短編 20 繋いだこの手を離さない
ホラーを書いてみたーい! そんな思いで生まれた短編です。いつもとはテイストがまるで違うけど、ちゃんと自分が書いたもん! 本当だもん!
病院で目覚めた時、男は全てを忘れていた。自分の名前も今いる場所のことも。
今まで自分がどんな人生を歩んできたのかも。
今まで自分がどんな人と過ごしてきたのかも。
男は全てを忘れていた。
だが男には記憶を失っていても忘れられない恐怖があった。
それは『女性』に対する絶対的な恐怖。
男は側に女性が寄るだけで悲鳴を上げて逃げ惑った。
まるで『女』というものが自分にとって『化け物』であるかのように。
看護婦が宥めてもそれは治まることはなかった。むしろ悪化した。
記憶は無くとも男の体と脳には『女性恐怖症』が染み付いていた。
男は身元不明者だった。身元を確認できるものを何も持たずに病院に運ばれていた。頭に裂傷を受けた状態で。
男は何者なのか。医師や看護婦は途方に暮れた。そんなとき男の妹を名乗る者が病院に現れた。
物語はここから始まる。
男はその日も病室から空を眺めていた。病院に運ばれてから何も思い出せずにいる男は空をよく眺めていた。特に夕日には心を奪われる。
以前もそんな風に過ごしていたのかも知れない。いや、どうなのだろう。
男は何も思い出せていない。だが男の名前は判明した。
『フルコンタクト拓実』
それが男の名前らしい。
男にとって全く馴染みのない名前だった。それを教えてくれたのは男の妹である『フルコンタクト朱美』だった。
彼女は拓実が病院に運ばれてから丁度一週間後に病院に訪れた。黒髪の若い女である。長い髪を二つに束ねて胸へと垂らしていた。その顔はいつも笑みを湛えていた。病院に来たときも、病院の受付で拓実の妹であると名乗ったときも。
そして兄と病室で再開したときも。彼女の顔にはいつも笑みがあった。
朱美は兄をずっと探していた。急に行方が知れなくなって心配して探していたのだ。そして拓実が入院している病院を突き止めた。
拓実からすると妹と言われてもピンと来ない。
記憶を失っている拓実にとって、彼女はやはり恐怖の対象だった。
だが、朱美は拓実の写真を持っていた。これが証拠となり朱美は拓実の妹であると判断され家族として迎えられた。
拓実としてはどうしても思い出せない。
朱美は美少女と言えるような女の子だった。拓実は普通の顔である。兄妹にしては似ていない。本人にもそう伝えたが朱美はあっけらかんと答えた。
私と兄は血が繋がってない義理の兄妹であると。だから似てなくて当然だと。朱美はやはり笑っていた。
拓実は少し納得した。
彼女達の両親は共に仕事で海外に行っている。だから二人で暮らしていたと朱美は語った。兄はバイトに。自分は学校に通っていたが、ある日突然兄が出掛けたまま帰らなくなった。バイト先に連絡しても行方は杳として知れない。
そんななか朱美は『記憶を失っている男』の噂を聞いた。
藁にもすがる気持ちで朱美はここに来た。そうしたら兄がいた。そういうことらしい。
医師と看護婦は頭を傾げた。そんな噂が広まるほどの時間はまだ経っていないはずだと。それにそんな噂がどこから来たのか。病院でそんな杜撰な個人情報管理はしていない。
だが朱美が拓実の家族であるのは間違いない。朱美が拓実の運転免許証を持っていたからだ。確かに写真を見る限り拓実が拓実であるのは確定である。それに名前と住所は判明した。
医師はとりあえず拓実の退院を勧めてみた。記憶を失っているが何かの拍子に思い出すかもしれない。かつて住んでいた場所ならば何かしら刺激になって記憶を取り戻す鍵になるかもしれないと。
頭に傷を負っていた拓実であるが既に傷はふさがり、多少動くのは支障なかった。
拓実は妹に先導されて家に向かうことになった。医師からは決して無理をしないようにと念を押された上で。
◇
拓実の家に着いたとき、外は夕焼けに染まっていた。
拓実の家はワンルームの小さな部屋だった。間違いなく一人暮らしのサイズである。拓実は疑問に思った。
こんな狭い所に二人で暮らしていた。それも妹にすら近付けない自分が?
