? 会社には無線で連絡した。鳴原海岸の北側というのは、この八崩海岸のことだ。連絡を受けた者がきっと警察へ通報する。私を殺して海に投げ込んだとしても、ここから逃げ出す前に間違いなく警察がやってくる。そうしたら二人とも殺人容疑で逮捕される。」
もし八崩海岸へ行けって言われたら、無線で“鳴原海岸の北側”って伝えてくれ。助けに行ってやるからよ…。
私は先輩ドライバーのその言葉に望みを繋いだ。警察へ通報するというのは、正直ほとんど出まかせだった。
女性は視線をフロントガラスに向けたままだが、私は構わずに続ける。
「今なら間に合う。強盗未遂だけなら、たとえ捕まっても人生が終わる程の刑罰は受けない。だから…。」
私を殺すのだけは考え直してほしい…。
「ごちゃごちゃ言ってないで、行くぞ…!」
男が喚き、4WDから私を引き離そうとする。警察など来るわけがない。そんな隠語みたいなやり取りで、気の利いた行動を起こせるはずないだろう…。
私は、最後のチャンスとばかり、なおも車の中の女性に向かって叫ぶ。
「貴方はこいつに騙されているだけだ、目を覚ませ…!」
タクシーの中での貴方は、こんなことをする人間には見えなかった。だから、この男に引きずられて取り返しのつかない犯罪に手を染めるようなことはしないでくれ…。
男が力ずくで私の腕を引こうとする。私はバランスを崩してアスファルトの上に膝をついた。私はなおも車中の女性に呼びかける。
彼女はしかし、私の方を一度も見ることは無かった。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。それは次第に大きくなり、やがて河口大橋の向こう側に姿を見せると、ヘッドライトが男と私の姿を照らし出した。驚き、身動きの取れなくなった男は、残された選択肢として、私を人質に警官と対峙する道を選ぼうとした。
「刃物を捨てなさい。その人を放しなさい。」
眩いライトの向こう側から威圧感のある声が響き渡る。拡声器からの警告に追い詰められた男が破滅的な行動をとるべく、私を引きずりながら突堤へ向かって歩き出そうとする。
「動くな…! その人を解放しなさい、さもないと…。」
停車したパトカーから降りた警官が男との距離を詰める。ヘッドライトの光の輪の外側から銃口がこちらを向いているのが見えた。男は半狂乱になって叫ぶ。
「撃ったらこいつを刺すぞ。それでもいいんだな…!」
銃口が、今度は男の頭部に向けられる。安全装置を外す音が闇に響く。
「本当に俺を撃つ気か、それなら俺も本気だ。こいつを刺し殺す!」
その時、4WDのドアが開いて、彼女が飛び出してくるのが見えた。
「もういい…もうやめよう…。」
しばしの沈黙ののち、男は腕を下げ、それから刃物を地面に落とした。
※ ※ ※
先輩ドライバーが海岸に到着したのは、パトカーがその場を後にするのと、ほぼ入れ替わりのタイミングだった。
「今、犯人たちが連行されて行きました。まさにかたが着いたところです…。」
それを聞いて、結果として役に立てなかったことを詫び、そのうえで私の無事を喜んでくれた。
「役に立っていないなんて…。警察へ連絡していただいたおかげで私は助かりました…。」
その言葉にしかし、先輩ドライバーの表情が僅かに歪んだのを、私は見逃さなかった。
※ ※ ※
八崩海岸での出来事から二週間が経過した。その後、私の周辺では何事も無かったかのように平穏な時が流れている。職場には二日ほど休んだだけで復帰した。あの時の警官からは、お話を聞かせてほしいので後日時間を空けてくださいと言われたが、その後今に至るまで何の連絡も無い。
「そんなもんなんですかね…。」
私は、営業所で先輩ドライバーに尋ねる。いつもと同じ缶コーヒーを飲み干すと、さあな、とぶっきらぼうな答えを返された。
さらに、私には不可解に思うことがあった。
あの日の出来事は間違いなく事件だ。タクシー強盗未遂、正しくは強盗殺人未遂である。のどかな田舎街には珍しい凶悪な犯罪であるにもかかわらず、しかし一切の報道がなされた形跡がない。地元紙の一段記事はおろか、さらには県警が日々更新している「事件・事故の記録」にすら何の記載もされていないのだ。被害者が軽傷で済んだような交通事故でも漏れなく掲載されているというのに、これは不自然ではないだろうか。
私は再度、先輩ドライバーに尋ねた。すると彼は観念したかのように、口を開いた。
「助けに来た警官は、何人だった?」
それが何か意味があるのだろうかと思いながら、私は答えた。
「二人…だったと思います。」
拳銃を構え、金髪の若い男と対峙した警官の他に、後方に待機していた若手の警官がいたはずだ。帽子を目深に被り一言も発しなかったが、存在だけは認識していた。
先輩ドライバーは小さく頷き、ため息とともに天井を見上げてから、続けた。
「高校の同級生で、優秀な警察官だった…。」
