June Story25
五十四奏多の本名を知りに、優樹菜と翼は、奈須琉輝のもとへと向かう。
奈須琉輝はこの時間───午後5時にして、深い眠りについていた。
そして、身体を起こして、頭が起きるまでに、30分という、長い時間が掛かった。
それから、優樹菜が、苛立ちを何とか隠しながら事情を説明し、琉輝が「なるほどー」と、眠い目を擦った。
「たしかに、この前、ばっさーには、“今の名前”を伝えた気がするなー」
(今の名前、か……)
優樹菜はその言葉を噛みしめた。
「あー、おねーさーん、久しぶりでーす」
琉輝はまるで今気付いたかのように、優樹菜に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「おにぎり、食べますー?」
「いや、いらない」
優樹菜は断った。申し訳ないが、今はおにぎりを食べている場合ではない。
「琉輝くん」
改めて、翼が琉輝を呼んだ。
「五十四の、本名を教えてもらえない?それと───奴が、どんな能力を持っているのかも」
琉輝が座ったまま、翼を見上げる。
翼は一息つき、続けた。
「もちろん、お代はいくらでも支払う。───矢橋さんの、命がかかったことなんだ」
「私からも、お願い」
優樹菜は深く、頭を下げた。
「───ちょいちょいちょいちょい」
その、2人の真剣さにそぐわない声を、琉輝は出した。
「そんな金人間に見えるー?自分、これでも一応、恩を仇で返すようなことは、しない主義なんですよー」
優樹菜が顔を上げると、琉輝は椅子を左右に回していた。
「リーさんには、多大なる恩があるもんでー。返す機会があるなら、ちょっとずつ、返しておかないとー」
琉輝は勇人のことを、「リーさん」という、独自の呼び名で呼んでいた。
その理由について、優樹菜は尋ねたことがある。
琉輝は、こう答えた。
「“通りすがり”の“おにーさん”だから、合わせて“リーさん”なんですよー」
優樹菜は当時、何となく分かるような、いまいち分からないような、そんな気持ちを持った。それは、今も変わらない。
「いいよー、教えてあげるー。見せてごらーん」
琉輝が翼に向かって、身を乗り出した。
翼が、琉輝にスマートフォンの画面を差し出し、優樹菜に向けて、頷いた。
優樹菜は足の力が抜けるような感覚に襲われながら、疲れ切った笑みを返した。
これでようやく、五十四奏多の、本名が明らかになる。
それに安心を感じるのと同時に、優樹菜はかなりの緊張を感じた。
あの、五十四奏多の情報を手にすること───それは何よりの、大罪のような気が、優樹菜にはした。
琉輝は翼からスマートフォンを受け取ると、顔の前に持った。
そのまま、じっと見つめている。
そうしていると、能力を使っているのか、まだ使っていないのか、もう使い終わったのか、判断が付かない。
その理由は、琉輝の目が光らないからだ。
優樹菜はその仕組みを、知っていた。
そして、自らも、その方法を利用している。
奏多とのやり取りで、察せられることなく、武器の所有を確認できたのは、そのお陰だった。
「分かったよー」
琉輝の声に、優樹菜ははっとした。
翼が琉輝に、ノートとペンを差し出す。その動きがやけにゆっくりして見えたのは、優樹菜の気のせいだろうか。
琉輝が、五十四奏多の本名を、書きだしていく。
優樹菜は、息を止めて、その様子を見つめていた。
※
五十四奏多は、夜の町を歩いていた。
ここは北山町ではない。美里原という、北山からしばらく行ったところにある町だ。
時刻は午後10時。
人気のない路地や、監視カメラを避けながら、奏多は前へ、前へと進む。
これから行く場所では、人が待っている。
その人物と奏多は、一ヶ月前に会ったのが最後だ。
あの日───奏多は、矢橋勇人の名前を聞いた。
「運転手として、雇われたんですよ。情報屋から」
桜木エリカは、奏多に、そう話した。
「情報屋?専門は?」
「“犯罪者”って言ってました。若い女で、男が一人、一緒でした」
エリカは煙草をふかしながら、その時のことを思い出すかのように、目を細めた。
「殺しは?頼まれなかったの?」
「もう、別のやつを雇ってるって言ってました。けど、報酬を寄越してきたんです」
エリカは咥え煙草をしたまま、「これ、見てください」と、スマートフォンの画面を差し出した。
「───“死神”?」
奏多は目を細めた。
そこにはダイレクトメッセージのやり取りが表示されていた。
『˝死神˝の正体を教えてください。』
『˝死神˝とは、何のことですか?』
『2年前、全ての殺し屋の長として恐れられていた、˝魔王˝を殺した人物です。』
『わかりました。必ず、見つけ出します』
「あれ、奏多さん、ご存じないですか?」
エリカが目を丸くした。
「いや、知ってるよ。ただ、興味ないってだけ」
奏多は言った。
本当に、“死神”の正体が誰であろうと、自分には関係がない───そう、思っていた。