部屋の表札には確かに拓実の名前が飾られていた。『フルコンタクト』だけであるが。部屋のなかは意外と綺麗だった。
夕日が差し込む部屋のなか。しかし家の中はどう見ても一人暮らしの様相だった。ベットは一つしかないし、収納も一人分にしか見えない。
怪訝に思う拓実に朱美は言った。
「流石に年頃の男女が二人で暮らしてるとかあり得ないよ。兄妹とはいえさ。何よりお兄ちゃんは女性恐怖症だし」
朱美はやはり笑っていた。
ならば何故嘘を? 拓実は疑問に思った。
「お兄ちゃん……忘れてる。お兄ちゃんを狙うストーカーの事」
その時拓実は見た。窓の外に何かが映るのを。ここは三階。窓の外は空中になるはずだ。でも確かに見えた。窓の外に見えたのだ。
長い髪の女が。
拓実の顔が真っ青であることに朱美はすぐに気付いた。そして窓のカーテンを急いで閉めた。部屋は一気に暗くなった。
拓実は真っ暗になった部屋で膝を抱えて震えていた。
体は確かに覚えている。
間違いなく自分は怯えている。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。私が絶対に守ってあげるから」
妹の体温をすぐ側に感じてるだけでも体はガタガタと震え、止まらない。
「大丈夫。私が守るから」
真っ暗になった部屋。それでも何故か拓実には見えた気がした。満面の笑みを浮かべる妹の顔が。
結局その日は病院に戻ることになった。
病院に着いたのは日もとっぷりと暮れた頃。
拓実の使っていた病室はまだ片付けが終わっていなかった。彼は戻ってくる。医師はそんな予感がしていた。だから片付けをさせずに残しておいた。
案の定、拓実は戻ってきた。より酷い状態になって。
妹の朱美から拓実のストーカーについて聞いた医師は何か違和感を感じた。何故それを先に言わなかったのか。ストーカーは既に逮捕されて収監されていると朱美は説明したが、やはり何となく腑に落ちないものを感じた。
ストーカー。
記憶障害。
女性恐怖症。
医師は警察に確認することにした。拓実にも朱美にも内緒で。早ければ翌日には資料が届く事になる。
だが、その夜。事件が起こってしまう。
その夜。拓実は一人でベットの上から夜空を眺めていた。部屋は真っ暗になっており、空の星がよく見えた。
空を見ていると落ち着く。それが拓実が気付いた数少ない自分の事だった。
ただの青空よりも夜の空。夜の空よりも夕焼けや朝焼けの空を自分は好むようだ。
拓実は自分の胸に沸く感情をまるで他人事の様に俯瞰していた。
空を見ていると何故か懐かしいような、何か大切な事を忘れているような、そんな気がしてくる。全てを忘れているから忘れているのは確かなのだが、それは『思慕』のような、なんとも言えない感覚にも思えた。
そしてまた空を見る。
星が瞬き月が見える。三日月だ。病室の入り口に掛けられた非常口の光に浮かび上がった緑色の三日月。
それはニタリと笑う女の口のように見えた。
というか窓の外に女がいた。
ニタリと笑う長い髪の女が拓実を見ていた。
拓実は動けなかった。指一本も動かせない。
窓の外に女。異常である。だが何故か拓実には『よくあること』として感じる自分を自覚した。自分はこの女を知っている。それも『かなり』知っている。
女が窓をノックする。それは思いの外、優しくて静かに部屋に響いてきた。
あ け て
と女の口が動く。
女は長い髪で目が隠されている。だから口だけがよく見えた。まるで闇のなかに口だけが浮いているかのように。
また女の口が動く。それは先程と似ているが少し違う。
拓実はその口の動きに何かを思い出しつつあった。
たくみ、ではない。
でも三文字であることは分かった。
自分のよく知る言葉。そして自分の心が早鐘のように鳴る言葉。
「お兄ちゃん!」