男を逮捕した警官のことだ。地元の警察署での仕事ぶりが認められ、県警本部へ抜擢されたのだという。
「のちに本部の中でも、花形部署の捜査一課に配属されてな。そこでもエース級の刑事になった。上司や後輩からの信頼も厚く、警官が天職のような男だって言われていたらしい。」
そんな男が、警察官人生の中で二つだけミスを犯したという。
「一つは誤認逮捕。例のタクシードライバーの行方不明事件の容疑者として、全く関係の無い人間を逮捕した。」
数週間にわたる取り調べを行ったものの、結局はシロであることが判明して釈放となった。
「そしてもう一つは、交番を襲撃した犯人を追い詰めようとして、返り討ちにあった。」
県警本部にほど近い交番にいた巡査一名が拳銃を奪われたうえに刃物で刺されて死亡。犯人を追ったその刑事は、破れかぶれで放たれた銃弾により胸部を撃ち抜かれ、その日の深夜に亡くなった。
「誤認逮捕の、たしか数か月後の話だ。奴なりに焦っていたのかもしれない。慎重な男らしからぬ最期だった。ずっと白星を続けてきて、最後に二つだけ黒星が並んで…それで終わりだ。」
十九年前のまだ寒い、春先のことだったという。
ちなみに、と先輩ドライバーは続ける。
「誤認逮捕されて取り調べを受けたのは、若い男だった。男は子供の頃、八崩海岸団地に住んでいた。地元の中学の野球部で活躍し名門の高校へ進学したが、暴力事件を起こして退学させられた。その後しばらくは荒れていたらしいが、事件当時は団地を離れ、親族の伝手で県庁所在地の街にある塗装工事会社に入って真面目に働いていたと聞く。」
過去の悪行と土地勘があること、そして事件当日の確たるアリバイが無かったことを理由に警察に決め打ちされたのは、彼にとって不幸だった。釈放されたものの、地元では「本当はクロではないか」と推測するような声も少なくなかった。それを理由にか仕事もクビになり、再び彼は荒れた生活へと戻ってゆく。
「幼馴染の彼女がいて、素直なごく普通の娘だった。周囲は男と別れるように何度となく説得したそうだが、彼女は頑として首を縦に振らなかった。」
彼を支えてあげられるのは私しかいない…。
どんなに説得されてもその言葉を繰り返し、決して男を見捨てなかったその娘は、大雨の夜、横転した4WDから男と一緒に投げ出され、路上で亡くなった。雨粒が叩きつけるアスファルトに長い髪が広がり、流れ出る鮮血で白いノースリーブのワンピースが真っ赤に染まっていたという…。
「あいつ――刑事が死んでから、いくらも経っていなかった。八崩海岸団地の噂が出回り始めたのはその後からだ。世の中への恨みだけを残して死んだ若い男と、真っ当に生きようとしていた彼を再び暗闇に突き落としたことを後悔していた刑事が、いつの頃からか海岸団地の傍らで互いの思い残しをぶつけ合うような、そんな関係になってしまったのかもしれない…。」
世の中への復讐として無関係なドライバーを襲い続ける若い男と、そんな彼を凶行に走らせまいと立ち向かう刑事。私があの日海岸で見たものは、この世に思いを残した二人の残滓と、それをそっと見守り、男がこれ以上道を外さないよう包み込もうとする幼馴染の姿だったのかもしれない。
僕の見たものは…。
私は絞り出す。
「全てが…あの日の全てが、この世のものでは無かったということなんですね…。」
先輩ドライバーは何も答えなかった。それが、私の発言を肯定していると理解する他はなかった。
「せめて事故現場に花でも供えたいです。場所をご存じでしたら教えてもらえませんか?」
昔の出来事だが覚えているという。高速道路のインターの手前、バイパスが緩やかな左カーブを描く地点だという。そこなら私も知っている。
私は思う。タクシーの中で一瞬だけ見せた笑顔に、貴方という人間を見た気がした。幸せな人生を歩めたはずの優しさを持ちながら、それを投げうってでも支えなければならない存在があったということなのか…。
時計の針が間もなく零時を伝える。営業所にはこれから多くの車両が帰還してくる。通信員が無線を受け、了解、を繰り返す。今日の仕事ももうすぐ終わる。
「え…? もう一度お願いします、どうぞ…。」
通信員の背中に、不意に緊張感が走る。
「何て言っているんです?」
思わず身を乗り出して聞いたその答えに、私と、隣の先輩ドライバーが慄然とする。
連絡してきたのは、隣の鳴原海岸なら夜行ったことがあると話していた、私よりも経歴の長い年下のドライバーだった。
「鳴原海岸の北側に向かうって、言っています…。」
先輩ドライバーが立ち上がる。同時に私も腰を上げた。急ぐ必要がある。
「奴はこの勝負に勝つまで、同じことを繰り返すつもりだ。」
自身を再び暗闇に突き落とした刑事に、そして世間に、絶望を味あわせるまであの場所に残り、何度でも挑み続けようとする…。その執念深さに底知れない恐怖を覚え、営業所の玄関を出たところで、私は足が止まった。
「行くぞ、助けに…!」
先輩ドライバーの言葉で我に返り、私は再び走り出す。