December Story52
母が自らの人生を捨ててまで、守ろうとしたもの───それは。
『さくらより』
その言葉で、その、”手紙”は、終わっていた。
母が、滝原俊二に伝えたかった言葉の全てが、そこに、終結した。
蒼太は、画面を見つめたまま、しばらく、動くことができなかった。
母が、どれだけの思いで、自分たち兄弟のことを守ろうとしてくれていたのか───それを、蒼太は、今、知った。
警察官であった自身が、殺人を犯す決意をしてでも。
例え、自分の命がなくなろうとも。
蒼太と勇人が、その先も生き続けられるのなろ、それでもいいと。
母は、そう、思っていてくれていたのだ。
「そのメールを送ったその日に、さくらは、御神のもとに、向かったんだ」
俊二の声が、蒼太の耳に響いた。
「俺は、それを読んで、姫森神社の近くにある……さくらが暮らしていた、あの家に、向かった」
蒼太は、その言葉に、メールの画面から、はっと、顔を上げた。
「さくらが、もう、いないということは、わかっていたんだ」
見つめた俊二は、微笑を、浮かべていた。
「ただ、さくらが、亮助に……実の父親のもとに行くようにと、その方法を託した、子どもたちに、会いたいと思ったんだ」
俊二に見つめられ、蒼太は、無意識のうちに、「でも……」と、口にしていた。
「ああ」と、俊二が頷く。
「……だが、それも、叶わなかった。俺が行った時、あの家には、誰もいなかった」
その理由を、蒼太は、知っていた。
母が亡くなって、すぐ、蒼太は、勇人と、そして、"父"───清水清隆とともに、あの家を、出たのだ。北山町とは、まるで真反対の、都会の町の、マンションの一室に、引っ越した。
「……だから……」
蒼太は、口を開いた。
その声は、とても、か細く響いた。
「お母さんが、兄ちゃんに託した方法……ぼくたちが、亮助さんのところに行くことは……叶わなくなったんですね……」
その方法のことを、蒼太は、全く、知らない。
母が勇人に、それを託していたことも───今、初めて知った。
知らないということは、勇人が、それを蒼太に聞かせなかったということで、それが、実行されなかったということだ。
俊二は再び、「ああ」と頷いた。
「さくらは……御神のもとに向かう途中に、事故に遭って、亡くなった」
俊二の、その言葉は、蒼太の心の、奥深いところに、ゆっくりと落ちて、そして、着地した。
「……そう……だったんだ……」
声が漏れる。
母が事故で亡くなった───その事実を最初に聞いた時のことを、蒼太は、あまり、覚えていない。
ただ、母がある日、どこかに出掛けていって、それから、いつまで経っても、いつまで待っても、戻って来なかった───その時に抱いた感情は、鮮明に、覚えている。
「さくらが、亡くなったという知らせが届いた、ほんの数日後……俺は、御神が死亡したということを、知った」
蒼太は、目を見開いた。
(それって……)
それは───それを伝えたのはきっと、亮助だ。
かつて、自分に対して、それを教えてくれたのと同じように、俊二に、あの話をしたのだろう。
4年前、北山に戻った勇人が、偶然、御神有馬と遭遇し、襲われかけた時、結果として、勇人が御神を殺めてしまったという、あの話を。
「御神が死んだ……それを聞いた時、俺は、思った。"これで、終わったんだ"……と」
俊二は、息を吐き出すように、そう、言った。
「その時には、君や、君のお兄ちゃんが、無事な状態でいることは、確認できていたから……」
そこで言葉を止め、俊二は、蒼太のことを見た。
「御神に、さくらが自由に生きる権利を奪われた時……俺は、"さくらの人生は、なんのためにあったんだろう"と、考えた」
ただ、ひたすらに。まっとうに生きていた母が、一人の殺し屋の存在によって、その生き方を、無理矢理に変えられた。