その時病室の電気がついた。部屋は一瞬で明るくなった。
「お兄ちゃん大丈夫!?」
朱美だ。朱美が病室に飛び込んできたのだ。
眩しさに慣れた拓実が窓を見ると女は消えていた。まるで最初からそこには何も無かったかのように。
いや、窓は微かに白くなっていた。女の口があった辺り。そこが白くなっていた。
だが……だが何故か拓実は震えていない。どう考えても震えるのが当然な場面。女性恐怖症でなくとも普通は震えるだろう。恐怖によって。
拓実は妙に落ち着く自分の心が分からない。
「お兄ちゃん?」
呆けて胸に手を当てる拓実を心配する妹。その妹が近付いて来ただけで胸が早鐘を打つ。
拓実は一言、大丈夫だよ、と声をかけることしか出来なかった。
朱美の顔は珍しく笑っていなかった。
翌朝。窓の外に女がいた、と医師に言えるわけもない拓実は一人病室から空を眺めていた。
今日の空は曇り。青い空は見えない。
朱美は学校に行くと言っていた。まだ学生なんだよな、と、拓実は思う。学生にしてはなんだか違和感も覚えるが、拓実はそれがなんなのか、いまいち分からない。
そういえば聞いてないのだ。どんな学校に通っているのか。大学生なのか高校生なのかも判然としない。美しい女の子であるが、その顔はいつも笑顔で固められている。
学生……学生。
自分にも学生時代があったのだろうか。
と拓実は思う。恐らくあったはずだ。そして……。
そこまで考えると拓実は頭に衝撃を感じた。
そして意識を失った。
拓実は夢を見ていた。それは一人の女の夢だった。
その女はいつも笑っていた。幸せそうに笑っていた。
笑いながら包丁を片手に拓実を追いかけてきた。その顔に狂気の笑みを浮かべて。
そこで目が覚めた。
拓実はベットの上にいた。動こうとしてろくに動けない事に気付く。
両手両足に手錠が掛けられていた。
身動ぎすると、がちゃがちゃと音を立てるだけで外れる気配はない。
部屋は薄暗く電気も付いていなかった。何となく辺りが見えているのは非常口の明かりが部屋を照らしているからだろう。
鼻にかび臭さを感じた。
拓実は何となくだが思い出していた。これが『何度目』なのか。少なくとも初回ではない。
「あ、起きたんだ」
やけに明るい声がして拓実の心臓が跳ねる。
薄暗く、かび臭い部屋に弾んだ声。姿は見えなくても側にいる。その気配に覚えがあった。
「……思い出した」
拓実は呟いていた。この状況は初めてではない。少なくとも二度は同じ目に遭っている。
「あら、残念。『お兄ちゃん』にもっと甘えたかったのに」
それは残念そうな声ではない。猫が獲物をねぶるような、そんな楽しそうな声音だった。
「病院って便利よね。薬品も簡単に手に入るし地下室だってある」
声は次第に近付いてくる。
「……それに死体の処理も簡単」
それは顔が見えるほどに近付いて来た。遠く光る非常口の緑の光がその輪郭を照らし出す。
「……朱美」
「そう。あなたの恋人の朱美ちゃん」
淡い緑の光で映し出されたのは朱美だった。その顔は無表情で、何の感情も見せてこない。怒りも悲しみも恨みも愛情も。ただそこにあるだけの能面のような顔。
「どうしていつも上手くいかないのかな。私はこんなに拓実を愛しているのに」
朱美の手が伸び、拓実の頭を優しく撫でる。髪の一本に渡るまで優しく櫛梳っていく。
だが、拓実の体は震えが止まらない。自身を拉致監禁したストーカーが目の前にいるのだ。更生施設に収監されているはずの犯罪者が。自分を女性恐怖症へと変えた狂信者が。
体が勝手に震えて手錠がカチャカチャと音を立てる。体が拒絶反応を出していた。手錠などされなくても拓実は恐怖に呑まれ動けない。
それだけの恐怖が他ならぬ『朱美』によって刷り込まれていたのだから。
その様子を見た朱美はため息をつくと懐から何かを取り出した。