「これ、結構前に送ったから、アタシももう頭から抜けてたんですけど、相手が、この間、送ってきたんですよ、“死神”の正体を教えるてあげるから、運転手をやって欲しい、って」
「もちろん」と、エリカは眉根を寄せた。
「半身半疑でしたし、つまんない仕事だなって思ってましたけど───」
エリカは溜息を吐くように、こう言った。
「まさか、本当に見つけてくるなんてねえ……」
奏多は何も言わず、エリカの言葉の続きを待った。
「そいつ、“見つけた”っていうメッセージ送ったくせに、捕まったんですよ。けど、ここまで来て引き下がれないじゃないですか。だから、拘置所行って、口割らせて来ました」
エリカは煤を灰皿に落として、淡々と言った。
「そうしたら、嘘みたいなこと答えやがって。でも、何回聞いても、同じことしか言わなかったんですよ。だから、本当なんだろうなって今は思ってますけど」
エリカは、ふてくされているような目をして言った。
「一般人でした。それに───子供らしいですよ」
「子供?」
奏多は平然と、声を上げ、その直後、苦笑した。
「ボスのことを“魔王”だなんて、よく言ったもんだね」
「アタシもそう思います。何だよ、その程度かよって。何だか、“死神”殺そうって言う気持ちも、どっか行っちゃったなあ」
奏多はエリカの隣に立ち、興味がないからこそ、こんなどうでもいい質問をしたのだった。
「で?名前は、何て言うの?」
その時───あの名を聞いた時の高揚感は、今でも思い出せる。
矢橋勇人───聞き覚えのある名前だった。
忘れるわけのない存在だった。
あの時に感じた殺意を、奏多は思い出した。
そして、あの時は抑えた欲望を、溢れ出させてしまった。
そのことに───後悔はない。
※
路地の突き当りの、赤い扉の前に、奏多は立った。
ノックすると、鈍い音が鳴るドアに向かって、奏多は呼びかけた。
「エリカ。僕だ」
数秒して、内側からドアが開いた。
奏多はその中に、身体を滑り込ませた。
「どうしたんですか?奏多さん」
桜木エリカは、いつもと同様───美しい。
その美貌を生かし、詐欺を用いた殺しを得意とし、この世界では“女郎蜘蛛”と呼ばれている。
「ちょっと、用があってね」
奏多は薄暗い部屋を進んだ。
後輩であるエリカは、その後ろをついてくる。
「この間、話したこと、覚えてる?」
奏多はエリカが暮らす部屋を、隅々まで見回した。
女の部屋にしては───極端に、物が少ない。
「この間……」
「ほら、“死神”の正体について、聞かせてくれた時」
「ああ、あの時ですね」
「君、あの時、“死神”のことは追わないって───そう言ったよね?」
「はい。アタシ、目的もなく、殺したくないんで。前までは、殺したら大きい顔できるなあって思ってたけど、子供じゃあねえ」
奏多は足を止めた。
エリカが背後で止まる気配がした。
「───嘘だね」
奏多は振り返った。
エリカはすぐ近くに、立っていた。
「嘘、じゃないですよ」
エリカは明らかに怪訝な色を顔に浮かべた。
「だったら、何で、物を全部片づけたの?ここから、出ていこうとしてるんじゃない?」
奏多は表情を変えなかった。
「違いますよ。いや、出ていこうっていうのは合ってますけど、このオンボロ部屋に飽きてきて、もうちょっと居心地いいとこに引っ越そうってだけですよ。家具も全部新しく買おうと思って、それで古いの全部ぶん投げたんですよ」
相変わらず、顔に似合わず言葉遣いが汚い───奏多はふっと笑った。
「───そうだと思った」
奏多は、身を翻した。
エリカがハッとした表情を浮かべた瞬間───その脚を払った。
仰向けに倒れ込むエリカの体に覆いかぶさる。
エリカが床に背を打った衝撃で息が詰まっている間に、奏多は半身を起こし、その顔を見下ろした。
「変わらないね、エリカ」
奏多は言った。
「追い詰められると、途端に動揺しだすところ。直せって、何度も言ったじゃないか」
エリカは奏多を見上げ、苦しそうに呻いた。
「わざわざ、こんな回りくどいやり方をしたのは、君と真正面からやり合うことになるのを避けるためだよ。そうなった場合、僕は確実に、君の体をボロボロにしてしまう。それは困るんだよ。───僕は、汚れた体から血を吸うのが嫌いなんだ」
エリカの目に、一瞬にして、焦りと、恐怖の色が浮かんだ。
奏多は、両脚でエリカの身体を押さえつけ、空いた手は、肩に触れた。
「君があの日、“死神”を追わないって言ってくれて、助かったよ」
エリカが着ていたTシャツの襟を捲ると、白く、骨ばったエリカの首元が露わになる。
「奏多さん───」
「お陰で、あの時、君を殺さなくて済んだ」
奏多はエリカに向かって、微笑んだ。
「君は僕のために、有意義な死を迎えられるよ。君は───僕の目的のために死ぬんだ」
奏多は頭を下げ、エリカの首元に、顔を寄せた。
死に際の人間が、その瞬間に思い浮かべる光景をみることができる───という、エリカが持つ能力を、我が物にするために。
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