July Story12
葵に頼まれ事をされた斗真は、緊張の瞬間を迎えようとしていた───。
心臓って、本当にドキドキするもんなんだな───と、頭では冷静なことを考えながら、斗真は大いに狼狽えていた。
いつもより、小さく、そして高い声で、斗真は「あの……」と呼びかけた。
正座の状態で床を滑るようにして移動する自分の姿を、滑稽だと自虐する余裕も、今の斗真は持ち合わせていなかった。それくらい、斗真にとって、今まで一度も口を聞いたことのない、自分にとって苦手なクラスメイトに話しかけるということは、相当な覚悟のいる行為なのだ。
「あの……、さっき、あの、青い髪の女の子……、あの子に、頼まれて、あの、来たんだけど、あの……」
そう言っている間に、矢橋勇人の目が自分に向いて、斗真は言葉を止めてしまった。
息も止まった斗真を向いた視線は、次の瞬間には逸れていた。
水から上がったようになった肺は、一気に、吸ったばかりの空気を外に吐き出した。
「え、と……」
最早、自分の話など聞く気はないのかもしれない矢橋勇人に、斗真は“一応”という意味を込めて、
「お、俺……、あの子が戻ってくるまで、ここに、いるね……」
後半の方の声は、冷風機の音にかき消されるほど小さくなっていた。
勇人は何の反応も見せなかった。視線さえも、今ある位置から動かなかった。
(ほんとに、俺の声……聴こえてない……?)
斗真は、半ば呆然としつつも、これで少女からの頼まれごとは叶えたのだから……と開き直って、その場にとどまることにした。
(あの子……、どこ行ったんだろうな……)
見回してみるが、青い髪の毛は、見当たらない。
(何で、こんな状況で、あんなに、ちょこまかできるんだろ……)
疑問に思うが、あの子が、勇人と仲良くしているのだと思うと、疑問も薄れていくような気がした。
(矢橋があの子を友達だと思ってるのかは、謎だけど……)
チラリと、気付かれないように、隣を見る。
(大体、何だよ……。“見張ってて”って……)
ふと、少女からの頼まれごとの内容のおかしさに気が付いて、斗真は、小さく息を吐いた。
(確かに、矢橋は学校でも、ふらっと、どっか消えてることばっかりだけど……)
小学生の感覚だと、それは“危ない”と思うのだろうか───斗真は自分の小学生時代を思い出してみようとしたが、確かなものは浮かんで来なかった。
(俺ら、もう、高校生だよ?自分の行動くらい、自分で───)
その時、斗真は気が付いた。見つめた先にある、勇人の左腕に。
(え……?)
じっくりと見てみても、やはり、そうだった。
力が入っていないかのように垂れていて、そのまま指先が床についている。
(いや……、敢えて、かな……?)
斗真は勇人が長い間、教室に姿を現すことがなかった理由を、知った気がした。
(こいつ……、腕、怪我したんだ……)
漠然と思ったことで、斗真は少しだけ、矢橋勇人を見る自分の目が、変わったような気がした。
(だから……、“見張ってて”って、あの子、言ったのかな……)
斗真は数分前まで自分がいたところを振り返った。
視線を前に戻して、斗真はゆっくりと音を立てないように、足を崩した。
その間に、再び、勇人のことを垣間見た。
勇人は、男を見ていた。
斗真はその視線を追い、
「……あいつ、何狙ってるんだろ」
と、ぽつりと、声に出して言った。
独り言を言ったつもりだった。勇人が言葉を返すことなど、全く予想していなかった。
「知ったところで、どうにもなんねぇだろ」
不自然な間の後の、自然な言葉に、斗真は「たしかに……」と頷いてから、数秒後、目を見開いた。
矢橋勇人が、言葉を話した。自分の言葉に、言葉を返した。
斗真が勇人の声を聴いたことは、これまでに、はっきりと思い返せるほど───つまり、一度しかない。その時、斗真は「矢橋って、あんな声なんだ」と思った。
その時、勇人はクラスメイトである、中野優樹菜と話していた。その様子を、斗真は昼休み、友人と弁当を囲みながら見つめていた。
教室の後ろの方で、優樹菜はまるで説教をする教師のような顔をして、勇人と向き合っていた。
斗真の席からは優樹菜が何を言っているのか、断片的にしか聞き取れなかったが、勇人が言い残し、教室を出て行った時に発した言葉は、はっきりと耳に届いた。
「どうだっていいだろ」
冷たく手無機質な声だ───と、斗真は思った。その声の音程は確かに、自分と同じ高校1年生のものだったのだが、響き方はとても10代の少年が発したものだとは思えなかった。
同意を求めるように、友人の加田屋勝を見ると、肩をすくめられた。
「矢橋って、中野さんと、仲いいの?」
小声で尋ねると、「たしか……」と、勝は目を上げた。
「中学、一緒だった気がする」
「へえ……そうなんだ」
「それに、何かと一緒に行動してない?あの二人」
そう言われても、斗真はピンと来なかった。
「まあ、中野さん、しっかりしてるから、面倒見てやってるんじゃない?」
勝はチラリと、中野優樹菜の姿を見て言った。
「ああ、そういうことか」
斗真は頷き、それ以上は何も言わなかった。
ただ、斗真にとって、矢橋勇人が唯一、クラスの中で言葉を交わすのは、中野優樹菜だというイメージが付いた。
それなのに───今、自分は勇人と会話を交わしたことになった。
(しかも、めちゃくちゃ的確なこと、言われた……)
動揺したまま、斗真は勇人を見つめたが、その目はやはり、自分を向いていない。
(考えてるんだな……、今の、この状況……)
それが斗真にとっては、物凄く意外で、新鮮な発見だった。
自覚ができるほどに不思議なことだが、斗真はこの瞬間、勇人に対し、「矢橋も、普通の人間なんだな」と実感した。
よろしければ、評価・ブックマーク登録、感想など、よろしくお願いいたします!




