June Story29
警察署の一室。勇人と2人きりの中。
蒼太は、勇人に向かって、自分の思いを、語り始める───。
蒼太は絆創膏に包まれた指を握っていた。
背中の痛みは、少しずつ引いてきている。
幸い、蒼太が負った怪我は、軽いものだった。
あの後───蒼太が気を失った後、葵がすぐに舞香と亮助を瞬間移動によって、あの場に連れて来てく
れた。
舞香と葵が話している声で、蒼太は目を醒ました。
あの時は、頭が割れそうなほど痛く、歩くこともできなかったのだが、意識は、はっきりとしていた。
それが良かったのか、悪かったのか、蒼太にはよく分からない。
ただ、見たくないものを、見てしまった。
蒼太は意識が朦朧としたまま、能力を使用したために、ナイフを完全に逸らすことができていなかっ
た。
心臓はかわしたものの、ナイフの先端は勇人の左腕をかすった。
蒼太はそれを説明される前に、目で見て理解した。
その光景が、目に焼き付いて離れない。
忘れようとしても、消えてはくれず、忘れたい一方で、忘れてはいけないような気がした。
(兄ちゃんは……)
蒼太はあの時に思った、自分の考えを思い返す。
(生きることを……、諦めてる)
しんとした部屋の中で、蒼太は俯いたまま、長椅子に座っていた。
警察署の、一室だ。
作業が終わるまで、ここにいるように言われた。
蒼太は自分の呼吸の音だけを、聞いていた。
廊下からは何の物音もせず、この建物の中にいるのが、自分たちだけなのではないかという錯覚に陥るほどだった。
蒼太は壁の時計を見上げる。
時刻は午後5時30分。
蒼太はぼんやりと思った。
(家に帰ったら……お父さんに、何て説明しよう……)
その辺りで転んでしまったと言えば、父は納得するだろうか。
そもそも、それを説明できるだけの気力が、自分に残っているのだろうか。
しかし、一方で、今日は一睡もできないような気がした。
(だって……)
蒼太はそっと、勇人の様子を伺う。
勇人は蒼太から離れた、同じ椅子にいた。その目がどこを向いているのか、蒼太には分からない。
蒼太は息を吸って、ゆっくりと吐き出しながら、目を逸らす。
ここで2人きりになって、どのくらい時間が経ったのだろう。
このまま、黙っていて───良いのだろうか。
(さっき……、優樹菜さんは、兄ちゃんに、何か話してた……)
何を、どのように話していたのかは、蒼太には分からなかった。
(葵も……元気なくなってた……)
思えば、葵はこの数日間———勇人が狙われていると聞いてから、口数が少なくなっていた。
(いや……、あたりまえ、だよね……)
何も、変わらずいられるはずがない。
(……いつもと、”何も変わらないのは”……)
蒼太は唇を、強く、噛みしめる。
(兄ちゃんだけ……)
長く深い息遣いに、蒼太は視線を上げた。
自分のものでなはい。
蒼太は、勇人の姿を、しっかりと見た。
勇人は制服姿だった。
ナイフによって負った傷は、深いものだったらしい。
蒼太は服の上からまかれた包帯の下にある傷を、この目で見た。黒いブレザーの中で、そこだけが窪ん
でいて、濁ったように色が変わっているのを見た。今だって、そのままなのだろう。
だが、勇人がそれだけの痛みを、今、この瞬間に感じているのかどうかは、蒼太には分からなかった。
勇人が痛い思いをしていないのならそれで良い───とは、蒼太には思えなかった。
何だか、このままだと泣き出してしまいそうで、蒼太は深い呼吸を、ゆっくりと繰り返した。
そうして、目を、ぎゅっと瞑った後、その目を、開いた。
「……兄ちゃんは」
声を出した。
勇人を、呼んだ。
勇人は反応を見せない。
蒼太はそれでも、聞こえていると───勇人は自分の声を聴いていると信じて、息を吸った。
「……みんなと、いたくないの……?」
みんな———自分を含めた、“ASSASSIN”のメンバー。
それを、蒼太は声に出さず、勇人が反応を見せるのを、待った。
勇人は動かなかった。一切、何も変化を見せなかった。
蒼太はここで諦めるわけにはいかないと思った。
ここで引いてどうする。動かなければ、何も変わらない。
何か、きっかけがあれば───人は、変わることができる。
それは、蒼太が、"ASSASSIN"のメンバーになって、知ったことだ。
そして───いつか、勇人に伝えたいと、思い続けていたことだ。
「兄ちゃんは……」
蒼太は、勇人にとってのその"きっかけ"が、"ASSASSIN"にあるはずだと、そう思っていた。
「みんなが……"ASSASSIN"のみんなが、兄ちゃんのこと、どういうふうに思ってるか、知ってる……?」
メンバーになってからの、この2ヶ月間。蒼太は、勇人が自分たちと一緒にいるところを───"ASSA
SSIN"のメンバーが6人揃ったところを、見たことがない。
だが、自分を含めた、勇人以外の全員が、その日を待っているということを、蒼太は知っている。