「せっかく上手くいってたのに。このままずっと記憶喪失ならずっと幸せだったんだよ?」
朱美が取り出したのは一本の注射器だった。
「今度は記憶だけじゃなくて理性も消してみるね。そうしたら私達はやり直せる。また愛しあえるようになるから」
朱美は無表情のまま注射器を拓実の太ももに突き立てた。
「大丈夫。壊れても私がきっちりとお世話するから」
拓実は自分の意識が混濁していくのを感じていた。朱美の嬉しそうな声を聞きながら……拓実は深い闇の中へと落ちていった。
彼女が狂ったのは些細な事が重なった結果だった。
始まりは本当に偶然だった。
偶然同じ店にいて偶然同じ品物を頼んだ。
偶々同じタイミングで。
しかし品物はひとつしかない。拓実はそれを譲った。
ただそれだけの事だった。
それはそこで終わるはずだった。
だがそれは二度三度と続いた。
あるときはコンビニで。
あるときは学食で。
それは本当に偶然だった。
だが一人の女はそれを『運命』だと信じてしまった。
そこから全ては狂っていった。
一人の女が狂い、一人の男を壊していく。男には恋人がいた。仲睦まじい幼馴染みの恋人が。恋人は命を懸けて狂った女から男を救い出した。しかしようやく助け出せた時、既に男は壊れきっていた。
恋人は男から離れた。自分が側にいることで愛する人を苦しめたくないとして。それだけ男は壊されていた。
男も恋人を愛していた。壊されてもそれは変わらない。だが男の体は全力で『女』を拒絶した。愛した女の瞳すらまともに見れなくなった。
一人の男を壊した女は逮捕されて収監された。二度と外には出られない、そのはずだった。
拓実が病院に担ぎ込まれたその日までは。
その日、凶悪犯罪者の収監施設が火事になり死傷者が多数出た。収監施設の職員にも行方不明者が出た。それは未だに見つかっていない。いや、見つかってはいる。とある犯罪者の死体。その身代わりとなって。
狂った女は『運命』を信じていた。運命を信じて火を付けた。そして逃げ出せてしまった。
幸運が重なった結果とも言えるが、形振り構わぬ狂人をどうして抑えることが出来ようか。
警察がそれに気付いた時、既に事は終わっていた。
それも最悪の結末で。
微睡むような熱に浮かされているような、そんな思考がはっきりとしない中。拓実はベットに横たわり朱美に抱き締められていた。
手錠は外されていた。
逃げようという意識すら今の拓実には沸いてこない。混濁した意識に感じるのはぐにゃぐにゃとした視界が回る事だけ。
手も足も動かない。
拓実は朱美によって一方的に貪られていた。口を吸われ、舌を無理矢理入れられ、だが拓実には反応が出来ない。それでも朱美は嬉しそうな顔で貪り続ける。
拓実には恋人がいた。
確かにいた。
そんな気が拓実にはしていた。とても大切な人で将来を約束した女性。たとえ何年掛かっても必ず添い遂げると約束した人が。
でも、どんな顔だったのか思い出せない。
どんな女性だったのかも思い出せない。
拓実の意識はどんどんと混ざりあっていく。朱美の肉欲と狂喜に。
拓実の瞳から涙が流れていた。それは一言も喋れない拓実の最後の反抗だったのかもしれない。朱美はそれを嬉しそうに舐め、そして微笑んだ。
拓実の意識はここで完全に無くなった。
拓実が意識を取り戻したのは夕日が差し込む病室のベットの上だった。
まだ意識が朦朧とする拓実に見えたのは紅い空。それは燃えるような茜色の綺麗な空だった。
自分は死んだのか。
朦朧とする意識が徐々にはっきりしていくのを感じながらも拓実はそう判断していた。
あの女は決して諦めない。
それを誰よりも知っているのは拓実だった。
だから綺麗な夕焼けを見て思ってしまう。
終わったんだな、と。
拓実は不思議と心が軽くなるのを感じた。もうあれに怯えなくて済む。もう悪夢にうなされなくなる。