どうして、何の罪もない人間が、そんな目に遭わなければならないのか───それが、自分にとって大切な人間なら、尚更そう思う。そう思うのは、当然のことだ。
「でも……」と、俊二は、言った。
「さくらは、どんな時でも、希望を捨てなかった。幸せになることを、諦めなかった」
俊二の声には、確信があった。
「そして……俺は、今になって思う」
俊二は、ふっと、その深緑色の目を、優しく、笑わせた。
「さくらは───幸せだったんだ、と」
俊二は、そう、蒼太に向かって、頷いた。
「完璧じゃなくても、完全じゃなくても、それでも……さくらには、君たちがいたから」
その言葉に、蒼太は、はっとした。
君たち───それが、誰と、誰のことを指すのか、すぐに、分かった。
自分と、勇人のことだ。
母には、自分たちがいた。
だから、母は、幸せだった───。
それを、知った瞬間。
蒼太の頭の中に、母の笑顔が、浮かんだ。
───母になって、さくらは、本当に、幸せそうだった
それは、俊二から、そう聞いた時に、思い浮かべたのと、同じ笑顔だった。
そして───あの時、聞こえなかった母の声が、蒼太の耳に、響いた。
※
その日。その時。
幼い蒼太は、居間で、母とともに、テレビを見ていた。
昼ご飯を食べた後。母と並んで、テレビを見るのは、日課だった。
どういうタイトルの番組だったかは、思い出せない。
内容もおぼろげで、重い病気にかかった女性が、病気を克服した現在にいたるまでの出来事を語る、インタビューのような映像だった。
その女性は、番組の終盤、カメラに向かって、こんな言葉を、口にした。
"本当に、色んなことがあったけど、私、今、すごく、幸せなんです"
それを聞いて、蒼太は、テレビの画面を見つめる、母の横顔に、目を向けた。
"お母さん"
蒼太は、母を呼んだ。
"お母さんは、今、しあわせ?"
それは、深い意味を込めた質問ではなかった。
ただ、気になった。母に、尋ねたかった。母は、この女性と同じような思いを抱いているかどうか、確かめたくなった。
母の目が、蒼太に向く。
目が合うと、母は、その目を、優しく、笑わせた。
"うん"
蒼太の頭に、手を伸ばして、母は、優しく、髪を撫でてくれた。
"蒼太と、勇人がいてくれるから、お母さん、とっても、幸せ"
それを聞いた時、蒼太は、とても、満たされた気持ちになった。
頭に触れた母の手の柔らかさを感じながら、蒼太は、"しあわせ"というのが、どういうことを指すのか、知ったような気がした。
※
───涙が、溢れ出した。
零れ落ちた水滴が、手の甲に落ちる。
それは───とても、温かかった。
「お母さん……」
蒼太の頭を包み込むように、大きな手が、そっと触れた。
俊二は、何も言わずに、蒼太のことを、抱き寄せてくれた。
蒼太は、俊二の胸の中で、涙を、流した。
母は、幸せだったのだ。
完璧じゃなくても、完全じゃなくても。
(お母さん……)
蒼太は、呼び掛ける。
(ぼくも……幸せだったよ……)
自分は母に、その思いを、伝えられていただろうか。
母は、そのことを、知ってくれていただろうか。
今、自分が感じているこの思いは、母に、届いているだろうか。
「届いているはずだよ」
俊二の声が、聞こえた。
「さくらは、いつだって、君のことを、見守っている。君の声を、聞いている」
その言葉に、蒼太は、頷いた。
今、自分のことを見つめ、自分の声に耳を傾けている母は、どんな顔を、しているだろうか。
(お母さん……)
蒼太は、もう一度、母を呼んだ。
(お母さん……笑って)
母が、「うん」と、頷く声が、聞こえた。
そして、母が、あの、明るくて、優しい、向日葵のような笑顔を浮かべる姿が、確かに、見えた。
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