December Story17
勇人がボイスレコーダーに残した、蒼太への、本当の気持ち。
最初に聴こえたのは、微かな、衣擦れの音だった。
蒼太は、自分の意識が、その音に吸い込まれていく感覚を味わいながら、録音機を握りしめていた。
衣擦れの音が止み、深く、息を吸い込む気配がした。
その息遣いは、このボイスレコーダーに声を記録した人物が、大きく緊張していることを感じさせた。
息遣いは、しばらく続いた。
蒼太は、その音と重なって、ドクドクと鳴る、鼓動の音を聴いた。
「───蒼太」
その声は、静かに響いた。
その声の、懐かしさに、暖かさに───蒼太の胸に、一気に熱いものが込み上げてきた。
「兄ちゃん……」
呼び掛けると、それに答えるように、
「蒼太、聴こえてる?」
声が、返ってきた。
その問いかけの後、再び、続く言葉に迷うような間が訪れた。
「……蒼太がこれを聴いてるっていうことは、蒼太は、全部知った後っていうことなのか……」
声に出して確かめるかのような───そんな呟きだった。
そうして、その後しばらく、声は途切れた。
「……蒼太は、今、いくつになった?」
再びしたその声は、僅かな明るさを帯びていた。
「もしかしたら、今の兄ちゃんよりも、年上かな?」
答えを求めるような質問を続けた後、声は、
「……て、聞いても、答えてくれるかな……」
直後に、影を、帯びた。
「……だって、蒼太は、今、俺のこと、恨んでるかもしれないから……」
その言葉に、蒼太は、はっと、息を、呑んだ。
「……蒼太は今、きっと、びっくりしてるよね。いないって思ってた人が、実はいて、自分の周りの世界が、その人によって変えられてた……って知って……。訳わかんない、って思うよね」
まるで、その当事者である自分を責めるような───その声は、蒼太の耳に、そう響いた。
声は、「……ごめん」と言った。
「ごめんね。……本当に、ごめん」
ごめん───その他の言葉が見つからないかのように、声は、そう繰り返した。
そして、また、沈黙が訪れた。
「……こんなこと言っても、信じてもらえないかもしれないけど」
静かに、声は言った。
「今、一緒に住んでる"お父さん"の秘密……蒼太に黙ってたことも、自分一人で家を出て行ったことも───全部、蒼太のこと、守りたかったからなんだ」
勇人の声と重なって、輝葉の声が、蒼太の耳に響いた。
"勇人は、君のことを嫌ってなんかいないよ"
"勇人は、君を守るために、自分一人が消えたんだから"
「……蒼太に、傷付いてほしくない。……蒼太には、普通の子のまま、幸せになってほしい」
それは、自分自身の本心を確信するような───確かな、口調だった。
「蒼太は……」と、声は、言った。
「蒼太は、今、幸せ?」
その問いには───その声には、深い感情が、篭っていた。
"答えてくれるかな……"
───その、自分自身の言葉を、打ち消したような、迷いのない、問いだった。
もし───蒼太が、そんなことを聞くなと憤ったとしても、いい。
それでも、確かめたい。
どうか───答えが、"YES"であってほしい。
蒼太の今が、幸せで、あってほしい。
「学校は、楽しい?友達は、どんな子?絵を描くのは、今も好き?」
声を聞いて、蒼太は、そう問いかける勇人が、微笑んでいることが、分かった。
「……兄ちゃんさ」と、勇人は、言った。
「蒼太が生まれた時のこと、よく、覚えてるんだ」
それはまるで、その瞬間を、思い返しているようだった。
「お父さんとお母さんから、弟が生まれるって聞いた時、すごく嬉しかった。けど、それ以上に、初めて蒼太に会った時の方が、嬉しかった。お母さんが退院して、蒼太が初めて家に来た日、ベッドで寝てる蒼太に、"これから、ずっと一緒にいようね"って、そう言ったんだ」
微かな笑みが混じった声が、響く。
「蒼太は、知らなかったかもしれないけど、兄ちゃんは、蒼太のこと、大好きだった。すごくすごく、大切だった。今だって、そうだよ」
そう、言った後、「……でもね」と、勇人は、言った。
「……その気持ちだけじゃ、どうにもならないんだ」
その言葉には、絶望に近い感情が、込められていた。
「……兄ちゃんが、弱いから……特別なものなんて、何一つ持ってないから……だから……こんな中途半端な方法しかできなくて……みんなが幸せになる道を、思い付けなかった……」
「それに……」と、声は言った。
「……それに、何一つ、守れなかった」
それは───深い後悔が滲んだ声だった。
「蒼太とずっと一緒にいるっていう約束も……、お母さんが言ってたことも、お母さんのことも……、何も……」
そこで、声は、言葉に詰まった。
微かに、息が震えている。
そうして、消え入りそうな声で、こう言った。
「……蒼太と一緒に学校行く約束も、叶わなくなっちゃうな……」
そこから、声は止まった。
袖口で何かを拭うような音と、抑えたような息遣いが、蒼太の耳に響く。
しばらくして、息を吸う音がした。
「……蒼太のこと、守りたいって言って、結局、自分勝手なだけだ。……蒼太の気持ちを勝手に想像して、蒼太の人生を、勝手に変えて……」
それは、自分自身の、一番苦しいところを突くような───そんな口調だった。
「……でも、これだけは、信じてほしい」
───ただ、直後にした、この声の口調は、確かな響きを持っていた。
「蒼太は、人生の中で、自分のことを馬鹿にされたり、誰かから見下されたりして、自分が信じられなくなること、自分が嫌いになること、あるかもしれない。でもね、そんな風に思うことなんか、ないんだよ」
「蒼太は、素直で、優しくて、何事にも一生懸命で……何よりも」
「何よりも、人のことを思いやれる───人のことを、助けてあげられる。蒼太の、一番いいところ」
「だから、蒼太のこと、悪く言う人に、惑わされたりしないでね。蒼太は、ずっと、蒼太のままでいてね」
「蒼太のこと、助けてくれる人は、必ずいるから。……だから、蒼太は絶対、幸せになってね」
───そこで、音声は途切れた。
蒼太は、帰ってきた。
誰もいない、一人の部屋へと。
ポトリ───と、手の甲に、何かが零れ落ちた感触に、蒼太は、はっとした。
「あ……」
その瞬間、蒼太は、自分が涙を流していることに、気が付いた。
そうして、零れ落ちたのは、「そう……だったんだ……」という声だった。
知らなかった───。
勇人が、自分に抱いていた感情のことを───蒼太は、今、初めて知ったのだった。
ぼくは、守られてきたんだ───そう、蒼太は、思った。
「兄ちゃんは……ずっと、ぼくのこと……」
声に出した瞬間、感情が溢れ出し、目に、新たな涙が浮かんできた。
“……だって、蒼太は、今、俺のこと、恨んでるかもしれないから……“
聴いたばかりの声が───勇人の声が、蘇る。
「……そんなふうに……、思ってないよ……」
蒼太は、手で、顔を覆った。
「……兄ちゃん……」
その瞬間、蒼太は、今、すぐそばに勇人がいないことを、心から、寂しいと思った。悲しいと思った。
今、隣に、勇人がいてほしいと思った。
そして、蒼太がそう願う勇人の姿は、昔の───あの日のものではなかった。
今の───高校生になった勇人の、後ろ姿だった。
よろしければ、評価・ブックマーク登録、感想など、よろしくお願いいたします!