だが何か大切なことを忘れている気がする。とても大切な事。自分の事よりも遥かに大切で重要な何か。
自分はまだそれを忘れている。
あの茜色の空はそれを拓実に突き付けている気がした。
あかね。
なにか大切なもの。
とても大切なものなのに汚されてしまった自分の宝物。
知らず拓実の瞳から涙が溢れていた。
あかね。
茜。
あ か ね。
あの夜に見た窓の女はそう言っていたのか。
あのストーカーは拓実に何を伝えようとしていたのか。
拓実はふと違和感を感じた。自分を執拗に狙っていたストーカーは『朱美』だった。だったらあの黒髪の女はなんだったのか、と。
あの朱美の仲間……にしてはおかしい気がする。
思考が定まらないもどかしさに拓実は苛立っていく。
体は動かない。そして興奮したせいか酷く疲れたようで眠くなっていく。
拓実は胸に刺さったままのトゲを残して眠りに落ちていった。
いつも大事な時は夕焼けだった。
大好きな人に告白した時も。
大好きな人と初めてキスした時も。
そして……あの女に無理矢理唇を奪われた時も。
いつも夕日が空を赤く染めていた。
自分の大切な時は決まって夕焼けが綺麗だった。
自分は夕焼けの空が大好きだった。
綺麗だから、だけではない。
とても大切な人の名前でもあったから。
たとえ自分が壊れても。
この空を見れば必ず思い出す。
そう。茜色の空を見れば。
大切な人である『茜』を思い出す。自分の愛した人。愛している人。命を懸けてあの女から救ってくれた人。
でもあの人は少し変わっていた気もする。
でもそんなことは些事に過ぎない。
……ような気がする。
どうだったか。
小学生の時から付き合っていたような。
高校の時に告白したような。
思い出せない。
でも最初から好きだった。
彼女の綺麗な瞳が大好きだった。
……ような気がする。
初めて見たのは中学の修学旅行中だったような。
その時初めて彼女の瞳を見た。それは覚えてる。
じゃあ好きになったのは何時だろう。
小学生のとき。
自分がまだ子供だったとき。
そうだ。
彼女は幼馴染み。
大切な幼馴染みだった。
……だった?
今は違うのか。
彼女はどんな顔をしていただろう。
彼女はどんな声をしていただろう。
彼女の名は……そう。
茜だ。
拓実はベットの上で目が覚めた。側には医者と見慣れぬ男性の姿があった。二人は何かを話していた。
体を起こそうとした拓実はふと自分を見つめる視線に気付いた。それは病室の入り口から来ていた。病室の入り口は微かに開いていた。そこから何かキラキラしているものが拓実の目に突き刺さる。視線ではなく光だった。
誰かが光を反射する鏡のようなもので部屋の中を見ているらしい。
拓実の脳裏に一人の女性の姿が浮かぶ。ドアの裏にしゃがんでコンパクトミラーを広げる女性の姿。それは拓実のよく知る女性がやる癖のようなものだった。
……ような気がする。
「……あかね?」
不意に口から言葉が出た。それは掠れて小さな声だったが病室にいた医師と男はそれに気付いた。
医師は拓実が意識を取り戻した事に驚き喜んでいた。かなり危ない状態だったらしい。そして医師と話していた男は警察の人だった。
拓実は自分がまだ死んでない事をそこで初めて知った。
医師から身元不明で記憶喪失の男性がいるとの知らせを聞いた警察は家族として現れた『朱美』の風貌を聞いて、もしやと思った。
記憶喪失の男性はかつてストーカー被害に遭い、拉致監禁までされた被害者である。
そしてその家族として現れた『朱美』という名の女。それは最近火事で多くの死傷者が出た凶悪犯罪者収容施設に収監されていた者と同じ名前だった。
犯罪者としての『朱美』は死亡したとしてひとまず処理されていた。
警察が遺体の再調査をして別人であることが判明。そして急いで病院に駆け付ける事になった。