優樹菜が毎日、学校帰りに勇人を本拠地に誘い、その成果をメンバーに報告すること。
葵がいつも、オフィスに来た優樹菜に、勇人が今日、来ているのか尋ねること。
会話の中で、翼が時折、勇人のことを気に掛けるようなことを言うことがあること。
"ASSASSIN"に入ったばかりの光が、まだ、会ったことがない勇人のことを、メンバーに対して、質問をしていること。
そして、蒼太も───。
「……兄ちゃん……」
その時、勇人の目が動いた。
視線は、蒼太を向いた。
「———知ってどうすんだよ」
不意を突かれ、蒼太は「え……?」と声を上げた。
「俺のこと知ってどうすんだよ」
勇人の口が、確かに動いた。
蒼太は、その言葉に、はっとしたまま、しばらく、動けなかった。
しかし、一方で、蒼太の心は、動き続けていた。
熱い感情が込み上げ、気付けば、蒼太は立ち上がっていた。
そして、勇人のすぐ近くまで行き、その隣に座った。
「……助けたいんだよ」
蒼太は、勇人の問いに、答えた。
「今の、兄ちゃんのことを知って、それで、今のぼくに、兄ちゃんのためにできることが何か……それを、知りたい……」
勇人とこんなに近くにいるのは───いつぶりなのだろうか。
───蒼太は同じ家で暮らしていた時、何をするにも、勇人の後を付いて行った。
友達がいなくて、自分に自信がなくて、一人では何もできなくて。
そんな自分と、勇人はいつも、一緒にいてくれた。
どんな時でも、優しくしてくれた、
何があっても、味方でいてくれた。
それが───今は、違っていたとしても。
勇人が、どんなに変わってしまったとしても。
───蒼太にとって、勇人の存在は、変わらない。
(“生きるのがどうでも良い”なんて、思わないで欲しい……)
どうでもいい───それは、蒼太が、勇人の言葉として聞いたものではない。
蒼太が4月にこの町に来て、勇人と再会し、今に至るまで、勇人はそう感じているのではないかと、何度も思ったことだ。
「兄ちゃん……」
蒼太は勇人を呼んだ。それで思いが届くのなら、何度でも呼ぼうと思った。
「ぼくは……兄ちゃんがいなくなったらやだよ」
蒼太はかぶりを振った。
「ぼくだけじゃない。……みんな、兄ちゃんに、生きてほしいって……そう、思ってるよ」
みんな───“ASSASSIN”の、メンバーたち。
蒼太はこれまで、彼らに、何度も救われた。
そして、たくさんの大切なことを、気付かせてもらった。
(こんなぼくの、そばにいてくれて、認めてくれて、支えてくれる人がいるんだって思えた……)
それがどれだけ幸せなことか、“ASSASSIN”に入るまで、蒼太は知らなかった。
今度はそれを───自分が、勇人に教える番だ。
蒼太は勇人の左手に、手を伸ばした。
昔とはお互いに、大きさが変わってしまった、それでもたしかに、あの時、握り合っていた手を、蒼太はそっと包み込んだ。
「兄ちゃん。……ぼくたちのこと、信じて欲しい」
(ぼくだけじゃ頼りないかもしれないけど……)
蒼太の頭の中に、葵、優樹菜、翼、光の4人の顔が浮かぶ。
(ぼくに足りないところは、みんなが持ってる)
メンバーはそれぞれ違う。違う者同士の集まりだからこそ、助け合えるのだ。そして1人1人の小さな力を、大きな力に変えていくことができるのだ。
「ぼくたち、みんな同じ気持ちだから。……兄ちゃんが、“生きててもいい”って思えるように、ぼくたちがするから……」
蒼太は強く、勇人の手を握った。
蒼太は強く願った。どうかこの言葉が、勇人に届くように───と。そして、その心を動かすことができたら、自分はもう何も望まないと、心の底からそう思った。
見つめた先で、勇人の顔が、僅かに向こう側に逸れた。
今までとは違う反応だ───蒼太が思った時、声が聞こえた。
「……何で」と、短く、言葉が蒼太の耳に届いた。
「そんな、俺にこだわんだよ───お前ら」
蒼太は、はっとした。
勇人が、自分の言葉に答えた。そして、勇人自身の言葉を、語った。
蒼太は逸れたままの視線に向かい、小さく息を吸った。
「……兄ちゃんのことが、大切だから」
勇人の問いに、蒼太は思い浮かんだ言葉を、そのまま答えた。
その時———、勇人が、蒼太を見た。
蒼太は目を広げた。
記憶の中の、奥深くに眠ってしまっていた思い出が、蒼太の中で一瞬にして、蘇った。
あの時と同じ視線の動かし方を、勇人がしたのだ。
蒼太の中に、じんわりと浮かんだ像は遠ざかって行くように、その姿を消した。
それと同時に───それと合わせるように、勇人が目を逸らした。
蒼太は、そこから、何も言わなかった。
しばらくして、何も言わなくてもいいのだと思った。今は、まだ。
蒼太は視線を下げた。そこには、自分の手がある。その下には、勇人の指がある。
部屋に迎えが来るまで、蒼太は、この手を動かさないでおこうと決めた。
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