警察と医師がこの病院を隅々まで調査した結果、現在は使われていない地下の部屋で朱美と拓実を発見。
拓実を保護したという。
あまりにも話が込み入っているので医師は部屋の外に出されていた。
「それで犯人なのだが……」
警察の男性はここまで言うと渋い顔をしてしまった。拓実は何となく察した。恐らく逃げたのだろう。そうでなければ自分が生きている理由にならない。
だが、違った。
「犯人は私達が部屋に踏み込んだ時点で既に死んでいた。何らかの中毒になっていたと思われるが……あまりにも多くの薬を服用していたようで断定は不可能になっている。君もかなり危なかった」
朱美が死んだ。
それだけが耳に残り、それ以外の情報は拓実の頭に入って来ない。
あの朱美が死んだ。
しかも中毒死というお粗末な死に方で。
拓実の頭は真っ白になった。
「犯人は正気を失っていた可能性が高い。まぁ正気であるはずが無いのだが」
警察の男性はそう言って頭を振った。今回の事件は警察にも重大な不備があったそうで後日正式に謝罪に来るとだけ残して男性は病室から去っていった。
男性と入れ替わりに入ってきた医師は拓実の問診や触診をした。
今はとにかく安静にして休むこと。まだ体はろくに動かないだろうがしばらくすれば動けるようになる。そう言って拓実の肩を優しく叩いて去っていった。
一人病室に残された拓実は、まだ信じられなかった。
あの朱美が死んだことを。
拓実は呆然としていた。気付けばまた空が茜色に染まっていた。
茜色。
そういえば茜に関しては医師も警察も何も言っていなかった。
今も病室のドアからキラキラと鏡の反射が……。
無くなっていた。
拓実はベットサイドに立つ影に気付いた。それは夕焼けの光が差し込み真っ赤に染まっている部屋で何故か黒く見えた。
「……あかね」
「うん」
黒い影は拓実の恋人だった。よくよく見れば黒い服を着た黒髪の女性である。長い黒髪を顔に垂らしているのでその表情はよく見えない。
「来てくれたんだね」
「うん」
拓実の掠れた小さな声。それよりも小さな声が彼女から発せられていた。
あの日。命を懸けて自分を救い出してくれた愛する人。
拓実はようやく思い出した。
「あかね。大好きだよ」
「……うん」
影はそれだけを残して消えていった。
拓実が救出されてから一月が経った。まだ長時間起きていることは出来ないが拓実は会話も普通に出来るようになっていた。
世間は朱美の起こした事件で大騒ぎになっていた。殺人ストーカーが監獄に放火して脱獄。そしてまたストーカー行為をした挙げ句、中毒死した。
あまりにもセンセーショナルな事件。被害者であり唯一の生存者である拓実に取材を求めて多くの人が病院に押し掛けてきた。
勿論病院側がそれを許可するはずもない。
拓実は病院で一人、誰にも邪魔されずに苦しいリハビリを耐えていた。
薬物が抜けきるまでベットに寝たきりになっていた拓実の体は筋肉が極端に衰えていた。
薬による影響もあったので、いくら拓実が若いとはいえリハビリは苦しいものとなった。
相変わらず拓実は女性恐怖症のまま。リハビリを手伝うのは男性職員のみ。
彼らは拓実がよく空を見上げていることを疑問に思った。
そして一人が聞いた。
「空が好きなんですか?」
拓実は泣きそうな顔で答えたという。
「嫌いです。夕焼けは特に。悲しい事を思い出すから」
それ以来拓実にその話をするのはタブーとなった。
拓実がリハビリを始めてから二ヶ月が経つ頃には世間も事件の話をしなくなった。
ようやく歩けるようになった拓実はその日。大切な人の墓参りに出掛けていた。
真っ赤に染まる茜色の空の下。
あの日と同じ夕焼けが愛する恋人の眠る墓石を茜色に照らしていた。
今回の感想。
フルコンタクトという名字は駄目ですか?